第三話 王妃と王太子
アウリールが初出仕してから一か月後、エイベ博士が退職する日がやってきた。彼が別れの挨拶をしても、案の定、シュツェルツは冷めた態度を崩さなかった。
王子の部屋を出ると同時に、アウリールは博士に声をかけた。
「エイベ博士、仕事が終わったら、食事も兼ねて飲みにいきせんか? 今まで仕事を教えて下さった分、わたしが奢りますよ」
「別に構わないが……。だが、奢るのはやめておいたほうがいいぞ。宮廷の侍医ともなれば、それ相応の店に入ることが求められる。初任給は別のことに使うんだな」
「え、そうなのですか」
考えてみれば当然か。王子の侍医が、場末の酒場に入り浸っていては、問題になるだろう。多少、情けなかったが、アウリールは料金を折半してもらうことにした。
夜になり、幻影宮という名の王宮を辞したアウリールは、博士とともに街へと繰り出した。貴族や富裕層が使うような、いかにもお高そうな料理屋を博士が選び、さっさと店内に入ってしまったので、慌ててあとに続く。
店内には大きなシャンデリアが吊り下がっており、蝋燭の本数まで計算された落ち着いた照明で、辺りを照らし出していた。給仕に案内され、窓辺の席に二人は座る。
博士が穏やかに切り出した。
「で、君は何の魂胆があって、私と飲む気になったのだね?」
アウリールは思わず目を見開いた。博士は珍しく笑う。
「どうやら当たりのようだ。そうでもなければ、こんな陰気な男を誘うはずがないと思ってね」
「そんなことは……」
そう言いかけたあとで、アウリールは考え直す。これはチャンスだ。回りくどい話は抜きにして、国王一家の家族関係について訊けるのだから。
女性の給仕に注文を伝え終えたアウリールは、彼女が去るのを待ってから、思い切って口を開いた。
「実は、シュツェルツ殿下に、なかなか親しみを持っていただけないことに悩んでおりまして……殿下のご家族のことについて伺いたいのです。教えていただければ、何か、話のとっかかりになるのではないかと」
「やめておけ」
博士は即答した。アウリールは理由を訊かずにはいられなかった。
「なぜです」
「王室のことに首を突っ込めば、比喩ではなく、最悪、首を刎ねられる。そういうことだ」
つまり、国王は酷薄なところのある人間だということか。臣下が出過ぎた真似をしたと見るや、殺してしまうような。道理で、誰もシュツェルツに手を差し伸べようとしなかったはずだ。
この一か月、シュツェルツの周囲を観察してみたが、国王も王妃も一度たりとも姿を見せることはなかった。どうも、王子は朝の拝診後、家族と一緒ではなく、一人で食事を採っているらしい。
がらんとした豪奢な食堂で、ただ一人食事をするシュツェルツの姿を想像するだけで、アウリールの胸は締めつけられた。
酒と料理が運ばれてきても、出鼻を挫かれたアウリールは、気まずい雰囲気のまま、博士と言葉少なに会話を続けるしかなかった。せっかくの高級な酒食も、何とはなしに味気なく感じられ、台無しだ。
食べ終わると、二人は店の前で別れた。十一月の終わりの、めっきり冷え込んだ空気が、頬を刺す。
もう彼と会うこともないだろう。苦い気持ちで帰路に足を踏み出そうとした時、博士の声がうしろから聞こえた。
「どうしても王室のことを知りたければ、王太子殿下にお会いしろ。王太子殿下なら、そのうち、シュツェルツ殿下のお部屋にお見えになるはずだ」
アウリールが振り向くと、もうエイベ博士のうしろ姿は、暗闇の中に遠ざかっていた。
*
アウリールは王太子の来訪を待ちわびたが、なかなかその時はやってこない。仕方がないので、気休めとは思いつつも、アウリールは毎日笑顔でシュツェルツに挨拶し、できるだけ雑談をするようにした。
シュツェルツは相変わらず冷めた目でアウリールを見やり、冷淡に応対していた。そんな日が何日も続くと、さすがのアウリールも挫けそうになってくる。
ある日、そんな毎日に変化が訪れた。
朝の拝診の最中、シュツェルツの部屋の扉が叩かれたのだ。シュツェルツが返事をすると、現れたのは王子と同じ、あるいは、わずかに年上かと思われる少年だった。
彼を見た時、アウリールは思わず息を呑んだ。少年の肌の色が、神殿の彫像のように白く、生気を欠いていたからだ。その点を除けば、彼の面差しはシュツェルツに少し似ていた。
少年はやや遠慮したように言った。
「何だ、まだ診察中だったのか」
「兄上」
シュツェルツが顔を上げ、声をかけると、少年は表情をぱっと輝かせながら、部屋の奥まで入ってきた。どうやら彼が王太子らしい。
アウリールは王太子に向けてお辞儀をすると、宮廷の作法通り、壁際に下がった。
「お加減はよろしいのですか?」
寝台から立ち上がったシュツェルツが尋ねると、王太子は目を細めた。
「うん、今日は調子がいいんだ。だから、そなたと久しぶりに朝食を摂りたいと思ってね。構わないだろう?」
エイベ博士が「王太子とお会いしろ」と言っていた理由がようやく分かった。王太子は、間違いなく弟であるシュツェルツのことを気にかけている。アウリールは、胸が温かくなるのを自覚した。
「はい。構いません。僕も、兄上と食事をするのを楽しみにしていたのですよ」
シュツェルツは破顔した。だが、アウリールは少し違和感を覚えた。シュツェルツの綺麗な笑顔が、まるで仮面をかぶっているかのような不自然なものに感じられたからだ。
アウリールの考え過ぎだったのか、王太子は気にした様子もなく、にこにこと笑った。
「そうか! では、そなたの診察が終わって着替え終わるまで、ここで待っているよ」
「はい、そうなさって下さい」
ニ人の王子がほほえみあった直後、ノックもなしに扉が開かれた。
「アルトゥル、ここにいたのね」
現れたのは、二十代半ば──いや、そう見えるだけで、実際は三十に差しかかろうとしているかもしれない──とにかく美しい女性だった。結い上げた髪は烏の濡れ羽色で、髪の色だけでなく顔立ちも、シュツェルツによく似ている。
「母上」
二人の王子は異口同音に言った。ということは、この女性が王妃なのだ。アウリールは再びお辞儀をした。
「アルトゥル、出歩いてはダメよ。一昨日、熱が下がったばかりなのだから。さあ、部屋に戻りましょう」
王妃はずかずかと王太子アルトゥルの元まで歩み寄ると、その手を取った。アルトゥルはわずかに抵抗の意を示した。
「でも、わたしはシュツェルツと朝食を……」
「そんなことは、体調が万全になってからにしなさい。食事は部屋で採ればいいわ。シュツェルツも、それで構わないわね?」
強い口調で王妃に念を押され、シュツェルツは顔を曇らせたまま頷く。
「はい……」
王妃に手を取られたアルトゥルが、振り向きながらシュツェルツに呼びかける。
「シュツェルツ! 今度、必ず一緒に食事をしような!」
シュツェルツは何も答えないまま、ただアルトゥルと王妃のうしろ姿を見送った。扉が閉じられ、こちらを向いたシュツェルツを見て、アウリールははっとした。王子の顔に何の表情も浮かんでいなかったからだ。
兄との食事が取りやめになったことで、残念そうな表情を浮かべるのなら分かる。だが、この冷やかさはどうだろう。
(シュツェルツ殿下は、王太子殿下のことを嫌っている)
アウリールは直感的にそう思った。
先程の様子を見る限り、王妃の関心は長男のアルトゥルに偏っている。おそらく、アルトゥルが病弱だからだろう。
元気に振る舞っていても、アルトゥルの体調が良くないことは、医師であるアウリールには一目瞭然だった。王妃が過保護になるのも頷ける。
しかし、シュツェルツにとって、兄は母を独占する存在だ。家族との触れ合いもなく、一人きりで毎日を過ごす彼が、兄を嫌悪し、憎んでいても不思議はない。相手にその感情を一切見せない分、シュツェルツが内側にため込んでいるものは、より深刻だ。
(よりにもよって、気にかけてくれる相手を嫌っているとは……)
アウリールは頭を抱えたくなった。エイベ博士の「王太子にお会いしろ」という言葉の本当の意味が、今更ながら理解できた。王太子に会えば、必ず王妃が現れる。そうなれば、王妃とその息子たちのもつれた関係を、嫌でも知ることになるのだから。
もしかして博士は、そう告げることで、王子に深く関わることを、アウリールに断念させたかったのかもしれない。
(けど、俺は諦めないからな)
シュツェルツに第三者の介入が必要なことが、これでようやくはっきりした。アウリールは決意も新たに、次の作戦を考えることにしたのだった。
*
(母上は、いつも僕に構って下さらない……)
シュツェルツは、諦めに似た気持ちで閉じられた扉を見つめていた。
母が気にかけ、傍についているのは、いつだって兄だ。
兄は病弱で、ふせってばかりのわりに、気質が明るく、思いやりがある。そのためだろう、母だけでなく、側仕えの者たちにも、兄に心を寄せる者は多い。
兄はこの国の王太子で、ただの王子でしかない自分とは違うのだ。
そんな兄を──両親にすら気にかけてもらえない我が身ですら気遣ってくれる兄を──大嫌いだと思ってしまうのは、自分の性格がねじけているせいなのだろう。
「……殿下、拝診の続きですが、どこかお加減がお悪いところはございませんか?」
冷えた思考を中断するかのようにかけられた声に、シュツェルツは振り返った。見ると、ほどほどの距離を置いて、アウリールがたたずんでいる。
シュツェルツは不機嫌に、その問いに答えた。
「ない。もう下がれ」
いつも笑顔で話しかけてくる、この女のような顔をした新しい侍医が、シュツェルツは気に食わなかった。
理由はふたつ。ひとつ目の理由は、以前に「王妃陛下は、お顔をお見せになりましたか」と、差し出がましい口を利いたから。ふたつ目の理由は、自分と近づきになりたいという意思が、透けて見えるからだ。
第二王子である自分に気に入られても、出世には繋がらないだろうに。
「御意」
最近宮廷に上がった者にしては優雅なお辞儀をすると、アウリールは部屋を出ていった。
シュツェルツには、ただそれだけのことが、なぜか不思議と寂しく感じられた。