1.幸運な男
1. 無自覚の恩寵
アキラは、ごく普通の少年だった。
いや、少なくとも、周囲からはそう見えていた。
けれど、彼自身が何かが違うと感じ始めたのは、幼稚園の砂場でのことだ。
山から転がり落ちそうになった友達がいた。
皆が「あぶない!」と叫んだその時、友達はなぜか、まるで引き寄せられるようにアキラの服の裾を掴んで体勢を立て直した。
無傷。
皆は偶然だと思った。
でも、アキラは違和感を覚えた。
まるで、自分に触れることで、不運が回避されたかのように。
小学校に入ると、その違和感は確信に変わっていった。
忘れ物をしても、先生はなぜか「あら、今日に限って見逃してあげるわ」と笑ったり。
あるいは、机の引き出しの奥から、諦めていたはずの忘れ物が偶然見つかったり。
友達とのじゃんけんでは、一度も負け越したことがない。
鬼ごっこでは、どれだけ追い詰められても、奇妙な障害物や突然の出来事が彼を助け、一度も捕まらなかった。
周囲からは「運がいいね」「要領がいいね」と、無邪気に笑われた。
アキラは、ただ曖昧に笑い返す。
けれど、彼は知っていた。
これは、ただの運じゃない。
自分の意志とは関係なく、全てが自分にとって都合の良いように動いている、と。
2. 自己の確立と歪み
思春期を迎え、アキラの幸運は個人レベルで爆発的に拡大した。
中間テスト。一夜漬けで、適当にヤマを張った問題が、なぜか満点だった。
「すごいな、アキラ!」
「お前、天才かよ?」
クラスメイトが騒ぐ中、アキラはただ漠然とした違和感を覚える。
努力したわけじゃない。
なぜか、当たっただけだ。
告白した相手は、皆彼に夢中になった。
特に努力もせず、常にクラスの中心にいた。
高校のサッカー部。彼は常に試合のヒーローだった。
劣勢の状況。誰もが無理だと諦めたボールが、なぜか彼の足元に吸い寄せられ、奇跡的なゴールへと繋がる。
彼の活躍で、弱小チームはあっという間に県大会優勝を成し遂げた。
「アキラ、お前がいなかったら絶対無理だったよ!」
「マジ神!」
チームメイトが歓声を上げる。
だが、その裏で、相手チームのエース選手が試合中に突然の怪我に見舞われたり、審判の不可解な判定があったりした。
アキラは、自分に言い聞かせる。
「たまたま、だ」
「運が良かっただけだ」
でも、心の奥底で、違和感は膨らんでいた。
自分の幸運は、誰かの不運の上に成り立っているのではないか?
大学に入り、彼は投資に手を出した。
何の知識もなく、直感で選んだ銘柄は全て高騰し、数ヶ月で莫大な富を築いた。
「おいおい、アキラ、また当てたのかよ!?」
「マジで儲けすぎだろ、お前は天才だよ!」
友人は彼を「天才投資家」と持ち上げた。
アキラは気づいていた。
自分が買えば、上がる。
自分が売れば、下がる。
市場の摂理など関係ない。
彼の幸運は、すでに経済の均衡を歪めるほどの力を持っていた。
そして、自分が儲けた分だけ、どこかで誰かが大きな損失を被っていることも。
夜、一人、煌々と輝く夜景を見下ろしながら、アキラは静かに呟いた。
「……これは、本当に、俺の力なのか?」
問いかけても、答えはない。
ただ、冷たい風が、彼の顔を撫でるだけだった。
3. 世界の破滅と葛藤
社会人になったアキラの幸運は、個人の枠を遥かに超え、世界の運命をも左右するようになる。
彼が「これは」と思った企画は、どれも破格の成功を収めた。
彼が関わった企業は飛躍的に成長し、彼の名を冠した部署は神格化された。
「アキラさんがいれば、絶対に大丈夫です!」
「まさに、この会社の救世主だ!」
社員たちが、まるで神でも見るかのように彼を見上げる。
その言葉が、アキラには鉛のように重く響いた。
なぜなら、その成功の裏で、世界は歪み始めていたからだ。
アキラが参加した国家プロジェクトで、数兆円規模の予算を投じたにもかかわらず、競合する他国の同様のプロジェクトが突如失敗し、その国の経済が大打撃を受けた。
彼が投資した新エネルギー技術が成功した直後、既存の主要なエネルギー供給源に壊滅的な事故が発生し、世界的なエネルギー危機が訪れた。
彼の幸運は、まるで世界の不運を吸い込み、自分から外へ吐き出す装置と化していた。
テレビのニュース。
画面に映る、悲惨な災害の映像。
崩壊した街並み。
泣き叫ぶ人々。
その背後には、彼の幸運が奇跡的に回避したはずの「災厄」の爪痕が、別の形で現れていることを、アキラは肌で感じていた。
「なぜ……」
アキラは、自分の掌を見つめる。
「俺が、ただここにいるだけで……」
自分が生きているだけで、世界が壊れていく。
小さな子供の笑顔が奪われ、平穏な日常が瓦解していく。
彼が危険な状況に陥っても、必ず奇跡が起こり、彼は無傷で生還した。
だが、その度に、遠いどこかでより大きな災害が起こり、数万人規模の命が失われた。
夜ごと、悪夢にうなされた。
無数の、見知らぬ人々の悲鳴が、彼の耳にこびりつく。
自分の幸運が、世界にとっての究極の災厄であることを悟り、深い絶望に打ちひしがれた。
「やめてくれ……もう、やめてくれ……!」
アキラは、膝を抱え、ただ静かに、世界の終焉を待つことしかできなかった。
彼の幸運は、もはや彼自身の意志とは完全に切り離された、暴走する怪物だった。
4. 終焉
ある日、地球に巨大な隕石が衝突する、という未曽有の危機が訪れた。
世界はパニックに陥り、終末の様相を呈していた。
アキラはただ静かに、空を見上げていた。
彼の幸運が、この状況でどう作用するのか。
もはや、彼自身にも予測不能だった。
絶望と、ある種の諦めにも似た感情が、彼の心を支配していた。
奇跡が起こった。
隕石は地球の大気圏突入寸前で、突如現れた謎のエネルギー波によって粉砕された。
「やったぞ!」「助かったんだ!」
歓喜する人々の声が、アキラの耳に届く。
だが、アキラの視線は、そのエネルギー波が、太陽系を構成するもう一つの惑星に直撃し、木っ端微塵に吹き飛ばす光景を捉えていた。
地球は救われた。
それは、別の星を犠牲にした「幸運」だった。
安堵の束の間、アキラは次の瞬間、信じられない光景を目にした。
彼の幸運が、彼個人を最優先するあまり、母体である地球そのものを犠牲にする、という究極の選択を世界に強いたのだ。
地球は、彼の幸運がもたらした「最適解」の結果として、物理的に、静かに消滅した。
アキラは、地球が消滅する直前に、唯一の生存者として、なぜか用意されていた脱出ポッドに奇跡的に乗り込み、宇宙へと放り出されていた。
彼の幸運は、彼個人を生き残らせるためだけに、全てを破壊し尽くした。
彼は孤独に、宇宙空間を漂う。
その瞳には、もはや何も映っていなかった。
総括
窓のない、無機質で静謐な部屋。
中央には、いくつものホログラムスクリーンが浮かび、複雑なデータや数式、そして先ほどまで見ていた「地球」の残骸らしき映像が映し出されている。
白衣を着た二人の人物が、そのスクリーンの前に立っていた。
老練な雰囲気の教授と、それに続く若手の助手だ。彼らの表情には、感情はほとんど読み取れない。
「……以上が、対象個体A、通称『幸運な男』の生涯と、それに伴う環境変動の最終データです」
助手が淡々とした声で報告書を読み上げる。
スクリーンの映像が、瞬時に彼の幸運によって軌道が逸れた小惑星が、別の巨大な天体と衝突する衝撃波のシミュレーションに切り替わる。
そして、その連鎖の果てに、地球の姿がホログラムから完全に消え去った。
教授は無言でデータを見つめ、やがて静かに口を開いた。
「予測誤差は許容範囲内、とすべきか。あるいは、その逆か」
「教授。初期段階での幸運の無秩序な増幅が、最終的に生態系の自己防衛機能を上回る結果となったと分析されます。個体Aの自己保存本能が極限まで機能した結果、その生息環境そのものを破壊したという、極めて興味深いデータですね」
助手は冷静にそう付け加える。
教授は微かに頷いた。
「幸運、という能力は、極めてデリケートな因子だった。個体全体の利益、いや、種の存続にとっての利益として作用する設計であれば、別の結果もあり得ただろう。しかし、今回は個の最適化が、全体の破滅へと直結した」
彼の指が、空中に浮かぶグラフの一点を指し示す。
そこには、アキラが特定の決断をするたびに、世界の均衡が大きく傾いていく様子が数値化されていた。
「このシミュレーションで明らかになったのは、我々のシステムが、特定の強力な変数に対して自己修正能力を持たないという事実です。外部からの干渉なしに、このような事象をコントロールすることは不可能だ」
助手がデータを切り替える。
「しかし、教授。対象個体Aの意識に与えたストレス負荷は、当初のプロトコルで許容されていた範囲を大きく逸脱していました。倫理的観点から、この実験は失敗と見なすべきでは?」
教授は小さく鼻で笑った。
感情のない、乾いた音だった。
「倫理、か。我々が創造したこの世界に、その概念を持ち込むこと自体が無意味だ、助手。得られたデータが全てだ。今回、我々は『自己中心的な幸運の連鎖が、全体を破滅させる可能性』という貴重な知見を得た」
教授は、消えた地球のホログラムをもう一度見つめた。
「次のシミュレーションに移る。対象個体B。今度は、能力の規模を限定し、個体と小規模な環境の相互作用を観察する。そして何より、『幸運』が『個人の生き方』に与える影響を、より深く検証する」
助手は手元のタブレットを操作し、次のシミュレーションのプロファイルを呼び出した。画面には、ごく平凡な、しかしどこか意志の強そうな若い女性の顔写真が表示される。
「承知いたしました。対象個体B、通称『幸運な女』。シミュレーション準備を開始します」
部屋に再び、静かな電子音が響き渡った。
彼らにとって、数十年、あるいは数世紀に及んだであろう「地球」の物語は、ただ一つの実験データに過ぎないのだ。