序章
序
「・・・面妖な」
一人の僧が訝し気に呟く。
出雲国鰐淵寺の本坊には住持以下南院・北院の主だった僧が集まっている。板敷の間の中央に住持、取り囲むように五、六人が座す。
弘安七年(一二八四)九月八日、午の刻。広い本坊は仄暗いが、開け放たれた戸口からは真昼の日差しが注いでいる。ことにここ数日は、秋と思えぬ暖かさが続いていた。
住持の前の机上には書状が置かれている。この日の早暁に届いた、出雲守護佐々木(塩冶)頼泰による施行状である。
守護から書状が届くのは日常であり、そのつど僧が参集することはない。しかし今回の内容は、常に似ない奇妙なものであった。
相模式部大夫殿同御子息令経廻所々給由事
去八月廿日関東御教書今月六日到来案文如此
早任被仰下之旨無緩怠之儀可被存知候也
仍執達如件
弘安七年九月七日 左衛門尉(花押)
鰐淵寺南北衆徒御中
「相模の式部大夫殿とその御子息が所々を経巡っている旨の知らせが、今月六日に鎌倉より届いた。よって警備を強化せよ」が大意である。相模の式部大夫とは、鎌倉幕府五代執権北条時頼の長庶子北条時輔を指す。書状の脇には関東御教書の写しが添えられていた。
「南殿と申さば、十年余りも前、ほかならぬ関東により誅せられたお方。それが今なお、諸方を経巡り歩いているなどと・・・」
南殿という呼び名は、時輔が六波羅南方探題として多年、京都の治安維持に当たってきたことに由来する。西国ではそれが通り名になっている。
その彼は、十二年前の文永九年(一二七二)二月十五日、世にいう二月騒動で、時の北方探題北条(赤橋)義宗に誅殺されたはずである。
「・・・噂は、聞いたことがあります」
年若い学侶が口を開く。
「噂?」
「はい。かの騒動の折、南殿は屋敷を焼き払われながらも、討たれることなく、吉野へ出奔したと」
「・・・」
しばしの沈黙の後、年配の僧が住持に進言する。
「いずれにせよ、判官殿の施行状とあらば、捨て置くわけにはゆきますまい」
「・・・うむ」
それまで瞑目していた住持が口を開いた。
「衆徒には、懈怠なく見廻るよう申し付けよ」
自ら殺害したはずの人間について、改めて警戒せよといってよこす、一体関東は何を考えているのか。誰も納得できないまま、住持の言葉によって、場は散会となった。