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第七回


 陽は既に落ち遠くに霞む愛宕山に夜の帳の影が降り始めていた。

 予期もしない正吉の死。翁北斎の驚嘆と無念に沈む表情が浮かんできて肩の力が抜けそうにも思えたが正吉死すとも留吉がその腕を継ぐという嵩山房の勧奨を得て与八は一縷の望みを胸に秘め向かう足取りに期待を膨らませた。本来なら急逝を報らすのが先だが早速代替の手筈を整えてからにしたい考えだった。与八の胸には新たに掴んだ脈の喜びに溢れ、翁北斎の構想する景色画を是非とも完成してもらいたい思いが高まっていた。

 今朝訪れた彫工江川の門前に再び立つ頃、陽はすっかり落ち辺りは明かりの洩れる戌の刻を過ぎていた。

「生憎のこと親方は現在、白金の工房に篭っております」

 訪れると門弟は申し訳なさそうに返事した。

「白金?」

「工房が離れになっていまして此処から少し時間がかかります。白金は高台を三町ほど上った処で。その工房のほうに…」

「わかりました。今からそちらへ参ります」

 驚く門弟にその場所の道順の図を描いて貰い与八は息をつく暇もなく即、聖蔵院を後にした。それはちょうど西の彼方から火の手の上がる半時(はんとき)前のことであった。


 白金の坂道に差しかかると眼下に江戸の夜景が現われた。 与八は今日中に(まと)めたい一心で夜景を眺める時間もなくただひたすら暗い夜道の坂上を目指して急いだ。

 その工房に着いたとき与八は一瞬言葉を失った。与八の見たものは酒を喰らって無言で寝転がっている留吉の姿だったからである。

 歳の候、五十に近き留吉は与八の予想を見事に裏切り、独り工房の広間に大の字になって空間を睨んでいた。傍らに徳利が数本散らばり、彼は暇を持て余していた様子が窺われる。

 与八は勇気を出して嵩山房から聞いた話の経緯から説明し北斎翁の願望を伝えた。しかし留吉は黙ったまま何の反応も示さない。父正吉の死後、その衝撃は甚だしく増して今は書肆問屋は不景気、新たな受注が途絶えては万事に窮するの有様が眼の前の姿に現れていた。与八は居たたまらず暫し沈黙せざるを得なかったがやがて間を計ったのち北斎翁からの書簡と波の図を数枚、留吉の傍らに置いて今日はこれにて失礼をしようと思いかけたときだった。工房の西の窓から半鐘の音が僅かに聞こえてきて更に外に騒ぐ人々の声が高まっているのに気づいた。与八は火事だと直感し足早に工房を出ようとした。しかし留吉は依然と動じず外の騒ぎに無関心を装ったままただ無言にて一点を見据えているばかりである。じっとしておれなくなった与八はすぐ西の窓を覗いた。そしてその異様な光景に眼を見張ったのである。

「これは、西の彼方に火の手が上がっている。思いのほか相当な勢いだ。ああ、恐ろしや、この有様は三年前の巳丑の大火と同じですよ」

 与八は留吉に声をかけた。暗闇に波立つが如き焔の連なりが拡がっていく。まるで地獄絵を眺めるようだ。

「何という有様だ」

 与八が心騒がせて見入るも留吉の関心尚もなく酒に精気を奪われたか夢遊の廃人が如き眼差しをしたまま依然と空中を眺め入る。与八にとってまるで奇々怪々の今日一日の出来事がその焔のなかで映えていた。予期せぬ正吉の死と嵩山房との出会いがその影を照らすかのように怪しく燃え盛るのである。

「ああ凄まじきかな、怖るやゝ」

 与八は声を潜めて呟いた。そして留吉に短く挨拶をし、やがて帰り支度にとりかかった。

「波の向きを尋ねたい」

 突然留吉の声が聞こえた。初めて口を開いたのである。波の向き?与八は胸を躍らせながら留吉の方をふり返った。

「波の向きはどのようにするのかをお聞き願いたい」

 与八にとってその意味は分からなかった。しかしそれは待ち望んでいた回答には違いなかった。


 坂を下りる与八の眼前に遠くの焔がますゝ神秘的に拡がっていた。怖ろしく映えていた光景が今や優しく光る漣を連想させた。与八の胸に金次に対抗する新たな富嶽の風景画の出板の決意は決まった。

 留吉が言った波の向きとは何を指したものなのかよく理解できなかったが与八の頭のなかはそれどころではなかった。江川刀法の継承者から承諾の感触を得た吉報を早速に北斎翁に返事をしなくてはならない。急ぎ早に歩を進めながら与八はしきりに北斎翁の喜ぶ顔を想像した。

 おりんと与八が遭遇した江戸の大火はいずれも三年前の巳丑の大火に匹敵するものでありその有様はこの世の終末の如きを見るような地獄絵巻であった。そしてそれが飢饉の災いのときと(あい)()ったため皆これを天運の為す酬いとして更に畏れをなしたのであった。


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