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第1章

「残念だったな、ルビーニ。よく書けていたけれど、また2番だ」

セジウィック教授は、眼鏡の奥で目を瞬かせながら、とても気の毒そうにレポートを差し出した。表紙の右上に赤インクで大きくA+と書かれている。ノージックの正義論の批判的検討が課題であったそのレポートは、実際、自分でも上手く書けたと思っていた。それなのに、また2番。今回もキーラン・ケネディには適わなかったというわけだ。ジェニファーは、かなりがっかりしていたのだが、それでも長年の訓練の賜物で自分の感情を上手く隠すことができたのだと思う。セジウィック教授に対して礼儀正しい笑顔で会釈をし、レポートを受け取ると、前から5列目の自席に戻って改めて最初のパラグラフを読み返してみた。我ながら本当によく書けていると思う。キーラン・ケネディはどうやってこのレポートより良い点を取ることができたのだろうか。

「ケネディ。キーラン・ケネディ。いないのか?」

セジウィック教授がいつもより幾分か声を張り上げて、呼んだ。見回すと、どこにいても目立つ、鮮やかなストロベリー・ブロンドの長めの髪は確かに講義室内には見当たらなかった。キーラン・ケネディという人間は、そこにいるだけで人びとの目を釘付けにする。だから、多くの学生が聴講する1年生向けの入門講座であっても、彼の姿を見逃すはずはない。

「キーランはインフルエンザで休みです」

「どういうインフルエンザなんだい。レポートを読んだ限りでは向かうところ敵なしのようなキーラン・ケネディが寝込んでいるんだから、よほど強力なウィルスだったんだろうな」

講義に出席していたジェニファー以外の学生が同時に笑い声を立てたようだった。つまり、この大きな教室にいる学生の多くが、キーラン・ケネディがどういう人間であるのかそれなりに知っているということなる。それにしても、インフルエンザなんて見え透いた嘘を言う。ジェニファーは答えた学生を特定しようとして、後方の座席にたむろする集団をじっと見つめた。東洋系の女の子に親しげに身を寄せて笑っている黒縁メガネの男子学生。デーヴィッド・クレイトン。キーラン・ケネディのバンド仲間で、ふたりはとても親しいようだった。

「まぁ、いい。今回も最高点を獲得したのはキーラン・ケネディだ。このクラスで常に1位に君臨するキーラン・ケネディを諸君の中の誰かが追い落とすのを見たいものだが、なかなか難しいようだね。彼のインフルエンザが長引くことを祈る以外に方法はないんじゃないかな」

「同感です。それで、僕にもガールフレンドができるかもしれない」

「ソイヤー、君はその前に勉学に励むべきだよ。落第したら、それこそガールフレンドを見つける余裕なんかなくなるからね」

講義室が再び大きな笑い声で包まれた。政治学の分野では世界的に名前が知られている正義論の主任教授であるセジウィック教授は基本的に気さくで、暖かい人柄をしており、この大きな教室に明るい笑い声が溢れることは珍しくはなかった。それでも、その時、ジェニファーはいつものように気軽に笑うことができなかった。昨夜の様子から、キーラン・ケネディがインフルエンザというのはありえない。彼はあの聖少女(holy girl)と一緒にいるのだろうか。

 授業が終了すると、ジェニファーは思い切って、参考文献や講義ノートなどを鞄にしまっているセジウィック教授に近づいた。

教授(せんせい)、キーランのレポートですけれど、私が彼に届けましょうか」

セジウィック教授にはジェニファーの申し出が意外であったようだった。確かめるようにジェニファーの顔を見返して、それから柔らかい笑顔を浮かべる。

「興味があるのかい?」

やっぱり赤インクで大きくA+と書かれたレポートを鞄から出して、セジウィック教授が聞く。深く考える前に、ジェニファーは頷いていた。

「いいよ。君に任せよう。ついでに、彼がどんな種類のインフルエンザに罹ったのか聞いてきてくれないかな。いや、なに、一度ぐらいのズル休みは問題ないんだ。単なる個人的な興味でね。私にはインフルエンザの方が彼から逃げ出すとしか思えない」

「わかりました」

ジェニファーが苦笑を堪えて頷くと、セジウィック教授は相変わらず人の良さそうな笑顔を浮かべて、また来週と言った。ニューヨークの中心部に存在しているというのに、このコロンビア大学構内には驚くほどに性格の良い人々で溢れている。そういう大学の様子は、子ども時代に観たニューヨークを舞台とするギャング映画とはまったく異なっていた。


 大学構内のベンチに腰を下ろし、キーランが書いたというレポートを読み始めると、ジェニファーはすぐに没頭していた。キーランのレポートは、良く書けているというどころのレベルではなかった。課題を鋭い観点から再評価をしてみせた上で、隙のない論理構成で議論を展開し、しかも余裕の素振りで、要所、要所で言葉遊びまでしてみせる。これが自分と同じ大学一年生(フレッシュマン)が提出した課題であるのかと思うと、ジェニファーは徹底的に打ちのめされたようにも感じていた。世界は広い。そして、このコロンビアという大学にはその広い世界から優秀な学生が数多く集まっているのだ。ニュージャージーの寂れた工業町出身の自分には想像もつかないような優れた能力を持つ学生がいたとしてもそれは当然の範囲のことであり、キーラン・ケネディというのは正しくそういう特別な学生なのだろう。

 実際、キーラン・ケネディは入学当初から妙に目立っていた。背が高く、ストロベリー・ブロンドに澄んだ水色の瞳が特徴的な、とりわけに端正な容姿が人目を惹いただけではなく、屈託なく、オープンな性格ゆえか、人望も高く、いつも同級生たちの中心に存在していた。そんな彼には、友だちも、ガールフレンドもたくさんいるようで、キーラン・ケネディが、ジェニファーの部屋がある女子学生が多い学生寮から土曜の朝早くに出て行くところを見たのは一度や、二度のことではない。大学に入学してからの約半年の間でキーランのガールフレンドと噂された女の子は幾度となく入れ替わったが、それでも彼のガールフレンドになりたいと熱望する子は後を絶たないようだった。そんな彼女たちも、昨夜のキーラン・ケネディの様子を見たとしたら気を変えるかもしれない。昨夜、聖少女と一緒であったキーランは、大学周辺で同学年の女の子たちを相手にしている時とはまったく様子が違っていた。


 ニューヨークではトップ・クラスのフレンチ・レストランのクロークルームでアルバイトを始めたのは、この店では客のチップ払いが特に良いという話を紹介者から聞いたからだった。実際、夜6時から11時までの間、週3回、クロークルームで身なりの良い人びとから高価そうな外套やら鞄やらを預かって、彼らがとてつもない値段のする食事を終えるまで保管するという簡単な仕事をすることで、学生寮の家賃と食費に加えて、金曜の夜に友人たちと楽しむぐらいの金額を稼ぐことができた。学費免除の奨学金が確定して、地元の州立大学ではなくコロンビア大学に入学すると決めた時、生活費の援助はできないと母親からはっきりと告げられた。ジェニファーが4歳の時に機械工であった父親と離婚した後、母は様々な仕事をしながら自分のことを育ててくれたが、ジュニア・ハイに入学直前にやっぱり機械工と再婚し、その後、継父との間に男と女の子どもをひとりずつ産んでいた。その間もずっと掃除婦などの臨時の仕事をしていたのだが、家計に余裕があるはずもなく、ジェニファーはそういう母の対応を当然のこととして受けとめ、ハイスクール卒業を機にすっぱりと家を出た。正直に言えば、母の夫が継子である自分に向ける視線が息苦しくもあったので、あのまま家にいるのも気まずかったし、母の方でも女性として成熟していくジェニファーに対して複雑な思いを抱いていたのだと思う。部屋着として特に露出度の高い服を与えた続けた母は、ジェニファーの若い肢体が近所のバーで夜な夜なうさ晴らしをすることから継父を遠ざけるのに役立つと弁えていたのだろうけれど、だからと言って、女としてその状況を歓迎していたはずもなく、ニューヨークに出て独りで暮らすつもりだと告げた時、母は心の底からホッとしたようであった。離婚して以来、養育費の支払いをしたことがないという実の父親の居所は数年前から不明となっており、したがって、ジェニファーには、独りで生きていく以外の選択肢は存在していなかった。それで、夏の間、メイン州にある保養地のホテルで住み込みのアルバイトをし、多少の貯金を作った後でニューヨークに出ると、大学に通いながら働いて、自分独りの生活を成り立たせていくという毎日を淡々と始めていた。


 昨夜もまたレストランでのアルバイトの夜だった。いつものように出勤し、制服に着替えると、ジェニファーはキッチンに顔を出した。この頃ではシェフのセバスティアンがキッチンスタッフのための賄いにジェニファーも呼んでくれていた。レストランの賄いで夕食を済ますことができれば食費の節約になるし、それにセバスティアンの料理は実際、とても美味しい。紹介者の話通りに潤沢に支払われるチップに加え、高級店の威信を守るために1晩あたりの客の数が限定されているせいか、客の入店のピークが終わった後は食事が終わる頃までクローク・ルームでたっぷりと読書の時間が取れる。つまり、このアルバイトは今のところ良いことづくめであった。それで、ジェニファーは、レストランのドアを開ける度に、この職を紹介してくれたメイン州の保養地にあるホテルの支配人に感謝をしていた。

「やぁ、ジェン、いいところに来た。ちょっとこれを試してみてくれないかな」

ジェニファーの顔を見ると、セバスティアンが気さくに笑いかけて、小型の皿を差し出した。見ると、白いふんわりとしたケーキにワイン色のソースがかけられており、表面と脇に様々なベリー種の果実と生花が飾られている。自然とジェニファーの口から感嘆の声が漏れていた。

「とても可愛いね、セバスティアン。今日のデザートなの?」

「特別注文なんだ。ジェンと同じぐらいの年の女の子の誕生祝いの意味らしいよ。だから、特に可愛いケーキを作ってくれと頼まれたのは確かなんだけれど、それよりも味見してくれよ」

「ゴメン、もちろん味の方が大事だよね」

言いながら皿に添えられていたスプーンを取り上げ、大胆にケーキを掬って口に含む。すぐにチーズと果実と果実酒が複雑に絡まり合ったような味が口の中に広がった。ふんわりと包み込まれるような優しい甘さ。確かに自分の年ぐらいの女の子が好きそうな感じだ。

「とても美味しい。チーズケーキだったんだ。それで、どんなお酒を使っているの?」

「企業秘密。でも、果実酒を使ったのはビスケットの土台部分なんだ。それで何となくわかるだろう」

だったら、カルバッドスあたりなのだろうか。ジェニファーはゆっくりとケーキを最後まで堪能することにした。本当に役得だと思う。

「シェフ自らがこれほど一生懸命にデザートを用意するお客様って、誰なの?」

使用済みの皿をきちんと洗って調理台に戻してから、聞いてみた。その途端、ジェニファーのために賄い用のパスタをよそってくれていたセバスティアンが気まずそうに、微かに頬を染める。意外な反応に、つい首を傾げていた。

「どうしたの?」

「若い頃のことを思い出したんだ」

「若い頃って、まだフランスにいた頃のこと?」

「まぁ、そうだな」

「このお客様って、セバスティアンのフランス時代からの知り合いなの?」

「まさか。パリの郊外の生まれで、料理の腕で成り上がったオレなんかが知り合いになれるような類いの人間じゃないよ。向こうは上流階級だからな」

やっぱりとても美味しそうなパスタの皿をジェニファーに差し出すと、セバスティアンはシェフ帽の端を軽く引っ掻いた。

「こちらの予約は上院議員のセオドア・ウォルトンの名前で入っているんだ。今夜は家族的な集まりらしくて、だからウォルトン上院議員夫人もやって来るはずだ。10代のジェンは知らないのかもしれないけれど、ウォルトン上院議員夫人は独身時代、モデルや女優をしていてね。そりゃあ、綺麗だった。フランス語が堪能だったから、よくパリに来て仕事をしていて、修行時代に働いていたレストランに入ってくるところを物陰から見に行ったこともある」

「ああ、ファンだったんだ」

「そうなんだ。しかも、誕生祝いのケーキはウォルトン夫妻の娘のためらしいんだけれど、この娘の顔を見るのも楽しみでね。母親にとても似ていて、えらい美人なんだ」

「へぇ、じゃあ、今日は上院議員のお嬢様の持ち物を拝見する光栄に浴するわけだ」

パスタを咀嚼して何気なく言うと、セバスティアンはクスリと笑った。

「そう意味で言うならば、今夜、食事に来る予定のジェンと同じ年ぐらいの金持ちの子どもたちはまだいるよ。ウォルトン夫妻のところは子どもがふたりで、娘の他に、ハーバードに通っている息子がいる。それから、ウォルトン上院議員のお客は日本の川嶋電機の社長とふたりの顧問弁護士夫妻のようだけれど、川嶋電機の社長の娘と顧問弁護士夫妻の息子も一緒に来るはずだ。ふたりともまだ10代のようだよ」

「日本の川嶋電機に顧問弁護士?それで家族的な会食なんだ」

「ウォルトン夫人と川嶋電機の社長の間に遠い親戚関係があるんだ。ニューヨークじゃ、有名な話だよ。実際、ケーキの特別注文は川嶋の会社から来た。ウォルトン夫人の娘を驚かせたいから内密にってね」

そうなんだと思いつつ、ジェニファーはせっせとパスタを口に運んでいた。上院議員や大会社の社長の娘たちがどんな装いをしているのか、それなりに興味があったとは言え、結局のところ自分には関係のない世界の話だった。それよりも食事ができる時にしっかりとしておいて、食費の節約に努めることの方が重要だ。そんなジェニファーに、セバスティアンはもっと食べるかいと笑いながら聞いた。


 午後7時を10分ぐらい過ぎた頃、支配人自らがウォルトン夫妻一行の外套類と荷物を持ってやってきた。わざわざクローク・ルームに足を運ばせることなんかできない大事なお客というわけだ。ジェニファーは支配人が置いていったちょっとした山をなしている外套を丁寧にハンガーにかけていった。まず、すぐには見分けがつかないような、揃ってカシミア製である男性用の黒いロング・コートが5着。対して、女性用の4着の外套はずっと多彩であった。銀狐だろう滑らかな毛皮のコート。これはウォルトン夫人のものであろう。それから、より実用的ではあるけれども、上質な素材のキャメルのロング・コート。落ち着いた、プロフェッショナルな女性に似合いそうだ。残りの2着は、ずっと女の子らしいデザインであった。毛皮の襟飾りがついた、エレガントな線を描く黒のAライン・コートと、大きなベルトで腰のところが絞ってあって、裾と袖先に銀と金の糸で刺繍が入っている白のドレスコート。こんな豪華なコートを着ている女の子たちって、どういう()なんだろう。やっぱりカシミア素材なのだろう、柔らかい白いコートを取り上げると、何かが煌めいて、固い木の床にコトリと落ちた。膝を屈めて指先で摘み上げると、ゆらゆらと揺れる3本の細い銀色の金属の先に水色の石をあしらったフックピアスであった。きっと、コートに引っ掛かっていたのだろうけれど、ちょっとオシャレな感じの品だ。この石、いつか写真で見たアクワマリンかな。ジェニファーはピアスを丁寧にティッシュで包むと、ポケットに入れた。後で支配人が戻ってきた時に、聞いてみればいい。実際、次のお客の一行がクロークルームの方に近づきつつあった。


 その時、ジェニファーは、ようやくのように訪れたドクター・ジバゴとラーラの束の間の愛の生活のゆくえを追うことに夢中になっていた。妙に張りつめた気持ちでページを捲ったのと同時に、突然のように人影がページを覆う。驚いて見上げると、困ったような顔をした背の高い男が自分のことを見下ろしていた。丁寧に整えられた黒髪に、透き通ったブルー・グレイの瞳。年の頃は30代半ばぐらいだろうか。仕立ての良い濃紺のスーツを隙なく身に着けたその姿は、ヨーロッパの映画から出てきたような端正さをまとっていて、周囲の者の視線を惹きつける。ニューヨークで評判のこのレストランでも滅多に見ることのないような、魅惑的な男であった。

「君は学生?」

男はとても柔らかく聞いた。完全にアメリカ英語であった。それで、何となくホッとして息を吐く。

「はい」

「どこの大学なのかな?」

「コロンビア大学です」

「へぇ。何を専攻しているの?」

「政治学です」

「おやおや。まさか一年生じゃないよね」

「確かに一年生です」

男は多少、驚いたように目を丸くして、ジェニファーを見直した。それからクスリと笑う。それは、とても優しげな微笑みであった。

「君が今、読んでいるのは、ドクター・ジバゴだろう?」

「そうです」

「面白いかい?」

「はい、とても」

「そうだよね。僕も何度も読んだ。でも、だからって、お客が来たのにも気がづかないほどに夢中になるのは反則じゃないかな。君にとっては勤務中なわけだから」

男はさらりと言ってのけたが、ジェニファーは咄嗟に紅くなって、俯いていた。男の言う通りだった。確かに自分は気を抜き過ぎていた。支配人に報告がいったとしても当然のことで、それでこの居心地の良いアルバイトを辞めなければならないとしたら、自分の責任とはいえ、大きな悲劇であった。

「それがわかったら、僕のために少し仕事をしてくれないかな。さっき、支配人が女の子用の白いコートを持ってきたはずなんだけれど、出してきてくれるかい」

あの白いコートだ。ジェニファーは男に対して頷くと、コート掛けの方に踵を返した。

 ジェニファーが差し出したコートを念入りに調べると、男は軽く口を曲げて、やっぱり無いみたいだと呟いた。それで何となく、男があのピアスを探しているのではないかと考える。

「何かお探しですか」

コートを受け取りながら、遠慮がちに尋ねると、男は取り繕ったような笑顔を浮かべた。

「ピアスなんだ」

やっぱりそうだった。ジェニファーは、ポケットからティッシュの包みを取り出して、男に差し出した。

「あの、これ、このコートから落ちたんです。支配人が来たら渡そうと思っていました」

「ああ、助かったよ」

ティッシュの包みを開けて、男は心の底から安心したような声で言った。それから、素早くジェンファーの胸元の名札に目を走らせる。

「君、ジェニファーと言うんだね。このピアスを見つけて、保管しておいてくれたことにお礼を言うよ。本に夢中になりすぎていたのは頂けないけれど、でも、コロンビア大学の学生の君がドクター・ジバゴを読んでいたっていうのも何かの縁なんだろうね」

屈託のない調子でそんなことを言うと、男はジャケットの内ポケットから財布を取り出して紙幣を引き抜き、ジェニファーの手に押し込んだ。見ると100ドル紙幣だった。一瞬だけ、息が止まった。実物を見るのはもちろん生まれて初めてだった。

「こんなに頂けません」

「気にしないで。君は僕らのことを助けてくれたのだから。でも、これからはもう少し周りの状況に気をつけるんだね。このレストランの客全員が、僕のようにドクター・ジバゴの愛読者だとは限らないだろう」

男は本当に喜んでいたのだろう。上機嫌でそんなことを言うと、ウィンクをし、再度、ありがとうという言葉を口にしてから立ち去った。鮮やかな身のこなしは映画の一場面のようで、ジェニファーは随分と長い間、硬直してしまったように男の後ろ姿に見入っていた。あの人、誰なんだろう。ようやくのようにその質問が頭の中ではっきりとしたセンテンスを構成した時までには、男の姿はジェニファーの視界から消えていた。年の感じからすると、ウォルトン上院議員のスタッフなのだろうか。


 その夜はウォルトン上院議員の意向で予約の数を制限していたので、支配人が彼らの外套と荷物を回収するために現われた時刻までには、他のお客は帰ってしまっていた。それでやることのなくなっていたジェニファーは、言われるがままに女性用の外套と高級ブティックらしきロゴが入った紙袋を複数抱えて、支配人についてレストランの奥の個室に入っていった。

 余裕をもって趣味の良い家具が配置された、居心地の良さそうな個室は、親密な笑い声で満たされていた。テレビのニュース番組で頻繁に顔を見るウォルトン上院議員は栗色の髪の上品な感じの女性と、彼女の肩を抱くシャープな顔つきのオレンジ色の髪の毛の男と話し込んでいた。セバスティアンが憧れたというウォルトン上院議員夫人は、その3人から少し離れたところにいた。実際に目にするウォルトン上院議員夫人はそれなりの年齢であるはずなのに評判通り、とても美しく、そして、そういうウォルトン上院議員夫人のことを親しげに抱擁していたのは、驚いたことに、先ほどクローク・ルームに現われて、ピアスを見つけた礼にと100ドルものチップをくれた黒髪の男だった。だとしたら、彼はウォルトン上院議員のスタッフではないということになる。この妙にハンサムな男の人は、一体、誰なんだろう。何となく落ち着かなく思い、部屋の中をぐるりと見渡す。

 そうやって、ジェニファーは、やっとのように自分を向けられていた強い視線に気がついた。何事かを熱心に語り合っている女の子ふたりの背後で、キーラン・ケネディが唇をギュッと噛みしめて、真っ直ぐに自分のことを見つめていた。そういうキーランの姿に、ジェニファーはとても驚いていた。普段、大学の講義室や学生がたまり場にしているバーで顔を合わせる時とはまったく違い、すっかり正装をしているキーラン。黒のスーツに鮮やかな青のネクタイを合わせ、長めのストロベリー・ブロンドを背後でポニー・テイルにし、髪型を丁寧に整えている。お坊ちゃまだったんだ。そんなことばが頭に浮かび、ジェニファーはキーランのことをじっと見返してしまった。すぐにキーランの頬にさっと赤味が差し、そんなキーランにウォルトン上院議員の息子だろう、銅色の髪の青年が声をかける。

 それにしてもと、ウォルトン上院議員夫人にコートを差し出すために進み出ながら、ジェニファーは思う。ここにいる人たちは、揃いも揃って皆、美形だ。特に女の子たち。少し年上だろう、ウォルトン夫人によく似た金髪の巻き毛の女の子は高級ファッション誌のグラビアから出てきたようだったし、対して淡い栗色の髪の女の子は、何と言うか、妖精か天使のようだった。ジェニファーが白いコートを差し出すと、ゆるくウェーブがかかった髪を揺らして、ゆったりとした笑顔を見せ、可愛らしい声でありがとうと言う。少女の耳元では、クローク・ルームにまで黒髪の男が探しに来たピアスがふたつ揃って揺れていて、彼女のイノセントな笑顔を一層、強調する。この世に存在する悪や、穢れとはまったくかけ離れた女の子。聖なる少女(holy girl)。そんなことばを突然のように思いつき、ジェニファーは微かに紅くなっていた。

「美波、そろそろ行こう」

「待って、キーラン」

カシミアのコートを身に着けたキーラン・ケネディに呼ばれて、聖少女は身を翻した。スキップするような軽やかな足取りでキーラン・ケネディに近づくと、しっかりと手をつなぐ。そんな少女に背後から近づいて、柔らかく頭に手を置いたのは、黒髪の男だった。男は個室を出る前にジェニファーの方を振り向き、微笑みかけてくれた。

「これ、ケネディ夫人から特に君にって預かったんだ」

ウォルトン家の一行を見送ってから戻って来た支配人は、片づけを手伝っていたジェニファーに近づき、ティッシュの包みを差し出した。包みの形から中味が紙幣であることは、簡単に見当がつけられた。しかも、捩れてなく、しっかりと折り畳まれてあるということは、高額紙幣である可能性が高い。

「ケネディ夫人ってどなただったんですか」

「僕らがこの部屋の入って来た時に、ウォルトン上院議員と話をしていた女性だよ。ウォルトン上院議員と川嶋社長(ミスター・カワシマ)の顧問弁護士であるケネディ氏の奥さん。ケネディ氏は女性の隣にいたオレンジ色の髪の男」

つまり、彼らがキーラン・ケネディの両親というわけだ。そうなると、残るのは、あの黒髪の男の人と聖少女。

「それじゃあ、この部屋にいた黒髪の男性が川嶋社長だったんですか?」

「そうだよ」

支配人はジェニファーの考えを読んだように、苦笑を浮かべた。

「日本人にはまったく見えないし、世界で最も大きな電化製品の会社の社長にしては若く見えるだろう?実際、川嶋社長はまだ若いんだ。やっと40歳を少し過ぎたところじゃないのかな。あまり年の変わらないこっちとしては、嫌になるけれどね」

それから支配人は、ここまもういいから、遅くならないうちに帰りなさいと言った。それでジェニファーは、ロッカールームに戻り、ティッシュの包みを開けてみた。やっぱり100ドルが包まれていた。ケネディ夫人は息子のキーランに言われて、気を遣ってくれたのだろうか。いずれにしても、これで、確実に1週間分以上の稼ぎがあったことになる。もっとも、こんな大金を夜のニューヨークで持ち歩くのも気が重いことだけれど。ジェニファーは100ドル紙幣2枚をドクター・ジバゴの本に挟み、鞄の一番奥底にしまい込んだ。神様、学生寮まで無事に辿り着けますように。子どもの頃からの癖で何となく十字を切りながらそう祈ると、ジェニファーはレストランを後にした。教会には大学入学以来行っていないけれど、神様が迷える子羊をそうそう見捨てるとも思えない。

 帰りの地下鉄で、ジェニファーは、キーランに対して一目散に走り寄って行く聖少女の様子を何度も思い返していた。川嶋電機の社長令嬢だという少女は、キーラン・ケネディとどういう関係にあるのだろう。あの少女も日本人のようにはまったく見えなかったけれど、黒髪の男性が川嶋社長で、少女の父親であるとしたら、キーランと少女は父親の前で手をつなぐことに何の躊躇もしなかったというわけだ。それに、少女と手をつないだ時の、キーラン・ケネディのあの眼差し。少女の笑顔に誘われたかのように、この上なく優しく微笑んでいた。ああいう表情は、やっぱり大学周辺では見せたことがなかった。

 私が見たのは、キーラン・ケネディの秘めた恋なのだろうか。そう思うと、ジェニファーには殊更におかしくも思えた。プレイボーイの仮面の下に、純愛まっしぐらの本性をひた隠にしていたみたいだ。それに、カシミアのコートを身に着けていた様子。びっくりするほどに様になっていた。キーラン・ケネディは正真正銘のお坊ちゃまだったわけだ。クラスのみんなはどの程度知っているのだろうか。ジェニファーが思わずのように吹き出すと、向かいに座っていたカップルが驚いたようにジェニファーの顔を覗き込んだ。それで、ジェニファーは急いで俯いた。


 キーランのレポートを読んでしまうと、ジェニファーは大学図書館に行き、川嶋電機とその社長であるの川嶋社長のことを少し調べてみた。難しい調査ではまったくなかった。より正確に言えば、川嶋電機は電気機器産業の領域で、現在、他の会社の追随をまったく許さず、そういう会社を率いている川嶋社長は、あらゆる国のビジネス雑誌の関心の的であった。だから、川嶋社長の両親がどちらも日本人と外国人との混血であったことや、ハーバード・ロー・スクール(HLS)を卒業し、アメリカで弁護士資格を取った後、ニューヨークで暫くの間、弁護士として働いていたといった情報はすぐに知ることができた。どうりで日本人にはまったく見えなかったわけである。ブルー・グレイの瞳の日本人なんて、聞いたことがない。そう思い、雑誌に掲載されていた川嶋社長の写真を見返すと、瞳の色は黒であった。驚いて、別の雑誌の写真も確認していくと、雑誌に掲載されているすべての写真で、川嶋社長の瞳の色は黒であった。昨夜、自分は見間違いをしたのだろうか。

 川嶋社長の瞳の色について混乱するジェニファーをより戸惑わせたのは、川嶋社長の家族関係であった。様々な雑誌が伝えるオフィシャルな説明としては、川嶋社長は日本人女性と結婚していて、娘がひとりいるということになっていた。日本人女性と結婚してできた子どもが、昨夜、キーラン・ケネディと一緒にいたあの聖少女なのだろうか。その疑問は、4年ほど前に出版されたFortune誌の川嶋社長の特集記事であっさりと解けてしまう。日本の「新人類(new breed)」と題された記事では川嶋社長の私生活にも少し触れていて、HLS時代の同級生による「彼が日本人女性と再婚したというのは完全に彼らしくなくて、ショックではあったね」というコメントが掲載されていた。しかも、その上方に配置されていた「家族の写真」に写っていたのは、妻とその父、娘のみで、なぜか川嶋社長の姿はなかった。写真の中の川嶋社長の娘は真っ直ぐな黒髪で、昨夜の聖少女よりずっと幼いように見えた。

 ここには、たくさんの秘密がある。ジェニファーはそんな風に確信していた。


 「崖っぷち(Close to the Edge)」という大学近くのバーにジェニファーのことを最初に誘ったのは、学生寮で同室のアンジーであった。あの日、とてもいい感じの男の子がいるのと言っていたのはキーラン・ケネディのことだったのだが、その夜、アンジーとキーランは結局不発で、その代りにキーランとデーヴィッドのやっているバンドでドラムを担当している英文学専攻のイライジャと親密になり、今に至っている。アンジーに連れられて、頻繁にこの店を訪れているうちに、ジェニファーもキーランたちのバンドのパフォーマンスに何度か立ち会うことになった。Come Awayという発足して間もないそのバンドは、今のところ専ら有名バンドの曲のカバーをしていたが、キーラン・ケネディの少し高めの甘いボーカルとデーヴィッド・クレイトンの訓練の行き届いたピアノの演奏には聴衆をねじ伏せる力があったし、この頃ではオリジナルの楽曲の練習もしているらしい。

 あれは1ヶ月ほど前のことだった。アンジーと待ち合わせていたので「崖っぷち」を訪れると、丁度、Come Awayが演奏を始めたところだった。U2やT-Rex、The Smithsといった大学生が好みそうなバンドのヒット曲の後で、突然、シンプルなギターのイントロが聞えてきた。Pink FloydのWish you were here。デーヴィッド・ギルモアと比べるとずっと優しく聞こえるキーランの声が印象的な歌詞を歌い上げていく。


How I wish, how I wish you were here.

We're just two lost souls swimming in a fish bowl, year after year,

Running over the same old ground.

What have you found? The same old fears.

Wish you were here.


エンディング部分のギターの演奏が始まった時、ジェニファーは、自分の頬に大粒の涙がつたったことを意識した。そんなジェニファーのことをキーランはしっかり見ていたのではないかと思う。思うというのは、その日のパフォーマンスが終わった後、アンジーとイライジャと話し込んでいたジェニファーにキーランは声を掛けようとしていたようなのだが、その前に濃い赤毛の女の子が現れて、結局、ふたりでどこかに消えてしまったからだった。ジェニファーはジェニファーで、キーランに歌の感想が言えず、残念に思っていた。ああいう感情には覚えがあると思ったの。できれば、あの夜、キーランにそんな風に直接、伝えたかった。

 「崖っぷち」はその夜、とても静かであった。クリスマス休暇以来、Come Awayは週に2回はステージをつとめていたはずなのだが、その日はバンドの演奏がある気配さえなかったし、アンジーとイライジャは店にはいなかった。ジェニファーは辺りを見回して、デーヴィッド・クレイトンが奥の一角で、女の子3人ともうひとりの男の子とテーブルを囲んでいるのを認めると、彼らに近づいた。

「アンジーの友だちのジェンだっけ。一緒に座りなよ」

ジェニファーに気づいたデーヴィッドが気軽な調子で言った。この人、私の顔を覚えていたんだ。ちょっと意外ではあったが、招待されたのをこれ幸いにと、ジェニファーは近くの椅子を引き寄せて、集団に加わる。その場にいたほとんど学生とは講義室やこの店で何度か顔を合わせていて、それなりに顔の見分けがついた。

「今日はライブ、しないの?」

「今週はキーランが家族の用事で忙し過ぎて、都合がつかないんだ」

ジェニファーの質問に、デーヴィッドが肩を竦めてみせる。

「それじゃあ、やっぱりインフルエンザじゃないんだ」

「それはさ、セジウィック教授の言ったことが正しくて、キーランにかかったらインフルエンザの方が逃げ出すよ」

それから、デーヴィッドは可笑しそうにクスクスと笑った。機嫌の良いデーヴィッド。対して、周りの女の子たちは、東洋系であるデーヴィッドのガールフレンドを含めて、何となく機嫌が悪そうだった。

「そのセジウィック教授からキーランのレポートを預かってきたの。ここに来れば手渡せるのかと思ったんだけれど」

「キーランは、あの東京から来たっていう神聖な処女がニューヨークにいる間は、大学や私たち友だちのことなんてどうでもいいのよ」

神聖な処女。それは昨夜の少女のことを指しているのだろうけれど、時代がかった言い方であった。そう言ったのは、ピッパというキーランと一時期、噂になっていた女子学生で、両親のどちらかがイギリスの有産階級の出身だったはずだ。

「ホント、きっと神聖な処女なんだろうけれど、キーランがあんなにシス・コンだったなんて幻滅だわ」

「シス・コンっていうけれどさ、サツキ、ふたりは一緒に育ったっていうだけで、美波ちゃんはキーランの本当の妹じゃないんだぜ。キーランが見せてくれた写真じゃあ、美波ちゃん、めちゃカワイイじゃないか。しょうがないよ」

自分のガールフレンドの愚痴に、デーヴィッドが至って暢気に答えた。それを聞いて、ジェニファーは、このふたり、長くはもたないかもしれないと思ってしまう。案の定、日系だというガールフレンドの額に深い皺が寄った。それにしても、今のは面白い話だった。キーランとあの少女はきょうだいのように一緒に育ったというわけだ。

「ねぇ、その美波ちゃんて誰のこと?キーランに妹がいたの?」

「だから、彼女は神聖な処女。キーランは彼女がおわす神殿を守る騎士ってところなんじゃないの」

ピッパが憂鬱な声で呻き、ビールをあおった。デーヴィッドがそんなピッパの芝居がかった仕草に応えるかのように笑い声を立てる。

「相変わらず大げさだな、ピッパは。それじゃあ、何の説明にもなっていないだろう。もっともオレたちが知っていることは限られているんだけれどね。キーランが言ったことをそのまま繰り返すと、美波ちゃんは妹みたいなもので、子どもの時から基本的にキーランの両親が親代わりをしてきたから、ふたりは一緒に育ったんだってさ。オレたちが知ることができたのはそこまでで、あとは去年の夏に撮ったっていう写真1枚と名前だけ」

「美波ちゃん?」

「ああ、ゴメン。ミナミっていうのが名前で、日本語で美しい波っていう意味らしんだ。ちゃんっていうのは日本語の接尾語で、カワイイ女の子の名前の後につけるんだって。実際、とてもカワイイ(キュート)だよね。そうだろう、サツキ」

「知らない」

あっけらかんと問いかけたデーヴィッドに対して、サツキと呼ばれた女子学生はプイッと横を向いて席を立った。デーヴィッド・クレイトンはキーランのことよりも自分のガールフレンドとの関係についてもう少し気を遣った方がいいのではないだろうか。当のデーヴィッドはまた怒らせちゃったと、隣に座っていたバンドでベースを担当しているヒースに笑いかける。あまり気にしていないようだった。つまり、大学一年生の恋愛関係なんて、その程度なのだろう。

「心配しなくていいよ。正義論のレポートだったら金曜に手渡せるはずだよ。今日の午後、キーランと電話で話したんだけれど、授業をサボってばかりもいられないから、金曜の政治理論入門の授業には美波ちゃんを連れて出席するって言っていた。だから、オレたち、美波ちゃんと仲良くなるために、授業の後、ふたりをこの店に引っ張ってこようかって相談していたんだ」

暫くの間、自分の考えに囚われて、黙っていたら、デーヴィッドが何気なく言った。ジェニファーがレポートのことを気にしていると気を遣ってのことなのだろう。結局、デーヴィッドというのは基本的に素直で、気の優しい男の子なわけだ。素直すぎるっていうのも問題ではあるけれど。ジェニファーは苦笑を堪えて、もう少し噂の美波ちゃんとキーラン・ケネディのことについて探りを入れてみる。

「それじゃあ、デーヴィッドはその美波という女の子とまだ会ったことがないの?」

「ないよ。キーランは先週の政治理論入門の授業の後、実家に戻って、それ以来まったく姿を見せていないんだ。同じニューヨーク市内にいるんだから、顔ぐらい出したっていいもんなのにさ」

同じニューヨーク市内にいる。それは、やっぱり、興味深い情報だった。噂では、キーラン・ケネディは東京でハイスクールを卒業したということになっていたはずだし、実家がニューヨークにあるならばわざわざ学生寮で生活する必要はない。

「キーランの実家ってニューヨーク市内だったの?」

「そうだよ。アッパー・ウェスト・サイドのでっかいコンドミニアム」

「すぐ近くじゃない。それに、アッパー・ウェスト・サイドだったの」

セントラル・パークに隣接するアッパー・ウェスト・サイドは東側ほどではないにしても、ニューヨークでは限られたエリート層が住む居住エリアのはずであった。ジェニファーの表情に反応して、デーヴィッドが再びクスクスと笑い始めた。

「つまり、キーランはけっこうなお坊ちゃまだったんだ。オレも感謝際に実家に呼んでもらうまでは知らなかったんだけどさ。アイツの親父さんはニューヨークの老舗の弁護士事務所のシニア・パートナーで、母親はニュー・スクールで社会学を教えている准教授なんだ」

ケネディ夫人はケネディ教授だったわけか。それも大学院大学で教えている、優秀な研究者。ジェニファーは昨夜、ウォルトン議員と話し込んでいた上品な栗色の髪の女性の様子を思い出していた。あの女性の周りには、とても穏やかな雰囲気が漂っていた。きっと、良いお母さんでもあるのだと思う。

「まぁ、それでピッパなんかはけっこうガックリきているわけ。玉の輿を逃したってさ」

「うるさいわね、デーヴィッド。完全に違うわよ。私だって、私と真剣に付き合うつもりがキーランにはなかったことぐらい最初からわかっていたし、それに、彼が実はそれなりの資産家の息子だと推測していたの。だって、キーランがいつもしている腕時計、パテック・フィリップじゃない。普通の家じゃ、子どもにあんな高級品を与えないわよ」

「そうだったんだ。バッファローの下町の出のオレは全然気がつかなかった」

デーヴィッドはやっぱりあっけらかんとした調子で、ピッパの言ったことを受け流した。そういうデーヴィッドの様子を眺めながら、キーラン・ケネディがデーヴィッドと特に親しくしているのは、音楽のことだけではなくて、デーヴィッドのこういう性格も理由なのだろうと、ジェニファーは理解する。

「そうよ。それに、普段着ている洋服だって、時々、びっくりするぐらいに高価そうなものだったりするもの。本人は、お下がりだなんて言っていたけれどね。でも、そんなことはどうでもいいのよ。私がガックリきているのはあの神聖な処女のことなの。先週、私たちが1週間分の授業とライブを棒に振ってまで、何でそこまでして美波って子に付き合う必要があるのかって聞いた時、キーランはかなり真剣に、この世のすべてを犠牲にしても美波を守るって決めたんだって言っていたじゃない。最初はハーレークィンのロマンスでもあるまいしとは思ったけれど、でもあのキーランにそこまで言わせるなんて、年増のおばさんとしては完全に負けたって感じ」

再び芝居がかった調子で告げるピッパに対し、デーヴィッドは笑いながら、オレたち、まだそんなに年取っているわけじゃないから大丈夫だよと宥めようとする。周囲も冗談にしてしまうのが良いと判断したのか、そうだよ、まだ年増には早いよと言いながら陽性な笑い声を立てた。ジェニファーはそんなクラスメートたちの調子に誠実に付き合ってはいたが、それでもピッパの言うことがわかるような気がしていた。この世のすべてを犠牲にしても守るなんてことを言ってくれるような恋人には、この先、一生かかっても会えないような気がする。それほど、あの少女はキーランにとって大事な存在なのだろう。

 「崖っぷち」にいたクラスメートたちは、キーランや聖少女と日本の川嶋電機の関係については触れなかった。高校時代を東京で過ごして、噂では東アジア研究を専攻している上級生よりも日本語が上手い(そう言えば、そんな風に言っていたのはサツキだった)キーランが、日本の大企業とつながりを持っているのは不自然なことでは決してないのかもしれない。とはいえ、その時、ジェニファーは、キーラン・ケネディを通じて感じ取った聖少女と川嶋社長の抱える秘密にすっかり魅了されていた。キーランは金曜日の授業に聖少女を連れて来ると、デーヴィッドは言っていた。また、あの少女の笑顔が見られるかもしれない。そう思うと何となく心が弾んだ。


 キーラン・ケネディと聖少女は、講義が始まるギリギリの時間に、滑り込むように講義室に入ってきた。事前にデーヴィッドと打ち合わせてあったのであろう。デーヴィッドが確保していた講義室中ほどの席に座ると、ふたりは良く似た仕草で、外套を脱いだ。今日のところはさすがにカシミアの外套ではなく、キーランはこのところいつも着ていた厚手のキャンバス地のフード付きのコートで、聖少女は紺のダッフルコートだった。ふたりにとっては通学用の服装なのだろうか。

 その日は、意識して、講義室全体が見渡せる後方に席を取っていたジェニファーは、つい聖少女の横顔に見入ってしまっていた。まだ冷たい初春の空気に晒されて頬が赤味を帯びており、生来の肌の白さを強調していた。どこからどう見ても、聖少女は文句のつけようのない美少女だった。実際、少なくない男子学生が、既に聖少女のことを盗み見していた。

 その日、担当教授はロックの統治論のテキストに丁寧な仕方で解説を加えていき、講義は緩慢に進んでいった。キーランとデーヴィッドに挟まれるようにして座っていた聖少女は、そういう講義をそれなりに集中して聞いているようだったが、突然のように首を巡らすとキーランの耳に口を寄せた。至って自然な感じの仕草。それでもふたりの間に深く根づいた親密さを感じさせるには充分だった。すぐにキーランの肩が揺れ、聖少女の方を向くと、手で彼女の頭を抱える。キーランは、やっぱりとてつもなく優しい目をして、聖少女のことを包み込むように笑っていた。まだ頼りない3月の陽光が降りそそぐ講義室の中で、それは思いがけないほどに美しい光景であり、ジェニファーは思わずのように深く息を吐いていた。


 「崖っぷち」に珍しくクラシックのピアノ曲が流れていると思ったら、デーヴィッドと聖少女が並んで腰を下ろして、ピアノを弾いていた。デーヴィッドが左手で伴奏を担当し、聖少女が右手で旋律を奏でていく。確実にどこかで聞いたことのある、静かで、抒情的なピアノ曲。もちろん、お嬢様はピアノぐらい弾けるわけである。

「上手いじゃない、美波ちゃん」

「お父さんが時々、教えてくれるの。でも、私は、お父さんみたいには弾けないけれど、クレイトンさんはとても上手」

「デーヴィッドでいいよ、美波ちゃん。美波ちゃんがベードーベン好きだってわかったから、今度来る時までにはもう少し練習しておくよ。それで、また一緒に弾こう」

傍目にもデーヴィッドが聖少女にデレデレになっていることがすぐにわかった。案の定、少し離れたテーブルに座っているサツキは、そんなデーヴィッドのことを面白くなさそうに見ている。アップライトピアノにもたれているキーランは、そういうサツキのことをそれとなく観察しているようだった。キーラン・ケネディという人間は、なかなかどうして友だち思いではないの。ピアノを囲む3人に近づきながらジェニファーは考える。

「これ、セジウィック教授から預かったの。あなたのレポート」

デーヴィッドと聖少女のすぐ背後まで行き、真っ直ぐにレポートを差し出すと、キーランは微かに緊張したように身を起こした。すぐにピアノの音が止まり、見ると聖少女が自分のことを見上げていた。あのレストランで初めて顔を合わせた時のようにゆったりと笑うと、軽く会釈をする。川嶋社長と同じ、一際澄んだブルー・グレイの大きな瞳。ジェニファーは思わず微笑み返していた。

「お前、ジェンって言うんだろう。ちょっと顔、貸せよ」

レポートを受け取り、コートのポケットに無造作に突っ込むと、キーランは早口でそう言って、歩き出した。何となく聖少女の方を見ると、彼女は既にデーヴィッドとのピアノ遊びに戻っていた。キーランが自分に何の用事があるのか興味はないのだろうか。ジェニファーはつい余計な心配をしてしまっていた。

 店の中ほどのテーブル席に座るように促すと、キーラン・ケネディは身軽な動作で向かい側に腰を下ろした。その時、ジェニファーは、キーランの手足の動きが特にしなやかであることに気がついた。単に顔の造りが良いだけではないわけだ。そう思うと、つい、こんな風に何でも持っているっていうのはどんな気持ちがすることなんだろうと考え始めていた。容姿端麗で頭脳明晰。友だち思いの明朗な性格。しかも実家がお金持ちで、とびきり可愛いガールフレンドまでいる。いや、ガールフレンドではなくて、「妹みたいなもの」なわけだけれど、キーラン・ケネディが聖少女に恋をしているのは間違いないと思う。

「お前、人の言うことを聞いている?」

ジェニファーが自分の思考にスッポリとはまってしまっていたら、キーランがぐいっと身を乗り出して、聞いた。ガラスのような水色の瞳が自分のことを真っ直ぐに捉えていて、左耳では繊細な造りの金の十字架のピアスが揺れていた。とても趣味が良い品だ。ジェニファーは自分の顔が紅潮してくるのを感じた。

「ゴメン。ちょっと部屋に忘れ物をしたのを思い出したの。それで、何だっけ」

ちょっとわざとらしいかな、と思った言い訳だった。案の定、キーランは探るようにジェニファーの顔を見返した。ここは笑ってごまかすしかないと、ジェニファーは曖昧な笑顔を浮かべてみせる。

「だから、オレは、お前にちゃんと礼を言わなければいけないことがふたつほどあると思ったんだ」

暫くの間、判断がつきかねるようにジェニファーの表情を窺っていたキーランは、やがて諦めたように話し始めた。できるだけ協力の意を示そうと、それなりに熱心にキーランが言おうとしていることを聞こうとして、結局、ジェニファーは驚いてしまう。自分はあのキーラン・ケネディに感謝されるようなことをしたのだろうか。

「何のこと?」

「だって、美波のピアスを見つけてくれたのはお前なんだろう。エディがそう言っていた」

「エディって?」

ますます訳がわからないと問い返すと、キーランは一瞬の空白の後、困ったように笑った。それで、それまでのどこか突っ張ったような態度が崩れ、本来の屈託のなさが戻って来る。

「悪かった。エドワード・真隆・川嶋。川嶋電機の社長のこと。アメリカではエディ・カワシマって名前で認知する人の方が多いはずだよ」

そんなことを知るはずがない。川嶋電機の製品は世の中に溢れていて、ニュージャージーの母と継父の家では、テレビとカセットテープ・プレイヤーにカワシマのロゴが入っていたと記憶しているが、そういう会社の社長の名前に関心を持ったことは一度もなかった。もっとも、母は、川嶋電機のことを直に見たら興奮するかもしれない。何しろ、珍しいぐらいにハンサムな人だった。

「その、エディ・真隆・川嶋があの美波のお父さんなの?」

ジェニファーが聞くと、キーランは微かに眉を寄せた。

「お前、その話を聞いたのは、あのレストランなんだろう」

キーランの調子に何となく違和感を覚え、ジェニファーは確信なく、頷く。

「あんまりあちこちで言って歩くなよ。多くの人が知ることではないんだ」

それは川嶋社長が再婚をしたからなの?咄嗟にそんな風に聞いてしまいそうになり、キーランの突きつめた表情に、ジェニファーは自分のことばを呑み込んでいた。

「あのピアス、そんなに大事なものだったんだ」

何か聞かなければいけないと思い、尋ねてみた。すぐに、キーランは視線を外す。

「あのピアスはオレが何年か前にプレゼントしたんだけれど、アイツはけっこう気に入っていたみたいで、何かっていうと身に着けていた。あのレストランに行った夜も、エリーおば様に会うからって、精一杯のオシャレをして、東京からわざわざ持ってきたあのピアスをして出かけたんだ。でも、食事のテーブルに着いた途端、右のピアスがないことに気がついて、それで、アイツはパニックになった。とはいえ、エリーおば様の前だったわけだろう。失敗するととんでもないことになるから尚更緊張してしまって、アイツは目も当てられない状態になりつつあったんだ。エディがわざわざクロークルームまであのピアスのことを確認しに行ったのは、ピアスが見つかればそんなアイツでも自分を立て直すことができるかもしれないと考えたからで、実際、エディがピアスを持って戻った途端、アイツは持ち直した。それで、結局、あの夜はエリーおば様も上機嫌で帰って行って、アイツに社交界デヴューの話をねじ込むようなことはしなかった。そういうことだから、お前があのピアスを見つけてくれて、本当に皆が助かったんだ」

ジェニファーは、キーランのわりと長めの説明を俯いたままで聞いていた。そうでもしていないと、大笑いしてしまいそうだった。エリーおば様に社交界。キーランは一体、いつの話をしているのだろう。今年は1989年で、日本では昭和天皇が亡くなって新しい年号を使うようになったはずだし、ソ連圏の国々では社会主義政治体制に大きな変化が起きつつある。そういう時代に、この国ではまだ社交界の心配をしている人間がいたというわけだ。

「あのピアスを見つけたのは、コートをハンガーにかけた時に気がついただけなの。だから、私は普通に仕事をしていただけで、お礼を言われるようなことはしていない。それで、ふたつ目のお礼って、何のこと?」

笑い出したりしないように早口でそれだけ言うと、ジェニファーはちらりと下方からキーランを見上げた。再び、キーランは視線を反らした。

「お前、あのレストランでオレと会ったこと、他の連中には黙っていてくれただろう。助かったよ。だから、ありがとう」

それは思いも掛けない、キーラン・ケネディの素直な告白だった。結局、ジェニファーは吹き出していた。

「あれはバラされたら困ることだったんだ。確かにとってもお坊ちゃま然としていたよね。でも、カッコ良かったよ。今度、ああゆう服装で大学に来ればいいのに」

「ほっとけよ」

はっきりと紅くなって、キーランは横を向く。可愛いもんじゃないか。

「ねぇ、腕時計を見せて」

「腕時計だって?」

判然としない表情で、キーランは右手をジェニファーに対して差し出した。クラシックな趣の重厚な時計。確かにパテック・フィリップというロゴが入っている。とはいえ、ジェニファーには、その時計の価値の程はまったくわからなかった。

「その腕時計、とっても高級な品なんだって?ピッパが言っていた」

「ああ、確かにピッパはそんなことを言っていたな。でも、オレは知らないよ。随分と前にエディが誕生日にくれたんだ。だから安物のはずはないんだけれど、値段のことなんて考えたこともない。エディはさ、オレと美波に罪悪感をたっぷりと抱えているから、いつも法外な値段の物をオレたちに買い与えるんだ。それでいちいち考えると疲れるから、もう考えないことにしている」

「罪悪感て、どういうこと?」

ジェニファーが聞きとがめて尋ねると、キーランは唇をキツく噛みしめた。何か、マズいことでも聞いたのだろうか。その時、デーヴィッドの名前を呼ぶ、サツキの甲高い声が店中に響き渡った。咄嗟に視線を向けると、サツキがピアノの方に大股で近づきつつある。まったくもう(Fuck)。小さく悪態をついて、キーランが立ち上がり、ピアノの方に駆け出した。ジェニファーも後を追った。

 サツキが色々と言い出す前に美波をピアノの椅子から立ち上がらせて、キーランはその場の全員に帰るよと宣言した。デーヴィッドはとても残念そうだったけれど、サツキがほとんど噴火の寸前であったので、口を噤む。キーランは、ジェニファーの手を引っ張って、耳元に口を寄せた。

「お前、これからアルバイトなの?」

「今日はフリーの日」

「だったら、デーヴィッドとサツキのこと、少し見ていてくれないかな。実はサツキから相談されているんだ」

「今日、授業に出てきたのは、そのことがあったから?」

ジェニファーの質問に、キーランはあからさまに視線を外す。それで、ジェニファーは、自分の推測があながち間違いでもないことを確信する。

「こんなことを頼むのは、お前が頼りになりそうだからなんだ。もちろん、ちゃんとお礼はするよ。この間のレストランの晩もことも含めてね。オレたち、この店でのライブを来週の金曜日の晩に再開するつもりなんだけれど、お前、聞きに来いよ。ライブの後、酒を奢るからさ。美波は水曜に東京に戻る予定だから、色々な心配をすることなく、お前と話ができるはずなんだ」

「美波はサツキみたいに嫉妬しないの?」

「オレたち、そういう仲じゃないんだ。でも、そうだな。アイツはその類いの嫉妬はしないよ」

そう言ったキーランは真剣そのものであった。それで、何となくジェニファーは、なし崩し的に頷いてしまう。キーランの言っていることは矛盾に満ちていて、すぐには理解できそうにもなかった。それでも、美波という名の聖少女が何の憂いもない様子で笑顔を見せていたので、まぁいいかと思ってしまう。

 キーランに手を引かれて「崖っぷち」を出て行く前、ジェニファーの前の通り過ぎた聖少女はやっぱり美しすぎるような笑顔を浮かべて、「さようなら」と言った。あなたの笑顔をいつまでも見ていたいのに。そんな風に思っていたジェニファーは「さようなら」と言う代わりに、聖少女に対して小さく手を振った。


 キーラン・ケネディは翌週の正義論の授業にも聖少女と一緒に現れた。政治理論入門の講義の時と同じように講義開始時間ぎりぎりに現れ、ふたり揃ってデーヴィッドが確保しておいた席に滑りこむ。既に講義を開始する準備を終えていたセジウィック教授は、そんなキーランを目敏く認めたようだった。

「ケネディ、インフルエンザはもういいのかい?」

「すっかり治りました」

「返却したレポートは受け取ったんだろうね」

「はい」

「それじゃ、君が多文化主義の観点を参照しつつノージックの議論を批判した論点を紹介してくれないか。今日はそこから始めよう。東京に住んでいた体験に根差す君の議論には興味深い見解が含まれていたし、先週1週間休んだんだから、その程度の貢献をこのクラスにすることぐらいは構わないだろう?」

「喜んで、セジウィック教授」

実はあまり嬉しそうではないような表情でそう答えると、キーランは淡々と求められた論点を述べていった。立て板に水のような、滑らかな弁舌。とはいえ、その時、男子学生が圧倒的な多数を占める正義論に出席する学生の関心は、話をするキーランの様子を頬杖を突きながらじっと観察していた聖少女にほぼ独占的に向けられていたのだと思う。あの女の子、誰?あんな可愛い子がこのクラスにいたっけ?数列先の席に座っていた男子学生が、隣の女子学生に思わずのように聞く。その言い方は、いくらなんでも彼女に失礼だよ。ジェニファーは自分の顔全体に苦笑が広がっていくことを抑えることができなかったが、それでも、周囲の様子にまったく構わずキーランの横顔を見つめ続ける聖少女は、確かに相変わらず文句のつけようがない美少女で、女子学生にキツく睨み返された男子学生のことをどこか気の毒にも感じていた。

 セジウィック教授が授業の終了を告げるや否や、キーランは素早く聖少女を講義室から連れ出した。その慌ただしい様子を見送ってから、ジェニファーはセジウィック教授に近づく。

教授(せんせい)、キーラン・ケネディのインフルエンザはとても強力だったみたいですよ」

セジウィック教授は軽く笑い声を立てた。

「今日、彼の隣に座っていた女の子ぐらいにかね。あれはどう見たって、大学生には見えないよ」

「妹みたいなもの、なんだそうです」

「そんな風にも見えなかったけれどね」

相変わらず笑いながら、セジウィック教授は断定的に言った。大学の先生というのは、学生のことをそれなりにちゃんと見ているというわけだ。

「それで、ケネディのレポートは君の役に立ったのかい?」

「お陰様で、とても役に立ちました」

「それじゃあ、次の課題を楽しみにしていよう」

あくまでも良い教育者であるセジウッィク教授は、そんな風に言うと鞄を取りあげて、講義室を後にした。ジェニファーは、セジウッィク教授にしっかりと会釈をして、見送った。


 講義室のあった建物を出ると、キーラン・ケネディと聖少女が研究者らしき男性と立ち話をしていたケネディ教授に駆け寄る光景が目に入った。大きな書類カバンを抱えたケネディ教授は、あのレストランの夜のように優しげに微笑んでいて、勢いよく抱きつくように近づいてくる聖少女の肩に愛おしそうに手を回す。そういう聖少女にピタリと張りついていたキーランは、ごく自然な感じでケネディ教授の鞄に手を伸ばすと、自分の肩にかけた。なぁんだ。良い息子でもあるわけだ。本当に、カワイイったらありゃしない。週末のライブで会った時に、キーラン・ケネディのことをさんざんにからかって、遊べそうだ。でも、それまでには聖少女は東京に戻っているはず。キーランはこの間、水曜に東京に戻ると言っていたから、それは明日のことだ。あの子にサヨナラを言うのはつらいよね、キーラン。そんなジェニファーの呟きに反応したかのように、キーラン・ケネディがこちらを向いた。少しだけ表情を緩めて、軽く手を振る。偶然にレストランで顔を合わせて以来、なぜだかずっと友好的になったキーラン。ジェニファーはそんなキーランに応えるために、真っ直ぐに手を挙げた。


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