番外編2 灰色の教室と届かない光(篠原玲奈)
無期限の自宅謹慎が明け、私が学校に戻ったのは、梅雨が明けきらない六月の終わりのことだった。
重たいローファーの足音が、自分のものではないように響く。
校門をくぐると、肌に突き刺さるような視線を感じた。
今まで、私は「生徒会書記の篠原さん」として、憧れや親しみの視線を向けられることに慣れていた。けれど、今の私に向けられているのは、汚物を見るような嫌悪と、好奇心に満ちた嘲笑だけだった。
「うわ、来たよ」
「よく学校来れるよね。メンタル強すぎ」
「あんなことしておいて、まだ被害者ぶるつもりかな」
ヒソヒソという話し声が、まるで拡声器を通したかのように耳に飛び込んでくる。
私は俯き、視界を足元だけに限定して歩いた。
息が苦しい。
ここは私が知っている学校ではない。
かつては輝かしい青春の舞台だったこの場所は、今や私を裁くための巨大な監獄に変わっていた。
教室のドアに手をかける。
手が震えているのが分かった。
深呼吸をして、ドアを開ける。
ザワザワとしていた教室が、一瞬で静まり返った。
三十人以上のクラスメイトの視線が、一斉に私に突き刺さる。
その中には、かつて仲良くしていた友人たちの顔もあった。彼女たちは私と目が合うと、露骨に顔を背け、隣の子と何かを耳打ちし始めた。
私は無言で自分の席に向かった。
「……っ」
息を呑んだ。
私の机には、落書き一つなかった。
かつて、湊くんの机がマジックで埋め尽くされていたのとは対照的に、私の机はあまりにも綺麗だった。
けれど、その「綺麗さ」が異様だった。
机と椅子が、他の生徒の席から離され、ポツンと孤立した場所に置かれていたのだ。
まるで、そこだけ不可侵領域であるかのように。
机の上には、一輪の造花が置かれていた。葬式で使われるような、白い菊の造花が。
「おはよう、篠原さん」
クラスのカースト上位にいる女子が、冷ややかな笑顔で声をかけてきた。
「席、窓際にしといてあげたよ。ここなら外の空気も吸えるし、反省するのにぴったりでしょ?」
教室中からクスクスという笑い声が漏れる。
私は何も言えなかった。
「ありがとう」とも「やめて」とも言えない。何を言っても、それが新たな火種になることを知っているからだ。
私は黙って菊の花を鞄にしまい、椅子に座った。
誰も私に近づこうとしない。
半径二メートル以内の空気が、真空になったように冷たい。
これが、私の新しい日常。
「裏切り者」「男好き」「頭お花畑」というレッテルを貼られた私の、終わりのない受刑生活の始まりだった。
◇
授業中、先生たちは私を無視した。
かつては「真面目な優等生」として私を評価していた先生たちも、今では私を腫れ物扱いしていた。
当然だ。あの生徒総会での醜態は、全世界に配信されたのだから。
学校の名誉を傷つけた元凶の一人として、私は教職員からも疎まれていた。
昼休みが一番の地獄だった。
一緒に学食に行く友達はもういない。教室でお弁当を広げる勇気もない。
私は逃げるように教室を出て、誰もいない特別棟のトイレに向かった。
個室に入り、鍵をかける。ここだけが、唯一の安息の地だった。
コンビニで買ったパンを齧る。味がしなかった。砂を噛んでいるようだった。
スマホを取り出し、SNSを開く癖が抜けない。
見なければいいのに、指が勝手に検索画面へ向かう。
『篠原玲奈 現在』
『西条亮介 その後』
西条亮介。
かつて私が「王子様」だと信じ、湊くんを裏切ってまで選んだ男。
彼は退学になり、一家で夜逃げをしたという噂だった。
ネットの情報によれば、父親の会社もクビになり、多額の借金を背負って、今はどこかの地方の安アパートで暮らしているらしい。
そして、彼がSNSの裏アカウントで呟いていた言葉の数々が、まとめサイトで永遠に晒され続けている。
『真面目系クズを追い出すのちょろすぎ』
『金づるにならなきゃ相手にするわけねーだろ』
その言葉を見るたびに、内臓が煮え繰り返るような怒りと、どうしようもない自己嫌悪に襲われる。
私は、あんな男に抱かれたのだ。
あんな薄っぺらい男の言葉を信じて、一番大切な人を傷つけたのだ。
自分の愚かさが、消えない刺青のように心に焼き付いていた。
「……湊くん」
私は小さく彼の名前を呼んだ。
高遠湊。私の元恋人。
彼はもう、この学校にはいない。
あの騒動の後、彼はすぐに転入手続きを取り、県内でもトップクラスの進学校へ行ってしまった。
風の噂では、そこの生徒会にスカウトされ、早くも中心メンバーとして活躍しているらしい。
彼は前へ進んでいる。
私という泥沼を切り捨て、新しい世界で、正当な評価を受けて輝いている。
それに比べて、私はどうだ。
便所の個室でパンを齧り、過去の亡霊に怯えながら、孤独に震えている。
「戻りたい……」
涙が滲む。
あの日々に戻りたい。
放課後の生徒会室。湊くんがパソコンに向かう横顔。私が紅茶を淹れると、「ありがとう」と不器用にはにかむ笑顔。
地味だけれど、温かくて、確かな幸せがあったあの日々へ。
もし、あの日。
西条くんに「横領の証拠」を見せられた時、私が「湊くんがそんなことするはずない」と一蹴できていたら。
もし、湊くんに「信じてくれ」と言われた時、「信じるよ」と手を握り返せていたら。
今はどうなっていただろう。
きっと、この理不尽な世界で二人手を取り合い、悪意に立ち向かっていたはずだ。
そして、その絆は以前よりも強固なものになっていたはずだ。
「……馬鹿だ、私」
いくら「もしも」を並べても、現実は変わらない。
私は選択したのだ。
自分の「正義感」という安いプライドを守るために、彼を信じるという一番大切な義務を放棄した。
その代償は、彼を永遠に失うことだった。
◇
放課後、私は図書室に向かった。
家に帰りたくなかった。家では両親が、腫れ物に触るような態度で私に接してくる。「学校はどうだった?」とも聞かず、ただ溜息をつく母を見るのが辛かった。
図書室なら、誰とも話さずに時間を潰せる。
本棚の隙間を歩いていると、ふと見覚えのある背中が見えた。
「……っ!」
心臓が跳ねた。
窓際の席。少し猫背気味に本を読んでいる男子生徒。
黒髪。眼鏡。
湊くんだ。
どうして? 転校したはずじゃ……もしかして、何かの用事で戻ってきたの?
私は吸い寄せられるように近づいた。
声をかけようとした。謝りたかった。一言でもいい、彼と話したかった。
「湊くん!」
そう叫ぼうとして、言葉が喉に詰まった。
その男子生徒が顔を上げた。
別人だった。
似ても似つかない、ただの知らない後輩だった。
彼は私を見ると、ギョッとした顔をして、慌てて席を立って逃げていった。
「……あ……」
私はその場に立ち尽くした。
幻覚を見るほど、私は彼を求めているのか。
力が抜けて、近くの椅子に座り込んだ。
そこは、かつて湊くんがよく座っていた席だった。
彼はいつもここで、難しい専門書を読んでいた。私が「何読んでるの?」と聞くと、楽しそうにシステム構築の話をしてくれた。私にはちんぷんかんぷんだったけれど、彼が楽しそうなのが嬉しくて、ずっと聞いていた。
私は机に突っ伏した。
木の冷たい感触が頬に伝わる。
ここにはもう、彼の温もりはない。
彼が残していったのは、完璧に整理された図書委員会のデータベースと、私という名の廃人だけだ。
ふと、近くのパソコンが目に入った。
検索用端末。誰でも自由に使えるものだ。
私は震える手でキーボードを叩いた。
検索ワードは、彼が転入したという高校の名前と、『生徒会』。
画面に、その高校のホームページが表示される。
『新生徒会役員紹介』のページ。
スクロールする指が止まった。
いた。
写真の中の彼は、以前よりも少し大人びた表情をしていた。
眼鏡の奥の瞳は理知的で、自信に満ちている。
そして、彼の隣には、きれいな黒髪の女子生徒が立っていた。
生徒会長らしき彼女と、副会長の湊くん。
二人は並んで、何かを語り合っているような自然な笑顔を見せていた。
その女子生徒の目は、信頼と尊敬を持って湊くんを見つめていた。
かつて、私が彼に向けていたはずの視線。
いや、私よりももっと深く、彼という人間の本質を理解し、支え合っているような、大人の関係性がそこには見えた。
『新副会長の高遠湊です。セキュリティ強化と業務効率化を推進し、皆さんが安心して過ごせる学校作りを目指します』
彼のコメントは、簡潔で力強かった。
そこには、過去の傷跡など微塵も感じさせない、未来への意志があった。
「……すごいね、湊くん」
画面の中の彼に、私は話しかけた。
声が震える。涙が溢れて止まらない。
「本当に、すごいよ。あなたは……私のことなんて、もう必要としてないんだね」
画面の中の彼は、私を見ていない。
彼の視線の先にあるのは、新しい仲間と、輝かしい未来だけ。
私との思い出も、私からの裏切りも、彼にとってはもう「処理済みの過去のデータ」に過ぎないのだ。
私は、彼の物語の登場人物ですらなくなっていた。
ヒロインでもなければ、悪役ですらない。
ただの、通り過ぎたノイズ。
それが、一番辛かった。
憎まれている方がまだマシだった。憎しみでもいいから、彼の中に私が残っていてほしかった。
でも、この写真が証明している。
彼は私を完全に乗り越え、忘却の彼方へ置き去りにして進んでいったのだ。
「うっ……ううっ……」
図書室の静寂の中で、私は声を押し殺して泣いた。
後悔という名の泥沼が、私を飲み込んでいく。
どうしてあの時、信じられなかったんだろう。
どうしてあの時、確かめなかったんだろう。
どうして……どうして……。
無限に繰り返される自問自答。
でも、答えが出ることは永遠にない。
◇
夕暮れのチャイムが鳴り、下校時刻を告げる。
私はふらふらと昇降口へ向かった。
外はまた雨が降り出していた。
傘を持ってくるのを忘れたけれど、どうでもよかった。
雨に打たれて、この惨めな自分を隠したかった。
校門を出ると、一人の男子生徒とすれ違った。
彼は私を見て、嘲笑うように言った。
「お、悲劇のヒロイン様のお帰りか。今日も泣いてんの? ウケる」
西条くんの取り巻きだった男だ。
彼らもまた、掌を返したように私を攻撃してくる。
私は何も言い返さず、ただ雨の中を歩き続けた。
冷たい雨が全身を濡らす。
制服が肌に張り付き、体温を奪っていく。
でも、心の寒さに比べれば、こんなものは何でもなかった。
私はこれから、この学校で一年半、過ごさなければならない。
誰も私を信じず、誰も私を愛さないこの場所で。
卒業しても、この「デジタルタトゥー」は一生消えない。
進学しても、就職しても、誰かが私の名前を検索すれば、あの醜態が掘り返される。
「裏切り者」「愚かな女」という烙印は、死ぬまで私について回る。
これが、私の罰。
湊くんが言った「真実の地獄」。
それは、炎で焼かれるような激しい苦痛ではなく、真綿で首を絞められるような、静かで冷たい絶望だった。
「ごめんね……湊くん」
雨音に紛れて、誰にも届かない謝罪を口にする。
もう二度と、彼に会うことはないだろう。
彼が私を許すこともないだろう。
私は、私が壊した幸せの破片を抱えて、この灰色の世界を生きていくしかない。
ふと、空を見上げた。
厚い雨雲の向こうに、かつて彼と一緒に見た青空があるはずなのに、今の私には何も見えなかった。
ただ、冷たい雨粒だけが、私の涙を洗い流すこともできずに、絶え間なく降り注いでいた。
私の青春は終わった。
私の恋も、未来も、すべてあの日、私の手で終わらせたのだ。
濡れたアスファルトに、私の影が頼りなく伸びている。
その影は、どこまでも孤独で、どこまでも惨めだった。
私は一歩を踏み出す。
光のない、明日へ向かって。




