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第二回

 

 

 馬喰町の永寿堂ばかりが書肆ではない。西村屋与八が駄目なら他に図る手立ては数多くある。ほぼ完成を間近に控えた今、この野望だけはどうしても彫師の手腕にかかっている。この絵図は浅草馬道の江川正吉に彫らせてこそ成就するのだ。

北斎の日夜思い巡らすことはこの一点。浜に出ては繰り返し押し寄せる波を見て思案にふける。

これまで既に諸国の富嶽を描きたり。しかしこの終末を秘かに表わす構図はこの浦賀から拝する富嶽の図なり。波裏の形状を知っているのは江川正吉の腕しかない。これまですべて西村屋与八にて出板せしもの、何故に今回の方策難ありとしたのか、西村屋与八の問いかけに寡黙する正吉の表情が連なった。

怪しくも心微妙に乱れて日課としている今日の念仏唱和、邪心のため空言が塵の舞うが如く浮遊す。

「先生、先生」

 俄かにその声が耳に届いた。三和土に人の入り来たる気配がして北斎は念仏を解くなり。

「ご熱心なこと。あまりのご精励、差し障ってお許しを」

見ると隣組のおりんが立っているのである。

手に笹で包んだ魚を持っていた。眩しい笑顔を讃えながら恥らっている。

「父の病状はおかげで少し良くなりました。これを先生にと言われて持って来ました」

 北斎は居ずまいを正し周囲の散らかしものには眼をくれず早速おりんの方へ向き直った。

「それは良かった」

北斎は土間に下りて(かめ)から水を汲み茶を沸かす段取りに入った。

開けられたままの玄関戸の表から麗らかな陽光が射し込み潮の馨りが室内に広がった。おりんが届けた新鮮な鯖の艶があがり框の隅で静かに輝く。

「先生はずっと独りで暮らしておられるのですか?」

 おりんは周囲に散らかった絵具の数々を凝視して問う。

「もうかれこれ二十年にならん。ずっと独りじゃ」

 北斎は土間から座敷に戻り足元に散在した半紙や筆を大雑把に掴んで隅に押しやり、

「永年江戸に住んでいたがわけあってこちらへ参った。いずれはまた江戸に戻るつもりでいる」

 と静かに語った。

我が娘阿栄をおりんに重ねながらまるで阿栄の幼きを見るように北斎は優しい眼差しを投げかけた。

「今も浮世絵をお描きになっているのですか?」

「左様。描いているよ」

 おりんは隅に押しやられた絵具や半紙の数々を見つめた。

「生涯絵心だよ」

 お茶をすすりながら北斎は満足そうにつぶやいた。おりんは散らかっていた半紙を何気なく眺めていたがやがてあることに気づいた。そこに描かれていた絵は皆同じ形状のものばかりだったからである。その絵図は波の様々な形状で皆等しく眼に写った。

「江戸においては東海道の風景画が流行(はやり)だそうですが先生はそのような絵はお描きにならないのですか?」

 おりんは波の絵図に眼を奪われながらも尋ねてみた。

「流行っているのか?」

 そ知らぬふりを保ちながら北斎は前を見つめていた。

「広重の五十三次画は得難しものと評されています」

 おりんはその筋に詳しい口ぶりだった。実はその話をしたのはおりんの嘗ての許婚だった。その人物は江戸で摺師のような仕事をしたこともあり浮世絵界に詳しかった。そのため時折流行ものの話をしてくれたのである。しかし今は突然行方を晦ましていておりんにとっては心塞ぐ毎日が過ぎていた。それはもう数年にわたっていたのである。そんな事情でおりんにとっては江戸から来たという浮世絵師の北斎が唯一の頼りのようにも見えるのであった。

江戸じゅう飢饉の折、それが評判良きこととは信じ難いことだ。北斎は心のうちで秘かに念じた。今自分が描こうとしている風景の構図こそ人々の魂を響かせんと。

しかし黙って茶を飲むばかりであった。湯気は柔らかく立ち昇り、室内の光りのなかで縦横に漂うなり。おりんは同じく茶をすすりながら今度は奥の壁高くに祠られた妙見の御身を奇妙に眺めた。

「子供さんはおありになるのですか?」

「前妻に四人、後妻に二人の全部で六人いたがひとりは幼きとき亡し、今は皆それぞれ達者に暮らしている」

「ここで暮らしておられることは皆さんご存知なのですか?」

「知らせていないので知るべくもない。生来私は居座ることのできぬ性分だから皆はまたどこかへ引っ越したかと思うのみだろう」

「それは難儀なことでありますねえ。しかし門人の方からの便りがあるということは不思議なことではありませんか」

「門弟とは密にせねば金の用足しができないので知らせている」

 北斎は温和な含み笑いを漏らした。北斎の門人は数十に及びその類、末端まで数えると数知れず。ここに潜居したあと世は急に不況となり江戸の商いは言うに及ばず、門人たちは己が画風を求めて師匠への伺い少なからず。

茶をすすり終えると北斎は暫く押し黙りただ一面に散らかした半紙に眼を馳せ始めた。

「今何を描いていらっしゃるのですか?」

 おりんは例の波の形状の図を眺めながら尋ねた。

「これは波の図だ。幾通りもあるだろう」

「浦賀の波ですか?」

「そうとも。久里浜寄りに見える景色だ」

「これが浮世絵なのですね」

 おりんはそれを手にとり波の様々を眺めた。

昔、浦賀三浦村に運ばれてきた絵本の数々があった。そのなかに錦絵の豪奢を極めた絵画がありすべてを浮世の画と称した。そのせいで彼女はこの絵も浮世絵だと思い込んだ。

北斎が浦賀に潜居した訳は息子の追手を憚るためでもあったが次に準備している富嶽の景色画を完成させたい狙いもあった。富嶽の姿を写し現世の有様、運命の恐怖を渦巻く波頭のなかに強調したかった。

しかし返すゝも残念なのは彫師のことなり。この浦賀の波の彼方に富嶽を得んとする構図の要は波の風景にあらず波の形状を深く表わすことにあった。それを彫れるのは正吉しかいないのである。

 北斎は黙っておりんの姿を見守った。

「何故このように同じ形のものをお描きになるのですか?」

 おりんにとっては不思議でならなかった。

「凝り性の為せるわざじゃ。画道を求める者の性分でな」

しばらくたっておりんは次にまたあることに気づいた。その絵は波の形だけが大きく描かれていたので分からなかったがよく見るとすべての絵にただ一点彼方に霞む富嶽が描かれていたのだ。

「富嶽が遠くに霞んでいますね」

感心したようにおりんはつぶやいた。

「いい絵が出来上がりますわ」

「しかし作品は最終的には彫師がいないと完成しないものだ」

「彫師?」

「形は彫り方によって変貌する。要の神経を一本失えば巨体倒るるが如くじゃ。刀法による一点一刻がその形の趣旨を握っているということじゃよ」

 おりんはその言葉を聞きながら不思議な世界を垣間見るような気がした。それは出来上がる絵はすべて絵師の描く成果とばかり捉えていたからだ。

 北斎における画道はこの言葉に集約されていた。これまで富嶽四十余景を描いてきたのも富嶽の存立を世の様に映さんがためだった。浦賀の海を眺めながら北斎はずっとこのことを考えていた。そして打ち寄せる波を今の世の不穏な飢餓の様として彫れるのは江川正吉の他はないと思っていたのだ。

「彫師が別にいらっしゃるのですか」

 おりんはただ黙って半紙の絵を眺め続けた。

 北斎はこのとき与八の書簡にある趣旨足りる方策及ばずとあるのはてっきり正吉との折衝がうまくいかなかったと理解していた。


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