第2章
金曜日の晩の「崖っぷち」は盛況で、その日、3組目のバンドとして登場した「Come Away」は5曲ほどのカバー曲を披露して、大喝采を受けた。特に、エンディングとなったU2のWith or Without Youは聞かせた。キーランはジーンズのポケットに手を入れて、斜めに床を見つめたまま淡々と歌ってみせたが、そういうジェスチャーがかえって声の底のやりきれなさを強調する。
With or Without You
With or Without You
I can’t live
With or Without You
それは確かに困ったことだよね。聖少女に恋をしていたら、そんな風に言いたくなるのはわからなくもないけれど。
店の中ほどで身体を音楽にすっかりまかせているうちに、いつの間にかそんなことを呟いていて、ジェニファーは人知れず赤くなる。
仲の良い「Come Away」の4人組は、一緒に店のフロアに戻って来た。アンジーがイライジャを呼び、そういうアンジーに促されるように、キーランがこちらを向いた。ジェニファーを見つけると屈託なく笑って、こっちに来いよとでもいうように手招きをする。知らないうちにあのキーラン・ケネディから友だち扱いされるようになっていたようだった。
これはお前の分と言ってビールのボトルを差し出すと、キーランは外に出ないかと聞いた。特に断る理由もなかったので、そのままキーランについて店の外に出ると、5センチ程の間隔をとって、ドアの脇の壁に寄りかかるように腰を下ろす。4月になったとは言え、夜の空気は冷たく、多少のアルコールに影響され始めていた頭がスッキリと冴えわたっていった。
「お前、あの後、サツキのことを上手くなだめてくれたんだろう。デーヴィッドがものすごく感謝していた」
ゆっくりとビールを口に含んだ後、キーランは言った。親しげな笑顔を浮かべ、自分のことを見ている。そういうことか。
「私はサツキの愚痴に付き合っただけだよ。彼女の言うこともわかると思ったし。素直なのもいいけれど、デーヴィッドはもう少しサツキのことに気を遣ってもよかったんじゃないかな。あれだけ美少女が目の前に現れて、自分の彼氏と仲良さげにしているのを見たら、誰だって心配になるはずだよ」
「お前がそういう風に言っていたって、デーヴィッドには言っておくよ。アイツがどの程度、サツキに気を遣うことができるのかオレにはよくわからないけれどさ」
つまり、デーヴィッドはそれほどサツキには執着しているわけでもないのだろうか。ジェニファーは自分の頭に浮かんだそんな疑問を口には出さないように、ビールに口をつける。
「お前、あのレストランでのアルバイトって、長いのか」
暫くの沈黙を挟んで、キーランが突然、思い出したかのように聞いた。
「大学に入ってからだから、半年ぐらいかな。何で?」
「だって、これまであのレストランでは会うことがなかっただろう」
「キーランはあのレストランによく行くの?」
ジェニファーはびっくりして、問い返していた。あそこは超がつく高級レストランのはずだった。
「よくは行かないよ。でも、エディがニューヨークに来ると、あそこで食事をすることがたまにあるかな。あの店の経営は、エディやセディが関わっている会社だからね。この前行ったのは、クリスマスの前で、あの時はウチの親とエディだけだったから、オレがクローク・ルームまで皆のコートを持って行ったけれど、クローク係は別の女性だった」
ジェニファーは咄嗟に息を深く吸い込んでいた。川嶋社長はあのレストランの経営者でもあったわけか。だとしたら、あの夜、ピアスを見つけた代わりに本に夢中になっていたことを見逃して貰って、本当に助かったわけだ。思わずのように、安堵のため息が漏れる。
「私は週3回の出勤なの。でも、セディって、誰?」
「セオドア・ウォルトン」
「キーランはウォルトン上院議員のことを愛称で呼んでいるの?」
ジェニファーは完全に声を上ずらせてしまったが、対して、キーランは軽く肩を竦めてみせただけであった。
「セディとエリーおば様は、赤ん坊だった頃からオレのことを知っているんだ。だから、子どもの時にエリーおば様とセディって呼ぶように言われて、ずっとそう呼んできただけだよ」
こともなげにキーランは答える。まったく、この青年はどういう生活をしてきたんだろう。ジェニファーは圧倒されたようにも思い、再び息を吐いた。
「キーランの実家って、何だかとてつもないエリートみたいだね。デーヴィッドは、ご両親がアッパー・ウェスト・サイドのでっかいコンドミニアムに住んでいるって言っていたし、お父さんはウォルトン上院議員と川嶋社長の顧問弁護士なんでしょう」
ジェニファーの質問に、キーランははっきりと口を曲げた。
「確かに家はアッパー・ウェスト・サイドにあるし、親父があのふたりの顧問弁護士をしているっていうのも事実だけど、結局のところ、エディの母方の家と長い付き合いがあった弁護士事務所の大ボスが引退した時に顧問弁護士を引き継いだだけだし、だいたい、オレの親父はヘルズ・キッチンで生まれ育ったコチコチのアイルランド系で、エディやセディと違って成り上がり者なんだ」
ヘルズ・キッチン。その地名を聞いて、ジェニファーは小さく息を吸った。カソリック教徒の人口が多いその地域は、不案内な人間はあまり近づかない方がいいと言われる場所であるはずだった。同じニューヨークでも、あのレストランとヘルズ・キッチン間には決して埋めることができない距離が存在している。
「お父さんはアメリカン・ドリームの体現者だったんだね」
多分、そんな風に言ってしまうのが無難なのではと考え、とりあえず言ってみる。キーランは小さく吹き出した。
「お前、この先、パットと話をする機会があっても、そんなことは口が裂けても言うなよ。アイツ、すぐに調子に乗るんだ」
「お父さん、パットって名前なの?」
「パトリック・ケネディ。困ったくらいにアイルランド系だろう?」
確かにその通りだった。それで、ジェニファーもキーランに付き合って、少しだけ笑う。
「お母さんは、とても優しそうな、素敵な人だったね。でも、ニュー・スクールで社会学を教えているんだって?それもすごいよね」
「母さんの家は学者の家系だからさ。祖父さんは数年前に引退するまでハーバードの経済学の教授だったし、伯父さんもボストンの大学で経済学を教えている」
「何だ、やっぱり、すごいエリートなんじゃない」
「すごいことなんてないよ。母さんの家の方はそこそこのスノッブなんだろうけれど、でも、それであのふたりが結婚した当初は母さんは勘当されていて、けっこうな貧乏生活をしていたって言うし、それにエディの家と比べると全くたいしたことがない」
「川嶋社長の家?」
「エディの父親と母親って人は、揃って貴族の家系出身の母親に育てられたわけだし、父方の家はもちろん川嶋電機の創業者の家で、母親の方は大きな財団を持っていたアメリカ有数の名家なんだ。で、この母親の従妹がエリーおば様」
「貴族ですって?」
まったくもって時代錯誤的な響きがするその単語に驚いて、ジェニファーはつい聞き返してしまう。
「そう。第1次世界大戦前のドイツの男爵令嬢と日本の子爵令嬢。小説みたいな話だろう。このふたりが大金持ちと結婚して、それでエディの父親と母親が生まれた。そういう親だったんだから、ああいう人間が生まれてくるのは無理のないことなのかもな」
キーランの言い方には、はっきりと諦めたような響きがあった。それで、ジェニファーはグルリと首を回して、キーランの顔を見返していた。
「ひょっとして、キーランはあの川嶋社長に対抗しようと思っているの?」
「何だよ、そのあの川嶋社長って言い方は」
完全に気分を害したような声で、キーランは聞き返した。つまり、キーランにはそのつもりが多少なりともあったというわけだ。そういうキーランにジェニファーはとても感心していた。レストランで垣間見た限り、川嶋社長という人間は完璧だった。人並み外れて端正な容姿と隙のない身のこなし。それに、あの若さで業績が好調な世界的大企業の社長をしているわけで、そんな人間と自分を多少でも比べてみようとすることだけで、それはとても傲慢な行為のように思えた。そこまで考えて、ジェニファーは気がつく。そう言えば、キーランも周囲にため息を吐かせるほどまでに何でも持っている青年であった。そういうキーランが川嶋社長のようになりたいという気持ちを持つのは当然のことなのかもしれないし、しかも川嶋社長は聖少女の父親ということだった。キーランの大事な聖少女。
「キーランは川嶋社長とは随分と親しいみたいだね」
「まぁ、オレにとってエディは名づけ親だし、それにウチの親とエディは学生時代からの友人で、アイツ等は一時期、共同生活をしていたんだ。だから、オレと美波は、小さかった頃から、二組の親に育てられたみたいなものでさ」
「それで美波はキーランにとって妹みたいな存在なわけだ。でも、美波のお母さんは?今、二組の親って言ったよね。それは川嶋社長の最初の奥さんのこと?」
ジェニファーの質問に、キーランはスゥッと目を細めて、唇を噛みしめた。警戒しているのだろうか。そう言えば、この前、この店で話をした時も、数回、こんな反応をしたような気がする。川嶋社長と美波の親子関係について他者に触れて歩くなと言った時と、川嶋社長の罪悪感の話。
「お前さ、エディのことを調べたの?」
「雑誌の記事を幾つか読んだだけだよ。川嶋社長が日本人女性と再婚したのは意外だったとかいう同級生のコメントがあったのを覚えていたんだ」
「Fortuneの特集か。でも、あんな些細なコメントを覚えていたっていうのは、けっこう目敏いよな。それに、人に話をさせるのも上手いし。お前、ジャーナリストになるといいんじゃないか」
多少の緊張を解いて、キーランは言った。つまり、話題を変えたいわけだ。まぁ、いいけれどねと、ジェニファーはビールを口に含む。
「人にここまで家の事情を話させたんだ。今度はお前のことを話せよ。お前の実家は?」
実際、間を開けず、キーランは畳みかけるように聞いた。ジェニファーとしてはもう少し川嶋社長と聖少女のことについて探ってみたかったのだが、キーランの態度は今、この場でこれ以上のことを聞くことが難しいことを示していた。じっくりと話を進めていくしかないとしたら、キーランのことを少し懐柔しておくのも悪いことではない。
「出身はニュージャージーの小さな工業町。多分、名前を言っても知らないんじゃないかな。産業機械なんかを作っている工場があるんだけれど、私が覚えている限りずっと経営不振で、そのうち工場も町もアメリカの地図から消えてなくなるんじゃないかと思う。で、父親はその工場で働いていた機械工だったんだけれど、私が4歳の時に両親は離婚して、私は母親に引き取られた。母親はその後、別の機械工と再婚して、弟と妹を産んだんだけれど、実の父親は数年前から行方不明なんだ」
「それで、週に3回もアルバイトをしているのか」
「週に3回のアルバイトなんて普通じゃないかな。高校時代はもっとやっていたよ。キーランはアルバイトをしたことがないの」
「そこまでボンボンじゃないよ。高校時代は、東京の飲食店で働いて小遣い稼ぎをしていたんだ。でも、そう言えば、ニューヨークに戻って来てからは、あの手のアルバイトはあまりやっていないな。時々、日本人の留学生から英語を校正してくれって頼まれるんだけれど、これがけっこうな収入になって、他のアルバイトをする必要がないんだ」
「そう言えば、日本語が堪能なんだっけ。いいね、そういう特技があると」
「子どもの時から美波に付き合って習ってきたし、結局、4年も東京に住んだんだから、日本語ぐらいできないと情けないよ」
「随分と長いこと、東京に住んでいたんだね。どんなところなの、東京って?」
「そうだな。大きな都市だから一概には言いにくいけれど、人がたくさんいて、ゴチャゴチャしていて、けっこうな騒音がして。だから、ニューヨークとそんなに変わらないのかもな。お前はさ、ニューヨークのことをどう思う?この間、ウィルがさ、ニューヨークに出てきて仕事をするようになるなんて、考えるのが難しいって言っていたんだ。慣れるまで長い時間がかかるんじゃなかって」
やっぱりキーランはさりげなく話題を変えた。東京に住んでいたことには、まだあまり触れたくないわけか。キーランと話をするのは、けっこう、めんどうくさい。
「ウィルって?」
「セディの息子。あのレストランにいただろう」
「あの人、ニューヨークで仕事をするの?」
「あと数年してHLSを卒業したら、きっとパットの法律事務所に入るんじゃないかな。それで暫く弁護士稼業をやった後で議員になるんだろうね。アイツはさ、政治家になるには育ちが良すぎるっていうヤツもいるけれど、我慢強くて、慎重だから、きっと上手くやるよ。それにアイツが政治家にならないものならば、エリーおば様が心臓発作を起こす」
「そういうのも大変だね」
ジェニファーはあの夜、ほんの一瞬だけ顔を見た銅色の髪の青年のことを思い出そうとしてみた。表裏のない、とても優しげな眼差しが印象的だった。正直言って、政治家としてやっていけるのかと心配する人たちがいるっていうのもわかる気がする。それでも、キーランはそういうウィルのことをきちんと庇っているわけで、それはそれで、とてもお坊ちゃま同士らしい友情の示し方であるのだろう。
「キーランおじさん、探したぜ」
暗闇からその声が聞えてきた時、ジェニファーとキーランはカート・ヴォネガットの小説について語り合っていた。ジェニファーの通っていた高校ではヴォネガットの愛読者は少なく、自分の同学年の人間と好きな小説の話ができることを単純に嬉しく思っていた。キーランもその時の会話を楽しんでいたようだった。だからこそ、ジェニファーは、その声がしたのと同時にキーランが表情を激しく強張らせたことに恐怖にも似た感覚を覚えたのだと思う。
「マイキー、お前、こんなところで何をやっているんだ」
びっくりするような低い声で、キーランが尋ねる。すぐに、年はほとんど変わらないように見える、中背で黒髪の青年がか細い街灯の灯りを受けて現れた。そばかすが散らばる目元は微笑んでいたけれど、なぜか良い印象を受けなかった。
「おじさんに会いに来たんだよ。ニューヨークに戻っていたのに、オレにもお袋にもまったく連絡をよこさなかったなんて、そりゃあ冷たすぎるぜ」
「オレはお前のおじさんじゃねぇよ」
取り付く島もなく、キーランは言い捨てた。マイキーと言われた青年は、陽気な調子の笑い声を立て始める。
「お前はお袋の従弟だろう。おじさんじゃねえか。お前とエディ・カワシマよりも血の繋がりは濃いはずだぜ」
キーランは無表情でマイキーという少年を見返すと、ジェニファーの腕を強く握り、立つように促した。ジェニファーはと言えば、キーランの突然の変化に、完全に呆気にとられていた。
「ジェン、お前、先に店の中に戻っていろよ。オレはコイツと少し話をしなければならないけれど、終わったら寮まで送って行ってやる。アンジーはどうぜ、今晩はイライジャのところに泊まるんだろう」
キーランの調子は、完全に切羽詰っていた。それで、確信がないながらも、ジェニファーはキーランに対して頷く。
「いいねぇ。コロンビアに通うお坊ちゃんには、ミーナが留守の間の女もいるわけだ」
「ミーナじゃない。美波だ。それにコイツはクラスメートだよ」
厳しく言い渡し、キーランはジェニファーに店の中に戻るよう、ドアを開ける。キーランの状態が気にかかってはいたのだが、その時点で特にできることもなく、ジェニファーはなし崩し的に店の中に入って行った。数歩歩いて、気になって振り返ると、キーランはマイキーを顎でしゃくって、夜の舗道に消えていくところだった。
店の中に戻ると、すぐにピッパに腕を取られ、女の子3人が囲むテーブルに連れて行かれた。どこかで見たことのある子たちだと思ったら、3人のうちのふたりはジェニファーと同じ寮に住んでいて、もうひとりは同じ学部の一年生だった。一体、何の用があるのかと思い、ジェニファーはその場にいた女の子たちの顔を順繰りに確認していく。なせだか、皆、とても興味深そうに、ジェニファーのことを眺めまわしていた。
「キーランと随分と話し込んでいたじゃない」
ピッパが聞いた。友好的な顔つきのわりには、声が尖っていた。ひょっとして誤解されてしまったかもしれないと、ジェニファーの頭を悪い予感が占領する。
「そうだっけ」
「ふたりだけで、1時間以上も話していた」
それは確かに迂闊だった。ジェニファーは咄嗟にそう思い、できるだけ邪気がない笑顔を浮かべようと、精一杯の努力をする。
「何の話をしていたの?」
そういう質問を発したピッパの声は、まったくもって真剣であった。だからこそ、お互いの家族のことを話していたとはとても言えないと感じる。
「カート・ヴォネガットのこととか」
「カート・ヴォネガット?」
「『スローターハウス5』とか『母なる夜』を書いた作家。『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』も面白いよ。ピッパは読んだことがないの?」
「ない」
妙に断定的にピッパは言い切った、それで、ジェニファーは、ピッパの機嫌が至って悪いことを悟る。でも、だったら、自分にどうしろって言うのだろう。
「私たちね、実は全員、キーランを経験済みなの」
ジェニファーが黙っていたら、向かいに座る同じ学部のブルネットの女の子が突然に言った。口を窄めて、少し挑戦的なニュアンスを感じる。
「経験済みって?」
要領を得ず問い返すと、ピッパとその隣に座っていた同じ寮の子が目配せをして笑い合った。馬鹿にされたようで、何となく不快だった。
「ねぇ、私たち、知り合いだったっけ。名前ぐらい名乗ってもいいんじゃない」
ジェニファーの言い方にはっきりとした苛立ちを感じたのだろう。ピッパが慌てて、笑顔を取り繕う。
「ああ、ゴメン。クリスティナとリジーとは寮が一緒だって話だったからお互いに知り合いなのかと思っていた。あらためて紹介するね。こっちの黒のシャツの子がクリスティナで、その隣がリジー。で、向かいに座っているのが、同じ学部のニコール」
「それでね、私たちは皆、キーランの2週間から4週間の気まぐれに付き合った昔のカノジョなんだ」
ニコールがやっぱり、含みがある感じで笑いながら、付け加えた。そういうことかとジェニファーは納得する。でも、自分から気まぐれって言ったということは、キーランは彼女たちと恋愛をしていたわけではなくて、彼女たちもそれを知っていたということなのだろうか。ジェニファーは改めて、その時、テーブルを囲んでいた4人の女の子たちのことを見直した。皆、揃いも揃って、それなりに綺麗だし、スタイリッシュだし、しかも裕福な家の子どものように見える。こういう女の子たちを惜しげもなく振ってしまったんだ。それもセックスをした後で。そう考えると、キーラン・ケネディも性質が悪い。
「キーランの2週間から4週間の気まぐれにはパターンがあるのよ。最初はこちらから少し誘いをかけるとキーランが乗って来て、セックスをする。それから1週間ほどはけっこうセックスをするんだけれど、キーランは夜、ふらりと現れて、絶対に私たちの部屋には泊まらない。それで、お互いにセックスに飽きてきた頃に、私たちがそれなりに話をして、多少の関係性みたいなものを作ろうとするじゃない。そうすると、最初はそれなりに付き合ってくれそうな素振りも見せるんだけれど、そのうちにもうやめようって言い出すわけ。その期間が2週間から4週間で、今まで4週間の壁を突破した女の子はいないはずよ」
「それから、キーランがふたりっきりで長い時間、話をした女の子もこれまでいなかった。ジェンが最初なんじゃないのかな」
ピッパがクリスティナの長い説明を受け取って、不機嫌に付け加えた。正直、そんなことを言われても困る。
「私は皆みたいに女の子っぽくないし、魅力的ではないから、セックスする対象ではないだけなんじゃないのかな。それに、キーランは結局、美波に恋をしているんだと思うよ。でも、何らかの理由でそれを認めたくなかったから、皆と付き合ってみて、でも上手くいかなかった」
「美波に恋しているって、キーランが言ったの?」
驚いたのか、椅子から少し腰を浮かせて、ピッパが聞く。ジェニファーには肩を竦めてみせるしかなかった。
「そんなことは言わないよ。でも、見ていると何となくわかるじゃない。キーランはあの子のために、本当に一生懸命になっていた。だから、きっと、ピッパが先週言っていたことは正しいんだよ。キーランは美波がおわす神殿を守る騎士で、そう考えるとちょっと純真で、可愛いんじゃないかな」
もっともそれで数多くの女の子とセックスして、すぐに別れてしまうのは、やっぱり頂けないことだとは思うけれど。もちろん、そういう追加のコメントは、その時は口には出さなかった。これは多分、後でキーランに直接言うべきなのだろう。
「ねぇ、その美波って子、とっても綺麗な子だったんだって?実際、どういう子だったの?」
そう聞いたのはリジーだった。ぐいっと身を乗り出して、テーブルを囲む全員の顔を興味津々に覗き込んでいる。
「そうか。リジーは学部も違うし、先週の金曜日はこの店に来なかったものね。あの神聖な処女には確かに会えなかったよね。」
よほど気に入ったのか、ピッパは再びその呼び名を使って美波のことを呼んだ。神聖な処女ですってとリジーの顔が奇妙に歪んで、乾いた笑い声を立て始める。
「笑い事じゃないわよ。本当にそういう感じだったんだから。とびきりの美少女であるわけだけど、その上、びっくりするぐらいにピュアで優しげな雰囲気を漂わせていて、私たちなんかが手を触れてはいけないような神聖な感じだった。それに、あの子はきっと、とんでもないお金持ちの家の子どもよ」
「どうしてそう言えるの?」
好奇心を強く刺激されて、ジェニファーは問いかけていた。この手の問題では、ピッパの観察はかなり的を射ている。
「だって、あの子はピアスを2組していたけれど、一組はティファニーの限定品のダイヤモンドのピアスだったし、火曜に着ていたコートとワンピースはフランスのブランドの限定品のはずよ。相当のコネがなければ手に入らないんじゃないかな。先週の金曜日の服装の方はずっとカジュアルだったけれどね。私たちを驚かさないようにって配慮だったのかも」
それからピッパは、一瞬だけ考え込むように視線を落とす。
「でも、そういう意味で言えば、アクワマリンがついていたもう一組のピアスと小指にしていた指輪はどちらの日も身に着けていたけれど、私たちでも持っている感じのアクセサリーだったな。他の品とのバランスを考えてみたら、ちょっとチグハグよね」
そうだったんだと、ジェニファーは感心する。ピッパは他人がどういう装いをしているのか本当によく見ている。自分にはこういう芸当はできそうもなかった。そう言えば、キーランは、アクワマリンのピアスは自分がプレゼントしたものだと言っていた。つまり、ピッパはとても正確に言い当てたわけだ。
「そっちはボーイ・フレンドに貰ったんじゃないの。処女じゃなかったりして。だって、16歳だっていうじゃない」
「私はどちらかっと言うとピッパに賛成だな。喋っていたところをちょっと聞いたけれど、純真無垢で、世間知らずのお嬢様だっていうのはとても納得できる評価だし、それにキーランは処女好きなんじゃないかな。だから、私たちは皆、討死をしてしまった」
リジーのあまり好意的と言えないコメントを受けて、ニコールはそんなことを言った後、ジェニファーの方にチラリと思わせぶりな視線を投げた。そういう噂になっているならば、それはそれでいいけれどねと、ジェニファーはつとめて気にしていない素振りで曖昧な笑顔を保つ。
「お前らさ、よく知りもしない他人のプライバシーについて好き勝手なことを言っているんじゃないよ。だから、オレたち、2週間から4週間の気まぐれにしかならなかったんだ」
突然、頭上からキーランの声が落ちて来て、顔を向ける。コートを身に着けて、ギター・ケースを担いだキーランは、かなり怒っているようにも見えた。実際、ニコールの座っている場所からだったら、キーランが近づいて来るのが確認できたはずだ。つまり、ニコールはキーランに聞かせたくて、あんなことを言ったわけだ。それはそれで、かなり意地が悪い。
「何だ、私たちがそう言っていたことを知っていたの」
「そんな風に言って、アプローチしてきた女の子がいるんだよ。自分も素晴らしい2週間から4週間の気まぐれが体験したいって。そんな言葉遣いをするのはピッパ辺りだと思っていたんだ」
「その女の子、どうしたの?」
ピッパが悪びれずにクスクス笑いながら、聞いた。どうやらキーランの推測はとても正しいみたいだった。
「丁重に辞退した」
「じゃあ、今はフリーなの?」
「そうだよ」
「なら、2度目の2週間から4週間の気まぐれをやらない?今度は話をする必要はないから。そっちは、ジェンに任せるわ」
「何だよ、必要なのはオレの体だけってわけか。お前も物好きだね。でも、せっかくの提案だから考えておいてやるよ」
キーランはそんな風に言い放つと、ジェニファーの上腕部に手を置いた。
「行こう。お前がコイツ等の相手をいつまでもしている必要はない」
その時、キーランはわりと強引だった。ジェニファーに立つように促し、出口の方に歩き出す。キーランのそういう対応をピッパたちが歓迎しなかったことを感じ取るのは難しいことではなかった。振り返ると、案の定、4人の女の子たちは全員揃って、ジェニファーのことを厳しい目で眺めていた。この場合、処女で通してしまう方が、きっと都合が良い。ジェニファーは即座にそう決めてしまった。
キーランがけっこうな早足で舗道を歩いて行ったので、ついて行くのはそれなりに大変だった。結局、息が上がってしまい、焦ったように、大きく息を吸う。次の瞬間、キーランは振り返った。
「悪かったよ。でも、お前もさ、もっとゆっくり歩けって言えばいいじゃないか。お前って、本当にアイツ等とは違うよな」
そんな風に言いながらも、さり気なく車道からジェニファーを守る様に隣に並ぶと、今度はかなりのんびりした調子で歩き始める。正直、ジェニファーはホッとしていた。アルコールを飲んだ後で寮までマラソンはしたくない。
「アイツ等って、ピッパたちのこと?」
「ピーチク、パーチクのお喋りおばさんたちのこと」
「おばさんって、一度は付き合った女の子たちでしょう。悪いよ」
「あのタイプは東京にも結構いたんだ。家がそれなりに裕福でもない限り、東京のインターナショナル・スクールに通うことなんてできないからな。で、アイツ等は周囲の人間のゴシップでもなければ、着ているものとか、エキゾチックな場所での休暇とか、レストランの評判とか、そんなことばかり話している。そんなヤツ等と会話をするなんて、できる話じゃないだろう。オレにはアイツ等と話すことなんて何もない」
ポケットに両手を突っ込み、舗道を睨んで、キーランは断定的に言った。キーランの言い方では、自分の好みの女の子とは違うタイプだとことをちゃんと弁えていた上で、ピッパたちと付き合ったことになる。だとしたら、「気まぐれ」という言い方はあまり正しくないのかもしれない。
「でも、キーランだって着ているものとか、エキゾチックな場所での休暇とか、レストランの評判とか、そういう話が得意そうじゃない。いつもオシャレにしているし、ニューヨークで評判のレストランの常連だし」
多少、からかうような含みをもたせて言うと、キーランは不満そうに口を曲げた。
「そりゃ、オレだって人付き合いもあるから、そういう話だってするよ。でも、あの手の話ばっかりっていうのは退屈だし、それに休暇のことを聞かれると困るんだ」
最後の部分は予想していなかった言い方だった。休暇について聞かれると困る。どういう意味なんだろう。つい、キーランの顔を問いかけるように見つめ返すと、キーランは困ったように視線を外した。キーランの触れられたくない話題がまたひとつ。ジェニファーは小さく息を吐いて、急いで別の話題を探した。
「あのマイキーって人、キーランの親戚なの?従姉の子どもだって言っていたよね」
「そうなんだ。パットの兄貴の娘のグレースの子ども。美波より数か月だけ早く生まれたんで、子どもの時、オレたちがパットの両親の家を訪ねると、お祖母ちゃんがマイキーも呼んで、時々、一緒に遊んだ」
今度もキーランはジェニファーが話題を変えたことを歓迎したようで、熱心すぎるような調子で説明する。基本的に素直なんだよね。そんな風に考えて、キーランが殊更にピッパたちに苛立った理由を、ジェニファーは何となく思いつく。きっと、ピッパたちは、キーランが放った特定の事柄は話したくないというシグナルを理解しなかったのだ。あるいは、理解したとはしても、尊重しなかった。だから、キーランは彼女たちとの付き合いを続けることができず、彼らの関係は2週間から4週間で行き詰ってしまった。でも、それほどまでにキーランが秘密にしておきたいことって何なのだろうか。その質問に辿り着いた時、ジェニファーはキーランが自分の様子を窺っていることに気がついた。そう言えば、不自然に長い時間、黙っていた。
「でも、このところマイキーとは会っていなかったみたいじゃない。彼の用事って、何だったの」
「相変わらずの金の無心」
ジェニファーが取り繕うように発した質問に、キーランは俯き、舗道を軽く蹴る。
「お金?」
「アイツはさ、オレや美波と比べて自分は運が悪かったと思っているんだ。まぁ、確かに高校中退で、専門技能があるわけではないシングル・マザーの家とウチの生活レベルはまったく違うからね。アイツの父親は、アイツが生まれてすぐに家出をして、いまだに行方知らずだしさ」
「だからって、キーランがお金をあげる理由はないじゃない」
何となく腹が立って、ジェニファーの語調がつい強くなっていた。すぐにキーランがクスリと笑った。労わるような、優しい微笑み。育ちが良いっていうのは、こういう笑顔を惜しげもなく見せることができることなのだろうかと、ジェニファーは考える。
「そうか。お前のところも父親が行方知れずだって言っていたっけ。でも、マイキーはお前みたいにひとりで生きていく覚悟ができるような人間じゃないよ。昔から、アイツがトラブルを起こして警察沙汰になると、アンディ伯父さんとグレースが家に来てさ、パットにどうにかしろって泣きついたんだけれど、オレはさ、悪いことをしてそれを親や親戚に尻拭いして貰うっていうのはどうかと思っていたんだ」
「その通りだと思うけれどな。親戚に弁護士がいるだけで、既にとってもラッキーなわけじゃない。低所得者世帯の子どもが警察に誤解されて、充分な法律的サポートを得ることができなくて矯正院に送られるなんて珍しいことではないんだから。私はそのマイキーっていう子が甘えているだけだと思う」
「それはさ、ジェンがとても正しいんだろね」
あっさりと認めると、キーランは肩を竦めた。
「本当のところはさ、アイツに金をやったのは、体裁良く追い払うためでもあったんだ。オレにとってはたいしたことのない金額でも、それでアイツは納得して帰って行くわけだから、モメるよりも手っ取り早いじゃないか。それに、アイツはお前のことを色々と聞き始めたし」
「私のこと?」
「ああ。名前とか、年とか、何をやっているのかとかさ。もちろん、オレは、アイツが相手するような女の子ではないって言っただけで、何も教えなかったけれどさ。アイツは、昔から、オレの女友だちにちょっかい出そうとするんだ。だから、お前もアイツが話しかけてきたとしても、徹底的に無視しろよ」
キーランはかなり真剣にそう言った。そんなキーランの調子に悪いなと思いつつ、ジェニファーはつい笑ってしまう。
「心配してくれたのは嬉しいけれど、ピッパたちならともかく、私に限ってそういうことはあり得ないよ」
「何で?」
キーランにはジェニファーの返答が意外であったようだった。軽く首を傾げる。
「だって、私は、彼女たちのように綺麗ではないし、女の子ぽくないし」
「お前、本当にそう思っているのか」
キーランは目を細めて、ジェニファーのことを見返した。それから、気まずそうに視線を外し、夜空を見上げる。
「オレは、お前は結構、イイ線行っていると思うよ。髪を伸ばして、メイクしたら、ピッパやニコールなんか目じゃないんじゃないかな」
それはとても意外な話だった。思わず立ち止まってしまい、自分の髪に手をやりながら、長身のキーランを見上げる。頭の線がクッキリと出るようなショートヘア。高校に入った頃から、ずっとこの髪形だった。この髪を伸ばして、それからメイクをすればいいとキーランは言った。
「メイクって?」
「やったことがないならば、今度、美波がこっちに来た時に聞けばいいよ。アイツ、東京のお嬢様学校に行っているから、それこそ学校ではそんな話しかできないみたいだけれど、だから色々とよく知っているみたいだった。実はさ、この前来た時、ピッパのアイラインの引き方ってちょっと年季がはいった感じだよねとか言っていたんだ」
これにはジェニファーもつい笑い出さずにはいられず、キーランもそんなジェニファーにつられたように笑い声を立て始める。きっと、年増女と散々に嘆いていたことをデーヴィッドから聞いていたのだろう。
「その言い方、彼女らしくて、とても可愛いね」
「ああ、本当にアイツらしいよな」
言いながら、キーランは再び、夜空を仰ぎ見た。美波のことを思い出しているのだろうか。
「オレさ、お前とあのレストランで偶然会った夜、家に戻ってからエディにこってりと叱られたんだ」
再び歩き始めながら、キーランはポツリと言った。突然のように話題を変えたキーランに、ジェニファーはあまり要領を得ず、次のことばを待つ。
「エディはさ、大学の同級生ならばキチンと挨拶するべきだったのに、あんな風に知らんふりをしたのはとても失礼なことで、オレはお前にちゃんと謝罪するべきだって言ったんだ。オレとしてはさ、オレたちが顔見知りであることをお前は周りの人間に知られたくないんじゃないかと思って、それでお前が同じ学部の1年生だってことをエディに言われるまで黙っていた」
キーランの告白に、ジェニファーは多少、混乱したようにも感じる。それじゃあ、ケネディ教授がくれたチップはどういうことだったのだろうか。
「あの後、ケネディ教授からの心遣いだって、随分と多額のチップを支配人が渡してくれたの。だから、私はあなたがご両親に話したんだと思っていた」
「それはきっとエディだよ。だって、パットも母さんも、エディの話を聞いて、エディと一緒になってオレのことを叱り始めたからね。」
「それじゃあ、川嶋社長はあの夜、合計で200ドルものチップをくれたって言うの」
ジェニファーの声がひっくり変える。キーランは多少びっくりしたようだったが、さり気なくジェニファーの肩に柔らかく手を当てた。落ち着けということなのだろう。
「お前が気にする必要はないんじゃないかな。エディにとっては大した金額ではないし、エディは実際、お前がピアスを見つけてくれたことに感謝をしていたんだ」
そう言えば、ケネディ教授からだと言われて受け取ったチップはティッシュに包まれていた。あれは川嶋社長のちょっとした遊び心だったのだろうか。だとしたら、とても趣味が良い。
「まあ、だから、自業自得とは言え、オレにとっては散々だったんだけれど、そういう話を横で聞いていた美波は、突然のようにその場にいた全員に対して、オレはお前に謝るよりお礼を言った方がいいって言ったんだ」
「どういうこと?」
ジェニファーが尋ねると、キーランが微かに俯いて、ふわりと笑う。政治理論入門の講義室で隣に座る美波に笑いかけた時のような、優しげで愛情に溢れた笑顔。
「アイツはさ、最後には支配人とあの個室に現われたお前があの場で何も言わなかったってことは、お前がオレたちの邪魔をしないように気を遣ってくれたんだろうって考えたみたいだ。だから、謝るより感謝をするべきで、それでオレはお前と友だちになれるんじゃないかって言った」
それはやっぱり聖少女という呼び名にとてもふさわしい言い方であった。憧れにも似た強い印象を受け、ジェニファーは小さく息を吐く。
「アイツはさ、いつもそんな風に、ネガティブな感情をとても上手にやさしさや信頼に変えてしまうんだ。実際のところは、オレはさ、あんな風に遅くまで働いているお前と顔を合わせて、とても気まずく感じていただけなんだけれど、そういう美波の話を聞いているうちに、お前にちゃんと礼を言って、友だちにならなければいけないんじゃないかって考えていた」
なぁんだ、そういうことだったわけか。すっかり合点がいくと、ジェニファーはとてもおかしくも感じ、いつの間にか声を上げて笑っていた。忠実な騎士は、心から愛する聖少女に言われて、自分との友だち付き合いを始める気になったというわけだ。
「なんだよ、いきなり。ここは笑い始める場面じゃないだろう」
怪訝そうに眉を顰めて、キーランは立ち止まる。いつの間にかジェニファーの部屋がある学生寮の入口まで来ていた。ジェニファーは相変わらず笑いながら、キーランを見上げる。
「私はね、キーランが私の顔なんか覚えていたとは思っていなかったんだ。だから、あの晩、キーランの切羽詰まった感じがとても意外だった」
ジェニファーの返答に、キーランは不満そうに口を窄める。
「だって、お前、オレたちがWish you were hereを演った時に、泣いていただろう。あの時、オレは自分がとてもマズいことをしてしまったみたいに感じて、焦ったんだ」
「それはゴメンね。あの時は、私はああいう感情をよく知っているって思っただけなんだけれど、そうしたらいつの間にか涙が零れていた。つまり、キーランは、歌を歌うのがとても上手だってことなんだと思うよ」
「ああいう感情、か」
肩から下げていたギター・ケースの位置を直して、キーランは呟く。そういうキーランは、何かを思い出しているようにも見えた。
「お前さ、明日、早く起きる必要がないんだったら、これからオレたちの部屋に来ないか。この時間だったら、デーヴィッドとサツキはやることやってしまった後だろうから、皆でもう少し話ができるはずだ」
それは、実際、とても歓迎できる提案だった。ジェニファーが即座に頷くと、キーランと並んでキーランの部屋のある棟の方向に歩き出す。
「デーヴィッドはルーム・メイトでもあったんだ」
「クリスマスの後、そうなったんだよ。デーヴィッドは一緒の部屋に住むにはうるさいヤツなんだ。始終、鼻歌を歌うし、突然、リズムを取り始めるし。音楽に憑りつかれているみたいで、それで元のルーム・メイトが部屋を変わってくれって談判に来た。オレたちがバンドなんか始めるから悪いって言うんだ」
喉の奥で笑いながら説明するキーランの表情はあくまでも屈託がなく、そういう開放的なキーランは、ことばにすることさえ戸惑うような秘密を抱えているようにはまったく見えなかった。それでも、キーランがその夜、頻繁に言い淀み、話題を変えたことは否定のできない事実であり、そこには川嶋社長と聖少女を含むキーランの複雑な家庭の事情が絡んでいるのだろう。そう言えば、キーランはあの晩、家に帰ってからジェニファーとのことで川嶋社長に叱られたと言っていた。ということは、子どもの時からキーランの両親が親代わりをしてきたという聖少女だけではなく川嶋社長もキーラン家に戻ったということで、時間が随分と遅かったことを考えるとそれはとても不自然なことであるようにも感じられた。親戚ではないはずなのに。
そこまで考えて、ジェニファーの頭に、あのマイキーという青年が言っていたことが蘇ってくる。お前とエディ・カワシマより血のつながりは濃いはずだぜ。つまり、マイキーがそんな風に言わなければならないほどに、キーランと川嶋社長には深いつながりがあるのだろうか。
「どうしたんだよ?」
学生寮のドアを開けて尋ねるキーランは、とてもすっきりした表情をしていた。それで、ジェニファーは、小走りにキーランの開けてくれたドアをくぐる。今、色々と心配しても仕方がないのだろう。そんなことよりも、この新しく見つけた友情を楽しむことの方が重要だ。それに、キーランは、いつか準備のできた時にすべてを話してくれるはずだ。何と言っても、キーランは、基本的には素直な裏表のない青年であり、だからこそプレイボーイを演じようとしても上手くいかなかった。やっぱり、キーラン・ケネディは可愛いヤツなのだ。ジェニファーはそう再確認していた。
その夜以来、キーラン・ケネディはジェニファーのとても親密な友だちとなった。図書館で一緒に課題をこなしたり、「Come Away」のライブに付き合ったりしているうちに、キーランはジェニファーの日常の一部となっていき、ジェニファーはキーランと毎日、たくさんの会話を重ねていった。その時の政治状況から文学作品、そして子供ども時代の思い出まで、ふたりの間の会話にはキリがなかったけれど、キーランはやっぱり突然のように話題を変えたり、視線を外したりして、特定の事柄について話をすることを避けているようであった。そういうキーランに対して、ジェニファーは話したくないのならばそれでいいと気長に付き合うつもりであった。
そういうジェニファーとキーランの仲を勘ぐる者は、当初、それなりにはいた。それでも、ふたりの間に性的関係が存在しないことは、デーヴィッドをはじめとして確固とした証人が多く存在しており、煩い噂はすぐに消えていくしかなかった。実際、ジェニファーにとって最も重要だったのは、キーランがあの聖少女にどうしようもないほどに恋をしており、自分には性的な関心をまったく持っていないことであった。キーランは美波が電話をかけてくる時間には欠かさず寮の公衆電話に張り付いていたし、ジェニファーに対しては美波への深い愛情を隠すことはしなくなっていた。
とはいえ、そんなキーランでも、時々、あまり興味のない女の子からの性的な誘いに乗ってしまうことは止められなかったようで、自己嫌悪で一杯のキーランから朝方に呼び出されたことが数度、あった。そういう時は決まって、朝6時頃、寮の部屋の窓に小石がはね返り、仕方がないので起き上がって顔を覗かせると、キーランは憮然とした表情で朝日を目で追っていた。ジェニファーの顔を見る準備もできていないというわけだ。キーランの様子は傷つきやすさの感覚で一杯であったし、6時になるまで辛抱強く待っていたのだろうけれど、それでもジェニファーはできるだけ手早く着替えを済ますと、キーランをキッチンに連れて行き、朝食を用意しながら散々文句を言ってやった。
アンタね、いい加減、学習しなさいよ。複雑な政治理論をあんなに簡単にマスターするくせにどうしてこんな簡単なことがわからないの。興味のない女の子とセックスすることは、相手を傷つけるだけなの。あんたは美波以外の女の子には興味はないんでしょう。だったら、向うに変な期待を持たせてはダメなの。
キーランは通常、マグカップで顔を隠しながら、ジェニファーの言うことを5分ほどじっと黙って聞いた。それから、決まって、美波とセックスするわけにはいかないだろうと、耐えられなくなったかのようにポロリと呟いた。そういうキーランはとことん追い詰められているようにも見えて、結局、ジェニファーはキーランに対して文句を言うことを止めざるを得なくなり、その後、ふたりは他に仕様がなく、沈黙がちに朝食を食べた。もちろん、美波とセックスするわけにはいかないという言い方が何を意味しているのか、キーランはジェニファーに対して決して説明しなかった。
そして、あの夜以来、マイキーが頻繁にキーランを訪ねて、金をせしめていくようになっていた。キーランは決してマイキーに渡す具体的な金額について打ち明けることはしなかったが、ジェニファーの観察した限りでは金額は急速に増えていっていた。いくら親が裕福であり、わりのいいアルバイトをしているとは言っても学生の身では限界があるはずだ。そんな風に告げると、キーランは大きなため息を吐いて、わかっているよと応えたが、ジェニファーにはキーランが何をどの程度わかっているのか判断がつかなかった。そうして、季節は春から初夏に移っていき、大学の試験期間が始まっていた。