ご病弱な令嬢、と仰った貴方様へ。神殿の診断書、ご一読ください
「お前の薄い体では、世継ぎは産めまい」
舞踏会の控えの間で、婚約者であるジェローム・ド・モンテラン侯爵令息は、私の妹エミリーの腰を抱きしめながら、そう告げた。
「エミリーが、代わりを務めてくれるそうだ」
扉の向こうで、楽団の調べが緩やかに揺れている。
私は手にしていた扇を、ゆっくりと閉じた。
「左様でございますか」
「……それだけか?」
ジェローム様は、わずかに眉をひそめた。
「言いたいことが、あるだろう。お前は、5年もの間、私の婚約者だった。気持ちを整えるための時間が必要なら――」
「ご丁寧にありがとう存じます。けれど、不要でございますわ」
私はもう一度、深く頭を下げた。
「ご婚約解消の運びとなりましたこと、心よりお祝い申し上げます。エミリー、おめでとう」
ジェローム様は、唇をわずかに開いた。けれど、何のご訂正もなさらなかった。ただ、エミリーの腰を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込められただけだった。
「お、お姉様……」
エミリーは、ジェローム様の腕の中で、小さく俯いた。
その仕草の練度――そっと睫毛を伏せ、頬を僅かに染める動きが、舞踏会の鏡の前で何度も練習されたものだと、私はすぐに気づいた。
私は静かに微笑み、控えの間を辞した。
廊下に出た瞬間、足元が一度だけ揺らいだ。
けれどそれは、衝撃のせいではない。
今日もまた、神殿で半日の祈祷を捧げてきたばかりだから。
私は息を整え、姿勢を正した。
ヴァラン伯爵家の長女、シャルロット。20歳。婚約期間、5年。
今宵、それが、終わった。
***
王宮の裏門で、神殿の馬車が静かに私を待っていた。
御者台の老人は、私の顔を見て深く頭を下げる。
「お早いお戻りでございますね、シャルロット様」
「ええ。少しばかり、ご相談したいことがありまして」
馬車に乗り込んだ瞬間、遠く――王都の北、神殿の方角から、夕の鈴の音がかすかに聞こえた気がした。
毎日、夕刻に鳴らされる祈祷の鈴。私が5年前から、月の半分以上を過ごしてきた場所の鐘。
私は座席に背を預け、目を閉じた。
「病弱なお姉様」
エミリーがいつも、私のことをそう呼んでいた。
「お父様、お姉様は儚い体でいらっしゃるから、舞踏会は私が代わりに出席しますわ」「お姉様、夜は冷えますから、早くお部屋へ」「お姉様の代わりに、私がジェローム様のお相手を……」
家族はみな、私を心配していた。
私が幼い頃から、たびたび熱を出し、寝込んでいたから。
成長してからも、舞踏会の途中で気を失うようなことが、何度かあったから。
――けれど。
私が熱を出していた本当の理由を、家族は誰一人、知らない。
そして、その本当の理由を、私自身が家族に告げられなかった理由もまた、家族の優しさそのものに由来していた。
***
神殿の北翼、神殿長の執務室。
扉を叩くと、低く澄んだ声が応じた。
「どうぞ」
中に入ると、書き物机の前で、漆黒の長衣に身を包んだ男性が、ゆっくりと顔を上げた。
漆黒の長衣の襟元には、控えめながら、銀の留め金が一つ。王家の意匠を象った小さな鳩が、夕陽を受けて、わずかに光った。
アシュレイ・ド・コリンヌ神殿長。29歳。
灰色の瞳が、私を見て、わずかに細められた。
「やっと、お決まりになりましたか」
「はい、神殿長様」
「お疲れ様でございました」
それだけで、彼は全てを察したらしかった。
机の前の椅子を勧められ、私は腰を下ろした。
「5年前――あなたが15で、当神殿に治癒術師として入室された日のことを、私は覚えております」
アシュレイ様は、机の引き出しから、年季の入った革表紙の手帳を取り出した。
「初日、あなたは37人の負傷兵を治癒なさいました。神殿の歴代記録で、最年少にして最多の数字です。翌日、あなたは熱を出して寝込まれた」
「……はい」
「ヴァラン伯爵家からは『娘は生来病弱で、神殿への奉仕は短時間に留めていただきたい』とのご要望が届きました。私は伯爵家にお返事しました――『承知いたしました。短時間で、無理のない範囲でお務めいただきます』と」
アシュレイ様は、手帳の頁をめくった。
「実際には、あなたは3日に1度、神殿で半日を過ごし、王都の傷病者を治癒なさってきた。5年間、その記録の全てを、私は手帳に書き留めております」
私は、唇を噛んだ。
「神殿長様。私の能力は、家族には……」
「貴族令嬢が神殿に主任として籍を置くことは、表向きには認められておりません。あなたが神殿に通うことを、ご家族には『病弱の療養』としてしかご説明できなかった。違いますか」
「……はい」
私はうつむいた。
「お母様が私を案じて涙されるたび、本当のことを申し上げたい衝動に駆られましたわ。けれど、家族が私を心配してくださる、その優しさを否定することも、できなくて――そのまま、5年が経ちました」
「ご家族は、あなたの真の働きをご存じない。ご存じないがゆえに、あなたを『病弱』と呼んでこられた」
アシュレイ様の声は、静かだったが、わずかに憤りの色が滲んでいた。
「シャルロット様。あなたが熱を出すのは、生まれつきの虚弱ではない。治癒術師の魔力疲労による、ごく自然な反応です」
「……はい」
「治癒は、施術者の魔力と体力を消耗します。あなたほど高位の治癒術師なら尚更です。一度に30人を癒せば、3日寝込むのが普通です。それを、ご家族は『病弱』と呼んでこられた」
アシュレイ様は、手帳を閉じ、別の頁を開いた。
「手帳には、もう1つの記録がございます」
そこには、神殿の特殊な紋章のついた頁に、年代順に細かい文字が並んでいた。
「王国歴293年、モンテラン侯爵家主催の春の園遊会――貴女のお席は『療養中につき』として削除。同年秋、王宮主催の収穫祭――モンテラン家から『婚約者は欠席が望ましい』との申し入れ。翌294年、モンテラン家紋章入りの招待状から、ヴァラン家の長女のお名前のみ消されたことが、3度」
灰色の瞳が、私を見た。
「これらは、社交儀礼上、明白な冷遇に当たります。王宮社交記録および当神殿の議事録に、すべて残っております」
私は、唇を噛んだ。
「5年間、私は申し上げる機会を窺っておりました。あなたが、ご家族から『病弱』と呼ばれることに、傷ついていらっしゃるのを、知っておりましたから」
「神殿長様……」
「同時に、私は宰相閣下に、毎年これらの記録をご提出して参りました。あなたがご自身でお決めになる日に、即座に動けるように――そのための手筈は、5年かけて整えております」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめた。
「けれど、私から申し上げるのは違うと、思っておりました。あなたが、ご自身でお決めになる日を、私は待っておりました」
私は、机の上で、手を組み直した。
「神殿長様。1つ、お願いがございます」
「何なりと」
「神殿の正式な診断書を、1通、発行していただけませんでしょうか」
アシュレイ様は、わずかに微笑んだ。
「どなた宛にお書きいたしましょう」
「モンテラン侯爵令息、ジェローム様。それから――父、ヴァラン伯爵宛にも、1通」
「承知いたしました。すでにご準備しておりました文面を、お読みください」
アシュレイ様は、机上に置かれた一葉の書面を、私の前に差し出した。
***
翌朝、第2の鐘が鳴り終わる頃。
神殿の正式紋章入りの封筒が、2通、ヴァラン伯爵邸とモンテラン侯爵邸に、別々の使者によって届けられた。
封筒の中身は、いずれも同じ文面である。
『神殿正式診断書
被診断者:シャルロット・ド・ヴァラン伯爵令嬢、20歳。
身分:本神殿主任治癒術師(任期5年・継続中)。
健康状態:平常時において極めて良好。生殖機能、循環器、骨格、いずれも王国貴族令嬢の標準を上回る数値を示す。治癒術行使直後の一時的疲労を除き、生来の虚弱体質に該当する所見は皆無。
過去5年の治癒実績:延べ2840名。神殿歴代記録の上位3位以内。
備考:幼少期より散見された発熱は、治癒術行使後の魔力疲労によるものであり、生来の虚弱体質ではない。本診断は神殿長アシュレイ・ド・コリンヌの責任において発行され、王都神殿の印璽を以て、その真正性を保証する。
王国歴296年 春の月20日
神殿長 アシュレイ・ド・コリンヌ』
***
その日の午後、ヴァラン伯爵邸の正面車寄せに、モンテラン侯爵家の馬車が、予告なしに到着した。
ジェローム様と、その後ろから青ざめた顔で続くエミリーが、応接間に通された時、私は紅茶を一口、ゆっくりと飲んでいた。
向かいの長椅子には、父――ヴァラン伯爵が、既に腰を下ろしていた。今朝、神殿からの診断書を拝読し、家督譲渡の手続きを終えたのち、父はそのまま私と共に、この応接間で来訪者を待っていた。
「シャルロット! お前――この、診断書は……」
ジェローム様は、神殿の封筒を握りしめて、応接間に踏み込んできた。
「主任治癒術師? 神殿の? 5年も? なぜ、私に、それを言わなかった!」
「あら、ジェローム様」
私はティーカップを、静かにソーサーへ戻した。
「昨夜、貴方様は『お前の薄い体では世継ぎは産めまい』と仰いました。それは、私の体に対する、貴方様のご見立てでございますわよね」
「だから、それは、お前が病弱だと――」
「ええ。ですから、神殿で正式な診断をしていただきましたの。私は病弱ではございませんでしたわ」
私は微笑んだ。
「貴方様のご見立てが誤っておられたこと、ご認識いただけたなら、幸いでございます」
「だ、だから、それなら、婚約は」
「ご婚約解消は、昨夜、貴方様ご自身が宣言なさいました」
私はティーカップに、もう一口、口をつけた。
「私が『ご婚約解消の運びとなりましたこと、心よりお祝い申し上げます』と申し上げた際、貴方様は何のご訂正もなさらなかった。エミリーの腰を抱く腕に、ほんの少し力を込められただけでございました」
ジェローム様の顔が、白くなった。
「本日午前中、神殿からの正式書状、ヴァラン伯爵家からの決定通知、そしてモンテラン侯爵家へのご通達――この3通の書状をもって、手続きはすべて完了しております」
私は、テーブルの隅に積まれた書類の束を、ジェローム様に向けて、軽く押し出した。
「こちらが、本日午前中に届きました、各方面からのお返事でございます。神殿は、私の身分継続を保証してくださいました。父は、私への家督譲渡を表明いたしました。王宮は、貴方様のご家門への、慰謝料請求の受理を承認なさいました」
「いし――慰謝料?」
「5年間、貴方様のご家門は、ヴァラン伯爵家の長女が『病弱である』との誤った認識のもと、複数の社交儀礼でヴァラン家を冷遇なさいました」
私は、神殿から拝受した記録の写しを、もう1枚、押し出した。
「春の園遊会で席を削除された件。収穫祭で『欠席が望ましい』と通達された件。モンテラン家紋章入りの招待状から私の名前のみ消された件、計3度。すべて神殿の議事録および王宮社交記録に残っております」
「そ、それは……」
「これらは、宰相閣下の手元に、5年間蓄積されておりました。ですから、本日午前中の慰謝料請求の受理は、極めて速やかに完了いたしました。額面は――」
私は、書類の1枚を指で示した。
「金貨、5000枚相当。よろしければ、ご一読くださいませ」
長椅子に座っていた父が、その時、ゆっくりと立ち上がった。
父は、ジェローム様の前に立ち、深く頭を下げた。
「モンテラン侯爵令息。これは、先程、当家の長女に申し上げたことの繰り返しになりますが――」
父は、顔を上げた。
「私はこれまで、長女を『病弱』と呼び、長女の真の働きを知らずに参りました。父として、深く恥じ入っております。されど、貴方様が、長女の体を理由に、長女の妹に手をかけられた件――これは、家門間の問題として、父として看過できません」
「お父様……」
応接間の隅で、エミリーが小さく声を漏らした。
父は、エミリーを一瞥もせず、ジェローム様に向けて続けた。
「本日付けで、ヴァラン伯爵家は、モンテラン侯爵家との一切の交流を断ち、次女エミリーは、王国南部の修道院に蟄居させます」
「お父様!」
エミリーが、今度ははっきりと声を上げた。
父は、エミリーをようやく一瞥し、静かに告げた。
「お前が今日、ジェローム様に同伴してこの邸に踏み込んだことが、何を意味するか――父は、お前にもう、問わぬ」
エミリーが、その場で崩れ落ちた。
父は、私の隣に立ち戻り、私にだけ聞こえる声で言った。
「シャルロット。父は、お前のことを、何も知らなかった。本当に、すまなかった」
私は、父の手を、そっと握った。
「お父様、もう、よろしいのです」
***
数日後の夕刻、神殿の北翼。
執務室の窓から差し込む夕陽が、書き物机の上で長く伸びていた。
アシュレイ様は、私の前に膝をついた。
「シャルロット様。1つ、お願いを申し上げてもよろしいでしょうか」
「はい、神殿長様」
「あなたが神殿主任治癒術師をお辞めにならない限り、私も、神殿長を辞めません」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見上げた。
「私の本籍は、コリンヌ公爵家でございます。叔父である現公爵閣下――陛下の御舎弟であられる方の名のもと、私は神殿に身を寄せ、当神殿の運営を担って参りました」
私は、初めて執務室の扉を叩いた日――襟元で、わずかに光った銀の留め金を、思い出した。
王家の意匠を象った、小さな鳩。
「あなたを5年間お守りすることが、私の神殿生活の意味でございました」
「アシュレイ様……」
「あなたが、ヴァラン伯爵家の家督を継がれるとしても、神殿の主任治癒術師を続けられるとしても――その傍らに、私を、置いてはいただけませんでしょうか」
私は、ゆっくりと、頷いた。
「神殿長様。神殿の鈴が聞こえる場所であれば、どこでも」
アシュレイ様は、私の手を取り、その甲に、そっと唇を寄せた。
外で、夕の鈴が鳴った。
5年前から、毎日聞いてきた音が、今夜は、すぐ隣にあった。
***
数か月後。
ヴァラン伯爵家の家督は、長女シャルロットへ正式に譲渡された。次女エミリーは王国南部の修道院に蟄居の身となり、生涯を祈りに捧げる日々を送ることとなった。モンテラン侯爵家は王宮への慰謝料支払いののち、社交界での地位を著しく落とした。
その頃、私は神殿の北翼で、新しい記録簿の最初の頁を開いていた。
机の隣で、アシュレイ様が、静かにペンを削ってくださっていた。
『春の月25日、夕。主任治癒術師、本日も健康極めて良好。施術人数、12名。所用時間、2刻。同伴者、神殿長アシュレイ・ド・コリンヌ』
私は、その下に、もう1行、書き加えた。
『備考:夕の鈴、隣にて拝聴』
これが、「ご病弱な令嬢」と呼ばれていた頃には、決して書けなかった、私の本当の物語の――最初の1行である。
【作者から読者様へお願いがあります】
少しでも、
「面白い!」
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