第六話
「ねぇ晴、昨日ね海鳥たちが歌ったんだよ」
いつものように家の前まで迎えに来てくれた晴と、防波堤沿いを自転車で漕ぎながら言った。
「まじ? じゃあ親父さんからの返事もあったんだ」
「うん」
「そっか。親父さん、向こうでも馬鹿みたいにでかい声出して笑ってんのかな」
何かを思い出したかのように晴はふっと笑みを浮かべた。私もその横顔をみながら、子供の頃を思い出した。晴には両親がいなかった。晴が三歳の時にお父さんは病気で他界しており、その数年後には後を追うようにお母さんも病気で亡くなった。それからは、晴の父方のおばあちゃんが女手一つでここまで育てあげていた。私達の住むこの町はちいさな港町だからか家庭の事情は筒抜けで、当然のことながら私の両親もその事情は知っていた。私の父は晴を息子のように思っていたのだと思う。休みの日になれば、ふらっと晴の家を訪ね「キャッチボールでもするか」と大きな声をあげて笑った。きっと晴にとってもそれは同じで、私の父のことを実の父親のように慕ってくれていたのだと思う。お葬式があった日、晴は会場にいた誰よりも声をあげて泣いていた。父が眠る棺に手を添えながら「僕が代わりに守ります。梨乃がずっと幸せでいられるように。僕が、絶対、守りますから」と何度も言葉を詰まらせながらも涙を溢す晴の姿が、今でも目を閉じれば瞼の奥に浮かぶ。
「次に海鳥たちが歌った時は、晴のことも手紙に書くね」
当時のことを思い浮かべていると、気付けばそう口にしていた。「元気に馬鹿やってますって書いといて」と晴は空を見上げながらぽつりと呟いた。その横顔をみながら思う。晴は、強い人だ。私なんかより何倍も何倍も強い人だ、と。私と同じように父を慕い、身体を真っ二つに引き裂かれるような想いを晴だってしたはずなのに、私のことまで気遣ってくれている。ペダルを力強く漕ぎ、私の少し先をいく晴の背中をぼんやりとみつめた。年は二つも下だけど、風を受けて膨らんだその背は私よりも何倍も広く感じた。
並木道を抜けた先では秋穂が待っていた。学校の前で、自転車に跨ったままこちらに手を振ってくる。
「おはよう」
秋穂の前で自転車を止め、そう声をかけた時、違和感があった。「うん。おはよう」と呟きながらも、秋穂は私から目を逸らすように顔を俯けた。
「秋穂、なんかあった?」
普段の秋穂は底抜けに明るい性格をしており、いつも笑みを絶やさず張り付けているような子だった。でも、今日はと思い「どうしたの」ともう一度問いかけた。私の隣にいる晴も不安そうな目を向けている。そんな私たちの視線を向けられた秋穂は、ゆっくりと顔をあげた。
「あのさ、もう今頃噂になってるかもだし、誰かからそれを聞いて莉乃が悲しい思いして欲しくないから私が代わりに言うね」
「……うん」
「二組の須藤さんって分かる?」
問われ、ちいさく頷いた。確かテニス部に所属している背が高い子だった。
「泡沫神社ってあるじゃん」
「港から歩いて十五分くらいのとこのやつだろ?」
晴がぽつりと呟くと、秋穂が頷いた。
「須藤さんが買い物帰りに歩いていた時、ちょうどその神社の辺りから緑色の閃光が空に向かって一瞬伸びたんだって」
「緑色」
「ちょっと怖くなって早歩きで神社の前を通りかかった時」
そこで秋穂が一度言葉を切ったのは、話すのを躊躇ったからなのかもしれなかった。だが、意を決したように私を目をみながら言った。
「その時にね、莉乃のお父さんを見たんだって」
瞬間、えっ、という声が溢れ落ちていた。
「それでさ……私、二組に仲が良い子がいるからこれを知ってるんだけど、二組のグループLINEは昨日の夜からずっとその話題で持ちきりみたいで。海の事故で亡くなったから成仏出来なかったんだよ、とか書いてる子までいるらしくてさ」
気付いた時には手のひらを握りしめていた。人の死を、私の父の死を冒涜するな。歯をぎりぎりと噛み締めた。
「私たちのクラスってさ、二組と仲が良い子多いじゃん。だからきっと、その噂をたぶん皆してると思うから。私が……その前に」
「なに、それ」
私が力なく呟いたその時だった。「なあ、須藤ってどんなやつ?」と隣にいる晴が秋穂に目を向けた。その目が、見たこともないくらいに怒りに染まっていた。
「えっ?」
「だから、どんなやつかって聞いてんの。見た目、な? くだらねぇうえにクソ胸糞悪い噂流しやがって。そいつの見た目教えてよ。俺が話つけるわ」
初めてみるような晴の表情に、秋穂は困惑の色を浮かべていた。
「おい、早く言えよ」
「晴」
思わず声をかけた。
「そいつの見た目を早く言えって」
「晴、やめて」
「親父さんを馬鹿にするような噂流しやがって。俺は絶対そいつを許さない。早く言えよ!」
「晴っ!」
私が声を荒げると、晴の動きがぴたりと止まった。血管が浮き出るまで握りしめられていた手も、花が開くみたいにゆっくりと広げられていった。
「私は大丈夫だから、そんな無意味なことやめて。それに噂なんかすぐに泡みたいに消えていくものでしょ?」
今の自分に出来る精一杯の笑みを浮かべた。二人には何でもないような顔をした。噂は噂で、私は何も気にしてないよっていう顔。でも、本当は胸の中で叫び声を上げ続けていた。
今の状況に置かれていなければ、くだらないと噂を一蹴し、父の死を冒涜されたと噂を流した相手に怒りをぶち向けることも出来ただろう。けれど、現に私は海鳥たちが歌を歌った日に限るが、父と手紙でやり取りをしている。この世からは既に旅立ってしまった父と。もしあの噂が本当なら。そう考えただけで今すぐに踵を返し、父を見たという泡沫神社へ走りたい気持ちに駆られた。
その日の夜には私は泡沫神社に向かっていた。母にはちょっと散歩に出てくる告げ、海沿いの道を自転車で走り抜けた。夜の十時。辺り一帯には既に夜が溶け落ちており、波の音が鼓膜に触れた。秋穂から聞いた話だと須藤さんが父をみたというのはちょうどこのくらいの時間だ。くだらない噂だとは思う。何も本気で信じている訳では無かったが、一縷の望みがもしあるならば、私だって父をみたい。その一心だった。
泡沫神社は港から十五分先の海沿いにある。数百年以上前からある神社らしく、境内の中にはその年月を感じさせるような巨木があり、それが鳥居の向こうにみえた。自転車を近くに止め、ちいさく息を吐いた。よしっと、鳥居をくぐろうとした時、微かに自転車の走行音が聴こえた気がして振り向くと、通りの向こうから誰かが走ってくるのがみえた。街灯に照らされてぼんやりと浮かび上がってくるその姿が晴だと気付いたのは、それからすぐのことだった。
「晴、どうしたの」
思わず声をかける。すると、晴は自転車を脇に止めながら「いや、俺は親父さんをくだらない話のネタにしやがったあの噂に単純にムカついてたからさ、実際に見に行って親父さんがいないことを証明してやろうと思って」と神社に目を向けた。
「莉乃も?」
「うん。まあ、晴とは少し違うけどそんな感じかな」
風にのってくる潮にやられたのか所々色の剥げた鳥居はかなり古びており、私と晴は二人でくぐり境内の中へと足を踏み入れた。木々の香りが辺り一帯に立ち込めていた。奥にはさい銭箱と拝殿がみえる。立って待ってるのはしんどいからと二人横並びになって一番大きな太い幹に背中を預け腰を下ろした。噂が本当かどうかを確かめる為、とりあえず日付けが変わるまでは待ってみることにした。しばらくすると、じゃりと砂を踏みしめる音が聴こえた。
「白木さん?」
白木さんというのは私の名字で、そう声をかけてきたのは秋穂が気になっているという葉山くんだった。黒のTシャツに黒のズボンというカラスのような真っ黒な出で立ちで私たちの前に立つ葉山くんは目を丸くしている。
「こんなところで何してんの?」
「葉山くんこそ何してんの」
「何って、ここは俺の家だよ」
思わず目を見開いてしまった私に、「ほら、あそこ」と葉山くんが指を指す。確かに境内のすぐ隣には大きな日本家屋がひっそりと佇んでいた。
「俺の父親はこの神社の神主をしてるんだ。で、さっきの質問を繰り返すようだけど、何してんの?」
問われ、どう答えるべきかと迷っていると、「まさかあのくだらない噂を信じてここに来たの?」と葉山くんは目を細めた。それから「まじかよ。あんな噂を本気で信じるやつとかいるんだ」と鼻で笑われた。
黒く乱れのない髪が目の少し上辺りで切り揃えられているうえに均整の整った二重なのも相まってか葉山くんの目はより力強くみえ、顎のラインや鼻先はしゅっとしている。学校の廊下ですれ違う時も皆が言うように美形だとは思ったけれど、暗がりでみる葉山くんの顔はより整っているようにみえた。でも今は、その綺麗な顔がくしゃっと崩れ笑われる度に腸が煮えくり返りそうだった。私だって望んではいるけど、本当に父に会えるなんて思っていない。それに、葉山くんに馬鹿にされる筋合いなんてない。ひとおもいに感情をぶつけてやろうと思った時だった。「おいお前」と私の隣に座っていた晴がすっと立ち上がった。
「誰が何を信じようとお前に関係ねぇだろ? ましてや、笑われる筋合いなんてねぇよ」
晴は言いながらどんどん葉山くんに詰め寄っていった。晴は父親がいない代わりに私の父や気性の荒い漁師仲間たちが育ててくれたおかげもあって、かなり負けん気が強い。だが、葉山くんも一歩も引く感じではなかった。
「なに? 俺とやんの? 君さ、みたところタメにはみえないんだけど何年? 本気で勝てると思ってんの」
葉山くんの身長は確かに晴よりも五センチ以上高かった。
「あ?」
「俺とやって勝てんの」
「なんなら今ここでやってやろうか? 二度と喋れなくなるようにその顎砕いてやるよ」
緩やかに境内を吹き抜けていく夏の淡い風は柔らかかったが、ひりついた空気が痛かった。今すぐにでも殴りかかってもおかしくないと思った私は二人の間に入った。
「ちょっと二人ともやめて!」
晴と葉山くんの交互に目を向けた。私の眼差しを向けられて晴は私の感情を読み取ったのか、「分かったよ。もう帰ろうぜ、気悪いわ」と踵を返したが、すぐに向き直り「なあ」と葉山くんに呼びかけた。
「一つ言い忘れてたわ。お前はあの噂をくだらないって馬鹿にしてたけどな、世界にはお前が信じられないような出来事だって実際に起きてんだよ」
夜が溶け落ちた闇の中に佇む葉山くんはふっと笑い、「たとえば何だよ」と言った。
「お前にいちいち言う必要ねえわ」
晴の放った言葉に葉山くんは「あほくさ」と吐き捨て、踵を返した。砂利が擦れる音が次第に遠ざかっていく中、晴はそれが気に食わなかったのか声を張り上げた。
「たとえば、海鳥たちが歌をうたうことだよ!」
瞬間、葉山くんが足を止めた。振り返った葉山くんの表情をみて私は息を呑んだ。それまでの嘲笑ったり威圧するような目とは違って、心底驚いたというように目を大きく見開いていたからだ。
「いま、なんて言った」
「あ?」
「今さっき、なんて言った」
「だから海鳥たちが歌をうた」
晴がそこで言葉を切ったのは、葉山くんの頬を涙が伝っていたからだ。私たちに目を向けながら、葉山くんは腕を持ち上げ静かに涙を拭った。
「俺が生きている限り、お前が聴くことはあり得ないから海鳥たちの歌を聴けるのは白石さんか」
問われ、私はちいさくうなずいた。すると、葉山くんは「そっか」と呟き、ゆっくりと頭を下げた。
「少しからかうだけのつもりだったんだけど、さっきまでの俺は最低だった。悪かった。君にも」
葉山くんに頭を下げられ、晴は戸惑っていた。私自身、目の前で起きている現実を理解するのに必死で言葉を発することすら出来なかった。今目の前にいる葉山くんは、ついさっきまでの彼とはまるで別人のように感じた。動揺を隠せない私たちに葉山くんは「謝罪ついでにもう一つ謝るよ」と目を向けてくる。
「さっき俺は、あの噂をくだらないって言ったけど、あれは本心じゃない。この世界には、にわかには信じられないような出来事が実際にある事を俺も知ってる。人がよく恐れの対象とみなす幽霊なんてものはこの世に存在しないけど、皆があの世と呼ぶ場所は実際にあるよ。正確にはあの世ではなく別の次元の世界だけど、確かにそれは存在する。だから、くだらないなんて言って悪かった」
そう言い残して、葉山くんは夜の闇を身に纏い消えていった。私はその背がみえなくなるまで目を離すことが出来なかった。私たちの間に降りた静寂を破ったのは晴だった。
「なあ莉乃。あいつさ、たぶん何か知ってる」
晴の放った言葉が、頭の中で何度も反芻された。