第五話 反転する世界
体育館の扉が開かれた瞬間、熱気と湿気が一気に押し寄せてきた。
全校生徒、約八百名。彼らの視線が、ステージ袖に控える俺、高遠湊一人に集中する。その視線に含まれているのは、軽蔑、嘲笑、そして「これから始まる生贄の儀式」への野次馬根性だ。
ざわざわとした私語が、蜂の羽音のように耳障りに響く。
「あいつだよ、横領したの」
「よく平気な顔して来れるよな」
「西条会長が許しても、俺らは許さねーよな」
俺は無表情を貫き、パイプ椅子の冷たい感触を背中で感じながら出番を待った。
手元のノートパソコンはすでに起動している。HDMIケーブルの先は、ステージ上の巨大なスクリーンへと繋がっているプロジェクターに接続済みだ。
今はまだ、スクリーンには『臨時生徒総会』という無機質な文字だけが映し出されている。
「――静粛に! これより、臨時生徒総会を始めます」
司会の生徒の声が響き、ざわめきが少しだけ収まる。
そして、万雷の拍手と共に、西条亮介がステージ中央のマイクへと歩み出た。
スポットライトが彼を照らす。彼は少し憂いを帯びた表情を作り、ゆっくりと会場を見渡した。完璧な演技だ。
「皆さん、今日はお集まりいただきありがとうございます。生徒会長の西条です」
亮介の声は、よく通るバリトンボイスで、聴衆を惹きつける響きを持っていた。
「本来なら、このような報告をするのは断腸の思いです。我が生徒会の副会長であり、僕の友人でもあった高遠湊君が、生徒会費の横領という過ちを犯してしまいました」
会場から「最低」「ありえない」という声が上がる。亮介は悲しげに目を伏せ、ため息をついた。
「彼は優秀でした。だからこそ、魔が差してしまったのかもしれません。僕は彼を信じていました。何度も話し合い、彼に更生のチャンスを与えたいと思いました。……しかし、彼は事実を認めようとしませんでした。だからこそ、今日、この場で彼自身から真実を語ってもらい、皆さんに謝罪をすることで、彼に新しい道を歩ませてあげたい。そう思っています」
なんて慈悲深いリーダーだろうか。
俺がもし何も知らなければ、彼に拍手を送っていたかもしれない。
亮介はちらりと袖にいる俺を見た。その瞳の奥で、「どうだ、完璧だろ?」と嘲笑っているのが見えた。
「そして、この決断をするにあたり、誰よりも苦しんだ人がいます。書記の篠原玲奈さんです。彼女は高遠君の恋人として、一番近くで彼を支えていました。……玲奈ちゃん、お願いします」
亮介に促され、玲奈がおずおずとステージに上がる。
彼女の姿が見えた瞬間、会場の空気が変わった。同情の色が強くなる。少しやつれた顔、今にも泣き出しそうな大きな瞳。それは、悲劇のヒロインそのものだった。
玲奈は震える手でマイクを握りしめた。
「……篠原玲奈です」
彼女の声は震えていたが、そこには妙な芯の強さがあった。
それは「自分は正しいことをしている」という確信から来る強さだ。
「私は……湊くんのことを、誰よりも信じていました。真面目で、優しくて、いつも生徒会のことを一番に考えてくれている彼を、尊敬していました。だから、不正の証拠を見た時、信じられませんでした。信じたくありませんでした」
玲奈の目から、涙がこぼれ落ちる。
会場の女子生徒からすすり泣く声が聞こえる。
「でも、見逃すことはできませんでした。愛しているからこそ、彼に罪を償ってほしかった。悪いことをしたまま生きてほしくなかった。だから私は……心を鬼にして、亮介くんに相談しました」
彼女は涙を拭い、真っ直ぐに俺の方を見た。
その瞳には、歪んだ慈愛が満ちていた。
「湊くん。お願いだから、本当のことを言って。嘘をつくのはもうやめて。ここで謝って、罪を認めてくれたら……私は、あなたを許します。恋人には戻れないかもしれないけれど、あなたが更生するのを、ずっと見守っています」
会場から、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「玲奈ちゃん、偉い!」「強い子だ」「高遠、さっさと謝れ!」
怒号にも似た罵声が俺に向けられる。
俺は静かに立ち上がった。
足元のPCを持ち、ケーブルを握る。
これが、彼女の「正義」か。
愛する男を陥れた詐欺師に相談し、その詐欺師と共に被害者を断罪することが、彼女にとっての「救済」なのか。
哀れだ。あまりにも哀れで、そして滑稽だ。
「では、高遠君。どうぞ」
亮介が勝ち誇った顔で俺に手招きをする。
俺はゆっくりとステージへの階段を登った。
一歩進むごとに、罵声が大きくなる。空き缶のようなゴミが投げ込まれる。
だが、俺の心拍数は驚くほど安定していた。
マイクの前に立つ。
亮介と玲奈は、俺の両脇に下がり、まるで罪人を見守る看守のように立っている。
俺は会場を見渡した。
八百人の敵意。そして、ステージ脇で腕を組み、早く終わらせろと合図を送る堂島教諭。
俺は一度だけ深呼吸をして、マイクに向かった。
「……ご紹介にあずかりました、副会長の高遠湊です」
俺の声は、感情を一切排した事務的なトーンだった。それが逆に、会場の熱狂に冷水を浴びせるような異質さを放つ。
「本日は、このような場を設けていただき感謝します。……西条会長、そして篠原さん。あなた方の『温かい言葉』、身に沁みました」
俺はPCを開き、エンターキーに指をかけた。
「謝罪を求められましたので、謝罪します。……僕は、あまりにも無知でした。人を信じすぎることが、これほどまでに致命的な愚行であることを理解していませんでした。その点について、深くお詫び申し上げます」
会場がざわめく。
「なんだあいつ」「反省してんのか?」
亮介が眉をひそめ、小声で「余計なことは言うな」と囁く。
俺はそれを無視し、言葉を続けた。
「口頭での説明は苦手ですので、資料を用意しました。……これが、僕からの『真実の決算報告』です」
俺は指を弾いた。
スクリーンが切り替わる。
そこに映し出されたのは、『謝罪文』ではなかった。
真っ黒な背景に、白字で大きく書かれたタイトル。
『事案番号:生徒会費不正流用に関する調査報告書』
「おい、なんだそれは!」
堂島教諭が叫ぶ声が聞こえる。亮介もぎょっとしてスクリーンを振り返る。
俺は構わず、次のスライドへ進めた。
「まず、こちらをご覧ください。これが、僕が横領した証拠とされている『送金ログ』です。5月10日、16時45分。確かに僕のIDで操作されています」
俺はレーザーポインターで日時を指し示した。
「しかし、僕が構築した会計システムには、表向きのログとは別に、ハードウェア固有の識別番号……MACアドレスを記録する『シャドウログ』が存在します」
スライドが切り替わり、二つの文字列が並んで表示される。
「上が、僕が普段使用しているPCのアドレス。下が、不正送金が行われた端末のアドレスです。……ご覧の通り、全く一致しません」
会場が静まり返る。
専門用語の意味は分からなくとも、突きつけられた「不一致」の事実は誰の目にも明らかだった。
「では、この下のMACアドレスは一体誰のものか? ……校内Wi-Fiの接続履歴と照合した結果、一つの端末が特定されました」
次のスライド。
そこには、一台のタブレット端末の写真と、その所有者名がデカデカと表示されていた。
『端末名:Ryosuke_iPad_Pro』
『所有者:西条 亮介』
「なっ……!?」
亮介が息を呑む音がマイクを通して響いた。
会場がどよめく。
「え? 会長のiPad?」「どういうこと?」
「待て! これは捏造だ! 俺のiPadが勝手に使われたんだ!」
亮介が叫んで俺に掴みかかろうとする。しかし、俺は冷静に次のキーを叩いた。
「そうおっしゃると思いました。では、お金の流れを見てみましょう」
スライドには、カレンダーのような表が表示された。
『5月10日 出金:5万円』
その横に、写真が表示される。
それは、亮介がSNSに投稿していた、高級焼肉店でのディナーの写真だ。投稿日時は、出金の2時間後。
『5月15日 出金:3万円』
その横には、新作ゲームと課金画面のスクリーンショット。これも亮介のアカウントから発掘したものだ。
次々と表示される、出金履歴と亮介の豪遊記録の完璧なリンク。
「横領が行われた日の夜、西条会長は必ず高額な出費をしています。……偶然にしては、出来すぎだと思いませんか?」
「やめろ! 消せ! これはプライベートな写真だ!」
亮介の顔は真っ青になり、脂汗が吹き出している。彼は必死にスクリーンを隠そうと手を広げるが、巨大な画面を隠せるはずもない。
玲奈は呆然と口を開け、亮介とスクリーンを交互に見ている。
まだだ。まだ終わらない。
「次に、この不正を見過ごし、十分な調査もせずに僕を犯人と決めつけた堂島先生について」
俺は視線をステージ下の堂島に向けた。彼はギクリとして後ずさる。
「堂島先生は『徹底的に調査した』とおっしゃいましたが、先生のPCの閲覧履歴を見る限り、調査が行われるべき時間帯に先生が見ていたのは……『中古ゴルフクラブの通販サイト』と『退職金の運用ブログ』でした」
会場から失笑が漏れる。そして、それがすぐに軽蔑のざわめきに変わる。
「ふ、ふざけるな! 生徒の分際で教師のPCをハッキングするとは何事だ! 今すぐ中止しろ! 電源を切れ!」
堂島が顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、ステージに上がろうとする。しかし、他の教師たちがそれを止める。校長が厳しい顔で堂島を睨みつけているのが見えた。
「そして……これが決定的な証拠です」
俺は玲奈の方を向いた。
彼女と目が合う。彼女の瞳には、不安と恐怖が渦巻いていた。
「篠原さん。君は先ほど言いましたね。『湊くんを信じていた』『亮介くんに相談した』と。……では、君が信じたその男が、裏で何を言っていたか。そして、君自身が何と言っていたか。……みんなに聞いてもらいましょう」
俺は音声ファイルの再生ボタンを押した。
大音量のスピーカーから、ノイズ混じりの、しかし明瞭な声が響き渡る。
『あーあ、真面目系クズを追い出すのちょろすぎw 生徒会費で買う焼肉は美味いね~』
亮介の声だ。
会場の空気が凍りつく。亮介が「ひっ」と短い悲鳴を上げる。
『横領の罪かぶせたら一発で退場してくれたw 会長の俺が言うんだから誰も疑わねーよな』
誰もが知っている、亮介の軽薄な笑い声。
そして、次に流れたのは、さらに衝撃的な会話だった。
『……でも、やっぱり悪いよ。こんなことしてたら、私……』
『何言ってるんだよ。悪いのは全部、湊なんだ。あいつが君を裏切ったから、君は傷ついた。俺はただ、その傷を癒してあげたいだけなんだ』
玲奈の声だ。
彼女は顔面蒼白になり、膝から崩れ落ちそうになる。
『あの金でさ、来週の連休、温泉行かない? 高級旅館予約しちゃおうぜ』
『え……?』
『大丈夫だって。帳簿は全部、湊がやったことになってるんだから。俺たちが何に使おうが、全部あいつの借金になるだけさ』
そして、決定的な一言が流れる。
『ふふ、そっか。……湊くんには悪いけど、これも彼への罰だよね。私を裏切った罰』
『そうだよ。俺たちは被害者なんだから、楽しむ権利がある。……愛してるよ、玲奈』
『私も……愛してる、亮介くん』
音声が途切れると同時に、チュッという生々しい音が響き、再生が終わった。
静寂。
完全なる静寂が体育館を支配した。
八百人の生徒が、言葉を失っていた。
「……嘘……嘘よ……」
静寂を破ったのは、玲奈の乾いた声だった。
彼女は震えながら立ち上がり、亮介に詰め寄った。
「亮介くん……『ちょろすぎ』って……どういうこと? 私のこと、愛してるって言ったじゃない! 正義のためにやったって言ったじゃない!」
「う、うるさい! お前が勝手に信じたんだろ!?」
亮介が叫んだ。その顔には、もう「慈悲深いリーダー」の仮面は微塵も残っていなかった。あるのは、追い詰められた小悪党の醜悪な素顔だけだ。
「俺はただ、金が欲しかっただけだ! お前みたいな堅物、金づるにならなきゃ相手にするわけねーだろ! 面倒くせえんだよ、その正義感ごっこが!」
亮介の罵声がマイクを通して全校生徒に届く。
玲奈は殴られたような顔をして、よろめいた。
彼女が信じていた世界が、音を立てて崩れ去っていく。
「正義の味方」だと思っていた男は、ただの詐欺師だった。
「犯罪者」だと断罪した元彼は、無実の被害者だった。
そして自分は、その詐欺師に加担し、無実の人間を地獄へ突き落とした共犯者だった。
「いやあああああああっ!」
玲奈が頭を抱えて絶叫する。
その悲鳴は、同情を誘うものではなく、あまりの愚かさに対する自業自得の響きを持っていた。
「まだです。最後に、これを」
俺は最後のトドメとして、一枚の画像をスクリーンに映した。
それは、亮介の裏アカウント『King_R』のタイムラインと、そこに投稿された「戦利品(=玲奈)」を嘲笑う数々のツイート。
そして、YourTubeのライブ配信画面に流れる、無数のコメント。
『うわ、この会長クズすぎ』
『女の方も頭お花畑じゃんw』
『副会長かわいそうすぎて泣ける』
『これ犯罪だろ、警察呼べ』
『学校名特定した』
「現在、この総会の様子はネットで生配信されています。同接数は……おや、五万人を超えましたね」
俺が冷たく告げると、亮介は腰を抜かしてへたり込んだ。
「ご、五万……? 嘘だ……やめてくれ……俺の人生が……」
「君が望んだんでしょう? 有名になりたいと。願いが叶ってよかったですね、西条会長」
俺はマイクを外し、へたり込む亮介と、泣き崩れる玲奈を見下ろした。
「これが、君たちが選んだ嘘の代償です。……僕が用意した、真実の地獄の居心地はどうですか?」
会場から、最初はパラパラと、やがて怒号のようなブーイングが巻き起こった。
それは俺に向けられたものではない。
ステージ上の二人の裏切り者と、それを隠蔽しようとした教師に向けられた、正真正銘の怒りの声だった。
教師たちが慌ててステージに上がり、暴れる亮介を取り押さえる。
堂島教諭は校長に胸ぐらを掴まれている。
玲奈は床に突っ伏して泣きじゃくっているが、誰も彼女に駆け寄ろうとはしない。
俺は静かにPCを閉じた。
ケーブルを抜き、鞄に入れる。
俺の役目は終わった。
胸の奥にあった冷たい氷の塊が、少しずつ溶けていくのを感じた。
しかし、そこに喜びはなかった。あるのは、ただ終わったという虚脱感と、乾いた満足感だけだ。
俺は背を向け、ステージを降りようとした。
「み、湊くん……!」
足首を掴まれた。
玲奈だ。
彼女は化粧が涙でドロドロに溶け、幽鬼のような顔で俺に縋り付いていた。
「ごめんなさい……私、知らなかったの……騙されてたの……! 信じて、私、湊くんのこと……」
「離してくれ」
俺は彼女の手を振り払った。冷たく、強く。
「騙された? だから何だ。君は確認もしなかった。僕の言葉よりも、彼の上辺だけの言葉を選んだ。それが君の選択だ」
「ち、違うの……私は正義のために……」
「君の正義は、僕を殺したんだよ。篠原さん」
俺は彼女を「篠原さん」と呼んだ。
それは、かつて「玲奈」と呼んだ恋人が、もうこの世に存在しないことを意味していた。
「二度と、僕に関わらないでくれ」
突き放された玲奈は、絶望に顔を歪め、その場に崩れ落ちた。
俺は彼女を一顧だにせず、ステージを降りた。
生徒たちが道を開ける。
さっきまで俺を罵倒していた彼らが、今は畏怖と謝罪の混じった複雑な表情で俺を見ている。
「ごめん、高遠」「俺たちも騙されてて……」「すげえよ、お前」
そんな声が聞こえるが、今の俺にはどうでもよかった。
彼らもまた、風向き次第で手のひらを返す、有象無象に過ぎない。
体育館の重い扉を開ける。
外は雨が上がっていた。
雲の切れ間から、夕日が差し込んでいる。
眩しい光に目を細めながら、俺は大きく息を吸い込んだ。
終わった。
本当に、終わったんだ。
後ろで体育館の中が大混乱に陥っている音が聞こえるが、それは遠い世界の出来事のように感じられた。
俺は一歩ずつ、明日へと続く道を歩き出した。
その足取りは、昨日までとは比べ物にならないほど軽かった。




