第三話 能無しどもの痕跡
放課後の図書室は、学校の中で唯一、俺が呼吸のできる場所だった。
重苦しい静寂と、古紙の匂い。ここには、俺を指差して嘲笑う生徒も、汚い言葉を投げつけてくるクラスメイトもいない。ただ、膨大な知識の集積と、数台の検索用パソコンがあるだけだ。
俺は一番奥の、死角になる席に陣取り、キーボードを叩いていた。
「……やっぱりな。予想通りすぎて笑えない」
画面に映し出されているのは、生徒会の共有サーバーへのアクセスログだ。
本来、一般生徒がアクセスできる領域ではない。だが、このサーバーの構築と管理を行っていたのは俺だ。表向きの管理者権限は剥奪されたが、俺がメンテナンス用に仕込んでおいたバックドアは、誰にも気づかれずに生きていた。
西条亮介も、堂島教諭も、ネットワークに関しては素人以下だ。彼らは「高遠を追い出したから、これで安全だ」と信じ込んでいる。その慢心が、彼らの首を絞める絞首台のロープとなる。
俺が最初に着手したのは、亮介の個人アカウントへの侵入だった。
侵入といっても、高度なハッキング技術を使ったわけではない。彼のIDを入力し、パスワードの欄に、彼の誕生日と名前を組み合わせた文字列『ryosuke0521』を打ち込んだだけだ。
画面が切り替わり、『ようこそ、西条亮介さん』という文字が表示される。
「セキュリティ意識の欠片もない。こんな男に、俺は負けたのか」
乾いた笑いが漏れた。
中身を漁る。メールボックス、クラウドストレージ、そしてブラウザの履歴。
そこには、彼が「生徒会長」という仮面の下で何をしていたかが、克明に記録されていた。
ブラウザの履歴は酷いものだった。生徒会の活動時間中に『新作ゲーム攻略』『キャバクラ おすすめ』『バレないカンニング方法』といった検索ワードが並んでいる。
そして、クラウドストレージの『写真』フォルダ。
そこには、俺が横領したとされている時期に、亮介が購入したブランド物のスニーカーや、高級焼肉店での食事風景が大量に保存されていた。
日付と時刻を確認する。
横領による出金が行われた日の夜、彼は必ずと言っていいほど繁華街で豪遊している。
金額も一致する。三万円引き出された日には、三万円相当の領収書の写真(親に見つかった時の言い訳用だろうか?)が残っていた。
「杜撰だ。あまりにも杜撰すぎる」
俺は淡々と、それらのデータを証拠フォルダにコピーしていく。
これだけでは状況証拠に過ぎないと言われるかもしれない。だが、俺には決定打がある。
『シャドウログ』だ。
俺が構築した会計システムは、表の操作履歴とは別に、キーストロークそのものを記録する裏のログを取っている。
ログを開く。
『5月10日 16:45』
表向きの記録では、俺のIDでログインされ、送金操作が行われたことになっている。
だが、シャドウログには、その操作が行われた端末のMACアドレス(固有識別番号)が記録されていた。
そのMACアドレスは、俺のPCのものではない。
今まさに、俺がハッキングしている西条亮介の私物タブレットのアドレスと完全に一致していた。
「チェックメイトだ、西条」
これで、彼が俺のIDを盗用し(おそらく俺が席を外した隙に覗き見たか、推測したのだろう)、自分の端末から操作を行ったことが証明できる。
俺は眼鏡の位置を直し、冷めた紅茶を一口飲んだ。
怒りはもうない。あるのは、害虫を駆除するような事務的な使命感だけだ。
次に、堂島教諭の調査を行う。
教員用サーバーへのアクセスは少々骨が折れたが、堂島のパスワードが『password』という、呆れるほど単純なものだったおかげで、あっさりと突破できた。
彼が「徹底的に調査した」と豪語していた、あの日。
彼のPCの操作ログを確認する。
調査に必要な会計ファイルが開かれた形跡は、一切なかった。
その代わり、彼がその時間帯に熱心に閲覧していたのは、『中古ゴルフクラブ通販サイト』と『退職金の相場』というページだった。
「……確認なんか、一秒もしてないじゃないか」
呆れを通り越して、虚無感を覚える。
こんな大人の「事なかれ主義」によって、俺の人生は狂わされたのだ。
俺は堂島の閲覧履歴と、彼が校長に提出した「調査報告書」(内容はもちろんデタラメだ)のファイルを並べて保存した。
職務怠慢、虚偽報告。これで彼も逃げられない。
作業が一通り終わった頃、ポケットの中でスマートフォンが振動した。
MINEの通知音。
画面を見ると、送信者は『ターゲットB』――篠原玲奈だった。
一瞬、指が止まる。
まだ、胸の奥が痛む。あれだけ酷いことをされても、一年間積み重ねた想いは完全には消え去ってくれないらしい。人間の感情とは、なんと厄介なバグなのだろう。
俺は深呼吸をして、メッセージを開いた。
『湊くん。突然ごめんね』
長文のメッセージだった。
『あれからずっと考えてたの。どうして湊くんがあんなことをしたのか。きっと、生徒会の仕事が大変すぎて、追い詰められちゃったんだよね? 私、彼女なのに気づいてあげられなくてごめんなさい。
でもね、やっぱり罪は罪だと思うの。亮介くんも言ってた。「湊には更生してほしいから、心を鬼にして告発したんだ」って。亮介くん、湊くんのことを思って泣いてたよ。
私、亮介くんのそういう強くて優しいところに救われました。
湊くん、お願いだから自首して。そして罪を償って。そうしたら、また昔みたいに……ううん、友達としてなら、話せる日が来るかもしれないから。
私はもう、前を向いて歩き出します。亮介くんと一緒に、正しい生徒会を作っていきます。だから湊くんも、自分に嘘をつくのはやめて。
さようなら。元気でね』
読み終えた瞬間、俺は吐き気を催した。
美しい言葉で飾られた、自己正当化の塊。
彼女の中では、物語は完全に完結しているのだ。
「罪を犯した可哀想な元彼」と、「正義のために涙を飲んで告発した私」、そして「傷ついた私を支えてくれるヒーローの亮介」。
その完璧な脚本の中に、俺の潔白という事実は存在しない。
彼女は俺を心配しているふりをして、実際には「正しいことをした自分」に酔っているだけだ。そして、亮介への乗り換えを「前を向く」という言葉で美化している。
「……友達としてなら、か」
ふざけるな。
誰が、自分を地獄に突き落とした女と友達になりたいと願うものか。
俺は返信を打とうとして、やめた。
今、何を言っても彼女には届かない。彼女は亮介というフィルターを通してしか世界を見ていない。
言葉ではなく、事実で殴りつけるしかないのだ。
俺は画面のスクリーンショットを撮り、保存した。
このメッセージもまた、彼女の愚かさを証明する展示品の一つになる。
作業を再開しようとした時、俺はふと、あることに気づいた。
亮介の裏アカウント、通称『裏垢』の存在だ。
以前、彼が「最近のSNSは複数アカウント持てるから便利だよな」と漏らしていたのを覚えている。承認欲求の塊である彼が、この状況を誰にも自慢せずにいられるはずがない。
俺はSNS検索ツールを使い、亮介が使いそうなIDやハンドルネームを総当たりで検索した。
そして、Twotterの中に、一つのアカウントを見つけた。
ハンドルネームは『King_R』。アイコンは首から下の自撮りで、亮介が愛用しているシルバーのネックレスが写り込んでいる。
ビンゴだ。
最新の投稿を見る。
『あーあ、真面目系クズを追い出すのちょろすぎw 生徒会費で買う焼肉は美味いね~』
『横領の罪かぶせたら一発で退場してくれたw 会長の俺が言うんだから誰も疑わねーよな』
『あいつの彼女、マジで堅物だと思ってたけど、俺の涙ながらの演技で見事に落ちたわ。正義感強い女ほど、騙すの簡単すぎて笑える』
指先が震えた。
怒りではない。武者震いだ。
ここには、俺が欲しかった「犯行の自白」が、これ以上ないほど明確な言葉で綴られている。
しかも、投稿時間はつい一時間前。
場所は……駅前のカラオケボックスか。
『今から戦利品(元カノちゃん)とカラオケw 慰めてあげるフリしてボディタッチしたら反応良すぎ。今日は最後までいけるかもな~』
俺は唇を噛み締めた。
玲奈。君は今、この男の隣で、どんな顔をして笑っているんだ?
自分が「戦利品」と呼ばれ、「騙すの簡単」と嘲笑われているとも知らずに。
「亮介くんは強くて優しい」?
笑わせるな。これが、君が選んだ男の本性だ。
俺はこの『King_R』の全ツイートを魚拓サービスで保存し、さらにHTMLソースごとローカルにダウンロードした。
彼が慌てて削除しても、もう手遅れだ。
デジタルタトゥーは、一生消えない。
「……あと一つだ」
必要な証拠はほぼ揃った。
ログ、写真、SNSの書き込み。
だが、これらを生徒総会という公の場で叩きつけ、彼らを再起不能にするには、もっと直感的で、誰の耳にも分かりやすいインパクトが必要だ。
音声だ。
彼らが俺を嘲笑い、罪をなすりつける計画を話している、生の声が必要だ。
俺は鞄から、小型のボイスレコーダーを取り出した。
これは普段、生徒会の議事録作成のために使っているものだ。高性能で、長時間録音が可能。そして何より、スマートフォンから遠隔で操作できる機能がついている。
俺はこれを、生徒会室に仕掛ける必要がある。
彼らは油断している。俺を追い出した今、生徒会室は彼らにとって誰にも邪魔されない密室であり、愛の巣だ。必ず、本音が出る。
時刻は午後六時を回っていた。
生徒の気配はほとんどない。
俺は図書室を出て、静まり返った廊下を歩き出した。
生徒会室のある特別棟へ向かう。
足音を忍ばせ、角を曲がる。
生徒会室のドアの前に立つ。中からは、話し声は聞こえない。鍵は……開いている。
俺はそっとドアを開け、中に入った。
懐かしい、そして今は忌々しい部屋。
俺は迷わず、ホワイトボードの裏側、マグネット入れの死角にレコーダーを設置した。ここなら見つからないし、部屋全体の音を拾える。
設置を終え、部屋を出ようとしたその時だった。
廊下の向こうから、男女の話し声と、足音が近づいてくるのが聞こえた。
「――だから言っただろ? 堂島なんて適当におだてときゃいいんだよ」
「もう、亮介くんてば悪い顔してる」
亮介と、玲奈だ。
戻ってきたのか。
俺は瞬時に判断し、掃除用具ロッカーの中に身を隠した。
狭く、埃っぽい空間。スリットから僅かに外が見える。
ドアが開き、二人が入ってきた。
電気もつけず、薄暗い部屋の中で、二人はすぐに抱き合った。
「ん……亮介くん、ここ学校だよ……?」
「いいじゃん。誰も来ないよ。湊もいなくなったし、ここは俺たちの城だ」
亮介の声が、粘りつくように響く。
「湊……か。あいつ、MINEしたらなんて返ってくるかな。既読つかないんだけど」
「放っておけよ、あんな負け犬。それより玲奈ちゃん、さっきの話の続き」
「え……?」
「あの金でさ、来週の連休、温泉行かない? 高級旅館予約しちゃおうぜ」
ロッカーの中で、俺は息を止めた。
聞いてしまった。
玲奈の、信じられない一言を。
「……うん、いいよ。でも、あまり派手に使うとバレないかな?」
「大丈夫だって。帳簿は全部、湊がやったことになってるんだから。俺たちが何に使おうが、全部あいつの借金になるだけさ」
「ふふ、そっか。……湊くんには悪いけど、これも彼への罰だよね。私を裏切った罰」
耳を疑った。
玲奈は、知っているのか?
いや、違う。彼女はまだ亮介の嘘を信じている。だが、「湊が盗んだ金を、自分たちが使うこと」に対して、彼女は奇妙な理屈で納得しているのだ。
「湊は犯罪者だから、その金は没収されて当然。そして被害者である私たちがそれを使って楽しむことは、正当な権利であり、彼への罰である」と。
なんて歪んだ正義だ。
真面目な人間が一度道を踏み外すと、ここまで醜悪な自己正当化を行うものなのか。
「そうだよ。俺たちは被害者なんだから、楽しむ権利がある。……愛してるよ、玲奈」
「私も……愛してる、亮介くん」
衣擦れの音が聞こえる。生々しい吐息。
俺はポケットの中で、スマートフォンの録音アプリが正常に稼働していることを確認した。
ロッカー越しに、決定的な証拠が記録されていく。
彼らの情事の音も、最低な会話も、すべて。
俺の心は、氷のように冷え切っていた。
もう、悲しみすら湧かない。
ただ、目の前の二人が、人間ではなく「処理すべき汚物」に見えた。
数分、あるいは数十分だったかもしれない。
永遠のように長い時間が過ぎ、二人はようやく服を整えて出て行った。
「じゃあね」「また明日」という軽い挨拶を残して。
静寂が戻った部屋で、俺はロッカーから出た。
体は強張っていたが、頭は冴え渡っていた。
レコーダーを回収する必要はない。あれはクラウドにリアルタイムでデータを送信し続けている。
俺はスマートフォンを取り出し、録音停止ボタンを押した。
ファイル名『End_of_Lies』。
これで、すべてが揃った。
・亮介の端末からのアクセスログ(MACアドレス)
・亮介の浪費の証拠写真と、横領日時の合致
・堂島教諭の職務怠慢のログ
・亮介の裏垢での自白と嘲笑
・玲奈の自己正当化メッセージ
・そして、二人の密会音声
これ以上ない、完璧な手札。
ロイヤルストレートフラッシュだ。
俺は誰もいない生徒会室の真ん中で、会長席を見つめた。
そこはかつて、亮介がふんぞり返り、俺が横で書類仕事をしていた場所。
来週の生徒総会。
あそこが、お前たちの処刑台になる。
「……招待状を送ってやるよ」
俺は呟き、部屋を出た。
外は完全に夜になっていた。
夜風が心地よい。
これほど空気が美味いと感じたのは、いつぶりだろうか。
俺はゆっくりと歩き出した。
絶望の底から這い上がった復讐者は、もう下を向かない。
ただ、断罪の日を心待ちにして、静かに牙を研ぐだけだ。
帰りの電車で、俺は総会で使用するプレゼンテーション資料の構成を練り始めた。
タイトルはどうしようか。
『生徒会会計報告』……いや、それでは面白くない。
もっと、彼らに相応しい、最高のエンターテイメントにしてやらなければ。
画面上でカーソルが明滅する。
俺は静かに打ち込んだ。
『真実の決算報告 ~あるいは、愚者たちへの鎮魂歌~』
その夜、俺は久しぶりに深く眠ることができた。
夢は見なかった。
ただ、暗闇の中で、赤いライトが点滅するボイスレコーダーの残像だけが、いつまでも焼き付いていた。




