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第三回


 風が強く埃渦を巻いて軒々の格子戸を揺るがせ春の近き訪れの兆しが巷の路地に照り映えていた。

日本橋は書肆の商いが一町ばかり軒を連ねている。しかしその大方は軒の戸を閉め陽光麗らかなる時刻を迎えているにもかかわらず静まり返っているのである。飢饉による不況が大江戸要所に及び町人の懐は次第に冷えて売買の影はますゝ減っていくばかりであった。

 そのなかに一見頗(すこぶ)る好調にて諸国の飢饉の(あお)りをものともせず商いが繁盛している店があった。その名を保永堂の金次といった。安藤広重の画が俄かに売れ始め思いもよらぬ人気の高揚に次から次へと予約が殺到した。金次は喜びを隠せず増刷のための版摺り請負人廻りを連日重ねざるを得なくなった。画は「東海道五十三次」という風景画で当地の景色を描き綴った連作ものであった。人々は見知らぬ土地の風景や画の情緒深き彩り豊かなその趣きに惹きつけられた。この画は旅する心地を魅了し出板以来徐々に評判は広がっていたのだった。

 馬喰町の書肆、西村屋与八の耳にもこの評判は届いていた。北斎からの再三にわたる催促に苦慮していたときだ。いったん断ったもののやはり気にかかり一度江川正吉なる彫師のことを保永堂の金次に聞いてみたいと思い立った。与八は北斎の寄せた書簡を胸に忍ばせ早速日本橋へ向かった。

 与八にとってその彫師と会ったこともなかったしその名を聞いた覚えもない。これまで富嶽四十数点の出板においても北斎は特に彫師の指名はしなかったのになぜ今回に限り指名をするのだろう。与八の疑問はふくれるばかりであった。

 保永堂に着くと番頭が出てきて与八の不意の来訪に戸惑った様子を隠し切れず暫し勘ぐりを入れるような表情を見せた。

「旦那は今、麹町の版摺り屋廻りです。何せここでの刷り上がりでは到底間に合わなくて」

 案の定、金次は留守のようだ。

「随分と儲かっているご様子でなによりですなあ」

 と与八が言えば

「お蔭様で今時の不況にこの有様、有難い悲鳴をあげているわけでして」

 と番頭は与八の用件を訝りながらも幾分警戒を緩めたようだった。

「結構なことでまったく羨ましい限り。ところでその広重の画とやらはそれにて掲げてあるのが…」

 与八は眼の前の棚に陳列されていた画を指しながら尋ねた。

「左様で。これは既に予約の入っているものでして…それゆえ連日、客の応対には苦慮している次第です」

「この画は大磯の宿の風景画でございまして…」

 番頭の説明もうわの空、その内容も詳しく耳に聞こえず与八は食い入るようにしてその画を眺め続けた。北斎の富嶽の世界とどこが相違する彫り方であるのかと思いつつ真剣に細部の彫り加減のみに眼を凝らした。この画の彫師が北斎の言う正吉の作ではないことは承知のうえである。

 なぜ北斎が執拗に彫り方にこだわるのか、そして江川正吉なる人物とは如何なる人物なのかを想像した。与八の眼には眼前の風景画と北斎がこれまで描いてきた富嶽四十二作品の風景画とのあいだに大した刀法の違いはないように思われた。とすれば今回描こうとしている波の彼方に映える富嶽の図は恐らく北斎が特別に何かを表わしたい狙いがあるとしか思われない。

 番頭は如何にも富嶽図を出板した永寿堂与八を見放さんばかりに当世の風景画はかくあるべしと自家の広重の画を自慢するのであった。その弁舌は暗に北斎の描く富嶽図は宗教味を帯びた類でありもともと自然画の純粋な趣向を害したるものと言っているかのようである。このとき広重三十七歳にして浮世絵師としての北斎の凡そ四十年の後輩であった。いかにも古きに頼る永寿堂を指して自家の保永堂の新しき逸材を誇るが如き口調に聞こえた。

「…よってこの大磯の宿は降り注ぐ雨が風情をいと醸し出している逸品でございます」

 長々と続く番頭の説明もようやく一段落したかにみえた。

「なるほど」

 と与八は曖昧にうなづきながら本来の訪問の主旨を早く切り出さねばと思っていたが、

「敢えて申すればこの画には虎ヶ雨という副題が附してありまして、大磯化粧坂に伝わる悲しい伝説がこの降りしきる雨のなかに語られているのでございます」

 と相変わらずの番頭の饒舌は果てしなく続き、尚も画を誉め広重を讃美するばかりなり。与八は最初から広重の画の筆法には関心はなくその刀法にのみ注目していたので番頭の語る内容はまったくの空耳だった。北斎のいう彫師正吉の消息について早く切り出さなければと焦りつつその契機を窺っていた。

「諸国の伝説や自然の様が宿場毎の風景のなかに描かれておりましてそれが大層受けている様子であります」

 もはや番頭の講釈に与八は閉口していた。相槌を打つのも心苦しくいよいよ訪れた目的に焦りを覚えていた。「東海道五十三次」の画の説明を聞くためでもその売れ行きの筋を探ろうとする魂胆でも毛頭なかったからである。

 折しもときを計らうかのように俄かに客の到来があり、番頭はようやくそちらの応対に場を離れたので与八はやっとその声高な応酬から解放された。

 保永堂の主、金次が店に戻ってきたのは酉の刻をとっくに過ぎていた。日本橋の各書肆の格子からはいつのまにか明かりが洩れ始め既に夕刻を迎えようとしていた。与八は。大方二辰刻近くも保永堂の客間に居座っていた勘定になる。

「馬喰町からわざわざのお越しのこと、長らくお待たせしました」

 番頭から短く経過を伝えらた金次は漸く円満な顔色をしたためながら客間に現れた。

「何しろ予期せぬ五十三次の錦絵の売れ行きでございまして、愚舗の抱えたる摺り職人の手数では間に合わず人形町から浅草橋までその手の応援を頼み込む始末で。いやいや、半日を費やす按配にて大層失礼をばいたしました」

 与八はその物腰の低さに恐縮しさすが十年の歳の功、帰宅したばかりとはいえ迷惑顔少しも表わさず応対したるをさまに感服す。愈々自分の企てをその甘えにのるべきを決心して、

「誠に不躾ながら同業者のよしみとしてひとつお聞かせ願いたい」

 と眼の前に北斎からの書簡を取り出した。金次が何の用かと少し訝るのを尻目に与八は一気にこれまでの経緯を丁重に語り書簡に書かれた彫師江川正吉の詳細につき尋ねたのであった。

「ご存じなかったようですなあ。江川正吉は彫工江川八左衛門の系を引く名手で嘗ては絵草子の挿絵でその名を馳せたつわものでしたが今はこのようなご時世、余り黄表紙等の絵本は売れません。さてどうしたものか、確か書いてのとおり住居は浅草馬道聖蔵院ですが‥今はどうだか」

「しかし大家の北斎翁も何故正吉を指名されているのか私にも分からないですなあ」

 金次も同調して暫く声を濁して唸り続けた。そして何度もその書簡と与八の顔を窺うのであった。金次にとってはもとよりこれまでの富嶽の画の数十景の刀法について関心があるはずはなかった。それは版元としては須らく画を描く絵師にこそ商いの勝算を賭けていたからである。

「挿絵の彫工でいらっしゃったのですか‥」

 与八にとってこれは初耳だった。ますゝ北斎のこだわる理由が幾重にも縺れるが如きして形すら見えなくなっていく。

「北斎翁もその昔は黄表紙の挿絵を手がけたこともあったようですのでそのあたりから一度お調べになってはどうですかな」

 金次は昔を思い浮かべながらつぶやくように提案した。還暦はとっくに過ぎ、齢六十四の当世売れ高一を誇る書肆の店主、さすがに過去の経緯に詳しくこの思いがけない一言に忽ち与八の心は動き早速、次に持ち運んだ北斎の画を懐から取り出した。

「仰せの挿絵とはこれにて描かれた内容のようなものはなかったでしょうか」

 浦賀から寄せられた書簡の文言に波から覗く富嶽云々の語りがあり執拗なまでに波の形は刀法にて表現の意を尽くすというくだりがあった。この点について与八は波の画を見れば金次が何かを思い出してくれると思ったからである。しかし金次は、

「波の形状を彫るのになぜ特定の彫工に執着するのかが腑に落ちませんなあ。描くのは絵師の腕前、これまでにも富嶽風景画は北斎翁が四十何景か描いておられるわけで特に彫師を指名されたわけではないでしように…」

 と浮かぬ顔で答えた。

 恐らく金次は北斎翁の悲運に満ちた晩年の暮らしぶりを知らない。江戸を去り今は人里離れた浦賀に独りで居るのである。与八はその画の趣旨の一部を既に感じ取っていた。今は諸国飢饉の有様、物心滅びいく兆候を北斎は波裏にそびゆる富嶽の図を用いて悟らしめようとしているのではあるまいか。そのためにはこの波の形状は北斎の趣旨をじゅうぶん知り尽くした刀法の持ち主でなけければならない。

 与八の脳裏に愈々その結論が巡りきて何としてもその指名の彫師正吉に会ってみたいと決めた。

「絵というものは描かれたものが全てを表現しているものでありますまいか。それに写実に忠実な風景画こそ叙情があり、刀法によって決して出来映えが変わるというものでもありませぬ。彫師によって左右されるという了見は甚だ理解に苦しみますなあ。この手前どもの広重の画こそ申し分のない逸品、つまりは景色画は筆法そのものにこそ本髄があると思うのですが…」

 番頭と同じようにいつの間にか金次は自分の店で出板した広重の画を自慢していた。金次にとっては広重こそ保永堂に於ける福の神であり祠り神の如き輝きを与えてくれているのである。

 もはや潮時を意識した与八は書簡の束を仕舞いにかかり、

「早速、会って話だけでも伝えたいと思うのですが、もう一度その江川正吉の居所の詳細を」

 与八は丁重に礼を述べながら立ち上がった。金次は怪訝そうに眼を細め、それでも声を和らげて「各々絵師には心積もりのあることですから、会ってその旨を伝えれば彫師も喜ぶことでしょう」

 と愛想し、微笑を溜めながらそのあとに続くなり。座敷の蔭で一部始終を盗み聞きしていた番頭もやがて玄関まで出てきて金次の背の後ろに立ち同じように怪訝な眼つきでそれでも愛想を混ぜながら与八を見送るなり。

「浅草は馬道聖蔵院にて住まわれているはずだと記憶しています。かなり昔の話故、今は何をしておいでか。ただ駄言を付け加えさせていただくなら、ちと変わり者だという噂ですのでその由ご留意されたし」

 帰り際、金次は与八に皮肉っぽくそう伝えた。


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