朝靄と白い月
また、泣いてる。
ねえこっちを見て。わたしここにいるよ。
だから笑って。
どこにいくの。
わかった。
じゃあわたし、
──── いい子で待ってるね。
「……っ!」
咄嗟に目を覚ました。瞬間、暗闇に戸惑うが目が慣れてくると自室だという事を理解する。
11月も下旬に差し掛かった。乾いた空気が部屋を包んでいたが、美都の額には数滴の雫が浮かんでいる。雑然とそれを手の甲で拭って上半身を起こした。やっと眠りにつけたかと思えばすぐに目が覚めてしまう。これで三度目だ。
加えて今回は、眠りが浅かったのか夢を見ていた。あの頃の夢。
頭が重く、酷くだるい。持続した睡眠が出来ていないのだから当たり前だ。しかし再び眠りにつこうとしてもすぐに目が覚めてしまう気がして最早目を閉じる気にはなれなかった。
床に足をつけ、ベッドに腰掛ける。壁の時計を確認すると5時を回るところだ。窓を見るがまだ朝日は射していない。起きたはいいが何もすることがなかった。このまま夜明けを待つことになるのか、と肩を落とす。
ふと、夜間モードにしていたスマートフォンを手に取る。昨日付でメッセージが届いていたことに気付いた。差出人は円佳だった。
【進路はどうするの?】
間もなく期末考査が始まる。終わればすぐ三者面談が開かれることになっている。そこで受験生は各々の進路をほぼ確定させるのだ。それを見越しての連絡だろう。
いきなり現実に戻された気がした。
確かに周囲ではそういう話になることが多くなってきた。その度に密かに頭を抱えている。
(……私のやりたい事ってなんだろう)
友人の中にはもう明確な将来のビジョンを持っている者もいる。目を輝かせながら夢を語る彼女達に、ただただ尊敬の念を感じていた。しかし同時にそんな友人たちを見ると、心がたじろいでしまう自分もいる。
以前、担任である羽鳥にこの事を相談したことがある。
『あんたたちの年齢で、将来やりたいことが決まっている事の方が珍しいよ。やりたいことなんてこれから出てくるもんだ。だから今は勉強しときな』
その時はその言葉でだいぶ考え方が楽になった。だが、今は選択をしなければいけない時だ。
スマートフォンを握りしめたまま、じっと考える。
(わたしには、何も無いな……)
やりたいこと。得意なこと。自分で自分に個性を感じられない。
何も知らない守護者でいた頃は、誰かを守れるのだと驕っていた。それが自分にできる事だと。自分にしかできない事だと。
しかし結果的に、鍵の所有者は自分だった。大切な人を守れると思っていた自分の、ただちっぽけな自尊心を満たすだけの行為だったのだ。
「──…………」
これ以上は堂々巡りだ。きっと考えても答えは出ない。一息吐いて円佳への返信を打ち始めた。
【進学を予定してます】
短絡的な文章だ。敢えて詳細は書かずに送った。
(円佳さん、怒ってるよね……)
と言うのも、ここ数ヶ月まともに帰っていない。誕生日に電話する、という約束さえ反故にしたままだ。それについても後ろめたさを感じている。
何かあれば連絡しなさい、と送り出されたのでいつでも連絡は取れる状態ではある。しかし、迷惑も心配もかけたくなかった。だから自分からはほとんど連絡しなかったのだ。
今まで甘えさせてもらっていた。良い機会だと思った。和真には揶揄されたが、彼に言った事は本心だ。
今帰るわけにはいかない。甘えてしまうのは明白なのだから。
────しっかりしなきゃ。
心で一度強く自分に言い聞かせる。外もうっすらと灰色になり始めていた。
握っていたスマートフォンをベッドに手放して無造作に立ち上がり、美都はゆっくりと洗面所へ向かった。
◇
時刻は7時前。ぼんやりとした朝焼けが、リビングを照らし始める頃だ。
美都は二人に気づかれないよう静かに玄関の扉を閉めた。
「…………」
起きてから早々に身支度を終えてしまった。倦怠感が残った身体には、食欲が湧くはずもない。出来合いのカフェオレをマグカップに注ぎ電子レンジでひと肌まで温めた後、少しずつ身体に流し込んだ。食事当番で無いのが幸いだった。この状態ではまともなものが作れない。特にやる事も無かったので、テーブルの上に書き置きを残し早めに学校に向かう事にしたのだ。
────わたしは……逃げてるのかな。
鍵をかけながら、不意に頭を過る。このままで良い訳がないと思いながらも、まだ昨日のことを引きずっている自分がいることに気付いていた。
四季とはまだ、なんとなく顔を合わせづらい。もしかしたら彼はもういつも通りかもしれない。しかし、あの時明確な返答をしなかったことで四季は怒ったのだ。昨日水唯とは話し合いで見抜かれてしまったが四季には言えないままになっている。
自分本位な考え方だとは分かっているつもりだ。だからこそ、四季には正直に話すことができない。
玄関の扉に背中をつけたまま溜め息をついた。鉄の冷たさを制服ごしに感じる。
その時、すぐ隣で玄関の鍵が開く音がした。ドキッとして慌てて姿勢を整える。すると周囲を気遣うように小声で会話をしながら瑛久と弥生が出てきた。
「──じゃあ今日は遅くなる……あれ、美都ちゃん」
「あら、おはよう」
「弥生ちゃん、瑛久さん。おはようございます」
先に出てきた瑛久が美都の存在に気づき、弥生も続けて顔を出した。美都も二人を見て朝の挨拶を交わす。
「今日は早いのね」
「あ……えっと、学校で勉強しようかなって」
「え、ひとりで? ……大丈夫なの?」
四季と言い合いになった事は伝えづらく、苦し紛れに理由をつけてみたがさすがに普段とは違う雰囲気を感じ取ったらしい。
弥生も瑛久も、美都が鍵の所有者だということを知っている。加えて先日赴任してきたカウンセラーの存在も。そのせいで安全面から最近は同居する二人と共に行動していると報告済みだった。だから違和感があって当然だ。
「……大丈夫だよ。わたしはひとりでも」
「──……」
美都は言葉を詰まらせながらも、努めて普段通りに笑顔を作った。
逆にそれが引っ掛かったのだろう。弥生はすぐに美都の危うさに不安を覚え、それが無意識に顔に現れた。
「──美都ちゃん、一緒に行こうか。途中まで同じ方向だし」
するとすかさず瑛久が美都に声をかける。恐らく双方の表情からそれが最適だと判断したのだ。美都も弥生も、その提案に思わず面食らう。
「え、あ……はい」
「先にエレベータまで行っててくれる? すぐ追いつくから」
美都は少し戸惑ったが断る理由も無い──むしろ善意での申し出だと感じた──為、彼の提案に頷いた。当の瑛久は弥生とまだ話す事があるのか、美都に先に行くよう促す。
「じゃあ弥生ちゃん……行ってきます」
「──行ってらっしゃい。気を付けてね」
いつも通りに弥生に声をかけ、美都はひとりエレベータの方へ歩き出した。
そんな美都を目で追いかけるように、弥生は彼女の小柄な背中を見つめる。すると見かねた瑛久が、浅い溜め息を吐いて弥生の頭を軽く小突いた。
「!」
「お前がそんな顔してたら、あの子も強がるしかなくなるだろ」
「それはわかってるけど……! でも──」
先程の美都の表情が頭に残したまま、反芻するように弥生は俯く。
「美都ちゃん……大丈夫かしら」
瑛久にも弥生の心配がわかったようで、苦い顔をして応える。
「……今日一日、保つかどうかだな」
上から降りかかるその言葉に、弥生は不安げに顔を上げ瑛久を見つめる。彼は総合診療の研修医だ。精神面もそうだが恐らく体調の方にも影響が出ている。そう感じ取ったようだ。
「とりあえず、今日はすぐ連絡が取れるようにしておいた方がいい」
「……うん」
再び目線を落とす。そんな弥生に、今度は優しく彼女の頭に手をのせた。
「しっかりしろよ。あの子は俺たちにとっても、守らなきゃいけない子なんだろ? 鍵の所有者としても、そうでなかったとしても」
「──……えぇ」
「……似てるな。お前とあの子」
瑛久からの評価に、思わず奥歯を噛み締める。美都の笑顔を脳裏に思い浮かべながら、弥生は首を横に振った。
「美都ちゃんの方が強いわ。私よりもずっと」
────あの子に、まだ伝えていないことがある。
事実を伝えてしまったら彼女の笑顔が崩れそうで怖いのだ。いつか話をしなければならないときが来るだろう。それまでは余計な情報を与えるべきではない。そう瑛久とも話し合った。
弥生の返答に、瑛久はそのまま彼女の頭を優しく撫でた。彼の手つきに呼応するようにまた顔を上げ、ふっと微笑む。その表情を見てひと時安心したのか、瑛久も笑みを返した。
「行ってくる」
「ん。いってらっしゃい」
そう交わすと、瑛久は美都を追うようにエレベータの方へ向かっていった。
彼を見送り、弥生は玄関の扉をそっと閉める。そして扉を背に考えた。
今の自分に出来ることはなんだろうか。鍵の守護者だった頃の力は、あまり残っていない。それでもこの間のようにこの力を必要とされるときが来るのだろう。瑛久もそれを理解している。
鍵の所有者を守護する。それが守護者の務めだ。当時その対象がいなかった自分たちにとって、それが今なのだろう。
美都は大切な存在だ。自分に出来ることならばなんだってする。ただ、この気持ちに後ろめたさが無いといえば嘘になる。
「──……ばかね、私」
本当のことを知っても、美都はきっと自分を咎めないだろう。あの子はそういう子だ。だから、強く眩しく見えてしまう。あの少女の優しさに甘えてしまっていることを、もっと自覚しなければならない。
(……あなたも、こんな気持ちだったの?)
「──……」
声にならない言葉を呟く。優しさは、時に残酷だ。不意に胸元の守護者の証である指輪に触れる。
弥生は首を横に振り、その場で大きく深呼吸してリビングへ向かった。
◇
美都はいつも通り靴箱で上履きに履き替え、教室へと歩く。
この時間の校舎は驚くほど静かだ。8時を過ぎれば自主学習のため教室にもちらほらと生徒が登校してくるが、さすがに早すぎたのかどのクラスにも人がいない。加えて考査前ということも重なり、部活動の朝練も行われていないこともこの静寂の要因の一つだろう。
瑛久は結局そのまま学校まで送ってくれた。
途中まで、という話だったのでもちろん遠慮はしたが思いがけず会話が途切れなかったので申し出に甘えることにした。気を遣ってくれたのだろう。しかし、道中様々なことについて話を聞く事ができた。進路を決めたきっかけや瑛久と弥生が守護者だったときの話など。普段あまり深い話をしなかったので互いに新鮮だった。
『本当に一人で大丈夫?』
『大丈夫です。今日は例の先生も勤務の日ではないので。ありがとうございます、瑛久さん』
『ならいいけど……あまり無理はしないようにね。あと、これ』
別れ際に、瑛久は鞄から錠剤を取り出して美都に手渡した。胃が荒れるから昼休みのあと飲むように、と一言添えて。
敢えて気付かないようにしていたが傍から見ても顔色が良くないようだ。心配させてしまったことに恐縮しつつ薬を受け取った。それでも気を紛らわすために学校に来たかった。
長い廊下を歩き、ようやく1番端の自分の教室に着く。やはり誰もいない。朝の教室はまるで静寂に包まれていた。
鞄を机の上に雑然と置き、自分の席に腰掛ける。鞄を抱えるようにしてうつ伏せになった。
間も無くうとうととし始める。今頃になって睡魔がやってきた。深夜あれだけ頻繁に起きていたため当然だろう。
このまま眠りに入ろうとした美都の耳に、微かに旋律が聞こえてきた。
「──……!」
ピアノの音だ。そう思って飛び起きた。日中であれば音楽室からの音は届かない。というのも、美都たちの教室と音楽室は別校舎の両端だからだ。対角線といっても良いだろう。この時間は人もおらず、遮るものがない。朝の澄んだ空気が音を伝えてくれているのだ。
その音に導かれるように、半ば無意識に席を立って教室を出た。靴箱への廊下を戻り、校舎の中央の階段を昇る。聴こえるのはピアノの音と自分の上靴の音だけだ。
だんだんと近づく旋律に、頭の中で曲名が思い出される。
──── 月の光だ。
クラシックに特別詳しいわけではない。音の違いがわかるわけでもない。それでもこの曲を奏でている人物はすぐにわかった。
特に急いで歩いているわけでもないのに息が上がる。やっとのことで4階に辿り着き、その荒い息のまま音楽室がある向かいの校舎を目指した。
なぜこんなに気持ちが逸っているのか自分でもよくわからない。ただ耳をなぞるその音が何となく懐かしい感じがした。
(あ……!)
二つの校舎を結ぶガラス張りの渡り廊下に着き、そこから奏者の姿が確認できた。
(やっぱり、高階先生だ)
後ろ姿に近いが、窓際に置いてあるピアノに向かっているのは美都が思った通り高階律であった。ガラス越しに彼の姿を見つめる。
高階が奏でる音は、とても繊細だ。優しい性格が滲み出ているようにも思える。加えて曲の印象もあるだろう。それが心地よいのかもしれない。今の自分に寄り添ってくれているような音のように感じた。
旋律を背にして渡り廊下の冷たいガラス窓にもたれかかった。普段なら朝陽が昇れば、直射日光となる場所だが今日は生憎曇天だ。雨が降る気配はないが雲が分厚い層になっている。その雲に遮られながら控えめに届く日の光が、背を暖めてくれた。
顔を上げると向かいの窓の向こうに、厚い雲の隙間から白い月が窺えた。その様子に目を細める。
(──月の光、か……)
耳に溶け込む音を感じながら、不意に授業で教わったことを思い出した。
月は、自身が発光しているわけではなく太陽の光を受けて輝いているのだという。だからこそ月の光は儚く感じるのだ、と。陽の光が届かなければ、月は輝くことができない。
(……似てるな)
今の状況に。空に浮かぶ白い月は、厚い雲に覆われている。陽が落ちていないので光らないのは当たり前だがそれにしてもだ。
(透明な存在みたい)
確かにそこにあるはずなのに、誰にも見えていないような。
────わたしもそうなれたらいいのに。
そうすれば誰にも迷惑をかけずに済むだろうか。
美都はゆっくりと項垂れた。一度大きく息を吐く。
ずっと立っているのも疲れてきたため、ガラス窓にもたれかかったままずるずるとしゃがみ込んだ。
両膝を抱えるようにして背を丸めた。その間もピアノは鳴り続け、繊細な旋律が微睡へ誘う。
間もなく曲が終わる。そろそろ一般生徒も登校してくる時間だろう。誰かに見つかるまではここで静かにしていたい。教室に戻ればいつも通りの「美都」になるから。
だから今だけはここで。ひとりで。
(……あ)
ゆっくりと曲が終わる音がした。同時に新しい旋律が流れ始める。徐々に重たくなる瞼の向こうで、耳を優しく包む音を聞いた。
「……愛の夢だ」
ぽつりと曲名を呟く。初めて高階に弾いてもらった曲だ。彼の奏でる音楽はとても心地よい。
心に沁み渡る音色に包まれながら、美都はそのまま静かに目を閉じた。




