誰も上にいない下にもいない
助かった……。
それが朝を迎えた感想だ。
これほどに陽の光が待ち遠しかった事は久しぶりだ。
昨夜、あの後アーパネイはすぐに自室へ戻って行った。
遅くに失礼しました、なんて頭を下げていたが、皮肉の一つも文句の一つも言えなかった。
アーパネイの、光を無くした瞳と感情を無くした表情とは、いつかアニメやゲームで見たヤンデレ女子その物であり、一晩経った今も思い出すと肌が粟立つ。
おかげで寝付きが悪かった。
夜中に何度と目も覚めた。
末永くよろしく、なんて言ったアーパネイの気が変わり――。
そんな風に思ってしまったりなんだり。
壁掛けの魔力時計を見れば、まだ七時を少し回った辺り。
今日は病院へ向かいモトノセカイカエールを融通してもらえる様話をしに行く予定だが、まだ時間は早い。
病院の診療開始は九時である。
「すっきりしてくるか」
眠気覚ましと気分転換にひとっ風呂浴びてこよう。
ついでに着替えも済ませておけば丁度良いだろう。
そうして、宿屋の浴場を利用する為、バスタオルと着替えの衣服を手に部屋を出る。
「「――あ」」
扉を開けた先、廊下でアーパネイと出くわした。
どちらともなく間抜けな声が漏れ、重なる。
アーパネイはすでに白紫色の巫女装束に着替えを済ませていた。
「お、おはようございます……」
「お、おう……」
視線を泳がせながらどこか気まずそうに頭を下げるアーパネイ。
顔色はやや青い。
俺も昨夜の一件がフラッシュバックされ腰が引けてしまっている。
「……昨夜はすみませんでした。あの後、部屋に戻ってから良く考えたんですけど、私ってば大変に失礼で危ない事を言っていましたよね?」
頷いて肯定してもいいのだろうか。
火に油とならないだろうか。
「お風呂を上がってベッドに横になりながら色々な事を考えていたらおかしな方向に考えが突き抜けてしまったんです、本当にすみませんでした。死んで頂くつもりでした、なんて、どうかしていました。創造主様に対する無礼の罰はどうか私個人にお願いします。気が変わったし、ジアーレ消しちゃうし、なんてどうか言わないで下さい」
アーパネイは心底申し訳無さそうに、そして、怯えた様に身を縮こませると、腰から九〇度折り曲げ頭を下げた。
さくらピンクの髪がさらさらと流れ、小さな肩がかたかたと震えている。
深夜、躁または鬱となったテンションのままに行動し、翌朝冷静になってからそれら行動を後悔する。
いわゆる、深夜のテンション事故、であるが、それは俺にも経験がある。
いつか、深夜に書いた詩を朝一番でゴミ箱に捻り捨てたっけな。
あんな物、誰かに見られたら死ねる。
そもそも、何を考えて詩なんかを書いたのか……今となってはわからない。
昨夜のアーパネイがヤンデレ女子と化してしまった原因が、そうしたテンション事故によりけると思えば理解してやりたい部分もある。
誰だって経験者なのだから。
しかし、だ。
昨夜、ジアーレには手を加えない、と自分としてはかなり強めに告げたのに、今朝になって気の変更を心配されるだなんてな。
俺はそんなに移り気に思われているのだろうか。
……まあ、俺とて、アーパネイの気の変更に一晩ビビっていたから人の事を言えない部分もあるんだが。
「アーパネイ、顔を上げろ」
「……はい」
判決を言い渡されよう受刑者の様に、アーパネイはおずおずと顔を上げた。
そんなアーパネイの左右の胸部に両の手を伸ばし――。
「――ふぇっっっ!!!???」
――双丘を揉む。
今日も柔らかなBカップだ。
そして、やはり下着はつけていない。
装いが巫女装束だからだろうか。
……パンツは?
そんな事を考えながら両手をふにふに。
数秒して、呆気に取られるままだったアーパネイが慌てて飛び退いた。
昨日、初めて顔を合わせた時さながらに、胸を両手でかばう様に抱き頬を桃色に染めながら俺を睨めつける。
「な、何するんですか! 朝から変態ですかっ!! 変態なんですねっっ!!?? まだ朝ですよっっっ!!!」
「うっさいポンコツっっっ!!! 夜ならいいってのかよっっっ!!!」
「す、少しなら――て何で私が怒鳴られているんですか!? 無許可におっぱい揉まれたのにっっっ!!!」
アーパネイは頭上にいくつものクエスチョンマークを浮かべていた。
知った事か。
「アーパネイ」
「な、何ですか……!」
名前を呼ぶと、アーパネイは一歩後ずさる。
まるで、顔見知りが変質者と発覚した場面に立ち会ってしまったかの様に。
「俺を創造主と呼ぶのは止めだ」
「は――……え?」
目を丸くするアーパネイ。
お前さんは豆鉄砲の直撃を受けた鳩か。
「確かに、俺はお前さんやジアーレを設定した創造主と呼べる存在かも知れない。だけど、それだけだ。俺はお前さんたちの最初を創っただけで、それからの何かを強制するつもりは無いし、それからの行動を縛るつもりも無い。創造主と言う立場から何かを命令するつもりも無い。ましてや、罰を与えるだなんて――」
そうだ、はっきりさせておくべきだ。
「――いいか、俺はお前の上にいるつもりは無いぞ」
「じゃあ、下にいるんですか?」
「ぶん殴るぞ」
「――ひぇ!?」
ギロ、と目を細めると、アーパネイの表情が引きつる。
「俺とお前さんには上も下も無いって言っているんだ。お前さんとだけじゃない、道具屋の親父とも、病院のおばちゃんとも、宿屋の女将さんとも、だ。俺もお前さんも誰も同じ人間だ。創造主、なんて堅苦しい呼び方をするから頭も固くなるし余計な心配もしてしまうんだ」
違う世界に住まう存在、神界に住まう存在、ジアーレに住まう存在。
誰もが飯を食えば誰もが小便を垂れる。
ゲロにナルトが混ざればうんこにとうもろこしが混ざったりもするだろう。
俺も、アーパネイも、他の誰も。
それが人間じゃなくて何だと言うのだろうか。
「もしかして、とても下品な事を考えていませんか……?」
訝しげに眉をひそめるアーパネイ。
口に出ていなくても表情に出てしまっていただろうか。
「あ、あの……、じゃあ、私は創造主様の事を何と呼べばいいんですか?」
「俺にだって名前があるんだ。……将雅でいいさ」
「将雅……さん、ですか」
アーパネイは少しだけ頬を桃色に染めると、噛み砕くように俺の名前を呟いた。
胸が高鳴ってしまう。
俺の指図とは言え、好みど真ん中場外ホームラン確実四割バッター万歳状態の女子に下の名前を呼ばれるのは正直照れくさい。
「じゃあ、俺は風呂に行くからな」
そそくさと、逃げる様にアーパネイに背を向ける。
「ゆ、将雅さん!」
アーパネイの呼びかけに足を止めるも振り向かない。
緩んだ頬を見せるのはちょっと抵抗がある。
「あ、あの……今日も一日頑張りましょうね」
何だそりゃ。
笑いが漏れそうになるのを我慢。
アーパネイとて呼び止めて見た物の何と声をかけていいのかわからなかったのだろう。
何か言わなければならない、との気持ちが先に立って。
「そうだな、今日も頼むわ」
振り向かないままに右手を挙げて答える。
そうして、俺は何か重しが無くなったかの様に軽くなった心で風呂場へと向かったのだった。