鬼女紅葉(きじょもみじ)【表】~三夜目
都には、かつて「紅葉」という女がいた。
その名のごとく紅を思わせる美しさで、都人の誰もが振り返るほどの容貌を持っていたという。
だがその美は災いを呼んだ。源経基公の寵愛を受けたことで、正妻の嫉妬を買い、呪いをかけられ、やがて都を追われた。
しかもその身には経基公の子が宿っていた。
追放の道中は、屈辱と悲しみで満ちていたに違いない。
それでも紅葉は生まれた子を抱きしめ、信濃の山奥にたどり着いた。村人に助けられ、文や医術を教え、ひっそりと暮らしていたという。
だが、子が成長するにつれ、紅葉の願いは募った。
「父に会わせてやりたい。都へ戻らねば」
その一心で、母は狂気へと歩み始めた。
金を得るために、紅葉は夜ごと姿を変え、村々を襲った。
ある夜は深紅の鬼女に姿を変え、蔵に忍び込んでは米俵を奪い。
またある夜は人の美しき女に戻り、旅人を惑わせては、気づけば袋を逆さにして金を奪った。
時に、飢えた兵を装って家に忍び込み、乳飲み子すら抱え去ったという噂まである。
最初は小さな盗みであった。だが次第に欲は増し、妖術を用いて村を荒らし、山賊どもを従えて勢力を広げた。
やがて北信一帯は紅葉の支配下に落ちた。
「戸隠の岩屋に鬼女が棲む。夜ごと村を襲い、血を啜る」と恐れられるようになった。
その報せは都にも届き、朝廷は討伐を命じた。
討手は余吾将軍、そして私・平維茂。
私は北向観音に十七日間参籠し、夢に現れた老僧より霊剣を授かった。これこそ鬼を討つ剣と信じ、兵を率いて戸隠へ向かった。
戦は苛烈であった。
紅葉は雷を呼び、烈風で兵を吹き飛ばし、川を氾濫させた。天と地そのものを操るかのごとき妖術――人の力ではない。
それでも、霊剣を掲げれば術は破れ、兵は進むことができた。
その刹那、私は見た。
鬼女の傍らに立つ少年――経若丸。
剣を握り、我が軍に立ち向かってきた。
彼の剣は若さに似合わぬ冴えを見せた。だが霊剣に導かれるように、私の刃は迷いなく彼の胸を貫いた。
少年の目が大きく見開かれ、血が口からあふれ出る。
「――あああああっ!」
紅葉の絶叫。
その声は人の声ではなかった。山を揺らし、空を裂き、我らの心臓を握り潰すような慟哭。
炎に包まれ、女は崩れ、恐ろしき鬼女の貌をさらした。
「返せ……返せ、我が子をォォォ――!」
鬼女は炎を纏い、空を飛び、我らを焼き尽くそうと暴れ狂った。
私は震える手で矢に霊剣を番え、放った。
矢は鬼女を射抜き、地に叩き落とした。
なおも鬼女は這い上がり、金剛太郎の腕を掴み「我が子を……」と呻いた。
私は最後の一太刀を振り下ろした。
首が落ち、炎は消えた。
戦は終わった。だが胸に残るのは勝利の歓喜ではない。
都を追われ、母として子を守ろうとした女が、血と怨嗟に塗れて鬼へと堕ちていった――その結末を、この眼で見たのだから。
あの慟哭――母が子を失った叫び。
鬼を討ったはずなのに、胸に残るのは勝利の歓喜ではなく、底知れぬ恐怖と、言いようのない哀しみだった。