名もなき香りと寒色の情熱
細い体を後ろから抱きしめた。
最初は驚くほど冷たく感じた体も、彼女の平熱だと知ったいまでは心地よさを感じる。
「どうしたの?」
ベッドに腰かけていたミレイは、読みかけの文庫本を閉じて振り返った。
「何となく」
「何となく?」
「そう、何となく」
何それ、といって薄く笑みを浮かべるミレイの表情が、私は本当に好きだ。
「そろそろ仕事の時間でしょ?」
「うん。でも、もう少し」
ミレイの白く細いうなじにキスをすると、びくりと体を振るわせた。彼女の振るえを――抱きしめた両腕、密着した体で、目一杯感じる。
少しだけミレイの体が熱くなった。
あと一〇分で用意して家を出なきゃ、と冷静な思考を働かせつつ、私は何度もミレイのうなじから首筋にかけてキスをし続けた。
唇で感じるミレイの肌の質感は、同じ三〇歳の女とは思えないくらい、滑らかで凄く気持ちいい。
ちょっと待って、と体をよじるミレイをそのままベッドに押し倒した。唇と舌を使って、首筋に愛撫を続ける。もじもじと動くミレイの体と私の体が擦れて、どんどん抑えがたい衝動が脈打ちはじめた。
「本当にダメだって」
ミレイはそういって体を大きく動かした。勢いで一緒にベッドから落ちた。
どんと背中に衝撃を感じ、ミレイも私の上に落ちてきたので一瞬息苦しくなった。
「ごめん、大丈夫?」
心配そうにミレイが私の頬に触れてきた。
とても不安そうな表情をしている。
いつもは何があっても表情が変わらず、感情なんて一切表に出さないくせいに、こういうときに素を見せるのはズルい。
「痛い」
「ごめんね」
慌ててミレイが私の上から降りた。
噎せながら起き上がると、ミレイが私の背中を擦ってくれた。しばらく擦ってもらうと落ち着いてきた。
「本当にごめん。でも、急にあんなことされたから」
「いいよ。気にしてない」
一瞬俯いたミレイを床に押し倒した。
えっ、と驚いた顔で私を見てきたけど、何かいわれる前に自分の唇をミレイへ重ねた。
さっきのことがあるせいか、抵抗はほぼないに等しく、ミレイは私の体の下で大人しくしている。
そんな彼女の優しさを感じ、キスだけと思っていたのに我慢できなくなって、ティーシャツの上から乳房に触れた。
ミレイはまた体を振るわせた。
「すみません、生理痛が酷くて」
職場に遅刻の連絡をし、電話を切るとミレイは、ふふ、と笑って私の胸に顔を埋めてきた。
「嘘はダメだよ」
「全部が嘘じゃないよ。背中が痛くて」
「だから、本当にごめんって」
ミレイは眉間に皺を寄せる。
皺から形のいい鼻まで指でなぞった。くすぐったそうにミレイは顔を背ける。
「さすがにもう行かなきゃ」
床から起き上がると、本当に背中の辺りがちょっと痛かった。床で横になっていたせいだろう。
クローゼットからパーカーを取り出し、ティーシャツの上から羽織った。
「行ってくるね」
いってらっしゃい、と答えるミレイはまだ床で横になっていた。
私も本当であれば、ああやって余韻に浸っていたい。
部屋を出てマンションのエレベーターに乗った。ドアが閉まり、ふわっとミレイの匂いが鼻を掠める。
具体的にどういう匂いかは説明できないけど、私にとっては心地よく、胸が温かくなるものだ。
ギュッとティーシャツを握った。
はじめてこの匂いを嗅いだのは――二ヶ月前に行ったフィットネスジムの仲間との飲み会であった。
仲間といっても決まったグループや元々の友人とかではなく、ただ利用時間帯が被っていた人たちだ。よく顔を合わすし、話す機会も多かったので、何となく流れで飲みに行くことになった。
その飲み会にミレイはいた。
利用時間が少しズレていて、私とは入れ違いの関係となっていたので、一度も顔を合わすことがなかったらしい。
はじめまして、とか、よろしく、とか挨拶をしたと思うけど、あまり何を話したかは記憶にない。
第一印象は綺麗な人、といものだった。周囲の誰よりも顔立ちは整っていて、肌の白さは目の錯覚を疑うほどだ。ショートカットの黒髪の効果か清潔感もあり、綺麗は綺麗だけど、どこか現実離れした美貌でもあった。
あまり笑わず、表情に変化がないので、ちょっと怖さもあったけど、見とれてしまうことは否定できない。
外見が大きな特徴というのは認めざるをえず、私も最初はそうだったのだけど、席が隣同士になったタイミングで別のことに気がついた。
何とも名状しがたい香りを感じた。
悪くはなかった。いま思えば、あれがミレイの匂いだったのだけど、そのときは彼女のビジュアルにばかり意識が行っていて、嗅覚にまで気が回らなかった。
その飲み会はお開きになり、ミレイとも、また今度、と社交辞令めいた挨拶で別れた。実際に利用時間帯が被らないから、会うことは滅多にないと思っていた。
飲み会の翌週。その日は仕事が押してしまい、いつもより少し遅めにジムへ行った。
更衣室へ行くと、ミレイがちょうど着替えているところだった。
スポーツウェアをまとった彼女の体型はほっそりとしていて、ジムに通う必要なんてないんじゃないかというくらい整っていた。
「こんばんわ」
私が挨拶すると、こんばんわ、とミレイも返してきた。一瞬、ポカンとしていたから、誰かすぐに思い出せなかったのだと思う。
「今日は遅いんですね」
「ちょっと仕事で遅くなって」
細い体のミレイの隣で着替えるのは、何だか自分がとてつもなくだらしのない人間のように感じられ、非常に緊張した。
私の体型は太っているわけではなく、中肉中背といったところなのだけど、それでもミレイのようにありとあらゆる場所が整っている人間というのは、平凡な人間からすれば十分脅威に映る。
更衣室を出てからはお互い別々に運動をした。ミレイはランニングマシンを使って、有酸素運動をメインに行っていた。私は反対にウェイトトレーニングがメインであった。
一緒のタイミングでジムを出ることになったので、食事へ行くことにした。
いまも時々二人で行く、駅前にあるカフェだ。夜になればお酒も飲めるし、フードも豊富なので気に入っている。
私はビールにトマトとナスのパスタを頼んだ。ミレイはスパークリングワインとオムライス。
「運動しても、好きに食べて飲んでだから、どうなんだろうね?」
私がそういうとミレイは、確かに、といって笑った。
それが、はじめて見たミレイの笑顔だ。
胸が締めつけられるほどの愛おしさを感じた。
その後、飲み足りないからと私の家へミレイを招待した。ビールと飲みかけの赤ワインくらいしかなかったけど、彼女は嫌な顔一つせず私に付き合ってくれた。
職場の愚痴という、ミレイは何一つ楽しくない話も、うんうん、と聞いてくれた。
頭の中に彼女への思いが渦巻いて、どうしようもなくなっった。
猛烈な衝動に耐えられず、唇を奪っても抵抗の素振りも見せなかった。
「私、別にそういうタイプじゃないんだけど――」
「けど?」
「何だか、もう抑えられなくなって――喋ったり、見つめ合うだけじゃなくて、触れ合いたくなって」
冷たく細く引き締まったミレイの体を抱き締める。
裸同士で体を近づけると、自分の体のだらしなさがより強調された。
温かく弛んだ締まりのない私の体。
いや、それは思い込みだ。
振り払うようにミレイの髪へ顔を埋める。
飲み会のときに感じた匂い――とても落ち着く。
職場に着き、意識がいまに引き戻された。これから、遅刻の件について謝らなければならないと思うと、非常に憂鬱だ。
ミレイと同棲をはじめたのは、体を重ねたあの夜からそう日は経っていなかった。
一緒に暮らそうというと、いいよ、とあっさりすぎるくらいミレイは簡単に承諾し、私の生活に溶け込んでくるのにそう時間はかからなかった。
朝起きればミレイがいる。家に帰ればミレイがいる。寝るときもミレイがいる。
ミレイが外出している間、一人で家にいる私はあり得ないほど弛緩している。彼女なしでは、私はどうしようもないくらい無気力になる。
それほど、全力で彼女のことを必要としているのだ。
三〇年生きてきて、一人の人間のためにこんなに一生懸命になったことはない。
付き合ってきた男たちは、いま思えばカスみたいなものだったし、同性で見ても友人で心をここまで許せた人間はいない。
ただ、ミレイのほうがどうかはわからない。
私が家にいないとき、彼女はどうしているのだろう。
いないならいないで、そんな状況を許容しているのか、孤独を紛らわせるために何かしているのか――。
たまらなく不安定になる。
私がいつも彼女のことを思っているのに、彼女は別のことに関心が行っているのでは――それは残酷だ。
彼女がどう思っているのか、を図るわけではないが、職場の研修で二週間ほど家を空けることになった。
研修に発つ前日――。
これ以上ないというくらい私たちはお互いを求め合った。この時間がいつまでも続けばいいのにという感情は、いつの間にか彼女の首筋に噛み跡を残していて、私の背中には彼女の爪で引っ掻き傷がつけられた。
限界まで高まった情熱は、簡単に消えない傷となって二人の体に刻まれた。
「三〇年、私たちって一緒にいなくて、何ヶ月か前に出会ったばかりなのに、二週間離れるだけで、どうしてこんなに苦しいんだろう」
「――三〇年経って、やっと生きることに実感が湧いたのかも。私はそうだから」
ミレイは私を抱き締めていった。
「実感――そうかも」
目を閉じて、ミレイの匂いを確りと受け止めた。
こうして体を重ねていると、心も重なっていると思える。
不安定になった自分が幻のように感じられる。
研修の初日は終日ぼーっとしていて、何をやったかなんてちっとも憶えていなかった。
新事業に備えての研修、というキャリア上は大事なことだというのに、心は遠くにいるミレイのほうへと向かってしまう。
「疲れたけど、何も憶えてない」
「駄目だよ。大事な研修なんでしょ?」
深夜零時。翌朝も早くから研修があるというのに、ミレイと電話をしていた。
毎日、何でもいいから連絡を取り合う。それが私たちの取り交わした約束だった。
「昨日の夜、ミレイがいってたじゃん。生きることに実感が湧いたって。いま、生きてるって感じしない」
「寂しくてそう思うだけ」
「だといいけど――ミレイは今日、寂しかった?」
「うん。仕事なんて手につかないし、家に帰ってもあなたはいないし――」
「一緒じゃん」
思わず笑った。
たぶん、研修先にきてはじめて笑った。
「そうだね――明日も早いんでしょ? そろそろ寝よう」
嫌だ――出かかった言葉を慌てて飲み込む。早いのは私だけではない。
おやすみ、といって電話を切った。
ミレイと電話で話したのがよかったのか、翌日からの研修へは確りと取り組めた。
普段自分の行っている仕事とは方向性の違う業務だったが、新しいことを学べるのは楽しく、しかし馴れないことで疲れも出てしまい、電話で連絡を取り合っていたミレイとの約束はメールへと変わり、日によっては何の連絡もせずに終わることもあった。
「ごめんね。忙して、あんまり連絡できなくて」
「――うん、大丈夫。わかってはいるの」
元気がない、ということはすぐにわかった。
原因は明白だ。
ミレイも私と同じように不安定になっていたに違いない。私だけ寂しさから抜け出す方法を見つけて、彼女へ孤独を押しつけてしまった。
「本当にごめん。帰ったら、少しゆっくりできるし、どこかにご飯食べに行こう」
「わかった」
研修の終わる三日前になり、ミレイと連絡が取れなくなった。
電話もメールも反応がなく、不安や寂しさよりも心配が勝った。
研修が終わり、まっすぐ家へ帰った。
部屋にミレイはおらず、丸一日待っていたが帰ってもこなかった。荷物は置きっぱなしだから、出て行ったということも考えにくい。
もしミレイが無事なら鬱陶しいと思われるかもしれないが、彼女の職場へ電話をかけた。
「ああ、そうなんですよ。何日か前からこなくなっちゃって、困ってたんです」
電話を切り、近くの交番へ向かった。捜索願なら警察署へ行ってくれといわれ、今度はタクシーに乗り、一五分ほどの距離にある警察署へ向かった。
散々待たされ、これに記入してください、と男の警官に書類を渡された。一刻も早く探して欲しいのに、何ともまどろっこしい。
「あと、写真はありますか?」
「写真? いや、持ってきてないです」
「ああ、それだと受理できないので、またきていただいてもよろしいですか?」
「いや、すぐに探して欲しいんですけど」
「手続きに必要なので」
バン、とカウンターを思い切り叩いた。
しまったと思ったけど、あとには引けない。
「何か事件とか事故とかに巻き込まれてるかもしれないんですよ! そんな悠長なこといって、大変なことになったらどうするんですか!」
「ですが、顔がわからないと、何かに巻き込まれていてもこちらでは確認しようがないんですよ」
もっともな理屈だった。
「でも――でも――」
「とにかく、一度お引き取りいただいて――」
「凄く綺麗なんです。一緒にいると、私なんてだらしなくてどうしようもない人間って思えるくらい。すらりとしていて、黒髪のショートカットで、肌が白くて――色白とかじゃなくて、本当に真っ白で」
喋っているうちに涙が溢れてきた。
警官が困惑して私を見ている。
きっと、本当にどうしようもないのだろう。私が必死ということは伝わっているけど、これ以上は何もできないのだ。無下に追い返そうとしないだけ、この警官は優しいのかもしれない。
「あの、少しよろしいですか?」
隣からスーツを着た男が話しかけてきた。警察手帳を見せ、この警察署の刑事であることを名乗った。
受付から会議室のような場所へ連れて行かれた。
刑事たちからミレイの特徴を訊かれた。
肌は白く、髪型はショートカット、体型は細く、人形のように整った顔立ち。
「それに匂い――」
「匂いですか?」
「いえ、何でもないです」
形容したくてもできない匂いだ。伝える術もなく、伝えられたとして、私以外の人間に感じ取られるかはわからない。
「あの、どうしてミレイのことを? 探してくれるんですか?」
刑事が気まずそうに視線を落とした。
「実は三日――いや、四日前か。交通事故があったのですが、被害者が財布や身分証など持っておらず、いまも身元不明でして。あなたのいう特徴が被害者と合致するんです」
ちょうどミレイに連絡が取れなくなったタイミングと一緒だ。
「事故って、無事なんですか?」
いいにくいのですが、と刑事はミレイの死を告げた。
これはこっちだっけ、と彼はいった。
「違うよ。それはリビングで使うからこっち」
引っ越しの準備だった。明日、彼氏の家へ引っ越す。
「クッションなんてどれも一緒だろ」
「いいでしょ。拘ってるんだから」
「ふぅん」
彼とは先月から付き合いはじめた。
ミレイの職場の同僚であった。ミレイの葬儀のときに出会い、それから何度かデートを重ね、一緒に暮らさないかと彼から誘われた。
断る理由もなく、ミレイとの思い出があるこの部屋は、悲しみとか寂しさを想起させ、心が痛むことが多い。
私の行為は裏切りなのだろうか。
でも、勝手に死んでしまったミレイのほうが裏切りに等しい。
それとも、連絡を怠った私の罪だろうか。
ミレイがどうして交通事故にあったのか――自殺なのか純粋に事故なのか、いまとなってはわからないけど、私はそれについて考えないようにしている。
魅力的な匂いのしない男と、ひとまず生きて行く。