第五回
同じ日、おりんは新橋の裏手通りを親戚の居に赴くため静かに歩を進めていた。冶兵衛の卒中の薬となる柚子の買出しが目的であったがそのあと親戚への顔出しとついでに芝居でも観る計画であった。
この日与八もおりんも世にも恐ろしき江戸の夜空を焦がす大火が起きるとはそのときはよもや知る由もなかった。
おりんにとって予期せぬ出来事の前兆は新橋から油問屋の筋向いに人だかりの光景を見たことから始まった。
おりんは足を止めてその町人衆の微かな喚声に耳を傾けていたが聞き覚えの声に心が騒いだ。芝居絵でも売っているのかと近づいてみた。雰囲気からそれは芝居絵ではなく何やら厳かなお守りのようなものだった。買い求める客はそれを手にして崇めるようにして持ち帰っていく。
おりんはその売り主の声に惹かれて群集のなかに入っていった。果たして次第に心乱れ動悸が激しさを増した。その直感は陽炎のように立ち昇っていた。
「はいゝ、摺りぼかしの魔除けの画だよ。其処ら其処では売っていないよ。今世は不気味な大凶作、この摺りぼかし魔除けの画は玄関、釜戸の上に大黒の柱、寝床、何処に貼っても無病息災の効き目大いにあるよ。お守りには間違いのない画だ。買った買った」
売り主はひとりの若者で歳のころ、三十と少し。嘗てのおりんの許婚と変わらない。おりんは顔を確かめるなりはっとした。目の前にいるのはまさしく数年前行方を暗ました許婚の弥平太ではないか。思いもよらぬ偶然に一瞬呆然として立ち尽くした。逸る気持ちを押さえながらおりんは更に前に進み懐かしい弥平太の姿を暫く眺め続けた。
「買った、買った。世にも珍しき魔除けの透かし摺りだよ」
おりんが眼の前にいるのも知らず弥平太の大きな声が響く。
「こりゃあてえしたものだ。なんとなーく獅子が睨みをきかしてらあ」
買った群集はそのお守りの画をみて口々に叫んだ。
「一枚頂戴な」
おりんは感極まって遂に弥平太に声をかけた。もはや周囲の声は耳に入らない。彼女は弥平太の表情だけを見据えた。
「おりん」
ふり返った弥平太はあっと一瞬短く声を詰まらせた。二年ぶりに見る弥平太の眼にほのかな衝撃が震えていた。
暮れ行く江戸の町を見渡すと照り映える淡い夕日の影が未曾有に満ちたこのあとの展開を隠すように轟いているかのように見えていた。
食事処の二階から見下ろす町中の屋根瓦に銀色の光が怪しく跳ねおりんの心を惑わしていた。眼の前の連なりがこの世の偶然の不思議を照らすかのように魔法の輝きを散りばめていた。
「不景気のため半端ものは売れず、摺工すら大手の下請けだけでは糧を得られない。売っていた品物もいわば偽物だよ。正真は長けた絵師の発案のものさ。本来なら正規の手続きを踏んで摺らなければいけないがそんな銭はねえしまたやっている暇はないのさ」
弥平太は品物の仕入れについて説明をしていた。
「結局、摺工同志の廻し合いによってひとつの原画を摺るのさ。元より不具合な版木だからさ当然摺り上がりはぼやけてくるよ。だから透かし摺りだと偽って売っているのさ。もとはといえば捨て版の垂れ流しみたいなもんさ」
語る弥平太の態度はおりんにとって投げやりに聞こえた。しかしその魔よけの透かし摺りの画は飛ぶように売れているのである。
「原画の絵師って有名なの?」
おりんは依然と窓辺の風景を見渡しながら尋ねた。
「どうして?」
不思議に思ったのか弥平太は逆に尋ねた。
「別に意味はないの。ただね、昔江戸に住んでいたことのある浮世絵師が今、浦賀に独りで住んでいらっしゃるの。その方の部屋の隅には妙見の御身が祠られ彼は毎日ひたすら念仏を唱えていらっしゃるの。そして毎日絵を描き、しかもその絵は何枚も同じ波の絵なのよ」
弥平太は何も言わずに聞いていた。
「それは波の彼方にそびえ立つ富嶽の風景画なのだけど…なぜか波の形ばかりを描いていらっしゃるのよ」
おりんはその絵師が卒中に病む自分の父の治療を施し更に薬として教えられた柚子の煎じ薬の調達のために江戸に出できたことを伝えた。
「それにしても今日は特別な日。諸国は飢饉で江戸においてもその煽りが愈々深刻になっているときに思いいもよらないことが起きたわ」
おりんはしみじみとつぶやいた。
「摺工で一人前に身を立てるまではと思っていたがまさか今日こんなところで出会うとは」
と弥平太も奇蹟とも思われる今日の再会に驚くばかりである。
新橋の裏手の路地は狭くぎっしりと旅宿や小料理屋が軒を連ねていた。ここは少し坂を登りきった所にありこの食事処の階上の部屋の窓からは眼下に江戸の西方を須らく見渡せる位置にあった。
おりんは弥平太が売る獅子の魔除け画を手にして依然と眺めていた。
「よくもまあこのような騙し売りをやるのねえ」
「しょうがねえや」
版木はもとはと言えば版元・書肆問屋の払い下げである。それゆえ損傷が激しく摺るたびに鮮明さに欠けた。それを摺り仲間同士が廻し摺りをやるのである。原型がますゝ不鮮明になるのも当然であった。しかしよく見れば何となく獅子の画が睨みを利かせていて迫力がある。
「それにしてもこの獅子の画は見事な出来栄えだこと。輪郭が霞んでいるけれど威厳を放っているわ」
「その原画の絵師は相当有名な人らしい。名前は忘れたが」
「そう」
「昔は絵本界では知らぬものはいなかったらしい。役者絵なんかも描いていたという噂もあるがこの獅子の画は逸品だ。何しろあの広重すら感服したという噂さ。とにかく相当古い作品のひとつさ。しかし、肝心のその絵師の名前が思い出せない」
弥平太はその原画の絵師の情報について語り続けた。
「その画は本当は自分の息子が悪い仲間に唆されて難事が降りかかったため以後そのようなことがないように倅の厄払いのために描いた画ということらしい」
「なるほど。そうなの」
おりんは感慨深く再びその画を見つめた。
「災い蔓延るこの時世さ、ひとは皆この画を求めるに違いない。だから暫くはこの商売で喰っていこうと思っている」
摺工といえど弥平太は未だ独り立ちできるほどの腕もない。しかも今や不況の時世、この叶わぬ徒弟制度の世界で更に天災も俄かに襲ってきたからには版元からの受注も激減する始末。当分はこの版木を摺り続けて秘かに街の裏角で売りつけるよりほかに途はなかった。
「これは崇高な大家の筆致さ。木は摺り朽ちても画に篭る彫りが微かに生きている。返ってぼかす影の彩りがまさしく神秘に見えてくる」
弥平太もしみじみその画を眺め入り、そしてつぶやくのだった。