5 川を下る
川は静かだった。下流で起こっていることなど露知らず、この大河は悠久の時のままにゆったりと流れていた。その水面は鏡のように静まり返り、ただ川面を遡る小舟たちだけが静かな湖面に引き波をたてていた。
こうして彼らは上流へ向かった。
川を遡る小舟たちの中には、子供しか乗っていないものもいくつかあった。それは、おそらく漁師の子供が操船しているのだろう。おそらく彼らの親たちは、自らを犠牲にして他人の子どもたちを船に載せたに違いない。彼らは若い船長だ。
そして、その殿を務めるアイルたちは、この船団の長だ。
アイルは背筋を伸ばし、船首に立ちあらためて周囲を睥睨した。
そのとき、彼は目の端に、一瞬だけ人影を捉えた。
それはすぐに緑の森の茂みの中に消えた。しかし、かれは純白の服を来た数人の人間たちが、そのスカートをなびかせ、森の茂みに突っ込み姿を隠すのを見た。
アイルは舵を取り、船を岸辺に寄せた。そして大声で叫んだ。
【アイル】「おーい、君たち!君たちも船に乗れ!」
しかし、アイルの声に答えるものはなかった。一体何ごとだと、ペトラがアイルの隣に立ち森を眺めた。
【ペトラ】「なにかあったのですか?」
【アイル】「森に人影があったんだ」
【ペトラ】「……敵かも知れません」
【アイル】「いや、違うと思う。彼らは真っ白な服を着ていた。敵兵なら、あんな目立つ服を着たりはしない」
アイルはもう一度森に向かって呼びかけたが、返事はなかった。
【ペトラ】「……誰も出てきませんね」
【アイル】「警戒されてるのかな」
【ペトラ】「このへんに人里は有りませんし、エルフかもしれません」
【アイル】「エルフ?エルフなんているのか?こんな俺達が住んでる場所の、すぐ近くに?」
【ペトラ】「噂では、山脈の中腹に隠れて住んでいるのだとか。我々にダマスカスの加工技術をもたらしたのも、彼らだそうですよ」
【アイル】「へぇ」
彼らは静かに船を進めた。晩夏のラインベルクは豊富な雪解け水に溢れ、森の木々は枝の高さまで水中に沈んでいた。
アイルは船の周りにスズキが泳いでいるのを見た。この辺りはまだ汽水域であり、ボラや、時には青物などが川に入ってくることあった。そんなわけで、漁師であるアイルはこのあたりの地形にも詳しかったのだ。
川の前方は中州で分かれていた。前方の船たちはみな左岸、つまりアイルたちから見て右手の川を通っていた。これは正解だ。右手の分流のほうが喫水が浅く、もしザクセンが大きな帆船で川を登ってくる場合、右手の川には入ってこれないだろう。
その時、ルークが船尾から声をかけた。
【ルーク】「後方に敵船!」
アイルは後ろを振り返った。カーブした岬の先端から、船がゆっくりと顔を出した。その中央マストには、竜の羽が張られていた。そして舷側は黒く塗られていた。
ザクセンの船だ。
【アマンダ】「私たちは、殿の勤めを果たさなければなりません」
アマンダが言った。アイルはうなずいた。そして、作戦を考え、伝えた。
【アイル】「港であれと同じ船を見たが、そのときは戦闘員は6人乗っていた。俺とアマンダは岸に降りて横から襲撃する。ルーク、お前は船の上で囮になれ」
【ルーク】「わかった」
【アイル「ペトラは船の中に隠れて、人数を誤認させるんだ。隙を見て敵を撹乱しろ」
【ペトラ】「わかりました」
アイルは、ルークと操船を交代した。そして、船を岸に寄せ、アマンダと一緒に陸に飛び降りた。
二人は土手を走り、上流の森の中に隠れた。
【アイル】「火薬をよこしてくれ」
アイルはアマンダに言った。彼は火薬壺を受け取ると、上着の袖をちぎり矢尻に巻き付けた。そして、坪から火薬を取り出し、矢尻に巻き付けた布に擦り込んだ。彼は屋をくるくると回し、火矢の出来を確かめると、するすると木の上に登り、高い枝の上から川の下流を覗いた。
下流から、小舟とそれを追う帆船が近づいてきた。彼は梢の中に体を隠し、その時を待った。
やがて、下流からルークの叫び声が聞こえてきた。
【ルーク】「来るな!来るなああああ!」
ルークは船尾に立ち、まだだいぶ距離のある敵船に向かって、剣を振り回していた。それは、迫真の叫び声だった。注意深く聞けば、声に演技特有の妙な響きが混じっているが、それは彼らがルークのことを知っているからそう感じるだけかも知れない。
帆船は小舟に追いつき、衝突した。船は互いに激しく揺れ、小舟は岸辺に乗り上げた。
一人のザクセン兵が、アイルたちの船に乗り込もうと、小舟の縁に足をかけた。
アマンダは銃を放った。
敵兵は、銃弾の衝撃に押され、足を踏み外し船と船の間から川に落下した。
甲冑で全身を包んだ彼は、真っ逆さまに水中に沈んだ。
ルークは、急に演技をやめて、剣を正中に構えた。その据わった目無感情にザクセン兵たちを睨みつけていた。
空気が変わった。ザクセン兵たちは勢いを削がれ、判然の縁で足踏みをした。
アイルは、その様子を木の上から見ていた。アイルは彼らの視界の外で、火矢に炎を灯した。火薬を染み込ませた矢尻は、激しく燃え上がった。アイルは弓を引き、敵のスパンカーに打ち込んだ。
白いキャンバス地の帆に、火は瞬く間に燃え広がった。
次いでアイルは、火薬壺を投げ入れた。陶器の壺は甲板に衝突するとパリンと砕け散り、中身は火に引火し爆発した。
甲板は炎の海と化した。
ザクセン兵「ぐわあああ」
兵の一人が炎に包まれ絶叫し、海に飛び込んだ。
敵は、残り四匹。
アイルは、甲板で右往左往する兵士に向かって、飛び降りた。
彼は飛び降りざまナイフを振りかぶり、剣を敵兵の頚椎めがけてまっすぐに振り下ろした。ナイフは頚椎と肩甲骨の間を埋める僧帽筋に直角に差し込めれ、肉ごと血管を切り裂いた。アイルが甲板の上に立ったとき、兵士はすでに絶命していた。
後方で起こったことに気を取られ、船首にいた兵士たちが視線をルークから背けた。ルークはその隙を見逃さなかった。彼はひとっ飛びで敵の帆船に飛び乗ると、長剣を敵兵の兜の隙間につき入れた。
兵士は喉から血を吹き出し、倒れた。そして死んだ。
あと二匹。
アイルはペトラがどこに潜んでいるのか探した。ふと見ると、川に船のものではない引波が立っていた。
あれは今、ペトラが川の水面、船の四角の場所を泳いでいるに違いない。彼女は敵の背後に回り込み、背中を捕るだろう。
アイルはその時を待った。
その時、岸から女の叫び声が聞こえてきた。
アイルは横目で岸を覗いた。
アマンダの足首が、ひとりの甲冑の兵士に掴まれていた。彼女は尻もちを付いていた。
もう一人の兵士が、彼に続いて岸から這い上がってきた。
奴らは、死んではいなかった。
川の底を歩いて、岸まで上がってきたのだ。単純なことだった。
兵士は、アマンダに向かって剣を振り上げた。
間に合わない。
アイル「アマンダ!!!!」
彼は叫んだ。
その時岸から矢が飛んできた。アイルは矢尻が放つ金属光沢の残光を捉えた。
矢は兵士の兜を貫いた。
その瞬間、兵士の頭は大砲にでも撃たれたかのように、爆発四散した。
それは、鷹の餌を作るために、野良猫の頭を大岩で砕いた時の様子と似ていた。
目玉は頭蓋から飛び出し、ピンク色の脳みそがこぼれ落ちる。本来の可愛い顔を知っているからこそ、それは余計にグロテスクだった。
遅れて岸に上がった兵士は、目の前の様子にただ呆然としていた。
そこに向かって、もう一つの矢が穿たれた。それは、胴鎧をいとも簡単に貫き、人体を通過した。そして、その肉体は破裂した風船のように爆発し砕け散った。
アマンダの顔に汚い血の雨が降り注いだ。
【テオ】「アリア!銀の矢は使わないで!」
声の主は、川の水面を駆けた。
彼女は魔法でその足元を凍らせながら、川を走った。彼女は足元により大きな氷を作ると、それを蹴って跳躍し、船の中に飛び込んだ。
彼女はマストの前に立つゴブリンに向かって剣を振るった。ゴブリンはすでに操舵から手を離し、その手に盾を握っていた。
ゴブリンはテオの剣を盾で受けた。すると、ゴブリンの盾は一瞬のうちに氷に包まれた。ゴブリンは、急に加わった重みに、思わず盾の防御を下げた。
がら空きになった右手の手首に向かって、テオは剣を振るった。その体から断ち切られた手は、ポトリと甲板の上に落ちた。
ゴブリンは血を吹き出しながら叫び声をあげた。テオは横投げに剣を払い、ゴブリンの生首をつき飛ばした。
ベルが彼女に続いた。彼は川を瞬く間に泳ぎ切ると、船に乗り込み、剣を抜いた。彼はその細剣から鋭い剣を繰り出し、次々とゴブリンを刺し殺した。
ものの20秒で 帆船のゴブリンは全滅した。
アイルは肩で息をしていた。後先考えずに船に飛び込んでしまったが、まさか敵を殲滅できるなどと考えてはいなかった。
アイルと彼らとは、見つめ合った。
【アイル】「君たちは、一体何者だ……」
アイルは言った。その時、岸辺からふたりの女の叫び声が聞こえてきた。
アマンダ「お~い、まってよ~」
エルフの女「待って~」
二人は並んで船に手を降っていた。アイルは船を止めて二人を船に乗せた。
アイル「あの船を鎮めて、暗礁にしたい」
アベル 「分かった手伝おう」
船船のともにに綱を駆け、川の中央へ引っ張った。そして錨を下ろした。
火は船底に穴を開け、船は沈んでいった。
船はしばらく川を進んだ。
アイルは訊いた。
アイル「君たちはどこからきたんだ」
アベル「山の奥から来た。クアナンに襲撃された」
アイル「クアナン?」
ペトラ「クアナンはここから南のオークの部族集団ですよ」
アイル「君たちを襲ったのは、ザクセンではないのか」
アベル「いや違う。さっきの船はザクセンのようだな。ということは、同時に多方向から進行を受けてるということのようだな」
ペトラ「敵の狙いははっきりしています。天使でしょう」
アイル「そうか」
ペトラは目配せをした。アマンダのことは黙ってろということだろう。アイルにも流石にそれぐらいのことは分かった。
アイル「いま子どもたちを避難させているところだ。俺たちは殿を務めている。木みたいtもこれに食わわてほしい」
テオ「いいわよ」
アイル「ありがとう。俺はアイルだ」
テオ「私はテオよ」
アベル「アベルだ」
アリア「あたしはアリア。よろしくね」
こうして川を下っていく