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第二章

第二章

 

 俺と幼なじみの菜々が学級委員になってから、一週間程度経った頃。

 たまに教室のなかで彼女と話す際、俺が菜々、と彼女の名前を呼ぶ様子に最初の方は、クラスメイト達も違和感を覚えたようで、名前を呼ぶ度に近くにいる人にがこちらを見ていた気がした。

 しかし、一週間程度経つと、まあ幼なじみだから普通か、という雰囲気が漂ってきた様に感じる。

 あれから菜々とは、たまに教室内で休み時間や授業前に話すが、一緒に下校したりはしていない。

「孝夫ー、飯食おうぜー」

「おう」

 昼休み、木田から昼食の誘いが来た。

 家から持ってきた弁当を広げながら教室を見渡すと、二年D組のなかで、昼食を一緒に取るグループはほぼほぼ確立してきていることが分かる。俺はというと、たまに一人で食べることもあるが、木田と二人で食べることが多かった。

 男子生徒に関して言うと、特定のグループで集まらず、一人で昼食を取る生徒も珍しくはなかった。彼らのほとんどは別に友達がいないとか、喋る相手がいないという訳ではなく、適当に近くの席の生徒と話しながら、ご飯を食べている。別に昼食の時にわざわざグループで集まらなくても良いという考えなのだろう。

 ただ、女子生徒はコミュニティから外れるのには敏感なので、皆グループを作って、昼食を取っていた。

 ……一人の女子生徒を除いて。

 菜々も、五、六人のグループが確立されていて、昼食の時間はいつもそのグループで食事を取っていた。

「千聖ちゃん、その卵焼きおいしそうだね!」

「菜々ちゃん、食べる?」

「え、いいの? ありがとう!」

 彼女達のグループ、特に菜々は基本的に声が大きい。そのため、会話を盗み聞きしようとしているわけではないが、会話の様子は周りから筒抜けである。

 人のおかずをもらってるんじゃないよ……、と俺は心の中でツッコミを入れた。

「そういえば、菜々ちゃんってアメリカいた時、彼氏とかいたの?」

「え〜そうだなぁ……」

 気になる……

 そう考えたのは木田も同じようで、先ほどまでしていた会話がピタッと止んだ。心なしか教室中の会話のボリュームがダウンした気がする。多分、クラスの皆、この会話の先が気になるというのは、同じ感覚なのだろう。

「ゴリゴリの黒人の彼氏がいたよ」

 ゴリゴリの黒人!?

 その言葉を聞いた瞬間、筋骨隆々でサングラスをかけた黒人が菜々の肩を抱き寄せているイメージが浮かび、吹き出しそうになる。

 ……え? マジなのか?

「本当!?」

「ははは、冗談」

 冗談かよ! また心のなかでツッコミを入れると同時に、ご飯が気管に詰まり、ごほごほと咳き込んだ。

 木田に心配されたので、大丈夫だと返す。

「もうホントかと思うじゃーん」

「あはは、アメリカで彼氏できたことなんてないよ」

 追加で得た菜々からの情報に少しホッとして、引き続き昼食を取った。

 

     *

 

 放課後、いつも通り帰路に着こうと席を立つ。その際、菜々から声をかけられた。

「タカオ、今日この後空いてる?」

「お、おお」

 これは、またデートの誘いか……? そんな考えが頭をよぎり、動揺してまたもやスムーズに返事ができなかった。

「本当? ありがとう!」

「じゃあちょっとついてきてくれない?」

 そう言って、菜々が教室を出たので、彼女を追いかけるように教室を後にする。

「菜々、どこいくんだ?」

「秘密〜」

 なんだよ秘密って……そこで彼女との会話は終了し、どこに向かっているかわからない状態で足を進め、俺たちの教室がある二階から階段を上っていく。三階も通りすぎ、屋上前の階段の踊り場に着くと、そこには一人の女子生徒が待っていた。

 その女子生徒の名前は濱田千聖、同じクラスの生徒であり、菜々といつも食事をとるグループの一人だ。

 また、木田から聞いた情報だと、彼女は二年生ながら女子バスケ部のエースであり、クリンとした大きめな目、ボーイッシュな雰囲気とそれに合う黒髪のショートカットという要素によって、男子生徒から評判の女子生徒である。 

「あれ話聞かせたい人って、意識タカオのこと? あっ……」

 濱田は言っちゃったという表情で、自分の口を手で塞いだ。

 別に意識タカオと呼ばれることなんて気にしてない。

 ……気にしてないよ……

「ごめんね、孝夫急に呼んじゃって」

 別に急に呼ばれること自体は全く問題はない。

 だが、濱田とは全く親交がなかったので、何を話されるか予想がつかないのは少し怖い。

「実は千聖ちゃんから相談をうけててね」

「相談?」

「えーっと、ごめん、正直タカオくんに話しても意味あるのかなって思っちゃうんだけど、菜々ちゃんが呼んできてくれたんだし、話すね」

 濱田は俺のことを下の名前で呼んだ。

 これは友好の証というわけではなく、俺の上の名前は知らないが、俺のあだ名「意識タカオ」から、下の名前は知っていたので、呼んだという意味合いしかないな、と推測していた。

 それにしても、話す意味あるのかな、って失礼だな。こいつ……

「菜々ちゃんとはもちろん転校してきてからの付き合いだけどさ、すぐに仲良くなって、それで私の部活のこととかも相談してるんだよね」

 菜々が転校してきてから、二週間と経っていない。それで、相談される仲になるって距離の詰め方が異常だな……

「その相談内容っていうのが、今の女バスにどうしても入部してほしい子がいるんだけど、その子が入部できるように手伝ってほしい、っていうことなんだ」

 入部の手伝い? 

 正直、これまでの話を聞くだけでは、疑問ばかりが浮かんでいた。いくら仲が良くなったといえど、なんで女バスでもない菜々に相談するんだ?

 それに入部するのを手伝うってこと自体、あまり理解できない。部活はそれぞれの生徒がやりたいことをやる場所でしかない。

 もしも、本人がやりたくもない部活に入って、適当に時間を潰すのであればそれは俺の嫌いなタイプの人種に該当する。

 そんなことを考えていると、俺の表情からも納得いっていない様子が伝わったのか、菜々がフォローのコメントを入れてきた。

「私も相談を聞いてるうちにさ、千聖ちゃんって本当にバスケ頑張っていることがわかって、それで協力してあげたいっておもったんだよ。それで、人数が多い方が捗ることもあると思うし、孝夫って頑張ってる人は嫌いじゃないでしょ? だから、協力してくれないかな?」

 まあ確かに頑張っている人は嫌いじゃない。菜々が言う、濱田がバスケを頑張っているということは俺には正直まだわからないが、もう少し詳しく話を聞いても良いかもしれない。

「それに、その入部させたい生徒っていうのが私達のクラスメイトの一人だからさ、一応、学級委員として、孝夫も関係あるかなって思うんだよね」

「クラスメイトなのか?」

 少し驚いた。今、この場所にいる濱田、菜々、俺は全員同じクラスなので、必然、皆同じクラスということになる。しかし、同じクラスなら尚更、濱田が直接誘えばいいだろうとしか思わないんだが……

「誰なんだ? そのクラスメイトって」

 濱田が真剣な表情になって頷いた。

「丸井友子って子だよ」

 丸井友子……その名前を聞いて、すぐに彼女がどんな人か思い返す。

 茶髪で、胸のあたりまで髪が伸びている。後は名前のとおり少し丸顔という印象だ。

 だが、容姿的な特徴よりも、一つの特徴が彼女のことをすぐに思い返せた理由だった。

 彼女はいつも、昼食を一人で取るクラスで唯一の女子生徒だ。

「前、ゲーセンで見かけた子だよ」

「ああ、確かにそういえばそうだったな」

 そういえば、菜々と買い物に行った時、丸井友子を見かけたな。あの時は別の高校の生徒といた。

 それにしても、なぜ丸井友子をどうしてもバスケ部に入れたいと濱田は思うのだろうか?そう思って、濱田に質問をぶつける。

「なんで、丸井を入部させたいんだ? 別に女バスが人数不足ってわけでもないだろ?」

「人数が不足してるってことはないよ。次の夏の大会で先輩達が引退するけど、、私達の学年で五人いて、下の学年は十人くらいの人数がいる」

 まあ、人数不足であれば、入部する生徒にこだわっている場合じゃないもんな。

 濱田は話を続けた。

「でも、うちのバスケ部って結構今は強いんだけど、正直、先輩達が抜けたら今までより選手のレベルが低くなることが目に見えてるんだよね」

 そういう彼女の目は真剣そのものだった。

 たかが部活動と考え、真剣に取り組まない生徒も珍しくは無い。だが、少なくとも彼女はそれに該当しないようだ。

「でもその場合、今の部員でレベルアップするにはどうするか?ってことを考えることが一番大事なんじゃないか?」

 本心で質問した。一部の強豪校ではその部活動に加入させたい選手をスカウトする、ということはあるが、ほとんどの高校ではそんなことはしておらず、うちの高校も選手のスカウトなんて、lどの部活動でもやっていない。

 そのため、その部活動をしたいという生徒が集まって、集まったメンバーで良い成績を得るために努力するというのが普通なので、メンバーを増やす、という考えに至るのはなかなかないことのように思う。

「タカオくん、厳しいね。もちろん、それも重要なのはわかってるんだよ」

 チームを強くしようと考える濱田には、どうやらこの質問は愚問だったようだ。

「もっと詳しく言うと、ポイントガードっていう、いわゆる司令塔のポジションがあるんだけどね、私達の代でポイントガードのポジションの子がいなくてこのまま行くと、一年の子になっちゃうんだ」

 ポイントガード……というポジションのことは分からなかったが、大体話の筋はわかった。

「その子だと今のポイントガードをやってる先輩と比べると大分劣っちゃうんだ」

「で、そのポイントガードをどうしても丸井にやってほしい、ってことか?」

「うん、そういうこと。もちろん、先輩達が抜けたら抜けたで、チームをレベルアップをする努力は当然するよ。でも、私の頭の中で理想のチームを思い浮かべた時に、あの子がポイントガードが外せないんだ」

 なるほど。話は理解できた。濱田は丸井友子が理想的なポイントガードというくらいだから、彼女のプレーを見たことがあるのだろう。

「ちなみに丸井のプレーはどこでみたんだ」

「実は高校一年の秋くらいまでは一緒にバスケ部に入ってたんだ。友子も」

 なるほど。どうやら、もとは同じ部活だったが、丸井は何かの理由でやめてしまったらしい。

「なんでやめたんだ?」

「それが実は私もわかってないんだ。というか、他のチームメイトも皆わかってない。 一応、部活の顧問に退部することを伝えた時は勉強に集中するため、って頑なに言ってたらしいんだけどさ」

 濱田は一呼吸置いてから、話を続けた。

「最後に話した時、友子は悲しそうな顔でごめんって私に言ってきて、正直まだバスケがしたかったんじゃないかなって思ってるんだ」

 濱田は少し下を向きながら言った。

「それだったら、丸井と直接話すべきなんじゃないか?」

「……実は、それが菜々ちゃんに相談している理由で、私を含めて、女バスの皆、友子に避けられてるんだよね。でも、菜々ちゃんだったら、まだ転校してきたばっかだから、友子とも仲良くなって、辞めた理由が聞けたりするんじゃないかなって考えてさ……」

 話し終えた後の濱田は唇を少し噛みながら悔しそうに言った。

 おそらく、濱田はこの状況をなんとかしようと自分なりに色々したのだろう。

 しかし、残念ながら、丸井友子がなぜ退部したのかもわからない、という状況だ。女子バスケ部のことを真剣に考えるからこそ、将来を案じて、そして、状況を改善する手立てが思いついているのに、それでも自分では何もできない。

 そんな自分のことを不甲斐ない、と彼女は感じているのだろう。

「私は千聖ちゃんに協力するから、孝夫も協力してくれないかな?」

 菜々は俺が何を言うのか、心配そうな目で見てきた。

 正直、俺が協力できる部分があるのかもわからないし、丸井友子はそんなことをしてほしいのかも疑問だ。

 だが、濱田の、現状のチームでそれなりに頑張る、という選択ではなく、新しいチームメイトを引き入れるという選択は、部活動に対して普通の人よりも何倍も真摯に向き合っているからこそ、浮かんだ選択だと俺には感じた。

 真剣に生きる人間は嫌いじゃない。

「ああ、いいよ。できる部分は協力する」

「タカオくん、ありがとう」

 濱田は光が宿った目で俺のことを見つめられながら、お礼の言葉を述べた。


 濱田はその後、部活に急ぎ足で向かい、俺と菜々だけが踊り場に残された。

 学校に残っていてもすることもないので、二人で下校する。

「しかし、丸井友子を女バスに入れるって言っても、どうしたもんだろうな」

「そうだねー。正直、プランとか全くないから考えないとね」

 校門を出たあたりで、先ほど濱田から依頼されたことについて、話し始めた。

 この件は正直なかなか難易度が高いことだ。何せ、時間をかければ、勉強のように成績が上がるものでもないし、スポーツにように上達をするようなものでもない。

 しかも、部活動の期間は限られているので、あまり時間をかけてはいけない。

 改めて、頭が悩まされるが、引き受けたからには、真摯に取り組まなければいけない。

「まあやっぱり、なんで部活を辞めたのか、っていう理由を知ることからだな」

「そうだねー。そのためには本人に聞くか、他の人に聞くかだけど、千聖ちゃんの様子だと、少なくともうちの学校で理由を知っている人はいなさそうだね」

 菜々の言う通りだと思った。丸井友子はうちのクラスの女子生徒で唯一、特定のグループに所属していない女子生徒である。女バスの連中が知らないとなると、彼女のことを深く知る女子生徒は他にいないだろう。

「となると、やっぱり本人に聞くしかなさそうだな」

「うん。やっぱりそのためには友子ちゃんと仲良くなるしかないよね……」

「だな……」

 だが、丸井友子と仲良くなると一口で言っても、それは相当難しいことであるのは簡単に予測がついた。

 部活のチームメイトというのは毎日のように顔を合わせて、きつい練習を共に乗り越えることで、固い絆が作られていくものだ。しかし、彼女達でも丸井友子の退部理由は聞けなかったのだ。

 単純に考えると、部活のチームメイトより強い関係性にならなければ聞くことはできない。

「やっぱり菜々が丸井友子と友達になるって言うのが、単純だけど、一番に考えられる手段だよな。別に菜々は転校生なんだから、このタイミングで丸井友子と友達になるのも全くおかしいことじゃない」

「やっぱりそうだよね〜。私も友達増やしたいし、まずはその方向でやっていくよ」

 菜々は嫌がる素振りを全く見せず、丸井友子と友達になるプランに同意した。


     *


 翌朝、いつも通りの教室の風景だが、俺と菜々の間では若干の緊張が走っていた。もちろん、昨日相談を受けた丸井友子の件が理由である。

 俺と菜々はそれぞれ自分の席に着いているなか、始業の5分前くらいに丸井がやってきた。そのタイミングで、俺と菜々は若干目があった。

 幸い、菜々と丸井は席が前後同士であり、丸井の席が前、菜々の席が後ろだ。ちなみに菜々の席から右ななめ後ろが俺の席であり、割と席は近い。

 丸井が席に着いた瞬間、菜々は彼女の後ろ姿を凝視していた。

 おそらく、話しかけるポイントを探している。菜々は彼女とは一言二言のみ話したことがあると言っていたが、それは授業中の業務連絡のようなことだけだった。

 菜々が転校してきた時、整った容姿や帰国子女という経歴もあり、ほとんどの生徒が興味津々で色々な質問を彼女に投げかけていた。

 そんな中で、丸井はその質問責めには全く参加せず、宮戸菜々という人物に対してあまり興味を持っていなかったように感じる。

 自分に対して興味のない人と菜々はどんな会話をするのか……

 丸井を凝視する菜々を俺は横目で観察していた。無論、自分がきもいことは自覚している。

 丸井友子が席に着いて三十秒程経過すると、菜々が口を開いた。

「あれ、友子ちゃん。そのリュックにつけてるストラップ、怪獣ゴッシー君じゃない?」

 なるほど。ストラップをきっかけに声をかけるか…… 

 これは悪く無い話しかけ方なのじゃないだろうか。

 怪獣ゴッシー君とは、以前、俺と菜々がゲームセンターに行って、ヤンキーに絡まれたお詫びとして、お店から貰ったぬいぐるみのキャラクターだ。

 たまたま、彼女もそのストラップをつけていたため、もし、彼女がこのキャラクターを好きであれば、その話が盛り上がることが期待できる。

 自分に話しかけられたことに気づいた丸井は菜々の方に振り向いていった。

「あ、うん。そうだよ」

「だよね! 実は私ゴッシーくんすごい好きなんだ! 友子ちゃんも好きなの?」

 若干テンションが低めな丸井の回答に対して、菜々はまるでひまわりのように明るい笑顔で返した。

「いや、別に好きってことはないかな」

「あっ……そうなんだ。どうして、ゴッシーくんのストラップつけてるの?」

「なんとなくかな」

「へ〜、そっか〜……」

 ……会話終了。

 丸井は特に返答することもないかと考えたようで、菜々の方を向くのを辞めて、前を向き直した。

 残念ながら最初の会話は、三ラリーほどしか会話が成立しなかった。しかも、丸井は一連のやりとりで菜々と目を合わせることはなく、ずっと目をそらしながら話していた。

 目を逸らすのは話し慣れていない人から話しかけられて緊張している、というのも理由の一つかもしれないが、やはり菜々には心を開いていない証拠だろう。

 それから何度か、その日のうちに菜々は丸井とのコミュニケーションができるように挑戦を繰り返していた。

 しかし、残念ながら会話が数ラリーで終わるばかりで、あまり会話は続かなかった。

 二人の会話を横目で観察していたが、俺が思うに、丸井裕子は別にコミュニケーションが苦手というタイプではない。

 だが、会話が続いていないのは、単純に丸井が会話を続ける気がないということだろう。仲良くなるどころか会話を円滑にできるようになるまで、時間がかかりそうだ……

 

 放課後、菜々から下校の誘いを受け、共に帰宅する。この頃には俺と菜々が一緒に帰る際の男子生徒の睨む様な視線は感じなくなった。皆、慣れたんだろうな……

「なかなか、うまくいってなかったな」

「ははは、そうだね……正直、避けられたいと思われてる気がする……」

 珍しく、菜々も落ち込んでいる様子だ。

「まあ、一日で仲良くなる人なんてなかなかいないだろ。とりあえず、もう少し頑張るしかないな」

「うん……そうだね」


     *


 一週間経ったが、一向に状況は変わらなかった。

 相変わらず、菜々が丸井に話しかけても会話は数ラリーで終了する。

 ……しかし、収穫もあった。これまでの会話のなかで、丸井の家は、実は俺と菜々の家と割と近いところにあるらしく、駅付近にあるカフェでアルバイトをしているという情報を知った。

 うちの学校はアルバイト禁止というルールはない。だが、アルバイトをしている生徒は珍しい方で、生徒の一割もいないくらいだ。

 濱田と菜々と俺の三人で話す機会があったので、仲良くなるどころか会話を円滑にするのも難しいこと、彼女のバイト先のことなど、現状で知っている情報について、菜々から話した。

「えっ、友子バイトしてたんだ……」

 濱田はもともと大きい目を更に大きくして言った。それすら知らなかったんだな……いや、逆に一週間という期間でそのことを聞けただけでも、菜々がすごいのか。

「うん、だから、私思うんだけどさ。友子ちゃんと一緒にバイトしたら仲良くなれるんじゃないかなって」

 一緒にアルバイトをする、か……

 なかなかに思い切った選択だが、確かに一緒に過ごす時間は増える分、仲良くなりやすくはなるだろう。

しかし、彼女達のやりとりをみてきた俺からすると、もし一緒のバイトをしても、あまり状況は変わらないのでは、という不安がよぎった。

「てか、そもそもそこバイト募集してるのか?」

「うん、募集自体はしてるらしい。それも友子ちゃんから聞いた。私も応募しようかな〜って言ったら苦笑いしてたけど……」

「そうか……じゃあ、菜々もそこで働けるように応募するんだな」

「うん! だから孝夫も一緒に応募しようよ!」

 それは俺にとっては、予想外の返事だったが、とびきりの笑顔でさも当たり前のように菜々は言った。

「いや、俺はバイトなんて……そもそも俺の親厳しいから許さないだろうし……」

「昨日、うちの親から孝夫の親に話してもらって、菜々と一緒なら大丈夫って言ってもらったよ」

 仕事が早い! さすが菜々さん!

「そ、そうか……」

 そう言われると、断る理由が思いつかない。それに、巻き込まれる形だが、濱田から相談を受けたのは、菜々だけじゃないのに、彼女だけが行動している現状には申し訳ないと思っていた。

「まあ、じゃあいいか」

「え、二人とも本当にいいの?確かにお願いしたのは私だけど、バイトまでするなんて、大丈夫?」

「大丈夫だよ! バイトしてみたかったし! ね、孝夫!」

「お、おう……」

 またしてもとびっきりの笑顔を俺に向けてきた。

 この笑顔を見ると、逆らう気分がなくなってしまう。

 まあでも、社会勉強のためにアルバイトはしてみたい、と言う考えはもともとあった。受験期になると、そんなことをする余裕はなくなってしまうので、やるなら今しかない。きっと良い勉強にもなるだろう。

 そんな理屈で自分を納得させて、アルバイトに応募することに了承したのだった。


     *


 アルバイトの面接当日がやってきた。

 濱田と菜々と話した日の夜。俺と菜々は早速、Web上の求人サイトを通して、丸井が働くというカフェに応募した。その翌日には、その店の店長という人から電話がかかってきて、面接の日程が決まったのだった。

 面接の時間は朝の十時を予定している。

 いつもは授業中の時間だが、今日は土曜日で学校が休みなので、朝から面接先へと向かう。

 このカフェについては事前にどんな店か調べておいた。

 店名は「ハワイアンカフェ」。コーヒーなどのドリンクを提供しているだけでなく、パンケーキやハワイアンというだけあって、ロコモコやハンバーガーといった料理も提供している。

 千五百円から二千円くらい出して、満足できるくらいのフードとドリンクが提供される、高校生には少しお高めのお店だ。

 ハワイアンカフェは俺の家から歩いて三十分程度の距離なので、歩いていくには少しきつい。

 しかし電車で言うと、一駅しか離れていないので、わざわざ電車に乗るほどでもない。ということで、俺は移動手段に自転車を選択し、目的地に向かった。

 面接を約束している十分程前の時間についたため、近くのコンビニで時間を潰してから、入店した。

 少し店の奥の方まで目を凝らすが、丸井友子は見当たらなかった。

「いらっしゃいませー」

 女性の店員から、通常の客と同じ扱いを受ける。まあそりゃそうだよな。

「すみません。アルバイトの面接で来ました。谷崎といいます」

「あっ、すみません。少々お待ちいただけますか?」

 店員の人がそう言って、厨房の方に入っていった。

 一分くらい待つと、店長と思われる男性がやってきた。男性は肌が黒く焼けていて、身長が高く、体をごつかったので、少し威圧感を感じさせられる。年齢は多分、三十歳くらいだ。

「谷崎さんですね。お待ちしてました。こちらへどうぞ」

 男性に奥の方の広めの席に案内されて、席に着く。

「改めまして、店長の篠町といいます。今回はうちにアルバイトを応募してくれてありがとうございます」

 やはり、店長だったか。店長は席に着くと、すぐに自己紹介をした。

「まずは履歴書を見せてもらっていいかな?」

「はい」

 準備してきた履歴書を出すと、早速、店長は目を通し始める。

 履歴書を書くことが初めてというのが原因だが、書くのに三時間くらいかかった力作?だったので、人に見られるのは緊張する。

 しかし、俺が書くのにかけた時間と相反するように店長はすらすらと読み進めていく。

「部活とかはやってないの?」

「やってません」

「週何回シフトくらい入れる?」

「何回までにしないといけないみたいな考えはないので、そういう意味で言うと、いくらでもはいれますかね」

「ははは、そんな無限にシフトいれちゃうと労働基準法でアウトになるから」

「あ、はい」

 どうやら、少しおかしい回答をしてしまったようだ。

 そこからは他愛もない話を交えつつ十分程度会話をして、面接が終了した。

 合格の場合は三日以内に連絡がくるらしい。

 どうやら菜々の面接は俺の二時間後だったようで、菜々もその日のうちに面接が終了し、ラインでお互い面接がどうだったと報告をしあった。

 俺は受かっているかよくわからないと言ったが、菜々はバッチリだったらしい。まあ、あいつはコミュニケーション能力が相当高いからな。


     *

 

 週明けの月曜日。アルバイトに合格している場合は、今日までには連絡が来る。

 普段よりも携帯電話の着信を気にしながら一日を過ごし、下校中、一本の電話がかかってきたので、少し動揺しながら電話に出た。

「はい! 谷崎です」

「もしもし、ハワイアンカフェの篠町です。この前は面接に来てくれてありがとうございました」

「こちらこそありがとうございました」

「ぜひ、谷崎くんにうちで働いてほしいと思ってます」

「あ、ありがとうございます」

 どうやら合格らしい。ホッと胸を撫で下ろした。

 その後、最初の出勤日がいつだとかそんな話をして、電話を終了した。その後、菜々にすぐ報告の連絡をラインで入れた。

「おめでとう! 私はまだきてないや〜」とラインが返ってきたので、菜々にはまだ合格の連絡が入ってないらしい。まあ、菜々のことだから間違いなく合格していてるだろう。

 翌日、菜々が教室に入ってくるや否や俺の方に駆け寄ってきた。

「ごめん、孝夫、連絡こなかった……」

「え!?」

 マジか…… まさか菜々がバイトの面接に落ちるとは思いもしなかった。

「お前、なんか面接で変なこと言ったのか?」

「言ってないよ!」

 じゃあ何故俺が面接に受かり、このコミュ力抜群女子が面接で落ちたのだろうか……

 何にせよ、これで丸井とバイトで仲良くなる作戦は俺に委ねられてしまったことになる。責任重大だ……


     *


 初めての出勤日がやってきた。学校が終わった後に準備を済ませてから、少し緊張した気分で自転車を漕いで、バイト先に向かう。

 到着して扉を開くと、また店員からいらっしゃいませー、と通常の客と同じような扱いを受ける。

「あ、今日から働く谷崎です」

「あ、すみません。店長呼んできますね」

 店員は厨房の方に入っていく。この店員の人もこれからバイト仲間になるんだな。

 少しすると、この前面接をした店長が厨房から出てきた。

「おはよう、谷崎くん」

「こんにちは」

「あ、一応飲食業界だと、バイトで出勤の挨拶をする時は昼でも夜でも『おはようございます』って言うんだ。僕もなんでかわかんないけどね」

「あ、そうなんですね。覚えておきます」

 そう言って、俺はこの日のために準備してきた、片手で持ちながら書き込めるサイズの手帳を取り出した。

 すると、店長が訝しげにこちらを見てくる。

「谷崎くん、メモとろうとしてる?」

「え、はい」

「こんなことわざわざメモとらなくていいよ。おもしろいね、谷崎君」

 店長は笑いながら言った。

 アルバイトに合格したと伝えた時、父親と母親から、とにかく最初はメモを取りなさい、と教わったので、その教えに従ったまでなのだが、どうやら違ったらしい。

 時と場合による、と覚えておこう。

 店長に案内されてついていくと、厨房のなかには一つの扉があった。

「この中が事務所になってるんだ。あんまり広くないんだけど、着替えたり、休憩はここで基本的に済ませます」

 店長が説明を済ませると、事務所の扉を開き、入っていく。

 外から見えるだけでも、店長がさっき言ったように、あまり広くないこじんまりした場所であることがわかった。

「さあ、どうぞ」

「失礼します」

 事務所に入ると、そこにはアルバイト用の格好に、着替えてこれからシフトに入るであろう丸井友子の姿があった。

「こ、おはようございます」

 おっと危ない、こんにちはと言いかけたが、丸井の方を見て挨拶をした。

「ゲ」

 うん? ゲ?

 あれ今、微かに「ゲ」という声が聞こえた気がするが気のせいか?

 ……いや、気のせいだろう。だって、さっきバイトの出勤の挨拶は「おはようございます」だって教わったもの。

 だが、それはおそらく気のせいじゃなく、丸井裕子がその言葉を発したのであろうことがわかった。だって、若干眉間にシワが寄っているもの。

「あ、丸井さん、こちら今日から働く谷崎くん」

 店長は俺の挨拶が丸井に聞こえなかったと考えたようで、俺のことを彼女に紹介してくれた。後、「ゲ」は店長には聞こえていなかったっぽい。

「どーも」

 どーも、か…… クラスメイトであることを感じさせない塩対応だ。

「あ、店長、丸井さんとは同じクラスです」

 このタイミングで丸井との関係性を話さないのもおかしいので、クラスメイトであることを伝えた。

「あっ、そうだったんだ。じゃあちょうどいいや。丸井さん、谷崎くんには丸井さんと同じキッチンをしもらうから、色々と教えてあげてね」

「あっ……はい」

 なんで私が、という表情をしながらも丸井は了承して、厨房に入って行った。まあさすがに無理です、とは言わないよな。

 店長と二人事務所に残り、タイムカードを切ってから、バイトの時に着用するエプロン、帽子、キッチンシューズという大きめの靴を貰い、このアルバイトについての説明を受けた。

 一通り説明が終わったところで、俺は一つ気になってたことを質問した。

「あの〜、僕と同じタイミングで、宮戸菜々っていう高校生の子が応募してきたと思うんですけど」

「ああ、あの可愛い子だね。なんだ、知り合いだったの?」

「実はそうなんですよね。いや、あいつがなんで落ちたのか、もし差し支えなければ知りたいなあと思いまして……」

「ああ、うちは金髪はNGだからだね」

 圧倒的にシンプルな理由で不採用になってたぞ、菜々……

 今度人間性によって不採用になったわけではない、と励ましてやろう。結構落ち込んでたからな……

「よし、それじゃあ、早速キッチンの業務について教えていくから、エプロン着けて、キャップをかぶって来てね」

「はい」

 このアルバイトではユニフォームなどはなく、バイト中は長ズボンを履くようにだけ指示されている。私服のうえに、キッチン担当は支給されたエプロン、帽子を身につけ、キッチンシューズを履くだけでありある。ホール担当はエプロンをつけるだけなので、比較的服装については、自由のきく方だと思う。

 だが、金髪は許されなかった……

 準備を済ませて、厨房に入ると、最初は手洗いをしっかりとするように指導を受けた。

 キッチンに入ってすぐ、手を洗うための洗面所が設置されているのだが、そのすぐ上にはキッチンタイマーが置かれており、三十秒に時間がセットされている。

 スタートボタンを押してから、手を洗い初めて、三十秒間は手を洗い続ける必要があった。まあ、こういう衛生面で細かいところは飲食店だから当然か。

「よし、それじゃ、まずは業務の流れについて説明していくよ」

 そういって、店長は説明し始める。

 ハンバーグなどの料理を調理するポジション、パンケーキを焼くポジション、最後に盛り付けを行うポジション、大きく分けて三つのポジションがあった。もちろん、皿洗いも必要だが、それは手の空いている人が行っていくようだ。

「パンケーキを焼くポジションが比較的、業務が単純でわかりやすいから、まずはそこをできるようになってもらうとこからだね」

「はい!」

「それじゃあ、まずはパンケーキの焼き方から説明するよ」

 そういって店長はパンケーキの焼き場の前に置かれた銀色の容器の蓋を開けた。その中には大量のパンケーキ用の生地が入っている。

「パンケーキを一枚、このオタマのすりきり一杯程度の量で焼けばいいんだけど、大体パンケーキ生地を仕込む時にはこのオタマ五十杯分くらいの量を仕込みます。重さで言うと、二キログラムくらいかな」

 そう言いながら、店長はパンケーキ生地をオタマで一杯すくって、熱された鉄板の上に円状に広がるように、生地を乗せた。

「片面ごとの焼き時間は二分です。鉄板に生地を乗せたら、ここにあるキッチンタイマーが二分にセットされてるから、スタートボタンを押して、二分経ったらひっくり返して同じように二分焼きます。あ、この説明はメモとっておいてね」

 店長から今受けた説明のメモを取っていく。パンケーキ一枚は、オタマ摺り切り一杯、焼き時間は片面二分と……

「次にパンケーキの生地の作り方を説明するね」

 そう言って店長が再び移動し始めたので、後ろをついていく。

 洗い場の近くで足を止めると、棚の中にある袋を二つ取り出し、大きめのボウルとハンドミキサーを準備した。

 袋の中には大量の白い粉……もといパンケーキの粉が入っている。

「この棚の中にパンケーキの粉が五百グラム入ってます。で、生地を作る時は基本的にはこれを二袋ボウルの中に入れてください。そのうえに水を一リットル測って入れてね」

 店長は説明をする手順通りに、慣れた手つきで作業を進めていく。

「あ、後水とパンケーキ粉ともう一つ、マーガリンも入れないといけない。ただ、マーガリンはもちろんそのまま入れると固まったままだから、先に電子レンジで溶かしてね」

 店長はそう言いながら、マーガリンにつつまれたアルミホイルのような銀紙を剥がし、プラスチック製のボウルの中にマーガリンを置き、電子レンジの中にボウルごと入れた。

「マーガリンを溶かす時は五百ワットで四十秒ね」

 この説明も必死にメモをとる。え〜っと、マーガリンを電子レンジで溶かす、パンケーキ粉は五百グラムが二袋、水は一リットルと……

「とりあえず、一気に説明ばっかりしてもパンクしちゃうから、説明はこんなものかな。丸井さん!谷崎くんについて、見てあげてくれない?」

「あ……はい」

 これまで普通に業務をしていた丸井が俺のもとにやってきた。

「……じゃあ、今日で焼き場をある程度できるようになることを目標にしようか」

「あ……はい」

 き、気まずい……普段仲良くない人とバイトが一緒になると、そりゃそうなるわな……

 だが、仲良くなるために同じバイトに入ったんだから頑張らないとな……自分の目的を再確認した。

 それからは基本的にパンケーキを焼いていく作業の繰り返しであった。今日は平日であり、おそらくそんなに忙しくはないだろう、と勝手に思っていたのだが、平日は勤務するアルバイトの人数も絞っているようで、一人あたりの業務量で言うと、それなりに忙しい。

「パンケーキの生地の仕込み、できる?」

 少し落ち着いたタイミングで丸井から質問がきた。

「多分メモとってるから、大丈夫」

「じゃあ、お願いしていいかな?わからないことがあったら呼んでね」

「ありがとう」

 そう言って、パンケーキ生地を仕込む場所へと向かった。

 よし、やるか……先ほど店長に教えてもらったことを思い出すためにメモ帳をひらいた。

 まずはマーガリンを電子レンジで溶かす……五百ワットで四十秒……

 メモに書かれたことを頭のなかで復唱しながら、冷蔵庫からマーガリンを取り出して、ボウルの中に入れて、五百ワットにツマミがセットされていることを確認し、もう一つの時間を調整するツマミを回して、四十秒にセットした。

 その後、パンケーキ粉が入った袋を二つ取り出し、開封しようとハサミを手にとった時、事件が起こった。

 バチバチっという音が電子レンジから聞こえて、振り向くと電子レンジの中がピカッと光った。

 なんだと思い、電子レンジの蓋を開けると、そのなかでは、一部分がドロっと溶けて、穴の開いたプラスチック製のボウルとアルミホイルに包まれたまま、グニャっと溶けていたマーガリンがあった。

 

……アルミホイル剥がすの忘れてた……


 そういえばアルミホイルを入れて、電子レンジでチンすると、マイクロ波がなんとかかんとかで爆発するっていうのを聞いた覚えがある……

 早速やらかした大失敗にどうすればいいか迷っていたが、とりあえずは相談するしかない。調理場で忙しそうな店長のもとに駆け寄って、話しかける。

「店長、すみません」

「どうした?」

「あの、マーガリンのアルミホイル剥がすの忘れたまま、温めちゃって……電子レンジが……爆発しました!」 

「はあ?」

 店長は怒りというよりかは、こいつ何を言ってるんだという感じに目を大きく見開きながら、俺のことを見てきた。その後、すぐに事件の発生した電子レンジのもとを駆け寄り、電子レンジの中の惨状を見ると、「Oh……」と言った。

「……すみません」

「と、とりあえずこの電子レンジが正常に動くか確認するね」

 店長はコップに水を入れて、それを電子レンジの中の皿の上に置いてから、ツマミを回した。三十秒ほど経ち、電子レンジの蓋を開けて、コップの外側を触って、水が温まっているか確認する。

「これは壊れてるな……」

 水は温まっておらず、電子レンジは故障してしまったようだ。本当に申し訳ない……

「ごめんなさい……」

 平謝りくらいしか、今の俺にはできない。この現状を招いてしまった自分があまりにも恥ずかしい。店長は少し考える様子を見せた後、口を開いた。

「まあ説教は後だ。電子レンジは調理場のところにももう一つあるから今日はそれでしのごうか」

「はい」

「谷崎くんは引き続き、その電子レンジを使って、パンケーキ生地の仕込みをして。次はアルミホイルはがしてね……」

「承知しました……」

 改めて、マーガリンを冷蔵庫から取り出そうとしたところ、丸井が近くに寄ってきた。

「どうかしたんですか?」

「電子レンジが爆発した」

「爆……発……?」

 店長が真剣な表情でふざけたことを言うので、丸井は理解していなかった。いや、そのふざけた行動をとってしまったのが、俺なんだけど……本当ごめんなさい……

「とりあえず、こっちの電子レンジは今のところは使えないから、電子レンジを使う時は毎回調理場にある方を使ってね」

「はあ、わかりました」

 納得はしていないが、とりあえずこれから電子レンジを代用しないといけないことがわかったようで、丸井は了承する返事をした。そして、その後は特に大きな失敗はなく、店を閉める夜の九時までアルバイトをして、終了したのだった。

 

「とりあえず、谷崎くん、初日のアルバイトお疲れ様」

「ありがとうございます……」

 疲れた。もちろん体力的な疲労という意味ではない。自分がミスをして、それによって、他の人に迷惑をかけたという、明白な事実が俺の中で重くのしかかっていた。

「まあ、僕も電子レンジを爆発させる人は初めて見たんだけど、今思うとアルミホイルを剥がすっていう説明はしてなかったし、ちゃんと見てなかった僕達も悪かったよ」

「いや、本当に僕がただただ悪いだけなんで……」

「うん、次からは絶対しないようにね」

「はい、すみません」

 店長からの説教は思ったよりも軽いものであった。もちろん、俺がバイト初日というのもあると思うが。

「それじゃあ、丸井さんも谷崎くんも帰っていいよ。お疲れ様でした」

「お疲れ様でーす」

「お、お疲れ様です」

 丸井に遅れて、退勤の挨拶を俺も行った後、事務所を出て、裏側の出口を通って店から出た。

「ドンマイ」

「……ああ、ありがとう」

 店を出たところで丸井から励ましの言葉をかけられた。俺は丸井から話かけてきたことに少し驚かされた。落ち込んでいる俺に気を使っているのだろうか。そのままら、俺から話を続けた。

「丸井は今のバイト長いの?」

「初めて半年だね」

 半年か……部活を辞めたのも一年の半年が過ぎた頃だったと思うので、部活を辞めたのと同じくらいにこのアルバイトを始めたようだ。

「そっか、丸井は俺みたいなミスをすることはもうないよな……」

「そんなことないよ。私もまだまだミスばっかりだよ」

 まだ初日の数時間しか、一緒にバイトをしていないが、丸井がミスをしている瞬間なんてなかった。この発言は俺のことを気遣って言ってくれてるのだろうか。

 そう思うと、良いやつじゃないか、丸井。

「まぁあここまでひどいのは、そもそもバイト始めたばっかりの時でもしなかったけどね」

 ぐっ…何も言い返せない…良いやつかどうかはとりあえず、保留にしよう。

「ははは……まあ、そうだよな」

 話していると、駐輪場に着いた。自転車のかごに荷物を入れて、スタンドを蹴って自転車を動かせる状態にする。

「それじゃあね」

「ああ……」

 丸井が自転車に乗って去ろうとした時、今の二人でいる状況は仲良くなるチャンスなのでは?という考えがよぎった。

「あ、丸井!」

「えっ? どうしたの?」

「い、一緒に帰ろうぜ」

少し声が上擦った。恥ずかしい。

「え? ……まあいいけど」

 丸井からしたら急になんだこいつと言う感じだろうが、断るとこれからの関係が気まずくなると考えたのか、一緒に帰ることを承諾してくれた。丸井は既に自転車に乗っている状態だったので、俺も急いでサドルにまたがり、丸井の方に、自転車を漕いで駆け寄った。

 店を出て、大通りを自転車で漕ぎながら質問する。

「そういえば、家どこらへんなんだっけ?」

「ここを十分くらいまっすぐいったとこだよ」

「じゃあ、ちょうど俺の通り道だ」

「ふーん」

「……丸井って兄弟とかいる?」

「いないね」

「……へ〜」

 二人の漕ぐ自転車は同じペースで進む。会話の合間に沈黙する時間が多くて、会話のペースはあっている気がしなかったけど。

「あの店長いい人だな」

「まあ優しすぎるくらいだと思うけどね」

「そういえば、丸井ってなんであの店でバイト始めたんだ?」

「なんで、か……まあ家が近かったのと……友達の紹介だね」

 友達の紹介か。まあ高校生からバイトを始めるとなると、誰かしら知り合いはいた方がいいもんな。

 俺の両親も菜々が一緒のバイトをするなら、ということで俺がバイトを始めるのを快諾したみたいだし、親だってその方が安心するだろう。

「へ〜そうなんだ。その友達の子は今も働いてるのか?」

「うん。その子はホールで働いてるよ」

「じゃあまたシフトがかぶるのを楽しみにしてるよ」

「うん……悪い子じゃないよ」

 クラスでは丸井は友達がいなかったが、このバイト先にはいるようだ。

 もしかすると、その友達の子は丸井がバスケを辞めた理由を知っているかもしれないな。そんなことを考えると同時に、丸井が言った「悪い子じゃない」という言い方が、少し引っ掛かっていた。 

「あ、私こっちだから、じゃあね」

「あ、おう。じゃあまた明日学校で」

 素っ気ない挨拶を済ませた後、俺と丸井は自転車をそれぞれ、別方向に向かって漕いだ。

 人生初のアルバイト一日目、丸井とは想像以上に話せた気がするのでよかったかな……しかし、そのポジティブな評価は、電子レンジを爆発させるという大失敗を思い出すことで打ち消された。

 自分のしたことが恥ずかしくなり、なぜか俺は自転車を爆速で漕いで家に帰った。


     *


 次の日。始業五分前になると丸井がやってきたので、思い切って挨拶をしようと思い、丸井が席に着いた後、横から声をかけた。

「おはよう」

「……」

 え、無視?

 あれ?昨日一緒にバイトから帰ったのは幻想?

 丸井のことを凝視していると、耳にイヤホンをつけたままであることに気づいた。こいつ、教室入る時もイヤホンしてるのかよ……わざわざ丸井の前まで行って、再度声をかけた。

「おはよう」

 さすがに丸井も気づいたようで、イヤホンを取った。

「あ、おはよう。なんか用?」

「別に用とかねーよ。ただ挨拶しただけだ」

「ああ……そっか。ごめんごめん」

 丸井が呆気にとられたような表情をしながら、なぜか謝ってきた。

 そこからは特に会話をすることもなかったため、丸井は自分のカバンの中を探り、一限目の準備を始めた。

 自分の席に戻ると、ふと、後ろから視線を感じたため、振り向くと菜々が笑顔を輝かせてこちらを見ていた。

 おそらくこの笑顔は「孝夫、挨拶できてんじゃん!」という称賛の意味だろう。菜々よ、俺だって挨拶くらいはできるぞ。


 昼休みになり、俺は濱田と菜々と三人で初めて話した屋上前の階段の踊り場に向かった。

 なぜなら、昨日菜々と濱田が入るライングループに招待される形で三人のライングループができ、そこで今日の昼休憩に集まろう、と集合がかかったからである。

 菜々と同じタイミングで教室を出ると、敏感なやつが変なことを考えることを懸念し、あえて一人で教室を出て、目的の場所に向かった。

 到着すると、二人は一足先についていたようで、雑談をしていた。

「おっす」

「あ、タカオくん。聞いたよ、菜々ちゃんはバイト落ちたけど、タカオ君は受かったんだって〜」

 その発言を聞く菜々の表情は笑顔だったが、いつもほど明るい笑顔ではない。

 いつもの笑顔が快晴の空なら、この笑顔には雲がかかっている。やっぱり、菜々もバイトに落ちたことを気にしているようだ。

「まあな。てか、店長に菜々がなんで落ちたのか聞いたけど、単純に金髪禁止だかららしいぞ」

「えーそうなの? カツラをかぶっていくべきだったか……」

「いや、その前に黒染めを選択肢に入れろ」

 しかし、今の菜々は別に地毛というわけではないのだが、異様に金髪が似合っていて、黒染めをしてしまうとなんとなく悲しいな、なんてことを考えてしまう。

「まあ、受かって、黒染めする、ってことにならなくてよかったんじゃないか? 俺は受かったことだし」

「うん、そういうことにしとくよ」

「で、タカオ君バイトはどうだったの?」

 濱田から早く本題を話せと言わんばかりに質問された。

「まあバイトはとんでもない失敗をしたが……たまたま丸井とシフトがかぶって、割と話すことはできたと思う」

「おお、やるじゃん」

「さすが、孝夫!」

 ここは人と話すことができるだけで褒められる世界線だった。優しい世界だ。まあ、実際に俺自身、菜々と丸井の会話の様子を見ていると、俺が十分にコミュニケーションをとれるかは非常に不安だったんだが。

「ちなみに友子そのバイト結構楽しんでる感じだった?そのバイトが楽しくて仕方ないとかであれば、バスケ部に入ってもらうとか難しいと思うんだけど……」

 昨日のバイトの時の濱田の様子を思い出してみたが、あまり楽しそうに働いているという印象はなく、コミュニケーションも必要最低限の業務上の話しかしていないという印象であった。

「いや、心底バイトを楽しんでるって感じではなかったと思う」

「そっか。なら、バスケ部入ってくれる可能性は消えていないと信じる!」

「ただ……」

「ただ?」

「あいつはあのバイトに友達に誘われたから入ったって言ってて。その友達は昨日いなかったから、それが気になるな」

「ふむ……その友達については今後、調査が必須ですな……」

「菜々ちゃん、何その口調」

 菜々がおどけて喋り、それに対して濱田がツッコミを入れた。やはり、彼女達はクラス内での同じグループの一員ということもあり、会話している様子が慣れている。

 この三人の会合は秘密にする必要があるので、教室に戻るタイミングはずらそうということになった。

 菜々と濱田は寄り道せず、教室に直接戻るので、俺はどこか別の場所で時間を潰してから教室に戻る。

 どこに寄ろうかなと考えたが、学校のなかで時間を潰せる場所なんてそう多くない。少し考えて、向かったのは図書室だった。

 俺は小学生のとき、別に宿題でもないのに、父親に指示され、夏休みの間の毎日、新聞を読み、気になった記事を切り取って貼り付けて、感想を書き、父からのフィードバックを受けるという習慣があった。

 その経験が活きているのかわからないが、活字を読むことは嫌いじゃないので、本を借りるために、たまに図書室には来ていた。

 到着して、早速本棚を眺めていく。さて、何を借りようか……自分の読みたい本があればそれを探すが、今は読みたい本があるわけではないので、図書室の中をぶらつき、何か良い本がないか探した。

 普段読むのは一般文芸と呼ばれるジャンルの大衆向け小説が多い。そういう類の本が集めて置かれている棚に近寄って、全体を見渡すが、残念ながら読みたいと思う本が見当たらなかった。

 まあ、こういうことも珍しくない。あまり普段読まないジャンルの本でも眺めて、時間を潰すか……

 動物園の熊のように何度も同じところをうろつきながら、図書室の中を本を見渡していく。

 すると、スポーツ系の本がまとめられている棚のなかで「上手くなる!バスケットボール」というバスケのハウツー本が目に入った。

 バスケ部くらいしか借りることのない本だが、今女子バスケ部再建にかかわることを手伝っているせいか、この本が妙に目立って見えた。

 バスケのことを勉強するのも悪くないかもな、というくらいの考えでこの本を借りることに決めた俺は図書委員のところにこの本を持って行った。

 

     *


 教室に戻ると、菜々と濱田達はグループで楽しそうに談笑していた。丸井は今日も一人で携帯を触っている。

 あまり丸井は話しかけられたくないだろうなと自覚しながら、俺は彼女の机の前まで歩いて行って、また話しかけた。

「何してんの」

「ラインだよ」

「誰と?」

「友達、ほら、バイトが一緒の子」

「なるほどな」

 ぽんぽんと会話のラリーが行われる。ただし、残念ながら会話は弾んでいるようには思えない。そんなことは気にせず、俺は会話を続けた。

「今日、俺出勤なんだけど、丸井は?」

「今日は私シフトはいってないねー」

「そっか、そういえばその友達の子はいつ入ってるんだ?」

「あっ、確か今日入ってたね」

「おお、まじか」

「うん、まあ、仲良くしてあげてね」

 これで会話が終了と言わんばかりに丸井は携帯の方に視線を向け直したので、俺も大人しく自分の席に戻った。


     * 


 放課後、帰宅してから、すぐに準備を済ませて、人生二回目のアルバイトに向かった。

「おはようございます」

「おお、谷崎くん、おはよう」

 事務所に入ると、店長が一人で中にいて、パソコンの作業をしているようであった。忙しそうにパソコンをいじっている店長を見ると、この前のアルバイトの際にやらかした大失態のことを思い出した。

「あの、店長、電子レンジってど、どうなりましたか……?」

「ああ、それなら新しいのを仕入れたよ」

「すみません……」

「次は壊さないようにしてね」

「はい」

 さすがに二台目は壊せない。そのうち、電子レンジクラッシャーなんてあだ名がついてしまう……

「後、まだ働らき始めたばっかりなんだから、時間はかかってもいいから丁寧に仕事する意識でやってみて。少しでもわからないこととか不安なことがあれば、前に教えてもらったことでも聞いてくれていいからね」

「……はい!」

 店長はにこりと笑って、優しい言葉をかけてくれた。

 その表情はまるで昨日良いことでもあったかのようににこやかな笑みで、怒りなど微塵も感じられなかった。俺は改めて、アルバイトを頑張ろうと思わされた。

「おはようございま〜す」

事務所の扉が開くと、黒色のブレザーをまとい、黒色の髪を後ろでポニーテールにまとめている高校生と思わしき女子が入ってきた。

 うちの高校の制服は紺色のブレザーなので、他校の生徒だな。

「ああ、野々原さん、おはよう。こちらはこの前アルバイトに入った谷崎くん」

「あ、はじめまして。野々原理美です」

「はじめまして、谷崎です」

 野々原理美というこの女子高生は、ブレザーを脱ぎながら、俺の方はまともに見ずに挨拶の言葉を吐いた。もしかして、この子が丸井の言っていた友達の子だろうか?

「彼、丸井さんと同じ高校の生徒なんだよ」

「あ、はい。友子から電子レンジを爆発させたって聞いてます」

 店長と野々原さんの会話を聞くに、彼女が丸井の友達で間違い無い。ていうか、丸井、早速、俺の失敗を言うんじゃないよ……もしかしたら、すぐに電子レンジクラッシャーというあだ名が定着するかもしれない、そんなことを考えた。

「ははは。まあ二人とも仲良くね」

「よ……よろしくお願いします」

 野々原さんはバイトの準備に慣れているようで、すぐにホールに出る準備を済ませた。俺も焦って、準備を済ませてから、厨房に出た。

 二回目のアルバイトは基本的に一日目に教えてもらった作業を行なうことの繰り返しだった。

 昨日起こした電子レンジを爆発させるミスは、意識をすれば絶対にしないものだ。 

 というか、なぜあんなミスをしたのだろうか……アルミホイルを電子レンジで温めてはいけない、なんてことは物知りな小学生でも知っている。

 今日のバイトが始まる前に店長に言われたとおり、丁寧に仕事をするということを心がけて働いた。

 メモを見ながら、時には店長や他のアルバイトの人に質問をして、教えてもらったことをまた、メモに取りながら。

 時間はあっという間に過ぎて、閉店時間となった。

 その日は細かいミスはあったものの、一度目の出勤の時のような大失態は犯さずに終了することができて、安堵が俺の心のなかを満たした。

 事務所に戻ると、先に野々原さんが着々と帰る準備を進めている。

 もしかすると、丸井がバスケ部を辞めた原因をこの子の口から聞けるかもしれないので、親交を深めたいのだが、バイト中はほとんど会話できなかったな……ということで、今のうちに声をかけよう。

「お疲れさまです」

 同級生ということがわかっているといえど、つい敬語で話しかけてしまった。

 まだ、お疲れ〜とか気軽にはいえない。すると、帰る準備はやめずに顔だけ俺の方に向けて、ペコリとしながら、お疲れ様です、という返事だけが帰ってきた。

「あ、野々原さんって丸井とはどこで知り合ったんですか?」

「同じ中学だよ。ていうか、タメ口でいいよ。同じ学年でしょ」

「あ……うん」

 敬語で返事をしようとする自分の頭を切り替えて、タメ口で返事をすることができた。

「同じクラスだったの?」

「いや……同じ部活」

「ってことはバスケ部だったんだ」

「うん、そうそう」

「確か、丸井と野々原さんの中学って女バスが強かったんだっけ?」

「ああ、一応強豪校って呼ばれるくらいには強い方だったかな。てか、よく知ってるね」

 野々原さんからの目線は、何故、そんなことを知ってるんだ?という人を怪しむ目線の様に感じたので、少し返答に戸惑った。

「えっと、友達から聞いてて」

「そうなんだ」

 話すうちに彼女は帰る準備を終えたようで、狭い事務所の出口に向かっていく。

「それじゃ、お先にお疲れ様」

「お疲れ様です」

 野々原さんとは少しだけ会話ができたが、まだまだ彼女の人間性や性格を知ることは到底できなさそうだ。

 それこそ、丸井が言う、悪い子じゃない、という、あまりに抽象的な人間性を表す言葉すら理解できないほど。

 いや、そもそも丸井友子という人間すら、俺はまだまだ理解できていないか。


     *


 初めて野々原さんとシフトが被った日から一週間後、俺は人生五回目のアルバイトに向かっていた。

 自転車を漕ぐ俺の頭のなかは、バイト、いやパンケーキのことでいっぱいであった。

 最初はパンケーキの生地をしこむことすらままならなかったが、今では、パンケーキを焼く、生地を仕込む、皿洗いをする、といった簡単な作業はミスなくこなせるようになっていた。

 だが、パンケーキにバナナやいちご、キウイなどの彩り豊かなフルーツを盛り付ける作業あったり、チョコレートソースをかける作業を、今は勉強中だ。メニューによって、盛り付けるフルーツやかけるソースの種類が違い、盛りつけるフルーツの数なんかも違うので、なかなかメモを見ないで完成させることが難しい。

 バイトの時に少しでもスムーズに仕事をこなせるように、あのメニューは何を盛り付けるんだっけ、と自分の頭の中で問題を出しては回答を繰り返した。

 バイト先に到着し、いつもどおり従業員用入口から入り、事務所の扉を開く。

「おはようございまーす」

 事務所のなかには丸井と野々原さんがいて、談笑をしていた。

「おはようございまーす」

 二人はこちらをちらっと見て、挨拶してくる。

「あ、友子このバンドの新曲聴いた? めちゃめちゃいいよ」

「まだ聴いてないから聴いとくね」

 二人は俺への挨拶を済ませると、すぐに会話を再開する。

 そういえば、丸井と野々原さん、どっちともシフトが被るのは初めてだな。

 二人は音楽の話をずっと続けていて、残念ながら俺が会話に入る余地はなかったので、準備を済ませると、一足先に厨房に入った。


     *


 オーダーが連続して入るなかで、今日は盛り付け作業をメインに行っていた。しかし、なかなかうまくいかず、逐一、丸井から数が違うよ、とか、いちごはこのメニューには使わないといった指摘が入った。

 丸井からの指摘には怒りの感情が入ってる様子は全くなく、ただその事実を伝えているように思う。

 なんというか、丸井はいつも異様に落ち着いているのだ。

 オーダーが大量に入った時や、俺のミスの尻拭いをしないといけない時に彼女はいつも、本当に同じ学年なのかと思うほど落ち着いて、対処する……そして、それは野々原さんと話している時も変わらないように俺は感じた。

 勤務中、野々原さんは暇な時を見計って、丸井に話しかる場面は少なくなかった。

 だが、その度、野々原さんが楽しそうに表情を緩ませて話すのに対して、丸井は表情をあまり変えず、また作業の手を止めずに会話に応じていた。


     * 


 二人の会話の様子を観察していたからかはわからないが、体感時間的には、いつもより一層早く、退勤時間が訪れた。

「友子、一緒に帰ろ〜」

「うん」

「お疲れ様でーす」

「あ、お疲れ様です……」

 丸井と野々原さんは俺のことを待つ様子もなく、先に事務所を出てしまった。

 その後、帰る支度を済ませ、駐輪場に向かったが、彼女達の姿はもうなかった。

 少し自転車を手で押し進めてから、サドルにまたがり、自転車のペダルを漕ぎ出した。

 街頭と自転車のライトが照らす道を進みながら、今日の野々原さんと丸井の様子を振り返る。

 今日、丸井は野々原さんと話している時と俺と話している時の態度はあまり変わらないことがわかった。逆に、野々原さんは俺と話している時と丸井と話している時でまるきり態度が違うこともわかった。まあ、これに関しては、俺と野々原さんの関係性がまだ、構築されていないというだけの理由かもしれないが。

 ……このままアルバイトでたまにシフトが被るだけで、丸井と俺の関係性は良好になっていくのだろうか?正直、そのイメージが湧かず、今、自分の進んでいる道が正しいのか、俺には分からなかった。

 家には迷わずに着き、ただいまと言いながら、扉を開ける。

 すると、見知らぬ靴が二足、目に入った。こんな時間に客人でもきているのだろうか? 自分の靴を脱いで、玄関にあがろうとした瞬間。

「孝夫おかえりー」

 お迎えの挨拶とともにリビングの扉を開けて、玄関に登場したのは薄いピンク色のパーカーをまとった菜々だった。

「お前、なんでここに?」

「お母さんと一緒に挨拶にきたんだよー。私のお母さんと孝夫のお母さんが連絡とってて、今日急に家にいくことになって、私もついてきた」

 ああ、そういえば、俺がバイトを始める前、親同士で連絡をとってたな。

「今日決まったのか……急だな」

「一応、孝夫には今日、ラインで連絡してたよ?」

 携帯を開くと、確かに菜々から、今日、家いくねというラインが三時間ほど前に入っている。

「ほんとだな……」

「でしょ?」

 二人で玄関で喋っていると、俺の母親と菜々の母親が一緒にリビングから玄関に出てきた。菜々の母さんに挨拶をすると、驚きながら、あらー、大っきくなったねーと言う、知り合いの親特有の反応を示した。

 俺の母親から、今、お酒を飲んでるから、菜々と部屋でゆっくりしときな、という指示があり、菜々とともに俺の部屋に向かった。普段、母親はほとんど酒を飲まないのだが、こうやってたまに飲む時はいつも酒に夢中になるところがある。

 二階にあがり、俺が自分の部屋に入った後、菜々はお邪魔しますといいながら、後に続く。部屋に入った菜々は、まるで博物館にでも行ったように周りを見渡している。

「なんだよ」

「なんか、部屋が男子高校生の割りに整理整頓されすぎてる……」

「いいことだろ……」

 俺の部屋はベッド、勉強机、本棚といった最低限の家具しか置いていない殺風景なものだ。菜々は部屋を見渡した後、面白いものが置いていないと気づいたのか、見渡すことをやめて、棒立ちしていた。

「あ、適当に座っていいぞ」

「あ、うん、ありがとう」

「といっても、椅子も座布団もないから、ベッドか床に座ってくれ」 

 座布団は下に降りて、リビングからとってくればいいのだが、酔っ払いに絡まれるのが面倒だ。

 よいしょ、といいながら菜々は俺が普段寝ているベッドに腰かけた。俺も自分の鞄を置いたりして、落ち着こうとベッドに腰かけた。……必然的に、隣には幼なじみの容姿端麗な女性がいる。

 ……これ、結構ヤバイ状況なのでは?

 女性(母親除く)を自分の部屋に入れた経験など俺の記憶にはなく、自分の部屋に女の子がいる、という状況自体、非日常的だ。

 彼女の存在自体がまるで豪華な装飾品のように、殺風景な部屋の雰囲気をガラッと変えているような気がする。

 菜々の方をチラッとみると、少し眠たそうな目をしていた。まあ親同士はずっと飲んでる中、一人でその空間にいたら疲れるよな。

「孝夫の部屋に二人でいるなんて何年ぶりだろ」

 俺の方を向いて、菜々は話しかけてくる。彼女が髪を少し揺らすだけで、シャンプーの良い匂いが俺の鼻に届き、少しドキッとした。

「き、来たことあるんだっけ?」

「覚えてないの?小学生の時はよくきてたよ!」

 どうやら、小学生時代の俺は非日常を毎日送っていたらしい。しかし、全くその記憶がないのは、それが小学生時代の俺にとっては日常だった証拠だろう……

「アルバイトはどう?順調?」

「そうだな……結構大変かな」

 最近は少しずつミスも減ってきていたが、初出勤した際の電子レンジ爆発事件がまだ記憶に新しい、だから俺にとってのアルバイトの印象は「大変」という二文字で表すのがしっくりくる。

「そっか……そういえば、一回目のバイトの後、すごい失敗したって言ってたね。孝夫、何したの?」

「まあ、端的に言うと、電子レンジを爆発させたかな」

「爆発!? 何それ、どういう失敗したらそうなるの」

 菜々は目を見開かせて驚いた後に笑いながら、話してくる。表情がうるさいやつだ。

「電子レンジのなかでマーガリンをとかさなきゃいけなかったんだけど、アルミホイルを剥がさずに入れたら、ばちばちって音がなって、電子レンジを壊した」

「あちゃ〜、電子レンジにアルミホイルはダメだもんね〜」

「そうだな……俺も今、なんであんな失敗をしたんだ、って思うよ」

「あはは、面白いなー」

「笑いすぎだ……まあ、だから大変かな」

「でもさ、孝夫、バイトをちょっと楽しんでそうだね」

 楽しんでいる、か……菜々は俺のどういうところから、そう感じたのだろうか。

 だが、言われてみれば、店長や丸井もそうだが、邪険に扱かわれるようなことはないし、新しいことを覚えていって、できるようになることが増えていく感覚が俺のなかにあり、その感覚は嫌いではなかった。

「まあ、少しずつできることが増えていくのが楽しいかもな」

「そっか、始めたばっかだもんね」

 この感覚は小学生の頃、勉強をしていた際の感覚に近いかもしれない。

 昔は少し勉強をすると、目に見えて、テストでもいい成績が取れた。そうすると、親は褒めてくれるし、試験用紙が返ってきた時の100点に書かれた二つの丸がとても心地よかったのだ。

「友子ちゃんに感謝しないとね」

「まあ確かに……丸井の件がないと、アルバイトは結局せずに高校生活は終わってたろうな」

「友子ちゃんとはどうなの? なんか進展あった?」

「いや、学校の中でも少し話せる関係になったという意味では進展はあったのかもしれないけど、丸井がバスケをやめた理由を聞くなんて、まだまだ……というか、このままだとできる気がしない」

 一応。アルバイトを始めた目的というのは、丸井が女子バスケ部に入部してもらうために、なぜバスケをやめたのかという理由を知ることだ。その目的に関して、俺は達成するビジョンが全く見えていない。

「う〜ん、そっか。友子ちゃんと話すこと自体はできてるんだよね?」

「まあ、話せているといえば、話せているんだけど……まだ丸井の心を開けていないと言うか、話をしてても、あいつすげー落ち着いて話してるんだけど、なんていうか抑揚がないんだよな……」

「抑揚かあ……確かにそれは私も友子ちゃんと話してて感じたな」

 菜々は話す中で抑揚が相当あるタイプなので、余計に丸井と話すとそう感じるのだろう。

「だから正直話してて、会話を楽しんでしてはないんだろうな、とはすげー思う」

「それ結構悲しいね……」

 う〜ん、と菜々が顎に指を当てて考え始める。少し考えた後、何か思いついたように言った。

「友子ちゃんの好きなことについて話せば盛り上がるんじゃない?」

「好きなことか……菜々、わかるか?」

「全然。何回か話してもわからなかったな」

「だよな……」

「じゃあ、千聖に聞こうよ! 今は友達じゃないっていっても、さすがに好きなものが何かくらい知ってるでしょ!」

「まあ、確かにそうだな。聞いてみよう」

 そう俺が言った後、すぐに菜々は携帯をいじり、電話のコール音が部屋に響いた。スピーカーで濱田に電話をかけてるみたいだ。行動が早い。

「もしもし〜?」

 二、三コールした後、濱田は電話に出た。

「あ、千聖? ごめんね遅い時間に。今、大丈夫?」

「大丈夫よー」

「実は今、孝夫の家に孝夫と二人でいるんだけど〜」

「え?タカオくんと? どう言う関係?」

 確かにこんな時間に高校生の男女が二人で家にいると、そう言う関係だと思うよな……にしても、誤解を招くような言い方するんじゃないよ、菜々……

「親と一緒に来てて、今、親同士が飲んでるからさ、孝夫の部屋で待ってるの」

「あ〜なるほど、幼なじみだもんね。あんたたち」

 濱田もすぐに納得したようだ。

「で、どうしたの?」

「うん、友子ちゃんの好きなものって何か知ってる?」

「好きなもの?」

「うん、孝夫がなかなか仲良くなれなくて、もっと仲良くなりたいから、好きなことの話がしたいって」

 また、誤解の招くような言い方をするな、こいつは……

「あー、頑張ってくれてるんだね」

 どうやら好意的な解釈をされてるらしい。

「でも、好きなものか……全然思いつかないな……」

「え〜、千聖同じバスケ部だったんだから、さすがに結構昔は話してたでしょ?」

「いや、友子はテレビとか音楽とかそういうのに本当に興味ない子だったから、そういう話は全然話してないんだよね。……まあ、落ち着いた子なんだよね〜」

 落ち着いた子、その濱田からの評価はまさに俺と一緒のものだ。

 しかし、音楽やテレビの話はしない、というイメージはなかった。今日のバイトの休憩中に野々原さんとたまに話す話題は、まさにテレビや音楽の話だった気がする。

「う〜ん、そっか。地道にいくしかないかな……」

 菜々が俺に話しかけてきた。しかし、もう少し濱田から、丸井がバスケ部に所属していた時代の話を聞いておきたい。

「濱田、丸井と話す時って逆に何の話をしてたんだ?」

「あっ、タカオ君。そういえば菜々といたんだったね」

 忘れてたのかよ……まあ、よくよく考えると、この電話で俺が発言したのは初めてだった。

「まあ、話すとしたら学校のこととか本当に当たり障りのないこと、だと思うな……あっ」

「どうした?」

「そういえば、バスケの話はむしろよくした方かも。ていうか、部活の中だと友子が一番したかもしんない」

「……なるほど」

 それは丸井の好きなことがバスケである、という可能性を感じさせる発言だった。

「だから、部活辞めるって言った時、私のなかで、なんで?って気持ちが強かったんだと思う」

「確かにそりゃ、そう思うよな」

「ごめんね。全然役に立つ話ができなくて」

「いや、十分だよ。ありがとう」

「千聖ありがとうね。それじゃ、おやすみー」

「はーい、おやすみー」

 電話が終わった後、少しの沈黙が訪れた。

 丸井がバスケをやってた当時、バスケが相当好きだった可能性がある。濱田との電話でわかったのはそんな情報くらいだ。

 当時バスケが好きだったとして、今、丸井がバスケを好きである証拠にはならない。どちらかといえば、バスケ部をやめているのだから、バスケが嫌いになっている可能性も十分にあるだろう。

 しかし、もし丸井が今もバスケを好きだと言うことが変わっていないとしたら、好きなことを辞めてしまう程、重い理由があって彼女は退部を選択したということだ。

「菜々ー、そろそろ帰るよー」

 沈黙を破ったのは下の階のリビングから聞こえる、彼女の母親からの呼びかけだった。

「あ、は〜い」

 菜々はベッドから立つと、俺の方を改めまったように見てきた。

「友子ちゃんのこと、大丈夫?」

「……ああ、ちょっと考えてみるよ」

「いつでも相談してね」

「ああ、ありがとう。まあ、とりあえず降りるか」

 二人で階段を降りて、リビングに入る。

 すると、まあ楽しそうな酔っ払いが二人出来上がっていて、まだ楽しそうに談笑している最中だった。

 これは帰るまで三十分くらいかかるパターンだな……と思っていたが、菜々がお母さん帰るよ、と強引に連れ出したことによって、その親子はすぐに玄関を出発することができた。


     *


 菜々達が帰った後、すぐにシャワーを済ませた。リビングに戻ると、机の上に残っていた空の缶チューハイの残骸を母親の代わりに片付ける。いつもはきちんと掃除、片付けをする母だが、酔っ払ったら、その点はだめだめになるのが、厄介なところだ。

 リビングでうとうとしている母に早くシャワーを浴びて寝るように促してから、再び自分の部屋に戻った。菜々がいなくなった部屋は、家具が一つなくなったように少しだけ寂しく感じる。

 一息つきながら、俺は勉強机の前に置かれている椅子に腰掛けた。……さて、どうしようか。

 腕を組み、丸井のことを考えるが、一向に良いアイディアが浮かばない。そんな時、机の上に置いていた「上手くなる!バスケットボール」という、先日図書館で借りた本が目に入った。

 そういえば、最初の方のページを少しめくっただけで読んでなかったな……

 もしも、丸井が今もバスケを好きだったとして、バスケットボールを通して、彼女と親交を深めるには、俺自身、バスケのことを理解しないといけない。少し真剣に読もうと思い、ページをゆっくりとめくっていく。

 本のなかでは、ドリブル、ジャンプシュート、レイアップ、とバスケットボールにおける技をどのように行うか、また、その技を決めるための練習方法が、実際に選手がプレーする写真とともに解説されていた。 

 文字は少なかったので、一時間くらいで読み終え、本を閉じた。読む前から分かっていたことだが、この本はバスケ部とかに所属する人が上手くなるために読む本なので、残念ながら、俺が読んでも特に意味は感じられなかった。

 どうやったら、バスケのこと理解できるんだろうか。いや、そもそもバスケを理解するってなんだ?

 そんなことを椅子に深く腰掛けながら、考える。

 ……いや、そもそも部屋に引きこもって、バスケのことを考えたって何も意味がないか。

 俺は自分の携帯を手にとって、濱田にラインで連絡した。

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