4.不運な男
1. 努力を強いられる日常
ケンタは、生まれた時から「ついてない男」だった。
特別な能力があるわけではない。ただ、普通にしているだけなのに、常に彼には不運がつきまとった。
幼稚園の時。
お遊戯会の主役に選ばれ、張り切って練習したのに、本番前日に高熱を出してダウンした。代役の子が喝采を浴びるのを、ベッドの上で悔し涙を流しながら聞いた。
小学校の運動会。
クラス対抗リレーのアンカーに抜擢された。
毎日放課後、人知れず練習を重ねた。
だが、本番のバトンパスで、前の走者が突然足をもつれさせて転倒。
ケンタは全力で走り抜けたが、結果は最下位だった。
誰もケンタを責めなかったが、彼の心には「努力しても報われない」という重い認識が刻まれた。
友達との約束も、彼のせいでいつも台無しになった。
雨の予報はなかったのに、彼が外出する日に限ってゲリラ豪雨に見舞われ、予定はキャンセル。
楽しみにしていたゲームの発売日には、なぜか彼の予約分だけシステムエラーで処理されておらず、手に入らなかった。
周囲からは「ケンタって、本当に不運だね」「ドンマイ!」と笑われた。
ケンタは曖昧に笑い返しながらも、心の中では決めていた。
「この不運は、努力で乗り越えるしかない」
彼は、運に恵まれない分、誰よりも努力することを選んだ。
2. 不運が磨く意志
中学、高校と進むにつれ、ケンタの不運はさらに明確になったが、同時に彼の「努力」も並外れたものになっていった。
定期テスト。
どれだけ勉強しても、なぜか彼の回答用紙にだけ、採点ミスや計算間違いが多発し、平均点より下になることが多かった。
ケンタは納得せず、教務室に何度も足を運び、自身の解答を再確認させた。
その結果、彼の成績は常に上位に食い込んだ。
部活動のサッカー。
彼は誰よりも早くグラウンドに来て練習し、誰よりも遅くまで残って自主トレに励んだ。
しかし、試合に出れば、なぜか彼のシュートはゴールポストに嫌われ、パスは相手にカットされ、肝心な場面でチームを勝利に導くことができなかった。
それでもケンタは、練習量でその不運をねじ伏せようとした。
他の選手が練習をサボる日も、彼は黙々と走り込み、技術を磨き続けた。
その結果、彼はチームで最も信頼される選手となった。
大学受験。
猛勉強の末、合格ラインは余裕でクリアしたはずだった。
だが、合格発表当日、彼の受験番号だけが発表リストから漏れている、という信じられないミスが発生。
ケンタはすぐに大学に問い合わせ、事務手続きの不備が原因だと判明し、無事合格を勝ち取った。
「普通のやつなら諦めるぞ、お前は本当にすごいよ」
友人の言葉に、ケンタは苦笑した。諦めるわけにはいかなかった。
努力しなければ、何も得られないことを、彼は人生で嫌というほど経験してきたからだ。
3. 不運をねじ伏せる力
社会人になったケンタの「努力」は、もはや彼のアイデンティティそのものだった。
彼が配属された部署は、常に「不運な部署」と呼ばれ、業績は低迷していた。
ケンタが提案する企画は、なぜか競合他社に先を越されたり、必要なデータが急に使えなくなったり、協力会社がトラブルを起こしたりと、必ず予期せぬ障害に見舞われた。
しかし、ケンタは諦めなかった。
企画が潰されれば、徹夜で別の企画を練り上げる。
データが消えれば、一から再構築する。協力会社がダメなら、何十社も掛け合って新しい取引先を探した。
「ケンタさんは、なんでそんなに頑張れるんですか?」
後輩が純粋な目で尋ねた。
「だって、やらないと、何も変わらないだろ?」
彼の言葉に迷いはなかった。
彼の不屈の努力と、並外れた問題解決能力は、やがて周囲を動かし始めた。不可能と思われたプロジェクトを次々と成功させ、低迷していた部署の業績をV字回復させた。
彼の功績は、社内でも高く評価されるようになった。
私生活でも、彼の不運は健在だった。
デートの予約は何度もキャンセルされ、楽しみにしていたイベントは直前で中止になった。
だが、ケンタはそれすらも「織り込み済み」とばかりに、すぐに別の代替案を用意した。
「ケンタといると、本当に飽きないね。どんなトラブルも楽しめちゃう」
恋人は笑った。
彼の不運は、もはや彼を不幸にするものではなく、彼の人生をより豊かにする「スパイス」に変わっていた。
彼の努力は、不運という壁を、乗り越えるべき「試練」へと変貌させていたのだ。
4. 努力の果てに掴むもの
ケンタは、やがて会社のトップにまで昇り詰めた。
彼の経営手腕は、常に不運に直面しながらも、それを乗り越えるための「努力」と「準備」によって培われたものだった。
彼が社長に就任した矢先、世界経済は未曽有の不況に突入し、彼が率いる会社も壊滅的な打撃を受けた。
だが、ケンタは冷静だった。
「これは、我々が常に最悪の事態を想定し、準備してきた結果を出す時だ」
彼は、不運な状況に慣れきった社員たちと共に、徹夜で対策を練り、奇跡的なスピードで新たな事業を立ち上げ、危機を乗り越えた。
「ケンタ社長がいなかったら、とっくに倒産していました……!」
社員たちは心から彼を尊敬した。
ケンタは、自分の人生が、常に不運によって試され続けたことを知っている。
しかし、その不運こそが、彼を誰よりも強く、誰よりも粘り強くさせたのだ。
彼は運を信じない。信じるのは、ただ自分の努力だけだ。
夜、高層ビルの窓から煌々と輝く夜景を見下ろしながら、ケンタは静かに呟いた。
「俺は、俺の人生を、この手で掴み取ってきた」
彼の瞳には、不運に打ちのめされた過去の影はなく、ただ、自らの努力で切り開いた未来への確かな光が宿っていた。
総括
窓のない、無機質で静謐な部屋。
白衣を着た二人の人物が、中央のホログラムスクリーンの前に立っていた。
スクリーンには、ケンタの人生と、彼が直面した数々の不運、そしてそれに対する彼の努力の軌跡を示すデータが、グラフとシミュレーション映像となって映し出されている。
彼の精神的な強度が、不運に比例して上昇していく奇妙なデータも見える。
「……以上が、対象個体D、通称『不運な男』の生涯と、それに伴う適応プロセスの最終データです」
助手が淡々と報告書を読み上げる。
スクリーンの映像は、彼が困難な状況を一つ一つ乗り越え、ついには会社のトップに立つまでの過程を詳細に示していた。
教授は無言でデータを見つめ、やがて静かに口を開いた。
「予測された通りの結果と言えるでしょう。環境要因としての『不運』が、個体の行動、思考、そして自己変容に与える影響は、極めて興味深いものだった」
助手がデータを切り替える。
「個体A(幸運な男)が環境を破壊し、個体B(幸運な女)が倫理的葛藤から適応を試み、個体C(不運な女)が絶望に至ったのに対し、個体Dは、**不運を『努力の触媒』として利用し、自己を極限まで強化する道を選びました。**これは、我々が設定した『人類の潜在的適応能力』の検証において、極めて重要なデータとなる」
教授は微かに頷いた。
「このシミュレーションで明らかになったのは、『不運』という変数が、個を破滅させるだけでなく、個人の意志と努力によって、逆説的に能力を覚醒させ、環境を支配する力さえも生み出しうるという事実だ。これは、システムの設計思想を根本から問い直すものかもしれない」
助手が手元のタブレットを操作し、全てのシミュレーションデータが収束する最終プロファイルを呼び出す。
画面には、これまで見てきたA、B、C、Dの各個体のデータが並べられ、相互に影響し合う複雑な関連性が示されていた。
「教授。これで、主要な四つのパターンにおける検証は完了しました。これらのデータは、次のフェーズへと進むための、揺るぎない基盤となるでしょう」
教授は満足そうに目を細めた。
それは、長年の研究が実を結んだ者の、深い充足感を伴う微笑みだった。
「その通りだ、助手。幸運も、不運も、人間にとって単なる『出来事』ではない。それは、彼らの存在そのものを定義し、変容させる変数となる。実に奥深いテーマだ。
さあ、次のフェーズの準備に取り掛かるぞ」
部屋に再び、静かな電子音が響き渡った。彼らにとって、数十年、あるいは数世紀に及んだであろう「地球」の物語は、ただ一つの実験データに過ぎないのだ。