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夢のあとに



今朝は、だいぶ目が早く覚めた。

何をするわけでもないがせっかくだと思い、高階は早めに家を出て学校へ向かった。

職員室に到着するやいなや、既に3名ほど机に向かって作業をしている教師の姿が目に入った。期末考査前ということもあり、最終調整を行っているのだろう。

それにしても時刻は7時半前で、自分が学生の時の教師達もこうだったのかと考えると甚だ頭が下がる。

高階が机に着いた際、おはようございますと真向いに座っていた羽鳥が顔を上げ声がかかった。

「今日は早いですね」

彼は荷物を置きながら、自身も挨拶を返す。

「おはようございます。なんだか目が冴えてしまって。羽鳥先生は……大変そうですね」

苦笑気味に羽鳥に応える。思わず机に視線を動かすと、彼女もまた考査の準備をしているようだった。

羽鳥の専門は国語で、その範囲は広い。加えて今回は進路を確定させるための大事な考査だ。担当教員たちもそれぞれ頭を抱えている。

「さすがに今回は骨が折れますね。でも、生徒たちの方が大変ですから」

羽鳥はボールペンを握ったまま頬杖をついた。その言葉に高階も相槌を打つ。

彼女が生徒を思いやる気持ちは強い。故に生徒からの評判もよく、彼女の元へはひっきりなしに生徒が質問に来る。包み隠すことのない真っ直ぐな性格が受験生に受けるのだろうと感じる。自分とも二十近く歳が離れているが、年齢を感じさせずこうして気さくに話しかけてくれる。彼女からは見習うべき点が多い。

ただ、さすがに考査前だからなのか忙しない姿がここ数日目に留まっている。今日もこうして朝早くから来ているということは、かなり際どいラインなのだろう。事実、自分との会話の後またすぐに教科書と向き合う態勢になった。

これ以上邪魔をしてはいけない。そう考えた高階は、身辺を整えた後机の上に並べてある楽譜集を一冊手に取り静かに席を立った。

職員室を出たすぐの廊下は電気がついているもののまだ仄暗い。曇りという気候のせいもあるだろう。

その廊下を真直ぐ進むと校舎中央の2階ホールに出る。右手に中央階段、左手には向かい校舎へと繋がる渡り廊下があり、律は向かいの校舎4階の端にある第一音楽室へ向かう為いつも通り渡り廊下を歩いた。ほんの数歩だがこちらの方がショートカットになるからだ。

この時間は、生徒もまだほとんど登校しておらず校舎自体が静かだ。静寂の中には、自分の靴音しか聞こえない。

無心で歩いていたらあっという間に4階に辿りついた。

音楽室の二重の扉を開き、真っ先に窓際のグランドピアノに向かう。普段ならばこの時間は部活動の朝の練習で使われている。しかし考査前は勉学に集中させるためどの部活動も停止させるのだ。

手際よくグランドピアノの蓋を開き、鍵盤の上にかかっていた布を纏めた。持ってきた楽譜集をぱらぱらと捲る。十年以上使用しているためページに癖がついている箇所がいくつもある。

息を吐きながら椅子へ腰かけ、譜面立てに楽譜を立てた。目に留まった曲の譜面を見つめる。繊細な旋律が好みで、何度も何度も弾いてきた曲だ。

慣れた手つきで、指が旋律を奏で始める。

──ドビュッシー作曲、月の光。

なぜこの曲を選んだのか、自分でもわからない。朝なのに月の光だなんて我ながら不思議だとさえ思う。ただ、タイトルを見た瞬間にふと美都のことが思い出された。

月のように微笑む、ひとりの少女。人によっては太陽だと形容する者もいるが、自分は月だと思っている。とりわけ目立つタイプではないものの彼女の周りには常に誰かがいる。いつも明るく笑顔が絶えない。彼女には惹きつける何かがあるのだろう。

(やはり彼女は不思議だな)

だから気になるのだ。週に数回しか顔を合わさないものの、印象強く残っている生徒は美都くらいなものだ。恐らくそれは、彼女に危うさが垣間見えるからだろう。太陽ではなく月だと考えるのはその点が大きい。何かが一つ違えば、脆く壊れてしまいそうだからだ。

彼女はそれを、自覚か無自覚かはわからないが他人に見せないようにしている。強さと儚さを持ち合わせているからこそ、月のように感じるのだ。

美都がなぜそうしているのかは知らない。だからこそ気になるのだろうか。

(彼女の強さは……どこから生まれてくるんだろう)

まだ中学生という立場でありながら、時折物凄く大人びた表情を見せる。あどけなさを残す笑顔の裏には、きっと彼女がこれまで過ごしてきた時間により構成されたものがあるはずだ。

まもなく曲が終わる。彼女に似た繊細な曲。授業後に何気なく弾いたときに、この曲が好きだと言った。

美都に対する気持ちは、好意ではないと考えている。しかし、ふとしたときに思い出すということはそれなりの感情を抱いているからだろう。その想いを今は形容しがたい。

静かに曲を終え、ふっと我に返った。

(自分よりも他人、か……)

美都もそうだが、高階も同じ傾向にある。

選曲の段階でつい彼女が思い出されたためずっとそのことを考えていた。後ろめたさがあるわけではないが、彼自身考えなければならないことがあるのだ。

一息ついて、続けて曲を奏で始める。リスト作曲『愛の夢第3番』。この曲は譜面を見ずとも指が動いた。

「──……」

弾きながら考えることは、今度は自分自身に関してだ。

最近、いつ眠りについたのかを覚えていない。以前から度々あることだが、頻度が増しているように感じる。心配で病院にかかってみたものの原因はわからなかった。幸いなのは、起きた際に必ず自分のベッドにいることだ。しかし記憶を辿っても、自ら寝室に向かったことを思い出せない。疲れて覚えていないだけなのかもしれないと思った事もあったが、それにしては不自然だ。

(自分で自分のことがわからないなんて……)

加えて、全く夢を見ないことも気がかりだ。今までもそうだったが最近は殊更に。それなりの時間眠っているはずなのに、意識が深いところにあるのかおそらく一度もレム状態になっていない。

このままでいいはずがないと思いながらも打開策が見当たらず、ずっとおざなりにしてしまっている。

しかしふと脳裏に一つの映像が過ぎった。

(──……いや)

夢ならば、見た。否──あれは夢ではない。

不意に鍵盤を叩く指が強くなる。この曲には似つかわしくない音が響いた。旋律にも戸惑いが隠し切れない。

(……落ち着け)

いつの間にか曲は終盤に差し掛かっていた。乱れた気持ちのままこの曲は終われない。

集中して自我を戻していき、最後の音符を弾き終えた。同時に大きく息を吐く。

「……──っ」

原因不明の恐怖がずっと付き纏っている感覚。いつになったら解決するのだろうか。

高階はおもむろに椅子から立ち上がり、窓際へと歩く。力の入った状態で弾いていたからなのか、手には汗が滲んでいた。その手を見つめながら再び考える。

現状、特別な害は出ていない。ただこれ以上、自分で制御できないところまで行くと。

(僕は、僕でいられるのだろうか)

得体のしれない不安との戦い。言い表す事の出来ない感覚が自分を蝕んでいくようだ。

己の手首を握りしめたまま、軽く息を吐いた。

そろそろ生徒も登校して来る頃だ。聞き苦しい演奏を晒す前にピアノを閉じようと振り返ったとき不意に渡り廊下に人影を捉えた。

「──……?」

窓ガラスを背にして座り込んでいる女子生徒の姿があった。背を向けている為、顔ははっきりと見えない。具合でも悪いのだろうか。膝を抱えてうずくまっているようにも思える。

この時間になぜここに? という疑問の後、だんだんとその後ろ姿に見覚えのある面影が重なった。

「月代さん……?」

顔は確認できないが、背格好と髪型がなんとなく彼女に似ている。確証はないがなぜかそのような気がした。

そう思った途端、高階は急いで出入り口の扉へ向かう。ピアノのことが気がかりだったが、もし本当に彼女であればこのままにしておけない。

すぐに駆け付けたい気持ちが勝り、彼は慌ただしく音楽室を後にした。





音が、脳内に波紋のように広がる。心地良さよりも頭に響く感じに思わず顔を顰めた。

誰かが呼んでいるような気がする。

身体が重い。自分でも呼吸が浅いことがわかる。起きなければという意識だけは片隅にあった。それでもこの場所から動く事が億劫だ。もう少しだけこのままでいたい。

瞼の裏に見える暗闇の世界には自分一人だけだ。水面が鏡のように今の姿を映し出す。

このまま目を閉じれば、もっと深いところにいけるのだろうか。無意識にその世界で目を閉じようとした。

────だめよ。

(……だれ?)

辺りを見渡した瞬間、水面が揺れた。同時に映し出されるのは、長い黒髪の女性。顔はよく見えない。

巴だろうか。だとしたら守護者としての自分が自分を引き留めていることになる。

美都と巴は違うということか。確かに巴としての自分は幾分か勇敢だと思う。

(逃げるなってこと……?)

逃げているつもりはない。しかし、深層心理ではやはりそうなのだろうか。

(……大丈夫だよ)

わたしは強いから。そうでしょう?

その人は首を横に振った。何か言いたげに必死に訴えようとしている。

しかしそれは無情にもだんだんと不鮮明になっていく。再び水面が揺れ大きな波紋が生じ、遮られてしまった。

はっきりとした表情は見えなかった。しかし。

(なんでそんなに悲しそうなの……?)

あなたは、わたしのはずなのに。

「月代さん!」

「──っ!」

現実の声に呼び戻され、ハッとして目を開ける。

その目に映ったのが紺色の布地だったため一瞬何が起こったかわからなかった。

心臓が早鐘を打っているのはわかる。遅れて少しずつ知覚していき、自分が今目にしている布地はスカートだという事が理解出来た。

「──……月代、さん?」

聞き慣れた声が、頭上から響いてきた。その声に応じるように、ゆっくりと伏せていた顔を上げる。

「……高階、せんせい?」

急に視界が明るくなったため目を細めながらだったが、迷わずその人物の名を呼んだ。

高階は美都の顔を見るとほっと胸を撫で下ろし深い息を吐いた。

「立てますか?」

心配そうに呟いて、美都に右手を差し出す。彼女はまだ少しだけ不鮮明な視界のまま、高階の手を取った。

「──!」

「すみません……ありがとうございます」

高階は美都の手に触れた拍子に何か勘付いたように一瞬目を見開いた。その事に気付く事なく礼を伝え立ち上がると、突然現れた彼に驚いて疑問を投げかける。

「……あれ? 先生ピアノを弾いてたはずじゃあ……」

「そうだったんですが…弾き終わったあとたまたま窓を覗いたら、うずくまっている君が見えたので。様子を見に来たんです」

「! す、すみません……演奏の手を留めてしまって……!」

愛の夢が始まったあたりまでは記憶にある。そこからどんどんと微睡へ落ちていったようだ。

恥ずかしさと申し訳なさが同時に生まれ思わず高階に頭を垂れた。

「僕の事は気にしないでください。それよりも……大丈夫ですか? 具合でも──」

「あ、えっと──先生のピアノが心地よくて、つい」

彼の言葉を遮り、笑顔で応える。互いに背を向けていたので完全に油断していた。これ以上心配してもらうわけにはいかない、と美都は平静を装う。

「そう、ですか──……」

「──先生? 今日はもうおしまいですか?」

律は少しの間黙り込むように硬直していたが美都の問いでハッと我に返った。

「そうですね。僕も、今日は調子が良くないみたいで……」

「え? 大丈夫ですか……?」

「演奏の、ですから。月代さんはいつからここに?」

心配する美都にすかさずフォローを入れ、質問を返す。すると今度は彼女が記憶を辿るように視線を上に彷徨わせた。

「えっと『月の光』の途中です。『愛の夢』が始まったあたりは憶えてるんですけど……」

「ならよかった。そんなに時間は経ってませんね」

「え?」

その返答に高階は安堵の息を漏らした。美都は不思議そうに疑問符を呟く。

「ここは冷えますから。長い時間いると身体によくありません。今日は曇っていて陽もいつもより届きませんし」

高階は美都がもたれかかっていた窓ガラス越しに厚い曇で覆われている空を眺めた。その目線につられて美都も軽く振り返る。

11月の空は、乾燥した風を吹かせ始めている。秋晴れなんていう言葉も今日だけは通じないようだ。

不意に渡り廊下の窓から下を眺めるとちょうど生徒らが登校する時間のピークの様だった。静かだった校舎から、ところどころ声が聞こえ始めていることに気付く。

高階もそれに勘付き、美都に声をかけた。

「……少しだけ、待っていてもらえますか? ピアノを片してきます。下まで一緒に行きましょう」

「あ、はい……!」

美都の返事を聞くと高階は柔らかく微笑み、音楽室へ踵を返した。その姿を見送り美都は再び窓ガラスの向こうに視線を戻す。まもなく彼が音楽室に入ってくるのが見えた。手際よくグランドピアノを仕舞っていく。

美都はその様子をぼんやりと見つめながら窓に手をあて先程のことを考えて始めた。高階の言い方だと、『愛の夢』の演奏が終わってからそう経っていないようだ。しかし、感覚的には相当長い時間に思えた。

(あれは何だったんだろう……)

暗闇の世界。水面に映る黒髪の女性。

目が覚めてから、あれが本当に巴だったのか疑問に思い始める。必死に何かを訴えようとしていた。しかしそれが叶わなかったからなのか、彼女は最後には俯いてしまったのだ。

窓ガラスに額をつけて目を閉じる。ガラスの表面温度が頭を冷やしてくれるようだ。

(……あなたは誰? わたしに何を言いたかったの?)

しかしもうあの景色は見えない。悲しそうに俯く姿が、過去の映像と重なる。

思わず窓に当てていた手を強く握りしめた。

すると程なくして音楽室の扉の開閉音が聞こえた。その音に反応するように閉じていた目を開き高階の姿を確認する。腕に楽譜集を抱え、美都のいる場所へ向かってきた。

「お待たせしました。行きましょうか」

その声に短く返事をし、彼に促されて教室方面へ共に歩き始める。

高階は美都たちの学校に赴任して2年目だ。その整った容姿とまだ26歳という年齢から、女子生徒からの人気は高い。どんな相手であれ敬語を外さないのは彼のスタイルなのだろう。

美都とは音楽の授業くらいしか接点が無いものの、業後に良く話しをしているせいか何となく懇意にしてくれている。クラシックには詳しくなかったが、彼が不意に弾き始めた『愛の夢』をきっかけに係の仕事も相まって親しくなったのだ。

高階にとっては中学生でクラシックに興味があるというのが珍しかったのだろう。

以降さまざまな曲を教えてくれ、それが現在にも続いている。癒しの時間だ。

階段を下りながらそういえば、と思い高階に疑問を投げかける。

「どうして、『月の光』だったんですか?」

「え? あぁ……そうですね──」

唐突な問いかけに言葉を探すようにして高階は一瞬間を置いた。

「なんとなく頭に浮かんで。まさか君が聴いているとは思いませんでしたけど」

想定外の出来事に苦笑混じりで答える。まさか弾く前に考えていた人物がいるとは思わないだろう。

美都はその答えを上手く咀嚼出来ずに少しだけ首を傾げたが、先程の音を脳内に呼び起こし溌剌と応じた。

「すごく素敵でした! 早く来てよかったな」

「そういえば、今日はどうしてこんなに早く学校へ?」

深く考えずに早く学校に着いたことを零し、それをおもむろに拾われてしまった。内心しまったと思うがごまかしようがなく口をまごつかせながら理由を紡いでいく。

「あー……えっと──昨日は眠れなくて、気付いたら朝で……」

「──何か、悩み事でも?」

「……────」

今度は美都が苦笑する番だった。心配してくれている高階に何と返せば良いのかわからなかった。

鍵のことも、守護者のことも、彼は知らない。巻き込むつもりもない。だが心から自分と向き合ってくれる高階に、何か隠し事をしているような後ろめたさがあった。

それでもこれは自分の問題だと言い聞かせる。

「……──何にも、ないですよ!」

美都はいつも通り笑顔を作る。

その返答が腑に落ちなかったのか、高階の表情は先程と変わらない。むしろひとつ息を吐いて、ちょうど降り立った踊り場で立ち止まった。

「月代さん」

律の声色と面持ちに、半歩後ろを歩いていた美都も足を留めた。

既に何人かの生徒とすれ違ったが、よほど真剣そうにみえるのか会釈だけで二人の横を通り過ぎていく。

「……君は、強くあろうと思いすぎてはいませんか?」

その鋭い言葉に、美都は息を呑み思わず硬直した。そのまま高階が話を続ける。

「僕は普段の君のことは詳しく知りません。ですが、話をしている内に妙な危なっかしさを感じていました。これが杞憂だったら良かったんですが……どうやらそうでもないみたいですし……」

そういうと彼は目下にある自分の右手と美都を交互に見比べた。彼女の手を取った際に感じた違和感。それについて高階は気付いていた。

「……ひとりで抱え込みすぎなのではないですか?」

真直ぐに刺さる視線に、美都は一瞬背けた。

そういえば以前水唯にも似たような事を言われたな、と過ぎし日を思い出す。「ひとりで抱えなくてはならないものなのか」と。その答えは今でも否であると思う。周りに相談する事だって出来るのだ。

少し俯き加減で、言葉を探すように口を小さく開閉させる。

「───……でも」

それでも。あの時とは状況が違う。立場が違う。抱えているものが、圧倒的に違う。

迷いながら、しかしそれは確固たる意志のもとに美都は言葉を発する。

「弱いままじゃ、何も守れないんです。わたしは──強くなきゃいけないんです」

喉を引き絞り、胸の前で手を強く握りしめる。それは高階に対してというよりも自身に言い聞かせるように語気を強めた。

強くなければいけない。強くならなくてはいけない。守護者なら。所有者なら。誰かを守る為なら。それでみんなが傷付かずに済むのなら。弱さは何も生まない。そしてそんな姿はきっと誰も期待していない。

皆が好きなのは”聞き分けの良い美都”なはずだから。

「──それが、みんながわたしに対して望んでる『わたしらしさ』なんです」

目を瞑った後、平静を装うように普段通りに振る舞う。彼女の表情はいつも通りの笑顔が戻っていた。

高階はその回答に、目を見開く。そして困惑気味に口を開いた。

「……──君は、一体何と……」

その瞬間、階段下で美都の名前が大きく呼ばれた。登校してきたクラスメイトが彼女を見つけ、声をかけたようだ。

高階の言葉は遮られた。美都も上半身を捻って、クラスメイトに「すぐ行く」と呼応する。質問を続けることはしなかった。なぜならそれを聞いたところで、おそらく美都はまた今のような反応をするだろうと考えたからだ。

堂々巡りだ。そう思い高階は口を噤んだ。

「それじゃあ先生。ありがとうございました」

再び向かい合い、美都は深々と高階に頭を垂れる。

「……えぇ。──月代さん」

そのまま彼女が階段を降りようと向きを変えたところを、後ろ髪引かれる思いで引き留めた。

「あまり……無理はしないでくださいね」

「……はい! 失礼します」

美都は一瞬振り返り、その言葉を間も無く反芻して笑顔で返した。

クラスメイトのもとへ駆け寄っていく彼女の後ろ姿を見ながら高階はまた考える。

その姿は、周りの生徒たちとなんら変わらない年相応に見える。しかし先程の表情は、おおよそ年齢に釣り合うものではなかった。

彼女はおそらく無自覚のうちに、仮面を被ってしまっている。それが彼女の中で当たり前になっているのだ。その当たり前が独り歩きをしている。

(教師としてあれで正しかったのだろうか)

高階は自分の手を見ながら自問自答を繰り返す。

立ち上がらせる際に握った美都の手は熱を帯びていた。強引にでも追及するべきだったのか考えてしまう。

彼女は自分の事に無頓着だ。何が彼女をそうさせるのかはわからない。少しでも、と思い釘を刺したつもりだが別れ際の一言は気休めにもならないだろう。

「──……」

高階は少し長めの息を吐いた。そしてそのままゆっくりと階段を下りる。

お節介だとは思うが、担任である羽鳥には報告しておくべきだろう。

美都のことですっかりいっぱいになってしまったが、結局自分の事も解決していない。

やはり似ているのかもしれないな、と思いながらすれ違う生徒たちと挨拶を交わしつつ、職員室へ向かった。




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