第二話 迫られる決断
アウリールが初めて出仕してから、一週間が経過した。
第二王子の侍医には、毎日欠かせない仕事がある。朝晩に、シュツェルツの部屋を訪れ、脈を計り、体調を崩していないかどうか、問診をするのだ。
その日の朝、まだ寝間着姿のシュツェルツの手を、断りを入れてから取ったアウリールは、王子の脈拍がいつもより早いことに気がついた。
「脈が早いですね、殿下。お熱があるかもしれません。お加減はいかがですか」
尋ねると、シュツェルツは小さな声で答えた。
「……喉が痛い」
「なぜ、黙っておいでだったのです?」
非難をしたつもりはなかったが、少し強い口調になってしまった。シュツェルツはわずかに顔を背けた。
「いつものことだ。言う必要はないと思った」
うしろに控えていたエイベ博士が、シュツェルツの前に進み出た。
「朝食を召し上がったあとに、お薬をご服用下さい。お食事はお部屋に運ばせます」
「そうしてくれ」
シュツェルツは寝台に身を横たえると、姿を隠すように毛布を被ってしまった。
このような状況にも慣れているのか、博士は落ち着き払って女官に指示を出している。
アウリールはといえば、初めて目にするシュツェルツの体調の変化に、気もそぞろだった。寝台脇の椅子に座り、天蓋から垂れ下がるカーテン越しに、シュツェルツを見守る。
やがて、女官が朝食を持って現れた。燕麦の粥を中心とした、病人向けの料理だ。ナイトテーブルの上に置かれた盆を、シュツェルツは身を起こし、億劫そうに見やった。
アウリールは気を利かせて王子に提案した。
「殿下、よろしければ、わたしがお食事のお手伝いを致しましょうか?」
「必要ない。自分で食べられる」
シュツェルツは即座に答えると、盆を手に取り、膝の上に載せて食事を摂り始めた。王子の食べ方は、さすがと言うべきか上品だった。
朝食を終えたシュツェルツは、盆をナイトテーブルに戻し、アウリールに言った。
「薬は?」
「はい、ただいま」
シュツェルツの食事中に用意した、喉の炎症と熱に効く粉薬を、アウリールは水の入った杯と一緒に差し出す。
シュツェルツは無言で薬の入った油紙を受け取り、口の中に入れると水で飲み干した。
「殿下は、粉薬を嫌がらずにお飲みになることができるのですね。ご立派です」
アウリールは本心から褒めたのだが、シュツェルツは睨むように、こちらを見上げる。
「馬鹿にしているのか」
「いいえ、そのようなことは。世の中には、大人になっても粉薬が苦手という者がおりますゆえ、感心した次第でございます」
シュツェルツは軽く目を見張ったあとで、「そうなのか」と呟いた。いくら難しい本が読めるとはいっても、幼い王子はまだ世間を知らないのだ。アウリールは初めてシュツェルツに、親しみに似たものを感じた。
考えてみれば、この一週間、王子の生活様式を少しは観察する機会があったが、彼には遊び相手もいないければ、親しい人間もいないようなのだ。
アウリールたちが部屋を訪れる朝晩には、いつも一人黙々と本を読むか、大きな窓の外に広がる海を眺めている。
「薬は飲んだのだ。もう下がれ」
シュツェルツに命じられ、アウリールは博士とともに退室した。自分でも不思議なのだが、アウリールは少し残念な気持ちだった。もう少し長く、王子と話をしていたかったのだ。彼のことを、もっとよく知りたかった。
(そういえば…… )
アウリールはふと思い当たった。
「殿下のご両親……国王陛下と王妃陛下は、お見えにならないのですね」
「ちょっとした風邪くらいではお見えにならんよ。お二方ともお忙しいからな」
博士はこともなげに言った。
王族とはそのようなものなのだろうか。だとしたら、ずいぶん薄情な話だ。
アウリールの母は優しい人で、子ども達が風邪を引くと、決まって心配し、身体に良い美味しい料理を振る舞ってくれた。母のような人が王妃だったら、シュツェルツの冷めた態度も少しは変わっていたのだろうか。子どもは生まれてくる親を選べない、とは、よく言ったものだ。
その日の昼、アウリールは食後の薬を届け、シュツェルツの容態を診るために、王子の部屋を訪れた。そろそろ一人で仕事ができるように、との博士の計らいで、彼は同行していない。
ノックをしたが、返事はなかった。訝しみながらも、王子は眠っているのかもしれないと思い、扉を開けると、珍しく笑い声が聞こえてきた。
昼食の盆を下げにきたのだろう。シュツェルツが寝ているはずの寝台脇の椅子に、一人の女官が座り、口元を抑えて笑っているのだ。
「まあ、殿下ったら本当にお上手」
「本心だよ。君は僕の女官の中でも一番綺麗だもの。君がいつも僕の傍にいてくれたらなあって思うよ」
口調は平素と違うが、声は間違いなくシュツェルツのものだった。
「そのようなお言葉を頂戴してしまうと、お部屋を下がるわけにも参りませんね。どう致しましょう」
「じゃあ、ずっと傍にいてよ」
「そうですわねえ。せめて、殿下が十五、六歳でおいででしたら、考えるのですけど」
「殿下、お薬をお持ち致しました」
アウリールは会話に割って入った。職務を遂行するためというより、このまま彼らの会話を聞くことに、耐え難い不快感を覚えたからだった。
アウリールに気づいた女官は、気まずそうに、盆を持って会釈とともに退室した。
アウリールが寝台の前に立つと、身を起こしたシュツェルツが、こちらをきつい眼差しで見つめた。
「なぜ、邪魔をした」
「殿下には、まだお早いですよ」
平静を装って、微笑しながらアウリールは答えた。不機嫌さを隠そうともしないシュツェルツの脈を取り、薬と水を差し出す。
「女官に対して、よく、先程のようなお話をされるのですか」
薬を飲み終えたシュツェルツに問いかけると、王子はそっぽを向いた。
「そなたには関係ない」
「王妃陛下は、お顔をお見せになりましたか」
アウリールが重ねて問うと、シュツェルツのあどけないが端麗な顔に、はっとした表情が広がる。
「……出ていけ」
うつむいた王子は、それだけ答えると、もう口を利こうとはしなかった。
確認しておきたかったとはいえ、酷なことを訊いてしまった。母親が見舞いにこないという現実は、想像した以上に王子を傷つけているのだ。
シュツェルツの心中を思うと、アウリールの胸は痛んだが、お辞儀をして部屋を辞した。
(殿下は、お母君に構ってもらえない寂しさを紛らわすために、女官にあのような気を引く言葉をかけている……)
何と寂しい王子だろう。
強烈な悲しみが、アウリールの心に、染みのように広がっていった。
今はまだ、幼いからいい。女官を口説くといっても可愛いものだ。
しかし、現状のまま育てば、シュツェルツはおそらく女色に溺れ、身を持ち崩すことになる。それも、女性を母親の代用品としてしか見ることができない、愛情を持たぬ男として。
いくら外見が美しいからといって、そんな男を心から愛する女がいるだろうか。
そして、その虚しい恋愛遊戯の果てに生まれたシュツェルツの子は、父親と同じく、愛情をかけられずに育っていくはずだ。
螺旋模様のように同じ形を繰り返していくであろう、王子とその子孫の未来に、アウリールは呆然と立ちすくみそうになる。
恐ろしいことだ。母親に目を向けてもらえなかったという、ただそれだけのことで、シュツェルツの向かう道は、もう半ば決まっているように思われるのだから。
いや、と、アウリールは心の中でかぶりを振った。
(今なら、まだ間に合うかもしれない……)
そうだ、シュツェルツはまだ九歳になったばかりだ。たった一人でいい。今から誰かが親身になって、彼と接してあげることができれば、未来は変えられるかもしれない。
問題は、誰がそれをやるかだ。宮廷に上がったばかりの自分が、適当な人物を短期間で見つけることができるだろうか。
考えうる限りでは、国王夫妻か、シュツェルツの兄である王太子が適任なのだが、アウリールには彼らに会う伝手がない。
アウリールは思案に沈んだ。
このような八方塞がりの時でも、無神論者のアウリールは、「神々がいずれ哀れな王子を救い賜う」などとは考えない。人を救うのは、いつだって人であるべきだ。
(誰にも頼めないとしたら、俺がやるしかないか……)
そう考えてみて、できるわけがないじゃないか、とアウリールは思う。子どもを育てたこともない、大学を卒業したばかりの青二才である自分に。
だが、やらなければ、確実にシュツェルツの将来は荒む。
アウリールは廊下で立ち止まり、たっぷり考えた末に、覚悟を決めることにした。
故郷に帰って医師をする、という目標がますます遠のいてゆくような気がしたが、人一人の人生がかかっているのだ。仕方あるまい。
自分はシュツェルツの侍医だ。ならば、あの少年の身体だけでなく、心を健やかに育むのも務めだろう。
その第一歩として、シュツェルツの家族関係と成育歴の詳細を知る必要がある。そうすれば、国王一家の中で誰がシュツェルツを気にかけてくれそうか、知ることができるかもしれない。
では、それを誰に訊くべきか。アウリールには、一人、思い当たる人物があった。




