第十六話
母が目覚めてから一ヶ月が経ち、私は晴と横並びになって砂浜に腰を下ろしていた。水平線の向こうでは、海に溶けるように夕日が沈んでいく。私たちはそのあまりにも美しい光景に目を奪われ、ぼんやりと眺めていた。
「それにしてもおばさんには驚いたよ。退院してからたった一ヶ月でお店を再開しちゃうんだもんな」
「ねっ、私も無理しないでって言ってるんだけどさ、皆にお世話になった恩は返さなくちゃって倒れる前より張り切ってるんだよね」
そう言うと、強いなーと晴は笑った。
「でも、お母さんじゃないけどさ私も感謝しなくちゃって思ってる。私たちの為にあれだけのことをしてくれた町の人たちに」
夏の淡い風は少し甘い匂いがした。それを肺の中へと大きく取り入れてから、「あと、晴にもね。ほんとに感謝してる」と付け足した。晴は少し照れくさそうに頭に手をやり、ちいさく「おう」と呟いた。その言葉を最後に静寂が降りた。ずっと鼓膜に触れていた波の音が少しだけ大きくなった気がした。
あの日、花火が打ち上がった日に私たちは気持ちを伝えあったが、一ヶ月経ってもそこから先の進展は無かった。年は私が二つも上だから私から切り出した方がいいのかなとは思ったけれど、やっぱり晴の方から切り出してもらいたい気持ちもある。でも迷った結果、私からにしようと決意し「あのさ」と言うと、晴の「莉乃」と私の名を呼ぶ声と重なった。
「なに?」
「いや、お前から言えよ」
「晴もなんか言いかけてたんじゃん。晴からいいなよ」
「やだよ。コンマ何秒お前の方が早かっただろ?」
子供のようにむきになり、なんでこんなくだらない事で言いあっているのだろう。そんな事を考えてたら自然と笑けてきた。つられるように晴も笑ってる。でも、それから程なくして「分かったよ。じゃあ俺から言う」と晴が身体を向け真っすぐに私の瞳の中心を捉えてくる。
「俺はさ、子供の頃からずっと莉乃のことが好きだった。二つも年が上だからかな、妙に落ち着きがあってタメの女の子とは少し違うっていうか、莉乃と一緒にいると楽しいし」
夕日のひかりを浴びながら晴は私の良いところをつらつらと言ってくれている。でも、「あーまとまんねぇわ。長いよな、ごめん」とすっと息を吸い込んだ。
「とにかくお前のことがずっと好きだった。俺は二つも下だし、莉乃とタメのやつに比べたら背も低いし頼りにならないようにみえるかもだけど。でも、誰よりもお前のことを大切に思ってる。これだけは誰にも負けない自信がある。だから、付き合って下さい」
晴の目は夕日のひかりを吸い込んできらきらと輝いていた。みながら、ああ、と思う。だから私は好きになったんだと気付いた。いつも真っすぐで、自分の感情を垂れ流しで、その分少々怒りっぽいところもあるけど、他の男の子の誰よりも私のことを想ってくれていることが伝わってくる。私は、そんな晴のことが好きで好きで仕方ないのだ。
「私も晴が好き。でも、私でいいの」
「えっ」
晴が目を見開いた。
「ほら私ってこんな感じだしさ、それに高校卒業したらただのお弁当屋の娘になるんだよ?」
これは母が倒れる前から決めていたことだった。父が亡くなってからというもの、母は女手一つで私をここまで育ててくれた。あのお弁当屋を一人で切り盛りするのは限界があるし、私は母に恩を返したい。だから、その選択を選んだ。
「あと、海鳥の歌が聴こえる変人だし、満月の夜には亡くなった人を扉の向こうまで案内しなくちゃならないし」
私は、海鳥たちの歌が聴こえる。歌が聴こえる者には使命がある。この土地で生まれた人たちが数千年も続けてきたその使命を私も全うすることを決めたのはつい最近のことだ。力が芽生えて間もない私は、まだこの世を旅立った人をみることは出来ないが、その人たちをみることが出来る葉山くんの仕事を私もサポートすることに決めたのだ。何が出来るかは分からない。けれど、この土地に生まれ、その使命を授かったなら、私は私なりにやれることを全うしたい。
「それに、晴よりも二つも上だからさ、私は晴よりも早く老けていくよ。あと」
更に言葉を紡ごうとした時、「もういいって」と肩に手を置かれた。
「今言ってた事全部、俺からしたらどうでもいいよ。俺はさ、莉乃だからいいんだ。っていうか、莉乃じゃないと嫌なんだよ」
もう十分だと思った。晴の気持ちは痛い程に伝わってきた。
「分かった。私からも宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げた時、身体を引き寄せられて気付いた時には私の頭は晴の肩に乗っていた。潮の香りを孕んだ風にのって、晴の甘い匂いに包まれる。
「ずっと、こうしたかった。いつかこんな感じで二人で夕日みれたらいいなってずっと考えてた」
「私も」
もうじき日が沈む。水平線の向こうで、海に溶け落ちるように沈んでいった夕日は、頭の先だけを海から出しているみたいだった。それは、あっという間に沈んでいき、最後に放たれた薄透明の橙色のひかりが、怖いくらいに綺麗だった。