第一回
北斎晩年の記。
天保五年。今や飢饉は終末の徴、これは将に自然の法則の畏れを諭すなり。
未だもって行方のわからない息子のことも気懸かりなるも当世の飢饉たるや尋常にあらず。
念仏を唱えつつ潮風窓から忍び寄る気配、この浦賀の里にて独り暮らすも今日でふた月を経過す。
諸国の飢饉、村にも及び食の容易く確保し難く江戸に居る常と変らず。絵筆の修練絶えずとも老身に忍びくるこの自然の恐怖はますゝ心を揺らすなり。しかしそれ以上に息子の難儀、追手の近づかんことを 切に願いを込めて唱えるなり。
午を回り漸く江戸馬喰町の永寿堂から書簡が届いた。その内容は期待に即わず大いに落胆す。
西村屋与八の曰く、「今回の件、誠に有難く拝聴すれど愚舗、近況甚だしく不振にて趣旨足りる方策及ばず謹んで断念の意申し上げ候」とあり。
与八の書肆が繁盛したのは大方は北斎の富嶽風景画のみであったことを思えばここ数年の不況は前途にますゝ難題の兆しが現れている。与八の齢五十四。北斎とは将に親子が商談を交わすが如き歳の差なり。
与八はこの不況時において、もはや北斎翁の作品で生計を立てることは到底無理だと諦めていたので最初から乗り気なく近況厳しく方策なしと断っていた。特に最初に彫師を指名することなど過去に覚えのないことであった。
夕方、海へ出る。
北斎は大きな野望を持っていた。今の世をこの浦賀の沖の景色に写し取りたかったのである。齢七十を越すもこれまで積み上げてきた画道の執着は捨て難く毎日この主題と取り組んできた。それはここ浦賀の沖に雄大に広がる富嶽の姿であり、シリーズとなる「富嶽三十六景」のひとつとして叶えたい願望であった。
それを思うと今日の西村屋与八の返事は返すゝも残念なことである。北斎が依頼した内容とは今回の作品の彫師を指定したことであった。この眼前の景色は江川正吉でなければ表わせないと最初から決めていたのである。
それが完成も間近という頃になって西村屋与八の冴えない返事。その方策よろずに当たってその成果無しとは如何にも口惜しい。
翌日、隣組の冶兵衛の娘から前もって頼まれていたことを不意に思い出し、宅を訪問す。娘が言うには冶兵衛、還暦を過ぎたばかりの頃から片方の手が震え物を掴むに不自由をしていると聞いていた。概略を察するに中風を患いしものと見ゆ。早速自分の得ている処方箋を伝えたいがため訪れるなり。
「これは細やかな説明図、恐れ入って候」
冶兵衛は北斎の持参した処方箋の図を見て先ずは感嘆することしきり。半紙に描きたるは煎じ薬の材料とその作り方の順序を示したものなり。
「柚子を一個細かく刻み酒一合にて煎じるなり。土鍋を用いる時間は一昼夜にて煮詰めることが肝心。水飴くらいになればよし。更に白湯にて用ゆべし。酒は極上なるが効き目あり。柚子を刻むとき包丁の類は用ゆベからず。へらにて刻み候」
と付け加えた。
「かたじけない、かたじけない」
何とも巧妙な順序絵に傍らの娘も眼を見張り感服す。
「さすがお江戸の浮世絵師、見事な筆致だこと」
冶兵衛の娘おりんが感心すれば冶兵衛もまた唸るなり。
「これが至極驚くべき効き目あり。余が試したるは三年前、凡そ七日間も飲み続ければ和らぐ兆しを見む」
「かたじけなや、早速試してみることに致し候」
冶兵衛の家業は網元の継承にて代々がそれを受け継ぎこの浦賀・三浦村において有名な富豪として通っていた。北斎の先祖も元はといえば三浦村の出身であり古きを辿れば縁ありし同郷人となるのである。しかし北斎はここに移り住んでから村人にこれを語らず彼らもまた江戸の浮世絵師が訳あって浦賀に来たと思っていた。北斎が住んでいた所は自分の本籍地にあらず同じ三浦村とはいえ二里ばかり離れた浜の近くであった。即ち冶兵衛の近隣に潜居していたのだった。
「翁も患いしにありゃしたか。しっかりと物を掴めないことは情けない限りでござる」
冶兵衛はしきりにその右手をさすり安堵の溜息を洩らしつつ何度も礼を述べるなり。
「これおりん、翁に茶など持ちやらんか」
震える右腕を上げ冶兵衛は思いついたようにおりんに命じた。
立ち上がって茶の用意をするおりんの後ろ姿を見送りながら北斎はふと我が娘阿栄のことを思い出すのであった。
阿栄は前妻の三女なり。江戸・橋本町の油問屋に嫁ぎしが亭主と仲睦まじからずして遂には離別したり。もう半年は過ぎていた。我が息子の極道もさることながら阿栄は特に自分と性分近きこともあり尚更不憫さを強く思うなり。嘗ては一度達摩横町にて一緒に暮らしたことあるも時折姿晦ます奇行三昧。気性の激しい反面、絵心は闊達な娘にして有望ありし。今は行方知れずこの我が娘もやはり息子と同様老躯に心配の種突き刺さるものあり。
「しかし翁は医術にも詳しくはいったい何処で以ってそれを学び取られんや」
冶兵衛の問いに北斎輝ける眼を開きて静かに答えた。
「健康には至って気を注ぐ余り研究の癖、年老いてますゝ衰えず昔よりその筋の書物を貪らん所以なり。自らも試し得たる実例は確かなり」
それを聞きながら冶兵衛は止めど無く処方図を眺め入りたり。
諸国凶作にて艱難徐々に伝わりしとき浦賀に於いては脳血管の病に冒される老人相次ぎ愈々眼前にて心恐ろしき末の世を思うなり。息子が方々で重ねたる難儀、その債務に追手から居所隠さんとて老いたる身をこの浦賀にて潜居してはいるが我が余命も幾ばくぞやあらん。しかも独りで住みたるは二度目の妻とも離別以来かれこれ二十年を経たり。
前回の続編です。晩年の北斎を描いています。
「富嶽三十六景」のなかの「神奈川沖浪裏」の作品について触れています。
読んでいただければ幸いです。