第六話 愚者たちの末路
あの騒乱の生徒総会から一週間が過ぎた。
季節は梅雨に入り、連日の雨が校舎を灰色に染めていた。だが、校内の空気は湿気とは裏腹に、乾いた火薬の匂いが残っているような、ピリついた緊張感に包まれていた。
俺、高遠湊は、校長室のふかふかとした革張りのソファに座っていた。
目の前には、白髪の校長が深々と頭を下げている。その隣には、新しい学年主任と、PTA会長までもが並んで頭を下げていた。
「高遠君……いや、高遠さん。この度は、本当に申し訳なかった。学校として、君に対して取り返しのつかない過ちを犯してしまった」
校長の声は震えていた。
無理もない。あの日、俺が行ったライブ配信のアーカイブは、瞬く間にSNSで拡散され、再生回数は数百万回を超えた。「冤罪」「学校の隠蔽体質」「教師の職務怠慢」といったワードがトレンド入りし、マスコミが連日校門の前に押し寄せる事態となっていたからだ。
「頭を上げてください、校長先生。僕はただ、事実を公表しただけですから」
俺は淡々と告げた。
謝罪を受け入れて許すつもりもなければ、怒鳴り散らすつもりもない。今の俺にとって、この学校の大人たちは、事務的に処理すべきタスクの一つでしかなかった。
「……関係者の処分が決まったので、君に報告させてもらう」
校長は脂汗を拭いながら、一枚の書類を差し出した。
そこに記されていたのは、俺を陥れた者たちの末路だった。
まず、西条亮介。
処分は、即時退学。
警察の取り調べに対し、彼は横領の事実を全面的に認めたらしい。使途は、やはり俺が突き止めた通り、スマホゲームへの重課金、友人との遊興費、そしてホテル代だった。
彼は「地元の有力企業の御曹司」などではなく、ごく一般的なサラリーマン家庭の息子に過ぎなかった。親は見栄っ張りで、息子もまた、その虚栄心を受け継いでいただけだ。
横領した総額は三百万円近くにのぼる。亮介の両親は、被害弁済のために貯金を切り崩し、それでも足りずに借金をして学校に返済したという。
さらに、SNSでの特定作業は苛烈を極め、彼の実家の住所、父親の勤務先までが晒された。父親は会社にいられなくなり自主退職、一家は夜逃げ同然にこの街を去ることになったそうだ。
「有名になりたい」と願っていた亮介は、望み通り全国に顔と名前が知れ渡った。ただし、「稀代の嘘つき詐欺師」として。今後、彼がまともな社会生活を送ることは不可能に近いだろう。
次に、堂島教諭。
処分は、懲戒解雇。
職務怠慢、虚偽報告、さらには生徒への恫喝。これだけの証拠が全世界に配信されてしまっては、教育委員会も庇いきれなかったようだ。退職金は一円も支払われず、教員免許も剥奪される見込みだという。
噂では、ニュースを見た奥さんに三行半を突きつけられ、離婚調停中だとか。面倒くさがりで事なかれ主義だった男が、これからの人生で一番面倒な手続きと、貧困に追われることになる。皮肉な話だ。
そして、篠原玲奈。
彼女に関しては、退学処分にはならなかった。
実行犯ではなく、あくまで亮介に騙されて加担した「共犯者」という扱いであり、本人も精神的に錯乱状態にあることが考慮されたらしい。現在は無期限の停学処分となり、自宅謹慎中とのことだ。
「……そうですか。報告は理解しました」
俺は書類をテーブルに戻した。
「高遠君。君の生徒会への復帰と、名誉回復のための全校集会を開きたいと考えているのだが……」
「お断りします」
俺は即答した。
「えっ……」
「名誉回復は、あの総会で十分になされました。これ以上、この学校の茶番に付き合うつもりはありません」
俺は鞄から一通の封筒を取り出し、校長の前に置いた。
『退学届』。
「なっ……! 待ってくれ! 君がいなくなったら、誰が生徒会を立て直すんだ! 成績も優秀な君を失うのは、我が校にとって大きな損失だ!」
校長が慌てて立ち上がる。
今さら何を言っているんだ、この人は。
俺を切り捨てようとした組織が、今度は俺に縋り付こうとしている。その浅ましさが、どうしようもなく不愉快だった。
「立て直し? それはあなた方が考えることです。僕はもう、次の場所を見つけていますから」
俺は席を立った。
止める校長の手を制し、俺は校長室を後にした。
廊下に出ると、窓の外はまだ雨が降っていた。
だが、俺の心は晴れやかだった。
この学校での時間は、これで終わったのだ。
教室に戻り、荷物をまとめる。
すでに放課後になっており、生徒たちはまばらだった。
俺が教室に入ると、残っていた数人のクラスメイトが、気まずそうに顔を伏せたり、媚びるような視線を送ってきたりした。
かつて俺の机に「泥棒」と落書きし、画鋲を仕掛けた連中だ。
彼らは今、俺に話しかけるタイミングを伺っている。「ごめんね」「騙されてたんだ」「俺たちは味方だよ」と言いたげな顔で。
俺は彼らを空気のように無視し、教科書や私物を鞄に詰め込んだ。
かつては、彼らとの関係修復を望んだこともあったかもしれない。だが今は、彼らの存在自体がどうでもよかった。
風見鶏のようにふらふらと強い方になびく彼らには、憎しみすら湧かない。ただ、関わる価値がないだけだ。
荷物を全て詰め終え、教室を出る。
下駄箱で靴を履き替え、昇降口を出ようとした時だった。
「……湊くん」
雨音に混じって、弱々しい声が聞こえた。
聞き間違えるはずもない、かつて愛した声。
俺は足を止め、ゆっくりと振り返った。
そこに、篠原玲奈が立っていた。
傘も差さず、雨に打たれながら。
謹慎中のはずだが、制服を着て、俺を待っていたのだろうか。
その姿は、あまりにも痛々しかった。
艶やかだった髪は乱れ、肌は青白く、目の下には深い隈がある。一週間で体重が激減したのか、制服がサイズ違いのようにぶかぶかに見えた。
「学校一の美少女」とも称された彼女の面影は、見る影もなかった。
「……何しに来たんだ」
俺の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
玲奈はビクリと体を震わせ、一歩、近づいてきた。
「あ……会いたくて。湊くんに、ちゃんと謝りたくて……」
彼女の声は掠れていた。
雨水が彼女の頬を伝い、涙と混ざり合って落ちていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい、湊くん。私、馬鹿だった。亮介くんに騙されて、あんな……あんな酷いことして……」
彼女はその場に膝をつき、コンクリートの地面に手をついた。
土下座だ。
通りがかった数人の生徒が、驚いて足を止め、スマホを向けようとする。俺は彼らを睨みつけて追い払った。見せ物にするつもりはない。これは、俺と彼女の最後の儀式だ。
「……騙された、か。君はまだ、自分が被害者だと思っているのか?」
俺の言葉に、玲奈は激しく首を振った。
「違う! 被害者は湊くんだよ! 私は……私は加害者。取り返しのつかないことをした大罪人……。でも、信じてほしいの。悪気はなかったの。本当に、生徒会のために、正義のためにやったことなの……!」
「正義」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で微かな怒りの残り火が弾けた。
「君の言う『正義』とは何だ? 恋人の言葉よりも、証拠の確認よりも、上辺だけの綺麗なストーリーを信じ込むことか? 自分が気持ちよくなるために、他人を断罪することか?」
「ち、違う……私はただ、真面目に……」
「そうだな。君は真面目だ。狂気的なまでに真面目で、潔癖だ」
俺は雨の中に踏み出し、彼女を見下ろした。
「だからこそ、君は亮介の嘘に飛びついた。『湊が横領した』という嘘よりも、『正義感ゆえに恋人を告発する悲劇の私』という物語の方に、君は酔っていたんだ。……違うか?」
玲奈は息を呑み、言葉を失った。
図星だったのだろう。
彼女は悪女ではない。計算高い悪人でもない。
ただ、自分の「善意」を疑わない、愚直な善人だった。そして、無知な善意ほど、たちが悪いものはない。悪意は理由があれば止まるが、暴走した善意は誰にも止められないからだ。
「うっ……ううっ……」
玲奈は顔を覆って泣き出した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ! 私、湊くんがいなくなって、やっと分かったの。いつも私を守ってくれてたのが誰だったのか。亮介くんと一緒にいて、毎日不安だった。彼に抱かれても、心はずっと寒くて……湊くんの温もりが恋しくて……」
彼女は泥水に濡れるのも構わず、俺の足に縋り付いてきた。
「お願い、湊くん。もう一度だけ、チャンスをちょうだい。私、何でもする。一生かけて償う。湊くんの奴隷になってもいい。だから……見捨てないで。一人にしないで……!」
学校では、彼女はすでに孤立無援だった。
「裏切り者」「男好き」「頭お花畑」
ネットでもリアルでも、彼女に向けられるのは冷笑と罵倒だけだ。彼女の拠り所だった「清廉潔白な優等生」というアイデンティティは崩壊した。
今、彼女が縋れるのは、かつて自分を愛してくれていた俺だけなのだ。
俺は彼女の手を見つめた。
かつては、この手を繋いで歩く未来を夢見ていた。
この手が俺に向けられる温かさを、世界の誰よりも信じていた。
だが今は、ただ重く、冷たく、不快な感触しかしない。
俺は彼女の手を掴み、ゆっくりと、しかし強い力で引き剥がした。
「あ……」
玲奈が絶望的な目で俺を見上げる。
「玲奈」
俺は久しぶりに、彼女の名前を呼んだ。
これが最後だという思いを込めて。
「君は『知らなかった』と言った。『騙されていた』と言った。……でもな、それは免罪符にはならないんだ」
俺は彼女の目を見て、静かに告げた。
「無知は罪だ。愛する人を信じ抜く覚悟もなく、確かめる努力もせず、安易な方に流された君の弱さが、僕たちを殺したんだよ」
「み、湊くん……」
「君が殺したのは、僕の社会的な立場だけじゃない。……君を愛していた『高遠湊』という人間そのものを、君自身の手で殺したんだ」
玲奈の瞳孔が開く。
俺の言葉の意味を理解し、その残酷さに打ちのめされている顔だ。
「死んだ人間は生き返らない。どれだけ謝っても、どれだけ泣いても、僕が君に向けた想いはもう二度と戻らない」
俺は立ち上がり、背を向けた。
「さようなら、篠原さん。……君が選んだ『正義』の結果を、一人で抱えて生きていってくれ」
「嫌だ! 待って! 湊くん、行かないで! いやああああああっ!!」
背後で、玲奈の絶叫が響いた。
それは、すべてを失った人間にしか出せない、魂の叫びだった。
雨音よりも激しく、雷鳴よりも悲痛なその声は、俺の鼓膜を震わせたが、足を止める理由にはならなかった。
俺は一度も振り返らず、校門を出た。
玲奈の泣き声が遠ざかっていく。
胸の奥にあった重石が、完全に消え去ったのを感じた。
虚しさも、怒りも、もうない。
あるのは、真っ白な更地のような心だけだ。
駅に向かう途中、ポケットのスマホが振動した。
取り出して画面を見る。
通知の差出人は、隣町の進学校の生徒会長だった。彼は、あのライブ配信を見て俺に連絡をくれた人物だ。
『高遠くん、転入手続きの件、理事長から正式にOKが出たよ。君のような優秀な人材が来てくれるなんて、僕たちも歓迎する。こっちは君の能力を正当に評価するし、セキュリティ部門のトップとして迎えたい』
俺は口元を緩めた。
新しい世界。新しい仲間。
そこには、俺のスキルを必要とし、俺という人間を見てくれる人たちがいる。
過去の泥沼は、もう後ろに過ぎ去った景色だ。
ふと空を見上げると、厚い雲が割れ、夕日が差し込んでいた。
雨上がりの濡れたアスファルトが、オレンジ色に輝いている。
空気は澄んでいて、深く吸い込むと、肺の中まで洗われるようだ。
「……さて、行くか」
俺はスマホをポケットにしまい、歩幅を広げた。
その一歩一歩が、新しい自分を作っていく。
もう、誰かのために自分を殺したりはしない。
もう、見せかけの言葉に惑わされたりはしない。
俺は俺の足で、真実の世界を歩いていく。
背後にある高校の校舎が、夕日の中に沈んでいく墓標のように見えた。
そこには、愚かな選択をした者たちの後悔と絶望が封じ込められている。
彼らはそこで、終わらない因果応報の時を過ごすことになるだろう。
俺は前を向いた。
眩しい光の先には、無限の可能性が広がっている。
最高の気分だ。
「本当に……スカッとしたな」
独り言は風に溶け、俺は雑踏の中へと力強く歩き出した。
冤罪からの逆転劇。
その幕引きは、これ以上ないハッピーエンドだった。
少なくとも、俺にとっては。




