灰色の街
ここ最近、巷で流れている某条約について読んでて思い付いた話です。
篠崎衛は、厚生労働省の一員である。
その日は、違法に精神感応薬が取引されているという通報を受け、現場へ向かっていた。
車窓の外に、目を引くものはない。
テレビはニュースと天気予報しか流さず、街の看板からはタレントの姿が消えて久しい。
数年前、「女性タレントの起用は性的搾取だ」という声が一部の団体や議員の間で高まり、ついには法案が可決された。
それに対して「男性だけが許されるのは差別だ」という反論が生まれ、結果、全タレントの広告起用が全面的に禁止された。
ではアニメやイラストならどうか?
答えはノーだ。
創作物においても未成年、あるいは未成年に見えるキャラクターを描くことは労働基準法違反とされ、これもまた禁止された。
架空のキャラクターは契約書に署名できず、雇用契約が成立しない、というのがその理由だった。
さらに追い打ちをかけるように、ある法案が通った。
この法案により、たとえ架空の存在であっても、作品内で犯罪を犯す描写は『予備的犯罪行為』と見なされるようになった。
漫画、アニメ、小説、実写ドラマ、映画……。
あらゆる創作物が、この国から締め出された。
この法の適用は、古典にも及んだ。
『源氏物語』は未成年への加害的描写を理由に、
『桃太郎』は桃から全裸で生まれた点がポルノであると問題視され、流通が停止された。
殺人、詐欺、不倫、虐待が描かれる映像作品は当然のように禁止され、
バラエティ番組は差別を助長する恐れがあるとされ、
クイズ番組ですら「答えが分からなかった視聴者に劣等感を与える」として排除された。
音楽もまた例外ではなかった。
恋愛感情を煽る歌詞は不謹慎とされ、感情の起伏を刺激する旋律は公共の場から排除された。
創作物の一掃が決まった時、国内では一時的な内戦が勃発した。
最大の引き金は、神話の禁止だった。
それが実話か創作かを巡って、宗教団体が各地で暴動を起こしたのだ。
皮肉なことに、創作禁止を最も強く推していたのは、かつてのこれらの団体達だった。
今や、メディアは死んだ。
世界は色と音を失った。
人々は穏やかに生きていたが、そこには何もなかった。
世界は今や、灰色である。
そんな世界で、一時的に脚光を浴びたのが精神感応薬だ。
服用することで、他人の『思考』……感情や映像、記憶や概念を直接受け取ることができる。
だがこの薬も、思想信条の自由を盾に悪用される恐れがあるとして、即座に禁止された。
それでも、精神感応薬は地下で生き延びた。
今日、篠崎が向かうのも、そんな違法な薬の取引現場である。
指定されたビルを抜け、身元チェックを複数通過し、彼がたどり着いたのは地下にある小さなバーだった。
照明は最低限、BGMはなく、酒も出ていない。
そこにいたのは、若い女性だった。
「アオイです」
「偽名っぽいな」
「さすがに、こういう場所で本名は名乗りませんよ。それで精神感応薬ですが……」
アオイは微笑み、机の上に置いた錠剤の瓶を指さした。
「本物かどうかは、一錠飲めば分かります。私の頭の中を、私に『読んでもらう』だけです」
半信半疑のまま、篠崎は精神感応薬を飲んだ。
その瞬間だった。
視界が白く染まり、脳内に画像と台詞が洪水のように流れ込んできた。
ページがめくられ、キャラクターたちが駆け、叫び、笑い、泣く。
それはまさしく、かつて自分が愛していた『少年マンガ』そのモノだった。
物語は短い読み切りだった。
主人公が仲間と出会い、悩み、挫折し、立ち上がる、王道の構成。
だが、その一コマ一コマが、篠崎の心に刺さった。
気が付けば、自分の頬を涙が伝っていた。
こんなに心が震えるのは、いったい何年ぶりだろうか。
「……連載版もあるんですが、薬の効果は一話ぶんだけなので」
どこか申し訳なさそうに笑うアオイに、篠崎は首を振る。
「いや、それだけで十分だ。……君は、何者だ?」
少なくともテロリストとは思えなかった。
「創り手ですよ。私は漫画。でもここには、アニメーターも、脚本家も、映画監督もいますよ。
紙や画面に残せないから、今は『脳内で売っている』だけですけどね」
彼女の言葉に、篠崎は深く息をついた。
想像という名の『自由』は、最後には心にしか残らなかった。
しかし、その心が生きている限り、物語は滅びることはない。
「……ここを、摘発しますか?」
アオイの問いに、篠崎はゆっくりと首を振った。
「いや。ここは……残すべきだろう」
そう言って、篠崎は金を支払い、バーをあとにした。
地上に戻った時、篠崎の世界はまだ灰色のままだった。
だが、その頭の中には、確かに一つの『色』が芽吹いていた。