第二話 善意という名の地獄
翌朝、俺の日常は完全に変貌していた。
登校中の電車内、ポケットの中のスマートフォンが絶え間なく振動を続けている。最初は着信かと思ったが、違う。MINEとTwotterの通知だ。
画面を覗き込むと、そこには目を覆いたくなるような罵詈雑言が並んでいた。
『生徒会費横領とかマジ? 引くわ』
『副会長、真面目ぶってて裏では金使い込みとかw』
『死ね』
『犯罪者が学校来るなよ』
匿名のアカウントたちが、安全圏から石を投げつけてくる。
昨日の今日で、情報はすでに学校中に拡散されていた。おそらく西条亮介が、自分の息のかかった取り巻きたちを使って噂を流したのだろう。「副会長が横領を認めたらしい」「会長が泣いて止めたのに逆ギレしたらしい」といった、尾ひれがついた嘘が真実として定着しつつあった。
校門をくぐると、突き刺さるような視線を感じた。
ヒソヒソという話し声。俺と目が合うと露骨に顔を背ける女子生徒。ニヤニヤと嘲笑を浮かべる男子生徒。
かつて「縁の下の力持ち」として、それなりに敬意を払われていた高遠湊という存在は、一夜にして「卑劣な犯罪者」へと堕ちていた。
教室に入ると、空気が凍りついたのが分かった。
俺は無言で自分の席に向かう。そして、足を止めた。
俺の机と椅子が、無残な姿になっていたからだ。
「……なるほどな」
机の天板には、油性マジックで『泥棒』『金返せ』『詐欺師』といった言葉がびっしりと書き殴られていた。椅子には画鋲が数個、上向きに仕掛けられている。
あまりにも古典的で、幼稚な陰湿さ。
だが、それを笑う者はいても、止めようとする者はクラスに一人もいなかった。
「おい高遠、掃除しとけよ。汚いから」
クラスのカースト上位にいる男子が、遠巻きに声をかけてきた。それに同調するように、周囲からクスクスという笑い声が漏れる。
担任が入ってくるまで、あと十分。
俺は感情を顔に出さないよう努めながら、鞄からタオルを取り出した。昨日、こうなることを予測して持ってきていたものだ。
黙々と机を拭く。油性マジックは簡単には落ちない。除光液か何かが必要だろうが、今はただ、この悪意を物理的に擦り落とすしかなかった。
「湊くん……」
不意に、震える声が俺の頭上から降ってきた。
手を止め、顔を上げる。
そこに立っていたのは、篠原玲奈だった。
彼女の目は赤く腫れ、泣き明かした痕跡がありありと残っている。少し乱れた髪、血色の悪い唇。その姿は、周囲から見れば「裏切られた悲劇のヒロイン」そのものだっただろう。
「……何かな、篠原」
俺はあえて苗字で呼んだ。もう、名前で呼ぶ資格などないと言わんばかりに。
玲奈の肩がビクリと跳ねる。彼女は悲しげに眉を寄せ、持っていた小さな紙袋を俺の机の上に置いた。
「これ……返すね」
紙袋の隙間から見えたのは、俺が去年の誕生日に彼女に贈ったペアウォッチだった。
アルバイトをして、二人でお揃いのものを買った。安物だったが、彼女は「宝物にする」と言って、毎日身につけてくれていたはずのものだ。
「もう、つけていられないから。……汚れたお金で買ったものかもしれないって思ったら、腕が痒くなってきて」
玲奈の言葉は、鋭利な刃物のように俺の心臓を抉った。
汚れた金?
あれは、俺が夏休みに炎天下の工事現場で交通誘導をして、汗水垂らして稼いだ金だ。それを、横領した金だと?
彼女の中で、俺との思い出はすべて「嘘」と「犯罪」に塗り替えられてしまっているのだ。
「……そうか。分かった」
俺は短く答えた。弁解はしなかった。今の彼女に何を言っても、「嘘つきの戯言」として処理されるだけだ。
俺の冷淡な反応に、玲奈は傷ついたような顔をした。
なぜ、君が傷つく?
傷つけられているのは俺の方だ。だが、彼女の瞳には「誠実さを裏切られた被害者」としての自意識しか映っていない。彼女は本気で、自分が正しいことをしていると信じているのだ。
「どうして……どうして、謝ってくれないの?」
玲奈の声が、涙で湿り気を帯びる。
「私がどれだけ苦しんだか、分かってる? 好きだった人に裏切られて、告発しなきゃいけなかった私の気持ち、考えたことある!? なのに、どうしてそんなに平気な顔をしてられるの!?」
教室中の視線が俺たちに集まる。
玲奈の叫びは、周囲の同情を誘うには十分すぎた。
「うわ、最低だな高遠」「玲奈ちゃん可哀想」「謝れよクズ」
周囲の囁き声が大きくなる。
俺は静かに息を吸った。
「謝ることはない。俺はやっていないからだ。……だが、君を傷つけたことに関しては、すまなかったと思う」
「嘘つき!!」
玲奈が叫んだ瞬間、教室のドアが勢いよく開いた。
「おい、何をしてるんだ!」
現れたのは、西条亮介だった。
彼は大股で歩み寄ると、俺と玲奈の間に割って入った。そして、俺を鋭い視線で睨みつける。
「高遠、お前まだ玲奈ちゃんを苦しめるつもりか? 昨日あれだけ泣かせたのに、まだ足りないのかよ!」
亮介の怒鳴り声に、クラスの女子たちが「キャー、会長かっこいい」「守ってあげてる」と色めき立つ。
完璧なタイミングでの登場。まるで舞台役者だ。いや、最初から廊下で待機していて、一番盛り上がる瞬間を計っていたに違いない。
「俺はただ、机を拭いていただけだ。彼女が勝手に来たんだ」
「言い訳をするな! 見ろ、玲奈ちゃんがこんなに怯えてるじゃないか」
亮介は玲奈の肩を抱き寄せた。玲奈は抵抗することなく、亮介の制服の袖を掴み、その背中に隠れるように身を縮める。
「大丈夫だよ、玲奈ちゃん。俺がいるから。こいつにはもう、指一本触れさせない」
「亮介くん……ごめんなさい、私、つい感情的になって……」
「いいんだ。君の正義感は間違ってない。辛い役回りをさせてごめんな。教室にいづらいだろう? 保健室まで送るよ」
亮介は優しく微笑み、玲奈を連れて教室を出て行こうとする。
去り際、彼は俺の方を振り返った。
玲奈には見えない角度で、彼は口の端を歪め、ニタリと笑った。
その目は明確に語っていた。
『お前の女、最高にチョロいな』と。
俺は拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲むのを感じた。
怒りで視界が赤く染まりそうになるのを、理性の壁で必死に抑え込む。
今ここで彼に殴りかかれば、それこそ思う壺だ。「逆上した横領犯」というレッテルが強化されるだけだ。
「……耐えろ。まだだ」
俺は自分に言い聞かせるように呟き、再び黙々と机を拭き始めた。
マジックの汚れは広がってしまい、余計に汚くなっただけだった。
それはまるで、俺の今の立場そのものだった。
放課後。
俺は逃げるように学校を出た。部活に行く気にもなれず、かといって家に帰っても気が滅入るだけだ。
あてもなく街を彷徨い、気づけば駅前の繁華街に来ていた。
雑踏に紛れれば、誰からの視線も感じずに済む。匿名性の中に埋没することが、今の俺にとって唯一の安息だった。
ふと、見覚えのある制服が視界に入った。
通りの向こう側、少し路地に入ったところにある洒落たカフェの入り口。
亮介と、玲奈だ。
二人は並んで歩いているのではない。身を寄せ合うように、いや、もっと直接的に、亮介が玲奈の腰に手を回し、玲奈が亮介の胸に寄りかかって歩いている。
俺は反射的に近くの建物の陰に隠れた。
心臓が嫌な音を立てる。見たくない。でも、見なければならない。
これは、俺が直視すべき現実だ。
「……でも、やっぱり悪いよ。こんなことしてたら、私……」
玲奈の声が聞こえた。風に乗って微かに、だがはっきりと。
「何言ってるんだよ。悪いのは全部、湊なんだ。あいつが君を裏切ったから、君は傷ついた。俺はただ、その傷を癒してあげたいだけなんだ」
亮介の甘い声。砂糖でコーティングされた毒のような響き。
「湊くん……あんな人だと思わなかった。私、ずっと信じてたのに」
「忘れよう。あんな奴のことなんか、全部。俺が忘れさせてあげるから」
亮介の手が、玲奈の髪を撫で、そのまま頬へと滑り落ちる。
玲奈は目を閉じ、その感触を受け入れていた。
かつて、俺だけに向けられていたあの表情。信頼と好意に満ちた顔を、彼女は今、俺を陥れた男に向けている。
「……うん。亮介くんがいてくれて、本当によかった。私一人じゃ、きっと壊れてた」
「俺はずっと君を見てたよ。湊なんかより、俺の方が君を大事にできるって、ずっと思ってた」
嘘だ。
亮介はよく、部室で俺に言っていた。「真面目すぎる女は苦手だ」「遊びならいいけど、付き合うとか面倒くさい」と。
彼は玲奈を愛してなどいない。ただ、俺からすべてを奪うためのトロフィーとして、そして都合のいい玩具として扱っているだけだ。
だが、玲奈はその「嘘」に縋り付いている。彼女の「真面目さ」は、一度信じたものを疑うことを許さない。湊が悪だと決めた以上、自分を救ってくれる亮介は善でなければならないのだ。その盲目的な思い込みが、彼女を泥沼へと沈めていく。
「行こう、玲奈ちゃん。少し休める場所へ」
亮介が促した先は、カフェではなく、その奥にあるエレベーター付きのビルだった。
そこは、高校生が二人で入るには不適切な場所だ。個室カフェを装った、実質的な連れ込み宿のような施設。
玲奈は一瞬、足を止めたようだった。ためらいの色が見えた。
だが、亮介が耳元で何かを囁くと、彼女は力なく頷き、彼の手に引かれてそのビルへと吸い込まれていった。
「あ……」
俺の口から、乾いた音が漏れた。
二人の姿が見えなくなっても、俺はその場から動けなかった。
玲奈が入っていった。
あれほど潔癖で、清廉潔白だった彼女が。
付き合って一年、俺とは手を繋ぐこと以上のステップへ進むのを「高校生だから」と頑なに拒んでいた彼女が。
俺を裏切ったその翌日に、他の男と、あんな場所に。
体温が急速に失われていく感覚があった。
悲しみ? いや、違う。
嫉妬? それも違う。
俺の中にあった、玲奈への最後の情け、未練、そして「もしかしたら洗脳が解ければ戻れるかもしれない」という淡い希望。それらが音を立てて崩れ去り、灰になって消えていく。
俺はスマートフォンを取り出し、アドレス帳を開いた。
『篠原玲奈』の名前を見つめる。
昨日までは、見るだけで心が温かくなる名前だった。
だが今は、ただの文字列にしか見えない。
俺は編集ボタンを押し、登録名を変更した。
『ターゲットB』
保存ボタンを押すと同時に、俺の中で何かが完全に死んだ。
そして、その死骸を苗床にして、冷徹な怪物が目を覚ます。
「……楽しんでくればいい」
俺は呟いた。声に感情は乗らなかった。
「その快楽が、君たちの首を絞める鎖になる」
俺はビルを見上げるのをやめ、踵を返した。
もう、迷いはない。
情けも容赦もしない。
彼らが俺に与えた屈辱、孤立、絶望。そのすべてを利子をつけて叩き返す。
俺は歩きながら、裏アカウント用のSNSアプリを起動した。
ターゲットA、西条亮介のTwotterアカウント。
そこには、つい先ほど投稿されたばかりの写真があった。
ホテルの部屋らしき場所で撮られた、二つのグラスの写真。そして、『戦利品ゲット。正義の味方は役得が多いなw』というコメント。
馬鹿な男だ。承認欲求に負けて、自ら墓穴を掘っていく。
俺はその投稿を魚拓に保存し、さらに画像解析ツールにかけるためにクラウドへアップロードした。グラスに映り込んだ室内の様子、投稿時の位置情報、すべてのメタデータが彼らを追い詰める弾丸になる。
「せいぜい今のうちに愛を育んでおけよ」
雑踏の中に消えていく俺の背中は、もう昨日の弱々しい被害者のものではなかった。
地獄へようこそ、元・恋人。そして、元・友人。
ここから先は、俺の時間だ。




