箸をもつ
目の前に1本の箸があった。
1膳の箸ではなく、1本の箸だ。
箸は硬く、曲がりにくいものであるのが普通だが、この箸は柔らかく、ふにゃふにゃとしていて、なにも掴むことができない。つまり、箸と呼ぶには相応しくない代物だ。
この箸の箸らしくなさと言えば、まず対の相手が居ないことである。
対の相手があればようやくこの箸は箸であると胸を張って言えるだろうが、私の目の前には1本の箸しかない。
さて、実はこの箸も箸であるというからには、対の相手が存在する。
その対となるのはこの箸の1本と同じくふにゃふにゃとしていて、2つ合わさってもふにゃふにゃふにゃふにゃと何も掴むことができないが、それでも対となるものだ。
そして対になる箸というものは、残念ながら私の足元に落ちてしまっている。
箸と言うのは普遍的には食べ物を食べる際に使うものであり、汚れや菌等はもっての他であるはずだが、私の足元に落ちてしまっている箸は、そのどちらもを抱えてしまっている。
仮にこの足元の箸を拾ったところで、目の前の1本の箸と合わせて即座に使うことは難しいだろうと、感じられた。
実は、私の目の前にあるのは箸だけではない。
箸で食べるはずの食べ物が目の前にまだ残ってしまっている。
ふにゃふにゃとした箸でもって食べることのできるそれは、私が箸を持って食べようとするのを待っているかのようで、些か和らいで仕舞ったが、まだ湯気を持ち、私に箸を持てと急いてきていた。
実のところ、予備の箸が箸立てにあるのだが、箸に対の相手が居るように、私にも対の相手が居て、その対の相手がその予備の箸を使うのだ。
今日は帰宅が遅くなると言うが、私が食べ終わるまでに帰って来てしまえば、私は即座に対の相手に詫びを入れねばいけなくなる。
それが嫌で、予備の箸を使うのを躊躇っているのだ。
さて、賢明な方ならば分かるだろうが、私が足元の箸を拾い、綺麗に洗ってから今目の前にある箸と合わせて使えば良いのではないか?と思うだろうが、私はとても面倒くさがり屋なのだ。
箸を拾うためには、椅子を後ろに引き、身体を捩り、足元に落ちているであろう箸を拾い上げ、身体を戻さなければならない。
かれこれ2分は箸をどうしようかと悩んでいるが、一向に答えはでない。
ふにゃふにゃとした箸のことだ。
もしかしたら、足元でくにゃくにゃと芋虫のように這って私の手元まで戻ってきてくれないだろうか?
等と、由無し言を考えていても、箸は虫ではなく、箸であると真理にたどり着いてしまった。
目の前に1本しかない箸が箸としての役割を果たせないため、私の利き手も箸をもつという役割が果たせなくなってしまっている。
ここで、箸に箸としての力を取り戻してもらうことを諦め、箸の役割であったところを、私の利き手に担って貰うのはどうであろうか?
そもそもが箸は箸であるが、対が揃ったところでふにゃふにゃふにゃふにゃとしていて、「対が揃った!良し!箸として使えるぞ!」となるわけでもなく、「対が揃って箸であると言えるが、使いにくいしこれは真に箸であると言えるのか?」という疑問と戦わなければならなくなる。
欠陥はあるが、良く考えたら、ギリギリ物は掴めるし箸と言えなくはない。
だが、その程度の役割であれば、私の利き手ならばよそ見をしていてもやれる程度の些事であろう。
決して私の利き手が凄いと言うことではなく、ふにゃふにゃの箸が凄くないというだけである。
さて、一度整理しよう。
目の前には箸が1本。そして、冷えかかった料理が1つ。
その目の前の箸と対になる箸が床に落ちていて、拾ったとしても洗わなければ使えない。
床に落ちている箸がなぜ使えないのかというと、床は決して綺麗であると言いきれず、汚れや雑菌が残っているだろうからだ。
その理由で床に落ちた箸が使えないのなら、私の利き手は問題なかっただろうか?
少なくとも帰宅してから手は洗っているが、箸にかまけて不浄より戻った際の手洗いが少し粗雑であった気がする。
そんな不浄な手をもって食べ物を掴むなど、床に落ちた箸を使うのも大差の無い言語道断たることだろう。
本格的に詰んでしまったと、仕方がなく私は床に落ちた箸を持ち、箸と手を洗いに向かう。
その時、私の対が帰ってきて、出迎える際に、また、箸を落としてしまった。