第二話
木製の扉を開けると、ちりん、と鈴の音が鳴る。
夜が明ける前の、朝と夜が溶け落ちたような濃度の濃い青い空が目の前に広がり、家の中にいる時は微かにしか聴こえなかった波の音が途端に大きくなって鼓膜に触れた。
うっすらとぼやけてはいたが、海の向こうから船がこちらに向かってきているのがみえる。ああ、だからかと思う。この時間帯の海は凪いでいる。静かで、穏やかで、まるで世界が動きを止めたかのような錯覚に陥る時がある。けれど、一度船が港に入ろうとすれば海は大きく動きを変えるのだ。
徐ろに空を見上げた。今は七月の初旬。ひとたび太陽が空へと昇れば地上はあっという間に初夏の暑さに包まれるが、この時間はまだ夏は目覚めていないようだ。
私は手にしていた看板を家の前にたてかけて、大きく息を吸い込んだ。朝一番の空気は新鮮で思わず目を閉じてしまう。
「ちょっと梨乃、休んでないで早く手伝って」
振り返ると、頭にはバンダナを巻きエプロンを身に纏っている母が、慌ただしく沢山のお弁当をテーブルに並べていた。私は、はーい、と返事をしながら立てかけた看板の位置を調整した。『笑み』。看板にはそう書かれている。母は港の傍で小さなお弁当屋さんを営んでいるのだ。
「のり弁はそっちで和食弁当はあっちに並べてね」
プラスチック製の容器に入った、山積みに積まれたお弁当に指を指してから母は厨房の奥へと消えていった。店の中に入るとすぐにしょう油を煮詰めたような甘辛い匂いや揚げ物の匂いに包まれる。お弁当の盛り付けや調理などと午前4時から7時までの時間は母にとってはまさに戦場だ。母だけでは大変だろうからと、平日は毎日朝5時に目覚ましをかけてまだ高校三年の私も母を手伝い、それから学校に行くという流れになっている。
「並べ終わったよ」
広いお店ではない為に扉を開いてすぐにお弁当を陳列する机が三列あり、その奥が厨房だ。奥にいる母に声をかけた。
「揚げ物がもう少し時間かかるからお店の掃除をしといてくれる?」
「分かった」
このお店は一階がお弁当屋さんで二階が私達の住居になっている為に、掃除用具を取りに二階へと向かおうとした時、「梨乃」と呼び止められた。
「なに?」
厨房に顔を覗かせた私をみて、母は服の袖で一度汗を拭い、「いつもありがとう」と陽だまりのような笑みを向けてくれた。胸がぽぅっと温かくなり、ほのかに熱を持ったまま二階へと昇った。ほうきとちりとりを手にしたあと再び一階へと向かおうとした時、居間にある仏壇が目に入る。そこには白い歯をみせて笑う父の写真があった。
「お母さん、頑張ってるよ」
写真に声をかけてから一階へと向かった。父は漁師だったが、海での不慮の事故で二年程前に亡くなった。母がお弁当屋さんを始めたのはそれから程なくしてのことだった。一家の大黒柱を失ったのだ。私達は、悲しんでばかりいられなかった。
「行ってくる」
朝のピークは乗り越え、私は学校に行かなければならない時間になった為に二階で身支度を済ませてからそう声をかけると、厨房の奥にいる母が扉の向こうに指を指す。
「晴くん、もう来てるよ」
「うん、知ってる。二階から見えてたから」
店の外に出ると、白のワイシャツに下は黒の学生ズボンに身を包んだ晴が、自転車に跨ったままぼんやりと空を見上げていた。今年の蝉の産声が鼓膜に触れ、私が母を手伝っている間に既に空に鎮座した太陽のひかりがじりじりと私の肌を突き刺してくる。
「おは」
声を掛けると、手をかざしながらも空に向けられていた視線が、私の顔へと降りてくる。丁寧に整えられた黒い髪に大きな目。細くすっと伸びた鼻筋が通っているせいか、晴の澄んだ目はより強調されている。私の目をみながら「おはよう」と小さく呟いてから、その目が再び空へと向けられた。
「どうしたの?」
疑問に思い、思わず声を掛ける。晴は持ち上げた右手を掲げ、空へと指を指した。
「いや、海鳥たちがやけに騒いでる気がしてさ。もしかして、もうすぐ」
「うん。たぶんそうだと思う。ここだとお母さんに聞かれるから学校に行きながら話すよ」
母の「気を付けていくのよ」という声を背中で受け止め自転車を漕ぎ出した。私たちの住むこの町はちいさな港町で、中心部にあたる駅前の辺りでも潮の香りを孕んだ風が吹き抜けている。そして、港から学校までの道のりは防波堤が続いている。全身で風を受けとめながらも足を動かすと、スカートがはためいて、白のワイシャツがふわりと膨らむ。
「たぶん今日か明日だと思う!」
風に掻き消されないようにと普段よりも少しだけ声を張り上げた。
「ちゃんと返事用意してんの?」
晴も私と同じように声を張り上げている。
「うん」
「そっか。きっと親父さんも喜んでくれるな」
白い歯をみせてふっと笑った晴の顔が、頭上にある透き通る程に綺麗な空に抜けていた。晴は私よりも年は二つ下だが、私とお母さんが今の家に引越してくるまでは隣の家に住んでいた為、物心ついた頃からよく遊んでいた。小学校から中学、それから高校に上がってもその関係は続いており、晴が私の家の前まで迎えに来てくれる為に学校には毎日一緒に通っている。そして晴は、海鳥たちの歌が聴こえるという私の話を、唯一信じてくれる存在だった。
防波堤沿いを自転車で抜けた先は、並木道が続いている。その道を抜けた先が私達の学校だ。ちょうど並木道の手前のあたりで自転車に跨がったまま日傘を差し、こちらをみている女の子がいた。私に気付いたのか手を振っている。瞬間、私の隣にいる晴が「またあいつか」と舌打ちをしたので、私は晴の脇腹を軽く小突いた。いてっ、と声をあげたが、それは無視した。
「梨乃ーおはよう!」
私の名を呼びながらあどけない笑みを浮かべたのは、大沢秋穂。高校一年の時からの同級生で私の一番の親友だ。
「おはよ」
「今日お昼からめちゃくちゃ暑くなるらしいよ。なのに日焼け止め忘れちゃってさ、梨乃持ってる?」
縋るような目を向けられる。「うん持ってるよ。学校に着いたら渡すね」と笑みを向けると、秋穂は茶色に染めた髪を微かに揺らし、鏡を映したように笑った。
「あっ、いたんだワンワン」
私に向けられていた秋穂の目が晴へと滑っていく。晴はすぐさま舌打ちをし、秋穂に見られないようにでもしているのか私の背に隠れた。
「まあそりゃいるか。だってワンワンだもんね」
覗きこむようにして悪戯な笑みを浮かべている秋穂は、晴のことをいつからかワンワンと呼ぶようになった。年下で、いつも私と一緒にいる為に、まるで飼い主にくっついている子犬みたいで可愛いからというのが理由らしい。
「梨乃はいいなー。私も毎日律儀に家の前まで迎えに来てくれるような、こんな従順でかわいい男の子のペット欲しい」
思ったことを、突発的に口にしてしまう。それは秋穂のいいところでもあり、悪いところでもある。身体をよじらせながらなんてことを言うのだと呆気にとられ眺めていると、ついに晴の我慢の限界に達したのか「なあ、ワンワンって呼ぶなって何回言わせんだよ」と私の背から秋穂の方へと詰めよっていった。
「あっ、タメ口」
「お前なんてタメ口で十分だろ」
「はあ? いくら梨乃と幼馴染でもあたしと梨乃は一応高3だよ? 二つも下なんだから敬語使いなさいよ」
「うるせぇよ」
「ワンワンのくせに」
「だからそれやめろって!」
毎朝繰り広げられるこの2人の小競り合いも、私からしてみれば見慣れたものだった。いつも気付いた時には争いを終えている為に、こういう時は放置することにしている。ちいさくため息をつき、ぼんやりと空を見上げた。海鳥たちはまだ騒いでいた。きっと今日か明日。もうすぐだ。そう思い、一瞬だけ瞼を閉じて意識を研ぎ澄ませたその時だった。歌が聴こえた。潮の風が揺らぐ中、透き通る程に綺麗な、讃美歌のような歌が空から降ってきた。自転車にまたがったまま空に手をかざす。指の隙間から強いひかりが漏れていた。
「……お父さん」
無意識にぽつりと呟いた声が、潮の香りを孕んだ風の中に溶けていった。