第三章
第三章
目覚まし時計のジリジリという音が部屋に鳴り響いた。
その音ですぐに目覚めることができ、音を止めながら、時間を確認すると、針は七時半を指している。今日は土曜日で学校がないため、平日より少し遅い時間に起床した。
リビングに降りると、母親が朝ご飯の準備をしてくれていた。昨日は空き缶やおつまみの残骸が散らばっていたリビングの机もきれいに片付いており、昨日は飲んだくれだった母親も平常運転に戻ってたので、安心した。
朝ごはんを済ませて、少しリビングでゆっくりしてから、今週の授業の復習をするために、まずは数学の教科書を開いた。
最近はバイトで平日は満足に家で勉強できない時が多いため、土日に勉強時間を稼ぐしかない。
休憩を挟みつつ、今週分の各教科の復習を済ませる。
普段はこれから本を読んだり、自分の好きなことをするが、昨日、濱田と連絡をとり、急遽予定を入れていたので、その準備を始める。
普段は寝巻きくらいでしか着ないジャージに身を包み、母親にお茶を入れてもらった水筒とタオルを鞄に入れて、家を出た。
今日は雲一つない快晴で日差しが強く、少し自転車を漕ぐだけでも汗をかき始めた。
家から十分くらい自転車を漕ぐと、目的地に到着する。俺が来たのは公園だった。駐輪場に自転車を停めて、少し待っていると、濱田が近づいてきた。
「おっす、タカオくん」
「おっす」
彼女は私服ではなく、バスケを練習するときの格好でやってきた。上が深緑色、下が白色の、バスケ部特有な少しダボっとした練習着をきて、背中にはスポーツブランドの、黒い大きめなリュックを背負っていた。
「悪いな、部活後で疲れてるのにきてもらって」
「全然いいよ」
「ありがとう」
「でも、びっくりしたよ。タカオくんにバスケを教えてくれって言われるなんて」
昨日、濱田に連絡をしたのは、バスケに対して理解をするためには、まずは自分でやってみることが一番だと考えたからだ。しかし、一人でやろうにも何をしたら良いのかわからず、誰かに頼るとなった際に濱田しか思いつかなかった。
昨日、濱田にその旨を申し入れると、最初は驚いた様子だったが、あっさりと快諾してくれ、今日の午後三時からであれば、空いているということだったので、早速お願いしたのだった。
駐輪場から少し歩いた先にバスケットゴールの置かれた広場があった。
「時間によっては、人が使ってるんだけど、空いててよかったー」
「ああ、そうだな」
今回、この公園に集まったのはバスケットゴールがあるからという理由だ。
バスケットゴールのある公園というのはそんなに数はなく、濱田に聞くにはここらへんでは唯一この公園くらいしかないらしい。
バスケットゴールの下につくと、彼女は背負っていたリュックからバスケットボールを取り出した。
「よーし、やろう!」
「おう!」
「でも、バスケ教えてほしいって言っても何からやるかだな〜」
どうやら、俺のバスケの先生となる人は教育の方法で悩んでいるようだ。うむ、確かにバスケ部でもない俺に何を教えればいいんだという話だよな……
「ちょっと考えるから、とりあえず準備体操しようか」
「うす」
さすがはバスケ部のエース。ちゃんと準備体操をしないと怪我するもんな。濱田がアキレス腱を伸ばしたり、屈伸運動をするので、それに習い、同じ体操をした。
「う〜ん、バスケ自体はやったことはある?」
濱田は、手を組んだまま腕を上に伸ばしながら言った。
「まー、小学校と中学の体育でやったことはあるな」
「じゃあ競技自体まったくわからないってわけじゃないか」
彼女はう〜んと手を顎に当て、再度考える様子を見せる。
「教えて欲しいことってあるかな?」
「そうだな……」
昨日、バスケのハウツー本を読んでもわからなかったもの、そして俺が知りたいことは何か考えて、自分なりの答えを濱田に伝えた。
「俺はバスケの面白さがわからないから、それが知りたい」
「え? 面白さ? ……タカオくんって真面目なのに変なこと言うね」
濱田が笑いながら言った。
「俺は至って真面目だぞ……濱田だって面白いからバスケ続けてるんじゃないのか?」
「真面目なのはわかってるよ。うん、面白いから続けてると思う」
「何が面白いのかって説明できる?」
「う〜ん、そうだな。 バスケっていうか部活全般だと思うけど」
濱田は話しながら、ボールをドリブルし始めた。ダムダムという音が響きながら、話し続ける。
「フットワークとかきつい練習もあるけど、練習で少しずつうまくなっていって」
濱田は話しながら、ドリブルをやめると、膝を下に落として、シュートの体勢になる。
「シュートを決めた時とか、相手をドリブルで抜いた時とか、そういう瞬間が面白いかな!」
話し終えると同時にボールは空中に向けて放たれた。そのまま、ボールは美しい弧を描き、ゴールへと吸い込まれた。濱田は笑顔で俺の方を振り返った。……か、かっこいい……
「よし、じゃあ早速だけど1on1しよう!」
「お、いきなりか!」
「多分、それが一番楽しいからね。先に5回ゴールを決めた方が勝ちね」
濱田と向かい合い、準備ができたところで、ボールをパスされた。俺の攻めからでいいということだろう。
「いくぞ!」
*
スパッとゴールネットを揺らす音が響く。
濱田は俺のバスケの実力がわかったようで、俺の顔を見ながらこういった。
「ごめん。もうちょっと基礎から練習しよっか……」
悲しそうに言わないでくれ……この1on1勝負は、俺がシュートを一本も決められず、濱田がシュートを5本決めて、すぐに終了した。
濱田を悲しませるくらい、俺はバスケが下手だったらしい。
ドリブルをしながら、相手を抜こうとすると思い通りの場所に、ボールがついてきてくれない。シュートを打つと、ゴールのリングにすらかすらない。もちろんディフェンスでも濱田についていけるわけがないので、一瞬で抜かれてレイアップシュートを決められるか、距離を取られてジャンプシュートを決められるのどちらかだ。
心臓を脈打つ鼓動が早く、俺の息は散歩中の犬のように乱れていた。
「ハアハア……て、手加減というものをしらないのか、お前は……」
「ごめん。結構手加減したつもりだったんだけど……」
ぐぬぬ……まあしかし俺がバスケを下手なことなんて、わかっていたことだ。
体育でバスケをしていた時、真剣に取り組んではいたが、活躍した覚えはない。試合中、よく動き回りはするので、最初の方はパスがもらえるのだが、そこからドリブルで切り込んだり、シュートを決めることができないので途中からほとんどパスは来なくなる、というのがいつものパターンだった。
……ええ、高校生なのでもう気づいています。私は運動神経があまりよくないんです。
「じゃあ、最初はドリブルからかなー」
「おう!」
「まず最初は片手でドリブルしてみて」
自分なりにドリブルをしてみる。濱田のドリブルを見ているとボールが吸い付くようだっだが、俺の場合はボールを叩いているような感覚だ。何度かボールを地面に叩きつけると、先生からストップが入り、貸してと言われたので、ボールを献上した。
「ドリブルは叩くっていう意識じゃなくて、どっちかというと、引きつける意識でするんだよ」
そう言いながら、先生がお手本を見せてくれる。なるほど、確かにボールが戻ってくる時に手を引いている感じだ。
「だから最初は一回ドリブルしてキャッチするのでもいいよ。それが慣れてきたら、ドリブルをしてみて」
濱田からの指導通り、最初はドリブルをして、手を引きながら両手でキャッチするという動作を繰り返す。何回かその動作を繰り返したところで、普通のドリブルに切り替えると、確かにこれまでより少しだけ、ボールが手に吸いつかれる感覚があった。
「うん、ちょっとだけ前よりよくなってるかな〜。じゃあ、そのままドリブルしながら歩いてみて」
濱田の指導は最初は簡単なことから始め、少しずつ難易度を上げていく、初心者に優しい指導方法であった。右手でドリブルしながら走ってみたり、両手でドリブルをついてみたり、左手だと利き手じゃない分、難易度があがるので、ドリブルをしながら歩いてみたり、ずっとドリブルの指導を受けたおかげで、ほんの少しだけドリブルは上達した気がする。間違いなく、彼女の指導の賜物だ。
ふと、公園に置かれている大きな時計を見ると、濱田と合流してから二時間近く、時間が経っていた。ドリブルの練習だけでそんな時間が経っていたのか。
「あとはシュートの練習をしてみよっかー。一回撃ってみてくれる?」
「うん」
自分なりのフォームでシュートを撃ってみる。かろうじてリングに当たったが、ゴールには入らなかった。
「何ていうかタカオ君のシュートはただ放っているだけだね。ちょっとボール貸して」
リングから帰ってきたボールを濱田にパスした。
「まず、今は右手と左手両方の手で押す感じでシュートを撃ってるけど、男子だと筋力があるから、ワンハンドシュートの練習をしよう」
「右手でボールを持つんだけど、この時に手の平はべたっとつけない。あと、有名だけど、左手は添えるだけね」
「有名なのか?」
「知らないかー。まあそれはいいや」
なんだ、気になるな。
「で、シュートを打つ準備ができたら、膝を下げる」
「膝のクッションを使って、連動するようにシュートを撃つ」
放たれた濱田のシュートは綺麗な弧を描いたが、リングに弾かれた。
「あちゃー、やっぱりワンハンドは慣れてないからうまくいかないな」
そういえば、これまで濱田が放っていたシュートは両手で押し出すように打っていたな。
「まあ、こういう感じで撃ってみて」
濱田から「全然違う」「だめだなー」といったダメ出しを受けながら、シュートをひたすらに繰り返した。そのうちに少しずつフォームがまともに近づいてきたようで、そんな感じと言うコメントに変わってきた。
三十本目くらいのシュートを放った時、自分でもいい感じで撃てたと思うと、ボールは綺麗にゴールに入っていった。その時、ネットが揺れる音だけが公園を支配したように感じた。
「いいね! 今のフォームすごいきれいだったよ!」
シュートを決めたことと濱田から褒められたことで、身体をめぐる血液の速度が少し速くなった気がした。濱田が最初に言ったように、練習したことがうまくいく感覚は、とても気持ちのいいものだということが俺にも少し理解できた。
またシュートを繰り返していると、気づくと日が沈みかけていた。
そろそろ帰ろうかと濱田が言ったので、それに同意し、駐輪場に向かって歩く濱田の後ろを、俺は左手でドリブルしながら歩いていた。
「なんていうかありがとうね」
彼女はこちらを振り向きながら言った。
「いやいや、こっちがお礼を言う立場だろ、教えてくれたのはお前なんだから。ありがとうな」
「じゃなくて、なんていうか私が相談したことを真剣に考えてくれてありがとうってこと」
彼女は身体を完全にこちらには向けず、少し照れ臭そうにそう言った。
そういえば、今俺がバスケの練習をしているのは、バスケのことを理解したいと思ったからで、元を辿れば、濱田からの相談があったからだったな。
「べ、別にまだ何もできてねーんだから、お礼なんて言わなくていいよ」
俺も照れながら、彼女にそう返した。
そう、まだ何もできていない。このバスケの練習も自己満足に過ぎない可能性だって大いにある。
「それにちょっとバスケの面白さがわかったよ」
それは今日、本当に感じたことだった。人からしたらなんてことないが、シュートが綺麗に決まった時の瞬間は、切り取られて、あと何日かは自分の頭のなかで保存されたままだろう、そんなことを考えていた。
「あ、あとバスケの面白さを感じたいなら、必読書があるね」
「必読書?」
「うん、『スラムダンク』って言う漫画」
「スラムダンク?」
「聞いたことないか……そうだ、私の家に全巻あるから貸してあげるよ!」
漫画は俺の家の教育上、買ってもらうことはできなかった。
なので、小学生、中学生の時に、友人の家に行って、たまに読んだ程度の記憶しかない。「スラムダンク」という漫画はこれまで、友人の家で読んだ漫画のラインナップには入っていなかったので、名前も知らなかった。
「いいのか? 後、あんま、漫画とか読まないんだけど、それって面白いのか?」
「全然良いよ! 面白さは間違いないから安心して読んで!」
「わかった! じゃあ、頼む!」
「うん、じゃあ学校だと渡しにくいし、ちょっと遠いんだけど、このまま私の家までついてきて」
「お、おう」
こいつはやっぱり男前だな……さすがバスケ部エースのボーイッシュ女子。
その後、濱田と他愛もない話をしながら、自転車で並走した。二十分くらい自転車を漕ぐと、彼女の家に到着した。
すぐ取ってくるから待ってて、と彼女が言うので、待っていると大きめな紙袋のなかにいっぱいに入った漫画が自転車のカゴに入れられた。大体三十冊くらいだろうか?
「じゃあ、ちょっと重いけど、持って行って! 別に返すのはいつでもいいよ!」
「おお、ありがとう……」
「あ、後そうだ!」
そういって、彼女はまた家のなかに入り、バスケットボールを収納していたリュックを持って、戻ってきた。
「ボールも貸すから、いつでも練習してよ!」
「え、良いのか? お前も使うだろ?」
「いいのいいの! うち、もう一個ボールあるし、それは古い方だからさ」
少し気が引けたが、彼女からの好意をありがたく受け取ることにした。
「じゃあ、借りていくよ。ありがとう」
「うん、上達して返してね。じゃあ、このリュックごと持って行って」
「リュックまで大丈夫なのか?」
「同じような鞄があるから、大丈夫だよ。ボール入る鞄ないとあの公園に持ち運べないでしょ」
至れり尽くせりだ。濱田がここまで協力してくれると思っていなかった。
「じゃあ、ありがとう、また、教えてくれよ」
「うん。じゃあ、またね」
リュックを肩にかけてから、自転車で帰路に着き始めた。
家に帰ると、母親は、大荷物で帰ってきて、汗だくだった俺に対して、誰にそんなもの借りてきたのかと質問をされたが、女バスの友達というと、何か気を使ったのか、ふ〜んと言って、それ以降、何も言われなかった。
*
時計の針は三時を指していた。窓から見える景色は真っ暗なので、今は深夜であることを改めて認識する。
いつもは遅くても日付が変わる前に寝る俺だが、こんな時間まで起きているのに理由がある。
濱田から借りたスラムダンクが面白すぎる! 読むのがやめられねえ! ……ほんと、どうしよう。
ご飯と風呂を済ませた後、早速一巻から読み始めたのだが、想像以上に引き込まれて気づけば、十五巻くらいまで読んでいた。しかし、明日は昼からバイトだという事実を思い出し、さすがに寝ることを決意して、部屋の電気を消した。
目をつむると思い出されるのは今日の公園でのバスケを練習したシーンだった。
濱田先生、バスケがしたいです。
「ん……」
目を覚まし、デジタル時計を見ると、九時過ぎを表示していた。少なくともバイトに遅刻する時間ではなかったので、安堵してホッと息をつく。
身体を伸ばすと、至るところに筋肉痛を感じた。間違いなく、昨日のバスケの練習による疲労だ。普段、あんな運動することないからな……
昨日は目を瞑ってからも、アドレナリンがどばどば分泌されていたのか、寝るまで時間がかかってしまった。おかげで相当、眠気が残っている。
リビングに降りて、母親におはよう、というと、今日は遅いねと言われた。確かに普段は休みの日でも、遅くても八時には起床しているからな。
母親の準備した朝食を食べても、睡眠時間が不足しているせいか、一日を過ごすための活力がみなぎらない。……やはり、就寝時間は早いに越したことはないな。
自室に戻ると、早く漫画の続きが読みたい気持ちを抑えて、英語の教科書を開いた。あまり集中力が持続しないなか、気づけばバイトに行く時間になったので、準備をして出かけた。
*
おはようございます、と出勤の挨拶を済ませて、業務を開始する。
今日は土日のため、お客さんの数が多いのに合わせて、アルバイトの人数も多く、丸井も出勤していた。しかし、今日はバタバタしているので、あまり話す時間はなさそうだ。
皿洗いやパンケーキの生地の仕込み、など慣れた業務をするが、集中力に欠け、いつもより自分の業務の効率が悪くなっていることを感じていると、丸井から声をかけられた。
「谷崎、体調悪い?」
どうやら、丸井の目から見ても、いつもの俺と少し違うことが分かるらしい。そして、彼女が俺のことを気遣って声をかけてくれていることに動揺した。そう言えば、以前、丸井から話しかけてきた時は、ドンマイ、と俺を励ます言葉だったな。丸井は人への気遣いがちゃんとできる奴なんだろう。
「いや、寝不足なだけだよ……昨日、スラムダンクに夢中になって……」
「えっ、スラムダンク読んでるの?」
丸井は目を見開きながら、驚いて言った。そして、そんな表情をする丸井に俺も驚いた。これまで話してきた中で、一番丸井は感情が動いていたように思う。
「読んでるけど……もしかして丸井も好きなのか?」
「うん、漫画のなかで一番好き……」
「まじか!」
寝不足で上がらながった気分が一気に高揚し、大きめの声で言った。すると、後ろから店長が近づいてきた。
「二人とも話すのはあとね!」
店長から忙しそうにしながら怒られた俺たちはすみません、と謝り、業務に戻った。
その後、客入りがよく、一息つく間もなく、ラストまで働き続けた。
今日はもともと寝不足だったのに、勤務時間が長く、相当疲れた……お疲れ様です、と退勤の挨拶をして、店長を残して、アルバイトのメンバーは店を後にした。
自転車で来ている人はその日、丸井と俺だけだったので、駐輪場へ二人で向かった。
「「あのさ」」
丸井と俺の声が完全に被った。そのことがおかしくて、向かい合って、少し笑った。
「あ、いいよ。丸井から先に喋って」
「あ、うん、谷崎って漫画とか読まなさそうだけど、誰かから借りたの?」
「ああ、濱田に借りた」
「千聖? あれ、仲良いんだっけ?」
丸井が疑問そうに俺の方を見て、問いかけてきた。確かに教室で濱田と話ことはないので、俺と濱田が仲の良いイメージは普通は湧かない。
「まあそうだな。幼なじみの宮戸経由で」
「あー宮戸さん、確かに幼なじみだったね」
駐輪場に到着し、また俺から一緒に帰ろうと誘うと、丸井はうんと頷き、二人で同じ方向に向かって、自転車を漕ぎ始めた。
「そういえば、濱田から聞いたけど、もともとバスケ部だったんだよな」
少し迷ったが、丸井と二人で話すチャンスはそうそう何回も訪れはしないので。丸井が元バスケ部であったことに触れた。
「うん、まあ昔のことだよ」
丸井の表情はいつもと変わらず、落ち着いている。
「何で、バスケ部やめたんだ?」
丸井との距離が完全に縮まってはいないということは自覚していたが、気づくと、俺は唐突に質問していた。
その質問を受けた丸井は空を見上げた。今日の空は満月が存在感を放っている。
「まあ……バスケに飽きたからかな」
彼女は上を見ながらそう言ったので、果たして、どんな表情で話しているのかわからなかった。
「そうか……面白いのにな、バスケ」
「うん? 谷崎、バスケやってたの?」
丸井から質問が飛んでくる。いや、実際は体育以外でバスケをしたのなんて、昨日が初めてなんだが、なんて言おうかと悩んで回答した。
「いや、最近スラムダンク読んで、俺もちょっとバスケしたいなって思ってさ、それで近くの公園で友達とやったんだよ」
なんだか言い訳するみたいな話し方になってしまった。しかし、丸井は俺のこの回答を聞いて、やけに納得した様子だ。
「分かる」
「え? 分かんの?」
「私も昔、お父さんが持ってたスラムダンクを小学生の時に読んで、それでバスケ始めたんだよね」
濱田は漫画を読んで、バスケを始めたらしい。少し意外だったが、あの漫画は人をバスケ部に入らせるくらいの影響力は十分にあると思っていたので、俺も納得した。
「確かにあの漫画熱いもんなー」
「谷崎、今どんくらい読んだの?」
「十五巻とかかな?」
「後半、もっともっと熱くなるよ」
「まじか!」
丸井はその話をしている時、楽しそうだと思った。そして、ふと彼女が先ほど言ったバスケを辞めた理由と言うのが本当のことなのか、疑問に思った。
「……なあ、丸井」
「どうしたの?」
「今度バスケ教えてくれよ!」
「はあ?」
また丸井は目を見開いて驚く。今日の彼女はいつもより表情が豊かだ。
「言ったじゃん、さっき飽きたって」
「俺はこれからはまるとこなんだから、手伝ってくれ!」
「谷崎、結構無茶苦茶なこと言うんだね……」
少し呆れ気味で彼女は言った。
「まあ、別にいいけど」
「やったー!」
「喜びすぎでしょ」
呆れながら丸井は言ったが、俺は彼女とバスケをするという約束ができたことで、俺達の関係性が一歩進んだような気がして本当に嬉しかったのだ。丸い丸い満月はまるで、祝福しているように見えた。
「じゃあ、私こっちだ」
「ああ、またな。バスケの日はまた連絡する!」
「うん、じゃあね」
頭の横くらいの位置で彼女は手を振り、別れの挨拶とともに去って行った。
*
それから、二週間近く経った。
これまで、学校とバイト以外の時間、勉強をして過ごすことが多かったが、そこにバスケの練習という習慣が一つ加わった。
家の近くでドリブルの練習をしたり、時間がある時は濱田にバスケを教えてもらった公園で練習をした。母親からは「なんで、急にバスケ?」と心配されたが、ちゃんと勉強はしていたので、別に辞める様に言われることはなかった。
バスケは上達しているのかしていないのかわからなかったが、自分のやろうとしたことがうまくいったりすると嬉しかった。それに、たまに身体を動かすのは気晴らしに良いことだと気づいた。
……しかし、うまくいっていないことが一つある。
丸井とバスケをする日程の調整をしようと連絡をとりあっているのだが、こちらから候補日を何回かあげても、その日は予定があるとか、予定が入るかもと言われるばかりで、一向に日程が定まらなかった。そのことが引っかかり、授業中も少し集中力が落ちてしまっていた。
昼休憩。いつものように木田と昼食を食べる。ふと、木田に質問をしてみた。
「なあ、木田」
「なんだ?」
「お前って何でサッカー始めたの?」
「なんだ急に」
「いや、別になんでもないけどさ」
「まぁ、兄貴が初めてて、俺も影響受けて始めた気がするな」
「そっか、今初めて何年だ?」
「小二からだから、九年経ったな。今思うと、なげ〜」
「長いなー。なんでそんなに続けられてるんだ?」
「なんでだろな。わかんねえや。なんか、今じゃサッカーするのが当たり前って感じだからな」
「お前らしいな」
「なんだよ、それ……」
人がスポーツを始める理由はそれぞれ、続ける理由も辞める理由もそれぞれだ。丸井はバスケを辞めた理由は、空を見上げながら、バスケを飽きたからだと言った。それは本心なんだろうか?
丸井、お前はバスケを辞めた理由を俺に言う時、どんな顔してたんだ?その表情は満月だけが知っている。
*
昼休憩。昼食を食べた後、屋上前の階段の踊り場に向かった。
「やー」
「おー」
菜々と濱田は先に着いて談笑を楽しんでいたようだ。今日は久々に三人のグループで招集がかかっていたのだ。
「タカオ君、スラムダンク読んだ?」
「全巻読んだ。マジで貸してくれてありがとう」
「何、漫画借りてたの? 孝夫が?」
菜々は俺が漫画を借りて読んでいることに驚いていた。
「後半、めちゃめちゃ熱かったでしょ?」
丸井と同じことを濱田も言った。そしてその意見には、俺も圧倒的に同意だ。
「ああ半端なかった」
「だよね」
「そうだ、バスケの練習はしてる?」
「ああ、ちゃんとしてるよ」
「よしよし、褒めて使わそう」
「ありがとうございます。先生」
冗談混じりに話し、二人で笑い合っていると、菜々が少し目を細めて、こちらを見てきた。
「なんか、二人妙に仲良くなってない?」
「この前、濱田にバスケ教えてもらったんだよ」
「二人で?」
「え、うん」
「へー、いいなあ。私も行きたかった」
菜々は寂しがっているようにも、怒っているようにも見えた。
「で、友子とは最近どうなの?」
まるで、カップルがうまくなっているのか状況を確認するような言い方で濱田が質問してきた。
「この前、バスケを教えてもらう約束をした」
「うそ!」
「やるじゃん!」
まるで、好きな子をデートに誘うことを成功した友人を祝福するかのように、二人は俺のことを褒めた。
「だけど、なかなか日程がきまらないんだよな……」
「え?なんで?」
「日程の候補をあげても、その日は空いてないって言われる。いや、これは分かるんだが、別の日を言うとその日は予定が入るかもしれなくて分からない、って言われてる」
「あ、そっか……」
「ま、まあそういう時もあるよね」
まるで、友人の恋愛が脈なしであることを察したかのように、彼女達は気まずそうな雰囲気を醸し出す。
「まあ、こればっかりは仕方ないから、また誘ってみるよ」
「うん、そうだね。頑張って」
「別に頑張ることじゃないだろ……」
「友子とはバスケのことで、なんか話したの?」
濱田に質問され、二週間前の満月の夜のことを思い出した。
「そういえば、バスケを何で辞めたのかって質問した」
「えっ、それになんて?」
「飽きたから辞めた。ただそれだけ言ってたかな」
「そっか……」
ため息混じりに濱田は答えた。この話だけ聞くと、丸井がバスケ部に再入部して欲しい、という濱田の希望を叶えることは難しいと思うかもしれない。
「でも、それが本当のあいつの気持ちなのか俺は確かめたい」
自己満足かもしれないが、丸井の本当の気持ちを確かめることが、濱田に対して、そして、丸井に対して、真摯に向き合うことだ、そんな風に思うのだ。
「そっか……ありがとう。また、バスケの練習にも付き合うから」
「私もそれなりにはできるよ!」
「じゃあ菜々にもバスケ部入ってもらおっかな」
「多分千聖ちゃんの求めているレベルには達してないよ」
笑いながら菜々は言った。いくら運動神経が良いといえど、さすがに初心者がバスケをはじめて、戦力になるのは確かに難しい。
「じゃ、孝夫先に教室に戻っといてよ。私達、ちょっと喋ってから戻るから」
「おう。じゃあまた教室で」
*
教室に戻ると、丸井が携帯をいじっている様子が目に入る。別に忙しそうではなかったので、これはバスケの日程を決めるチャンスだと思い、丸井に話しかけた。
「おっす」
「あ、谷崎、おつかれ」
「いつならバスケ教えてくれるんだよ〜」
少し戯けた感じで言ってみた。すると、丸井はバツが悪いように、あー、と言った。
「ごめん、本当に予定入るかどうか微妙なんだよね」
丸井は申し訳なさそうな顔でそう言った。俺の感が鈍いだけの可能性もあるが、丸井は俺のことを避けたいがために、バスケの日程を決めていない、そんな風には見えなかった。
「結構忙しいんだな。なんかの遊びとか?」
「うーん、まあそんな感じかな……」
本当の理由は言えない雰囲気を感じて、大人しく引き下がることにした。
「そっか、また空きそうな日があったら言ってくれ」
「うん」
倦怠期のカップルのように、なかなか日程が合わない現状はとても歯痒かった。
*
放課後、家に帰ると、すぐにバイト先に向かった。今日は、野々原さんとシフトが被っている。だけど、野々原さんと話すのはまだ相当気まずいんだよな……
「おはようございまーす」
事務所の扉を開くと、野々原さんがバイトの準備を済ませて、ゆっくりしていた。彼女は挨拶をした後、俺には目をくれず、携帯を触っている。なかなか、話しかけるきっかけが見当たらず、彼女の横で何も話さずに、エプロンを身につけたり、準備をした。
勤務中、今日は客入りが少なく、少し余裕があったので、野々原さんの様子を観察していた。どうも、野々原さんは丸井とシフトが被っていない時はあからさまに楽しくなさそうだ。
「谷崎くん、野々原さんのこと好きなの?」
「うわっ」
店長が背後から、急に心臓がヒヤリとするようなことを小声で言った。俺は驚いて声をあげてしまう。
「何言ってるんですか。店長……」
「いや、やたらと野々原さんのことを見てるからさ」
相当、野々原さんのことばかり見ていたらしい。これは恥ずかしいな……
「いや、そんなことないです」
「まあ、そうか。谷崎くんはどっちかと言うと、丸井さん派だよね」
また、この店長は適当なことを言ってくる……
「いやいや、なんでですか……」
「丸井さんがいる時は、丸井さんの行動を観察してるような気がするからね」
確かに否めない……店長には、色々と筒抜けのようだ。だが、念のため、訂正をしておかなければ。
「いやいや、丸井派とかそんなのもないんで……」
「ははは、青春だね」
捨て台詞を残して、店長は事務所の方へ戻って行った。
*
今日はあまり忙しくなかったので、少し時間が流れるのが遅かった気がする。
退勤時間になり、事務所に戻ると、野々原さんは早速帰りの準備を始めていた。俺は野々原さんに聞きたいことがあったので、野々原さんの帰りの準備のスピードに負けじと帰る準備をした。
「お疲れ様でーす」
野々原さんが先に店を出てしまったが、それを追いかける。
「野々原さん!」
俺の声に気づいたようで、ゆっくりと振り返った。
「谷崎くん?どうしたの」
「え〜っと……」
俺の聞きたいことは決まっていた。しかし、いきなり聞くのはおかしいことであったので、何か別のことを言おうと考える。
「一緒に帰らない?」
「え?」
野々原さんも自転車でバイトに来ていることを知っていたため、とりあえず一緒に帰る提案をしてみた。
「あ、谷崎くんも自転車か。まあ、別にいいけど」
「ああ、帰ろう」
断られるかと思っていたが、とりあえずは提案を受け入れてくれてよかった。自転車を漕ぎ始めて、とりあえずは会話をしなければと思い、俺から話題を振る。
「野々原さんって音楽とか好きなの?」
「うん、好きだね」
「へー、どういう音楽聴くの?」
「邦ロックかな」
「邦ロックかー。俺はあんまり聞かないなー」
「……」
「あ、バイトってどんくらいやってるんだっけ」
「半年くらいかな」
「丸井と一緒に始めたの?」
「私が始めたちょっと後に友子が入ってきた」
「ホールを希望してたの?」
「うん」
何この一問一答形式の会話。会話が盛り上がらん……しかし、沈黙を作ると更に気まずくなってしまうので、必死に会話を繰り広げた。
「そういえば、野々原さんもバスケしてたんだよね」
「うん」
「俺もバスケなんてまともにやったことなかったんだけど、最近スラムダンク読んで、バスケにはまっててさー」
「へー」
「野々原さんって、ポジションどこだったの?」
「シューティングガード」
「じゃあ、シュートがうまいんだ」
「まあ、そんな感じかな」
「中学の時、丸井と同じバスケ部だったんだよね?」
「そうだよ」
一呼吸おいて、俺はずっと聞きたかったことを野々原さんに質問した。
「丸井が高校でバスケ辞めた理由って知ってる?」
野々原さんはずっと前を見続け、少しの沈黙の後に言った。
「……さあ、知らない」
彼女は自転車の進行方向を見たまま、ただその言葉を発した。
「そっか、ごめん、変なことを聞いて」
「あのさ」
「うん?」
「なんで、そんな友子のこと気にしてんの?」
まさか野々原さんにそんなことを聞かれると思わなかったので、動揺した。……果たして何と彼女に言ったらいいものか……
丸井がバスケ部に入部すること=バイトを辞めることという図式が成り立つのは間違い無いので、野々原さんは、丸井がバスケ部に再入部するということには全く賛成しないだろう。なので、ここは本当のことは言わずに、ごまかそうとしたが、うまく言葉が見つからないまま、話し始めた。
「まあなんていうか……丸井のことが気になるというか……」
「えっ?」
ずっと自転車と同じ方向を向いていた顔が初めてこちらの方向を向いた。
「それって友子のことが好きってこと?」
じろりと睨まれながら、質問してきた。勘違いされてる!
「い、いや、そんなんじゃないというか、何と言うか……」
しどろもどろになりながら、回答になっていない回答をする。逆に怪しいよな、これ……
「ふ〜ん、まあ、友子はスポーツマンみたいな人が好きだから、あんまり谷崎くんは友子のタイプじゃないと思うけどね。後、彼氏は当分いらないって言ってたし」
野々原さんは俺が丸井を狙っていると勘違いして、諦めるように誘導する情報を並べてきた。多分、彼女は丸井をとられたくないという防衛本能が働いているのだろう。
「そ、そうか・・」
「あ、私こっちだから。 お疲れ様」
「あ、お疲れ……」
野々原さんは細い通りを右に曲がった。
彼女が見えなくなったことを確認して、自転車をぐるりと反転させた。実は俺の家へ向かうには、途中で曲がる必要があったが、既にそこは通り過ぎていた。
丸井がバスケを辞めた理由に、野々原さんが関連しているのでないか、ということは少し前から怪しんでいた。
そして、今日、野々原さんの口から、丸井がバスケを辞めた理由を聞けるとは思っていなかった。しかし、野々原さんのことを探るために、今日、彼女に質問をしてみた訳だが、改めて、野々原さんの丸井に固執する様子を見て、その疑いは深まった。
*
次の日、昼食を済ませた後、恒例行事となりつつあった会合に向かっていた。いつもと違うのは、俺から招集をかけたということだ。
「おっす」
「やー」
「タカオくんから話したいなんて言うの珍しいね」
「ああ、ちょっと濱田に聞きたいことがあってな」
「聞きたいこと?」
「ああ、丸井と同じ中学のバスケ部だった野々原さんって子知ってるか?」
「野々原さん? ごめん、わからないな。その子がどうしたの?」
濱田と菜々に野々原さんと丸井の仲が良いことと、丸井がバスケを辞めた理由に野々原さんが関係しているのでないか、と推測していることを簡単に説明した。
「なるほどね……」
「でも正直それを聴くだけじゃ、私は、野々原さんがバスケを辞めた理由っていうのに関係しているとは、別に思えないけど」
菜々がそう言った。
「そうだな。正直、俺の直感による部分が多い。だから、あの子のことをもう少し知りたかったんだけど、野々原さんに直接聞くわけにもいかないし、丸井からも聞けるとは思えないから、もしかしたら、濱田なら中学の時からバスケやってるから知ってるかなと思ってな」
「うーん」
濱田は額に手をあてて考える。
「その野々原さんの高校ってどこなの?もしかしたら、そこの高校に友達とかいたら、その子経由で聞けるかも」
「確か、星蔭高校だったと思う」
「星蔭か。バスケ部もあるし、練習試合とかでも対戦したことあるとこだよ。中学で同じバスケ部だった子が、今も星蔭でバスケやってるから聞いてみるよ」
「ああ、頼む」
一応、野々原さんのことを調べられるルートはあるようなので、安心した。とりあえずは濱田を頼るしかない。
「孝夫、ごめんね。最初、千聖ちゃんから相談を受けたのは私なのに、孝夫のことばっかり頼って」
急に菜々から、そんなことを言われたので、俺は鳩が豆鉄砲をくらったような、気の抜けた顔をしてしまう。
「へ? いや、別にそんなことないよ。菜々だって色々協力してくれてる」
「うん……」
菜々は少し悲しそうに言った。その後、何かを思いついたように明るい顔をして、菜々は話した。
「そうだ! たまには皆でさ、遊びにいかない?」
「遊び?」
「うん!」
「いいじゃん、いこうよ」
菜々からの提案に濱田も賛同をした。そういえば、一年生の時は土日にたまに木田を含めた友人と出かけたりしていたが、二年生になってから、めっきりそういうこともなくなっていたな。たまには、そういうのも良いか。
「ああ、良いよ」
*
週末、雲が空を満たして、あまり良い天気ではないなか、最寄り駅に向かって歩いていた。今日は菜々、濱田と遊びに行く約束をした日である。
「孝夫、おはよう」
「ああ、おはよう」
電車の改札前で、後ろから菜々に話しかけられた。
菜々は白色がベースの半袖のティーシャツ、デニムのショートパンツ、黒のスニーカーというシンプルな格好をしていた。菜々がまとっているからなのか、そのシンプルな服装もオシャレに感じる。
「楽しみだね」
「ああ、そうだな」
二人で一緒の電車に乗車し、今日の目的地に向かう。
目的の駅に着き、歩いていると、後ろから声をかけられた。
「おはよー」
「千聖おはよー」
声をかけてきたのは濱田だった。スポーツブランドのキャップを被り、黒色のTシャツ、ベージュのショートパンツと、彼女も動きやすそうな格好に身を包んでいる。三人で話しながら、歩いていると、大きなボウリングのピンが屋上に置かれている建物が目に入る。
あそこが今日の目的地、三人で何をして、遊ぼうかと話した時に「身体を動かすのはどう?」と菜々が提案をして、この施設にくることになった。ここでは、ボウリング以外にも、テニス、サッカー、バスケなど様々なスポーツを遊べて、うちの学校から少し遠いが、高校生御用達の娯楽施設と聞いている。
「あ、おーっす」
「おお、木田」
「濱田さん、宮戸さんこんにちはー」
「やー、ありがとうねきてくれて」
入り口では、木田が先に到着したようで、俺たちを待っていた。今回、何のスポーツをして遊ぶにしても、三人だと中途半端なので、誰か一人男子を誘おう、ということになり、俺が木田を誘った。
木田は濱田と菜々、どちらとも直接的な交流はなかったが、人見知りするタイプではないので、問題ないだろう、と考えての人選だ。……まあ、そもそも木田以外に誘う人が思いつかなかったんだが。
「じゃあ、いこっか」
「うん」
四人で三時間パックの受付を済ませて、エレベーターで上の階に上がる。扉が開くと、所狭しと色々なスポーツができるフィールドが揃っていた。
「うわー、こんな感じなんだね。来るの初めてだからちょっと興奮するよ」
気分が高揚した菜々が言った。まだ日本に来て、間も無いからこういう施設に来たことがないのはおかしなことじゃない。……実は俺も始めてだけど。
「じゃあ、最初は何する?」
「あ、バドミントンとかは? ダブルスで組んで!」
「良いね! やろうぜー」
バドミントンか。それなら、俺でもまだできそうだ。
グーとチョキでチームを分け、俺と濱田、木田と菜々という構成になった。早速、全員がラケットを持って、ゲームが始まろうとした時、準備体操をしようと俺が言うと、真面目だな〜と皆反応しながら、各々、身体を伸ばしたりした。
*
「イエーイ、私達の勝ちだ」
「イエーイ」
菜々と木田がハイタッチしながら言った。
「ごめん……濱田」
「ははは、別に良いよ」
バドミントンはゲーム形式でやったのだが、俺の方に飛んできた羽は半分、空振りをするという失態を晒し、濱田のカバーの甲斐なく、俺達のチームが負けた。
その後、テニス、サッカー、ローラースケートと順番にスポーツをプレーした。
木田と濱田はそもそも体育系の部活動に入ってるし、菜々は運動神経抜群なので、俺以外の皆はどのスポーツもそれなりにこなせていたのだが、俺が活躍する場面、というかまともにプレーをできている場面がほとんどなかった。
ローラースケートに至っては、三人がスイスイと進むなか、俺は壁伝いに歩くこともままならず、早期リタイアを選択した。
「……ふう」
少し高めの自動販売機でスポーツドリンクを買って、一息着きながら、椅子に腰かけた。先ほどローラースケートをしていた場所を見ると、菜々と濱田は引き続き、スイスイ滑りながら、楽しんでいる様子だった。
「お疲れ」
木田が俺の横に座った。多分、こいつは一人で休む俺に気を遣って、早々にローラースケートを終えてくれたんだろう。
「ああ、ありがとうな。今日、来てくれて」
「何言ってんだよ。俺こそ、お礼を言いたいよ。誰かさんと違って、あんな可愛い子二人と遊ぶ機会なんて全くない高校生活を過ごしてるからな、俺は」
木田が冗談混じりに俺のことを皮肉るように言った。
「別に俺もそんな高校生活は過ごして無いぞ……」
「ああ、もし本当にお前がそんな高校生活を過ごしていたら、俺の拳が出るところだ」
「野蛮人め……」
菜々を俺の部屋に招いたことや、濱田と二人でバスケの練習をしたことはこいつには黙っておこう。
「にしても、皆運動できてうらやましいよ」
「まー孝夫は運動得意じゃないよな。人には向き不向きがあるから仕方ねえよ」
「そうだな」
木田は何気なく、その言葉を吐いた。人には向き不向きがある、よく聞く言葉だ。
一体、自分は何が向いてるんだろうか? そんなネガティブなことをつい、頭の中で考えてしまった。
*
「最後にバスケしようよ!」
「お、いいねぇ」
俺以外の三人はまだ体力が有り余っていたが、終了の時刻が迫っていた。濱田から最後にバスケを提案され、バスケットボールのコートに向かう。コートといっても、ゴールは一つしかないハーフコートの広さしかない。だが、四人で二対二をするには十分な広さだ。
またグーとチョキで分かれると、俺と菜々が一緒のチームになった。
一応、三点先取した方が勝ちというゲーム形式のルールを決めた後、相手のオフェンスからスタートした。
「じゃあ、タカオ君がどれだけ上達したか見せてもらうよー」
ボールをドリブルする濱田にマッチアップする。ディフェンスのコツについては、動画で勉強したりしたが、まずは腰を落とすことが重要だ。
「ディフェンスのこともちょっとは勉強してるみたいだね。でも、止めれないよ」
フェイントにつられて、俺が動いてしまった隙に濱田にあっさりと抜かれてしまった。菜々のカバーは間に合わず、レイアップシュートですぐに点を決められる。
「ドンマイ、孝夫、取り返すよ」
「お、おう」
俺たちのオフェンス、ボールを持った菜々は、木田をさらっと抜いてしまい、ゴールの少し前でジャンプシュートを決めた。やっぱり、こいつバスケも出来るんだなな……
木田は情けなさそうな顔して、ごめん、と濱田に言った。
そこから、また、濱田と菜々が点を決めて、二体二の拮抗した状態になる。
「じゃあ、最後決めちゃうよー」
濱田が圧倒的な強者感を醸し出しながら、ドリブルをする。また、さっきみたいにフェイントの後にドリブルを仕掛けてくるが、少しは動きに慣れたのか、なんとかついていくことが出来た。
「むー……木田君!」
濱田が木田に向かって、パスをした時、菜々が勢いよく、濱田と木田の間の直線上に走り込んで、ボールをカットした。
「よーし!」
「くそー」
濱田が悔しそうな顔をする。
「孝夫、最後決めるよー」
「おう!」
菜々は自分たちのオフェンスになった瞬間、すぐにゴール目掛けてシュートを放つ態勢になった。
「俺も男の意地があるぞー!」
木田はそんなことを叫びながら、菜々のシュートをブロックしようとジャンプをした。それが狙いだったようで、菜々はシュートは撃たず、ドリブルに移行して、また木田を抜いた。しかし、濱田がすぐにカバーに入る。
「孝夫!」
菜々から完璧なパスが飛んできた。フリーの状態だったので、落ち着いてシュートを撃つ。すると、放たれたボールはゴールネットに吸い込まれた。
「やったね!」
菜々は片手の手の平を俺の方に向けながら、近づいてきたので答えるようにハイタッチをした。
「やられたよ……タカオ君、上達したね」
濱田が俺の頑張りを認めてくれたことが嬉しく、俺の心は晴れやかな気持ちで満たされた。
「くそー……」
木田はバスケに関しては、足を引っ張ったのが悔しかったのか、落ち込んでいた。
*
解散した後、俺と菜々は二人で同じ電車で帰り、最寄駅の改札を通って、駅を出ると、雨が降っていた。傘をささなくても気にならない程度の雨ではなかったため、俺は常備している折り畳み傘を鞄から取り出した。
「うわー、私傘もってないなー」
菜々は傘を持っていないようだ。彼女が傘をささずに帰って、風邪を引かれるのは後味が悪い。
「そんな距離ないし、送ってくよ」
「えーいいの! ありがとう」
二人であまり大きくない傘に入りながら、ゆっくりと菜々の家の方面まで歩く。たまに肩が触れあう度、ドキッとして、少しだけ心臓の鼓動が脈打つのが速くなった。
雨が地面を叩く音をBGMに、菜々と他愛もない話をしていると、彼女は真剣な様子で言った。
「孝夫って、やっぱり真面目だよね」
いろんな人から、言われ慣れた言葉を彼女は改まって俺に向けて言った。
「何だよ。悪いか?」
「ううん、逆だよ。私はすごいって思う」
「えっ? すごいって何がだ? 別に真面目な性格自体は何もすごくないだろ」
急に彼女から褒められて、心が跳ねたように動揺した。
「ううん。すごいよ。バイトもちゃんとやってるみたいだし、勉強だって、忙しいなか、授業の予習とか復習とかちゃんとやってるでしょ?」
「まあ、それは俺からすると当たり前のことだ。残念ながら、バイトではいろいろ失敗はするし、勉強だって別に成績がいい方じゃないけどな」
「たしかに孝夫って器用じゃないもんね」
彼女は微笑みながら、そう言った。何でも器用にこなす彼女だから、余計に彼女の目には俺が不器用に映るだろう。
「後、友子ちゃんのことだって、話したこともないような千聖ちゃんから相談を受けて、バイトを始めて、急にバスケの練習もしたりして、すごいなって私は思うんだ」
褒められ慣れていない俺の心のなかで、戸惑いと嬉しさが入り混じる。どんな反応を返そうか迷っていると、菜々は続けて言った。
「やっぱり、孝夫は昔から全然変わってない」
菜々は俺の目をしっかりに見ながら、そう言った。きっと、俺たち二人が幼かった頃を思い出しながら。
「昔、か……俺は昔のことあんまり覚えてないな」
「えーひどいなー、孝夫は」
彼女は続けて言った。
「何て言うか、ちっちゃい時の私にとっては孝夫って、ヒーローだったんだよね」
ヒーロー? 俺が? 小さい時の自分は、いまより活発な人間だったが、少なくともそんな大層な存在ではなかったと思う。
「さすがにそれは大袈裟だろ……」
「ははは、確かに言いすぎたかもね……孝夫はさ、小学校二年生くらいの時、クラスの皆で近くの山に遠足に行ったこと覚えてる?」
記憶を遡ってみても、思い出せなかった。
「いや、全然覚えてないな……」
「ふふ、そうだよね」
菜々は笑いながら言った後、少し真面目な顔に戻った。
「その時、今日みたいに雨が降ってたんだけど、私気づいたら、一人で山の中で迷子になってたんだ」
「そんなことがあったのか? それで大丈夫だったんだよな?」
「ははは、今孝夫の目の前にいるってことは大丈夫でしょ」
「確かに……」
「その時助けてくれたのが孝夫だったんだ」
「え?」
「雨でびしょびしょでどこに行ったらいいかわからなくて、ずーっと泣いてたら、ビショビショになった孝夫が現れて、みんなのところに戻ろうって言って、連れてってくれたんだ」
少しだけ、記憶が蘇った。彼女が言うように雨が降っていた山の中、俺は必死に駆け回った覚えがある。
「確かにそんなこともあったかもな……すげーかっこいいな。当時の俺」
「まあ、その後、私も孝夫も風邪引いちゃったんだけどね」
「ははは、まあそうなるよな……てかその時先生達は何してたんだ?」
「もちろん、先生達も探し回ってたよ。でも、孝夫が僕が一番足が早いし、菜々ちゃんの泣き声だったらすぐわかる、って言って、皆が止めるのを振り払って、山の中を急に走りだしたんちゃったんだって」
そういえば、小さい時、俺はクラスの中では、足が早かった。
「そんなこともあったんだなー」
「うん、それだけじゃないよ。あの時、駆けっこでどうやったら速く走れるか教えてくれたり、勉強を教えてくれたりしてくれたんだ。それに、私が泣いたらよくなだめてくれたな」
段々と記憶が蘇ってくる。やっぱり、菜々は昔は今みたいにいろんなことができるような奴じゃくて、よく泣く子だった。だから、彼女が今、何でもできる姿を見て、俺は違和感を感じていたのか……
彼女はきっと、転校してからたくさんの努力をしたんだろう。
「そうだったっけかな……でも、すっかり今は立場が逆転しちゃったな」
客観的に見た正当な評価を下したつもりだった。しかし、奈々は首を横に振り、こう言った。
「ううん、今も変わってないよ。孝夫は昔のまんまだ」
「昔のまんま?」
予想外の答えが返ってきたため、オウム返しで聞き直した。
「あ、私の家ついたね。送ってくれてありがとう」
昔話をしていると、時の流れは早いようで、あっという間に菜々の家に着いてしまった。
「ああ、じゃあな。風邪ひくなよ」
「うん、お互いね。バイバイ」
雨が止まぬ中、自分の家へと向かい、歩き始めた。
そうか、菜々が俺を学級委員に推薦したり、濱田の相談に巻き込んだり、妙に俺に期待していたのは、当時の俺の姿を重ねていたからだったのか。
俺はスポーツが苦手だ。勉強だって、そこまで得意じゃない。友達は多く無いし、バイトをしたら、これまで誰もしたことないような失敗をする。もしかしたら、俺に向いてることなんて何も無いのかもしれない。だからこそ、
ーーー俺は真面目に生きよう。
*
家に着き、雨で冷やされた身体を温めるために湯船にゆっくりと浸かった。ちなみに、湯船は夏でも浸かる派です。風呂を済ませた後、自室で勉強をしていると、母親から夕食に呼ばれた。
ご飯中、俺の携帯から電話の着信音が響いた。
「孝夫、食事中なんだから電話の通知はオフにしときなさいよ」
「ああ、ごめん」
母親から説教を受けたので、電話の画面を見ずに携帯をマナーモードに設定する。夕食を済ませると、自分の部屋に戻ってから、先ほど電話をかけてきていた人物に、電話をかけ直した。
「もしもーし」
「さっきでれなくてごめんな、濱田」
電話をかけてきたのは濱田だった。
「こっちこそごめんね、遅い時間に。さっきはありがとう、楽しかった」
「ああ、俺も楽しかったよ。それで、どうした?」
「うん、友子の友達の野々原さんの件なんだけどさ」
「ああ」
濱田の友達が同じ学校だから何かしらの情報はすぐに入るんじゃないかと思っていたが、俺の想像よりも連絡のタイミングは早かった。
「長くなるけど、話すね」
……濱田から告げられた内容で、俺は丸井がバスケ部を退部した理由に野々原さんが関係していることを確信した。