第一話 正義の名の元に
放課後の生徒会室には、独特の静寂と、微かな電子音が満ちていた。
俺、高遠湊は、使い慣れたノートパソコンのキーボードをリズミカルに叩き続けている。画面に並ぶのは、来月に控えた文化祭の予算案と、備品購入の申請リストだ。
「……よし。これで総務委員会への提出分は完了か」
エンターキーを少し強めに押し込み、俺は大きく息を吐いた。眼鏡の位置を直し、凝り固まった肩を回す。
窓の外はすでに茜色に染まり始めていた。グラウンドからは野球部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音が遠くに聞こえる。俺はこの時間が嫌いではなかった。誰もいなくなった教室で、すべきことを完璧にこなし、学校という巨大なシステムを裏側から支えているという実感。それが、地味で口下手な俺にとってのアイデンティティだった。
「さすがだな、湊。もう終わらせたのか?」
背後から声をかけられ、俺は振り返った。
そこには、生徒会長である西条亮介が立っていた。整った顔立ちに、人懐っこい笑顔。制服の着こなしも少し着崩していて、それがまた女子生徒たちからの人気を集める要因になっている。
俺とは正反対の男だ。実務能力は皆無に等しいが、人を惹きつけるカリスマ性だけは突出している。だからこそ、俺が実務を全て請け負い、彼が表舞台で輝く。その役割分担で、俺たちの生徒会は上手く回っていたはずだった。
「ええ、西条会長。明日の会議資料もサーバーにアップしておきました。あとは確認だけお願いします」
「助かるよ。やっぱり湊がいないと、この生徒会は回らないな」
亮介は屈託のない笑みを浮かべ、俺の肩をポンと叩いた。その手つきは軽く、いつも通りの友好的なものに見えた。だが、その時の俺は気づかなかった。彼の瞳の奥に、粘着質な暗い光が宿っていることに。
「ああ、そうだ湊。ちょっと話があるんだ。奥の会議スペースに来てくれるか? 堂島先生も待ってる」
「堂島先生が? 何かトラブルですか?」
「まあ、そんなところだ。深刻な顔をしなくても大丈夫だよ。湊ならすぐに解決できる問題かもしれない」
亮介の言葉に、俺は何の疑いも抱かずに頷いた。
パソコンをスリープモードにし、椅子から立ち上がる。この時、もし俺がもっと警戒心の強い人間だったら、亮介の口元が微かに歪んだのを見逃さなかったかもしれない。だが、俺は彼を、そしてこの生徒会という場所を信じすぎていた。
会議スペースに入った瞬間、場の空気の重さに違和感を覚えた。
長机の上座には、生徒会顧問の堂島教諭が面倒くさそうに腕を組んで座っている。その横には亮介が座り、そしてその対面には――俺の恋人であり、書記を務める篠原玲奈が座っていた。
玲奈は俯き、膝の上で強く拳を握りしめている。その肩が微かに震えているのを見て、俺の心臓が早鐘を打った。
「玲奈? どうしたんだ、その顔」
俺が声をかけると、玲奈はビクリと反応したが、顔を上げようとはしなかった。
いつもなら、俺の顔を見るなり「湊くん!」と花が咲いたような笑顔を見せてくれる彼女が、まるで怯える小動物のように縮こまっている。真面目で正義感が強く、曲がったことが大嫌いな彼女が、こんな態度を取るなんて尋常ではない。
「座れ、高遠」
堂島教諭の低い声が、俺の思考を遮った。俺は言われるがまま、玲奈の隣ではなく、彼女と向き合う形のパイプ椅子に腰を下ろした。
「単刀直入に言うぞ。高遠、お前が生徒会費を横領しているという報告が上がっている」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
横領? 俺が?
脳内でその単語が反響し、やがて滑稽な冗談のように思えてきた。
「……先生、何の冗談ですか? 僕が横領なんて、あり得ません」
「俺もそう思いたい。だがな、証拠が出てるんだよ。これを見ろ」
堂島は一枚のプリントアウトされた紙を机の上に放り投げた。
それは、生徒会費管理口座の入出金記録だった。特定の数日間にわたり、数万円単位で現金が引き出されている。合計金額は、およそ三十万円。
そして、その操作ログには、はっきりと『ID: takato_minato』の文字列が刻まれていた。
「これは……確かに僕のIDですが、この日時はあり得ません。先週の火曜日の午後七時? 僕はその時間、駅前の学習塾にいました。アリバイもあります」
俺は冷静に反論した。事実無根だ。誰かが俺のIDを盗用したとしか考えられない。
だが、堂島は興味なさそうに鼻を鳴らしただけだった。
「学習塾か。だが、塾のカードリーダーを通さずに自習室を利用することもあるだろう? 完璧な証明にはならんよ」
「しかし、防犯カメラを調べれば……」
「面倒なことを言わせるな!」
堂島が机を叩いた。その音に、玲奈がびくりと肩を跳ねさせる。
「高遠、お前は優秀だ。ログを改ざんする手口も知っているだろうし、防犯カメラの死角も熟知しているはずだ。学校側としては、警察沙汰にはしたくない。お前が素直に認めて、全額弁済すれば、退学だけは免除してやる方向で話をつけてやる。これは温情なんだぞ」
温情? ふざけるな。
やっていない罪を認めろというのか。この教師は、真実を追求する気などさらさらない。ただ、目の前の「不祥事」という処理タスクを、一番手っ取り早い方法で片付けたいだけなのだ。
俺は助けを求めるように、亮介を見た。彼は俺の仕事ぶりを一番近くで見てきたはずだ。俺がそんなことをする人間じゃないと知っているはずだ。
「会長……西条、お前なら分かるだろ? 俺がこんな杜撰なことをするはずがない」
亮介は、悲痛な面持ちで首を横に振った。その表情は、まるで親友の裏切りに心を痛める聖人のようだった。
「俺だって信じたくなかったよ、湊。でも、このログはお前のパソコンからアクセスされたものだ。それに……最近、お前、金に困ってるって言ってただろ?」
「は? 何を言って……」
「参考書代が高いとか、大学の進学費用を自分で稼がなきゃいけないとか。俺に相談してくれたじゃないか。俺、力になってやりたかったけど、まさかこんな形で手を出してしまうなんて……」
亮介の口から紡ぎ出されるのは、全く身に覚えのない作り話だった。
俺は裕福ではないが、金に困って犯罪に手を染めるほど逼迫していない。そもそも、そんな相談を亮介にしたことなど一度もない。
こいつは、何を言っているんだ?
背筋に冷たいものが走る。これは、誤解じゃない。明確な悪意を持って仕組まれた罠だ。
「嘘だ。そんな相談、した覚えはない。西条、お前、何を企んでる?」
「往生際が悪いぞ、高遠! 会長が嘘をついて何の得がある!」
堂島が怒鳴る。その声に重なるように、亮介は「先生、やめてください」と庇うような素振りを見せた。
「湊を追い詰めないでやってください。きっと、魔が差しただけなんです。……なあ、湊。正直に言ってくれよ。俺たちの仲じゃないか」
亮介の目は、笑っていなかった。
表面的には慈悲深い友人を演じながら、その瞳の奥底では、混乱する俺を見て嘲笑っている。こいつだ。こいつが犯人だ。直感がそう告げていた。
だが、証拠がない。この場において、俺の言葉はあまりにも無力だった。
俺は最後の望みをかけて、目の前の少女を見た。
篠原玲奈。
彼女だけは、俺を信じてくれるはずだ。彼女は俺の潔癖なまでの真面目さを誰よりも知っている。俺たちは互いに信頼し合い、支え合ってきた恋人同士だ。
「玲奈……」
俺は震える声で彼女の名を呼んだ。
玲奈がゆっくりと顔を上げる。その大きな瞳には涙が溢れていた。俺はその涙を見て、彼女もまたこの理不尽な状況に苦しんでいるのだと思った。
「玲奈、信じてくれ。俺はやってない。絶対に、一円たりとも盗んでなんかいない。君なら分かってくれるだろ?」
俺の言葉に、玲奈の唇がわなないた。
彼女は何かを言おうとして、言葉を飲み込み、そして意を決したように俺を睨みつけた。
その瞳に宿っていたのは、信頼でも同情でもなかった。
それは、汚いものを見るような、強烈な軽蔑と拒絶だった。
「……信じてたのに」
蚊の鳴くような声。だが、静まり返った部屋には痛いほど響いた。
「え?」
「私、ずっと湊くんを尊敬してた。真面目で、誰よりも生徒会のことを考えてて……。でも、それは全部演技だったの?」
「違う! 玲奈、俺の話を聞いてくれ!」
「聞きたくない!」
玲奈が叫び、椅子を蹴って立ち上がった。彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私、見たのよ。湊くんの鞄の中に、見たことのないブランドの財布が入ってるのを。それに、先週の帰り道、あなたが誰かと電話で『金ならなんとかなる』って話してるのも聞いた。その時は聞き間違いだと思ったけど……全部、このことだったのね」
俺は呆然とした。
ブランドの財布? それは母さんの誕生日にプレゼントするために、バイト代を貯めて買ったものだ。まだ渡せずに鞄の奥に隠していただけだ。
電話? それは奨学金の手続きについて親と話していただけだ。
全ての事象が、亮介というフィルターを通すことで、最悪の文脈に書き換えられている。
「それは誤解だ、玲奈。財布は母さんへの……」
「言い訳しないで! 証拠もあって、動機もあって、これ以上嘘を重ねて何になるの!?」
玲奈の叫びは、悲鳴に近かった。彼女は正義感が強い。だからこそ、一度「悪」だと認識した相手には容赦がない。彼女の中の「正義」が、今、俺を断罪しようとしている。
亮介がすっと立ち上がり、泣きじゃくる玲奈の肩を抱いた。
「玲奈ちゃん、もういい。無理しなくていいんだ。辛かっただろう、彼氏の罪を告発するのは」
「ううっ……亮介くん……私、私……っ」
玲奈は抵抗することなく、亮介の腕の中に身を預けた。
俺の目の前で。俺の大切な彼女が、俺を陥れた男の胸で泣いている。
その光景は、どんな暴力よりも鋭く、俺の心を抉った。
「見損なったぞ、高遠。彼女にここまで言わせて、まだシラを切るつもりか」
堂島が吐き捨てるように言った。
俺は何も言えなかった。
言葉が出なかった。
怒り、悲しみ、絶望。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合い、喉の奥で硬い塊となって声を塞いでいた。
玲奈は亮介の胸に顔を埋めたまま、俺を見ようともしない。
亮介は、彼女の頭を優しく撫でながら、俺に向かって音もなく口を動かした。
『ざ、ま、あ、み、ろ』
その瞬間、俺の中で何かがプツリと切れる音がした。
信じていた世界が崩れ落ちていく。
積み上げてきた実績も、仲間だと思っていた会長との絆も、そして何より大切だった恋人との愛も。
すべては、こいつの薄っぺらい悪意と、堂島の怠慢と、そして玲奈の愚直すぎる思い込みによって、粉々に砕かれたのだ。
「……分かりました」
俺は、感情の抜け落ちた声で呟いた。
「認めるのか?」
堂島が目を輝かせ、身を乗り出す。
「認めません。ですが、ここで何を言っても無駄だということは理解しました」
俺はゆっくりと立ち上がった。椅子が床を擦る音が、冷たく響く。
亮介の腕の中にいる玲奈を一瞥する。彼女はまだ泣いている。その涙は、誰のためのものだ? 自分の正義が守られたことへの安堵か? それとも、犯罪者と付き合っていた自分への憐憫か?
どちらにせよ、もう俺の知っている玲奈ではない。
俺を信じず、事実を確認しようともせず、あろうことか俺を陥れた男の言葉だけを信じた女。
「高遠、お前……」
「処分が決まったら連絡してください。今日は帰ります」
俺はそれだけを言い残し、踵を返した。
背後で堂島が何か喚いていたが、もう耳には入らなかった。
生徒会室のドアを開け、廊下に出る。冷房の効いた室内とは違い、廊下には夕暮れの湿った熱気が満ちていた。
足取りは重かったが、不思議と涙は出なかった。
ただ、胸の奥に、どす黒く冷たい氷のような塊が居座っていた。
俺は知っている。
あの入出金ログには、致命的な欠陥があることを。
亮介は知らないだろうが、俺が構築した会計システムには、表のログとは別に、全ての操作履歴をハードウェアレベルで記録する「シャドウログ」が存在する。それは、外部からの侵入や改ざんを検知するための、俺だけの秘密のバックアップだ。
そして、堂島が「面倒だ」と切り捨てた防犯カメラ映像も、保存期間は一ヶ月。まだ消えていない。
彼らは勝ったと思っているだろう。
俺を社会的に殺し、自分たちの罪を俺になすりつけ、正義の味方ごっこに興じている。
特に玲奈。君のその「真面目さ」は、今、最悪の凶器となって俺を刺した。
だが、その凶器は、いずれ必ず君自身に向けて跳ね返る。
「……後悔させてやる」
誰もいない廊下で、俺は小さく呟いた。
それは、かつての高遠湊が死に、復讐者が生まれた瞬間の、最初の産声だった。
ポケットの中でスマートフォンを取り出し、俺はクラウドサーバーへのアクセスアプリを起動した。
画面に表示されたのは、『Backup_Secret』のフォルダ。
俺は静かに、その同期ボタンを押した。
戦いは、ここから始まる。
君たちの嘘が、真実に殺されるまで。




