勇気と希望
5年生に進学して、二ヶ月。
私の前に、大きな壁が立ちはだかっていた。
「林間学校のお知らせ」
「・・・ありがと。」
みかちゃんが持ってきてくれた白黒のプリントの上部にイタリック字体で書いてあるその文は、ただただ潰されそうになっているぶっとい字の連なりに見えた。
帰り道のランドセルが、どうしようもなく重い。ただの薄っぺらい一枚の紙の筈なのに、私には大量の泥のように感じた。
背中からじわじわと寄ってくるなんとも言えない違和感に、私は身震いをした。
林間学校。
幼稚園の頃にもお泊まりはあったが、せいぜい一泊で、それさえも私は泣いて嫌がっていた。
それが、突然二泊三日になったのだ。
「渡さないで済む方法、ないかなぁ・・・」
あるわけないのである。
母は私が何かを隠さないよう、私が寝た後、私の部屋をくまなくチェックすることを習慣としていた。渡さなくても母が自分で見つけるのだ。
どちらにしろ、担任の戸山先生から連絡が行くだろう。前に授業参観のプリントが配られた時も、帰宅したら母はとっくに知っていた。
「ただいま・・・」
3秒ほどの間があってから、
「おかえり」
と、なんとも言えない冷たい返事が返ってくる。
「・・・」
私は何も言わずに二階に上がり、ランドセルを置くと、ほんの少し迷ってから「林間学校のお知らせ」を取り出した。
日にちを確かめると、6月22日、水曜日から金曜日までとある。
「〜〜〜〜〜〜〜!」
覚悟を決めた私は、どたどたと階段を駆け下り、母の座っているソファへと突っ切った。
母はいつもの通り、近くのスーパーの広告を見ながら紅茶を飲んでいた。
その平和な時間に、真っ青な顔をして階段を駆け下りてきた娘を見つめる母。
「ええ〜っと・・・・・・」
ここまで来られたのは良かったが、何をどうやって言って、どんな風に「お知らせ」を渡せばいいのか、ちっとも考えていなかった。
「ええっと、これ、あの、今日みかちゃんが、プリント・・・」
声がかすれている。そこから先が出てこない。
母は黙って私の目を見ていた。
「あの、林間学校のお知らせ!」
それだけ言って母にお知らせを突き出し、母がそれをちゃんと持ったかも気にせずにプリントを離すと、またどたどたと階段を登り、(なぜか)机の下に隠れた。
顔が真っ赤になっているのが分かる。
母と最後にあんな至近距離で話したのはいつだろう。
というより、前にきちんと話したのはいつだっただろう。普段の私は、首を振るだけで受け答えをしていた。話す必要がなかったのだ。
緊張がほぐれていく。自分でも、こんなに体に力を入れていたのに気づかなかった。
それにしても、机の下というのはなかなかいいところだった。木の机の下にいると、なんとなく自然の中にいる気がする。これまた木で出来た椅子で出口を塞いでいるからか、音が面白いほど聞こえない。
もっと前にこの場所を見つけていればよかった。
そう思った。ここならなんでもできるではないか。泣くことも、笑うことも、一人でしゃべることもできる。
そう思ったら、涙が出てきた。
もう遅いのではないか。
もう私は元に戻れないのではないか。
ドイツに行ったら、余計学校には行けまい。慣れない環境で、知っている人はどこにもいない。
新しい学校でも、きっと孤立して一人で過ごすのだ。
でも。もし、もし私が林間学校に行けたら。
先生と生徒だけの、家族に会わない環境に行くことができたら。
また友達と近づけるかもしれない。
元のようには戻れなくても、また友達が出来るかもしれないじゃないか。
もしかしたら、前は一緒にいたことのなかった新しい友達だって、出来るかもしれない。
妙な発想だが、これはかなり私を元気付けた。
ほんの少しでも、どんなに妙でも、希望が持てたのだ。
さあ、林間学校に対しての恐怖と共に、希望も持てた私。問題の林間学校は・・・!?