第十五話
一時間程夜道を走り、山の中腹にある病院に辿り着いた。私を降ろすと晴は「いってこい」と笑みを浮かべた。
「一緒にいかないの」
「皆を集めたのは俺だからさ、俺だけが楽する訳にはいかねぇだろ。花火、絶対に打ち上げるからな。待ってろ」
「うん。ありがとう」
登ってきた山道を再び駆け下りていく晴の背中を見送って、私は病院の中へと足を進めた。受付で母の部屋を聞いた。402号室。扉を開けると、照明が絞られた部屋の中で母はベッドで横になっていた。みたこともない機械から幾つもの管が母の身体へと伸びており、口元には呼吸器をつけている。微かに上下する胸の動きが母がまだ生きている事を教えてくれる。
ベッドの傍に椅子を持っていき、私はそこに腰を下ろし母の手を握った。
「皆が私たちの為に頑張ってくれてるよ。だから、お母さんも頑張って」
顔をみながらそう呼びかけた。部屋の奥、ちょうど私の背の辺りには大きな窓があった。そこからみえたのは夜が溶け落ちた世界と、真っ暗な海、それからさっきまで私がいた港や町の灯りがちらほらとみえた。この病院は山の中腹にある為、町をよく見渡せた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。私は母の手をずっと握りしめていた。お母さんが助かりますように。どうかお願いします。連れていかないで下さい。ポケットに入れていた携帯が震えたのは、そんな風に祈っていた時だった。秋穂という文字が画面に表示されている。私はすぐさま指を滑らせた。
「もしもし」
『あれ、莉乃テレビ電話! テレビ電話に切り替えて』
私は言われるがまま切り替えた。すると、そこには街灯の明かりに照らされた秋穂がいた。後ろには葉山くんもいる。
『ワンワンに呼び出されちゃったよ』
「晴に?」
『まあ、そんな事はどうでもいいや。とにかく、もうすぐカウントダウンが始まるから楽しみにしてて』
画面の向こうにいる秋穂はそこで一度振り返り、もういいですか?と誰かと話している。
『莉乃いくよ』
秋穂がふっと笑みを浮かべた。
『5』
『4』
『3』
『2』
『1 』
カウントダウンがゼロになった瞬間、視界の端に眩いひかりがみえた。次いで笛を吹いたような高い音が鼓膜に触れる。電話越しではない。外からだった。私は窓の向こうへと目を向けて息を呑んだ。夜が溶け落ちた広い空に、赤や青、それから黄色の大輪が夜空に咲いていたのだ。それはふわりと花弁をひらいて、赤い火花を散らしながらも夜に溶けていった。
「……花火」
『そう、花火! 皆、莉乃とお母さんの為に頑張ってくれてるんだよ。ほら、みて』
そこで画面に映し出されたのは、慌ただしく何かを運ぶ漁師たちや町の人たちだった。一瞬だったが、晴も映っていた。
『皆、莉乃のお母さんのお弁当をまた食べたいんだって! 早く元気になって欲しいんだって!』
画面の向こうには隆さんが映っていた。隆さんの声が電話越しに聴こえた。隆さんは腕を掲げ「いいか? 夜明けまでだ。それまで絶対に花火を絶やすなよ。このくそったれの蒸し暑い夜に大輪の花を咲かせてやろうぜ」と声を上げると、それに合わせるように周りにいた人たちが「花火を絶やすなー!」と唸り声をあげた。
「ありが……とうございます。ほんとに、ありがとう、ございます」
みながら、涙が止まらなかった。次々と溢れ落ちてくる涙を拭い、私は画面越しに何度も頭を下げた。
『ちょっと莉乃、泣かない、でよ。私まで泣けてくるじゃんか』
「ごめん……でも、なんかもう涙が止まらなくて」
夜空に花火が打ち上がると、私と母のいる部屋はその色に染められた。少し遅れて、笛を吹いたような高い音が鼓膜に触れる。母が好きだった音。まだ私が生まれる前の、父との思い出の音。お母さん、お願い。戻ってきて。ここまでしてくれた皆の為にもと、私は電話を切ってから母の手を握り声をかけ続けた。
夜空に咲き乱れる無数の花のひかりを背に、私はただ祈り続けた。幾つもの花が夜空に咲いて、散った。微かに母の手に動きがあったのは、夜が明ける少し前のことだった。
「お母さんっ」
呼びかけた。何度も何度も。
「お母さん、戻ってきて! お母さんっ」
私の声に引き寄せられるように、母はうっすらと目を開けた。か細くちいさな声だったが、私の目を見てこう言ったのだ。
「……莉乃、はな、び」
涙が、溢れた。