すれ違いの先に
三人はそのまま帰路に着く。退魔を終えた後の教室はほとんどクラスメイトも残っておらず校舎も閑散としていた。各々考えることがあったのか帰り道ではほとんど会話らしい会話をしていない。美都はただ傾きかけた夕陽を見て「もうすぐ黄昏時だな」とぼんやり考えながら伸びる影を見つめていた。
自宅に着き玄関の鍵を開ける。重い鉄製の扉が鈍い音を立てながら閉まっていった。夕暮れが近づくと途端に空気が冷えてくる。それは外も室内も同じ事だった。まして自分たちが帰宅するまで動くことのない部屋の空気はすっかり重たくなっていた。
今日は食事当番ではない。リビングに長居は無用だと考え美都はそのまま自室へ戻ろうとした。
「お前──なんだあれは」
「──……え?」
進みかけた足を留め、美都は振り返る。
普段とは明らかに違う四季の声。その声は怒りをはらんでいるようにも聞こえた。
「──なにが?」
振り向いて確認した四季の表情を見て、冷静にその意味を問う。彼は眉根を顰めて憤りを静かに抑えていた。
「さっきの……なんで一人で突っ込んでいった。なんで俺たちを待たなかったんだ」
さっきの、というのは先程の戦いのことだろう。脳裏に数刻前のことを思い浮かべる。彼が言いたいことはなんと無く分かっていた。心を落ち着けて理由を口にしていく。
「わたししか手が空いてなかったでしょ?」
「俺は待てって言ったはずだ」
四季は別の敵と対峙しており、水唯は襲われた生徒を介抱している状況だ。大本を叩けるのは確かに自分だけであった。いつもであれば自分は宿り魔の前に立たない。そう指示が出ているから。しかし今日に限ってはそうしなかったことを四季は怒っているようだ。
こんな言い合い無意味だと考えて「そうだね、ごめん。次は気をつけるね」で終わらせようとした。しかしなぜかこの時はその言葉が心に落ちなかった。だから彼に言い訳してしまったのだ。
「あのときは、ああするしかなかったよ」
「そういう話じゃない! 最終的な狙いはお前なんだぞ! それがわかってなかったわけじゃないだろ⁉︎」
言い訳が癪に障ったのか、四季が声を荒らげ美都に詰め寄った。会話はだんだんとヒートアップしていく。
「でも結果的に何事もなかったじゃない」
「過程の問題だ! お前は自分が鍵の所有者だってことがわかってんのか!」
「わかってるよ」
「だったらなんであんな行動をした! 自覚がたりないだろうが!」
「……────」
美都は小さく手を握りしめた。四季から降りかかる言葉が胸に上手く落とせない。それどころか反発心にも似た感情が喉元まで出かかっている。それでも自らを制しようとグッと喉を引き絞っていた。しかし。
「お前が勝手に動くことで、守れるものも守れなくなるんだぞ!」
「っ──! ……わたしは!」
それまで冷静を保っていたがとうとう堪えきれなくなった。もはや止めることが出来ない。感情を露わにして目の前にいる四季に言葉をぶつける他なかった。
「わたしは鍵の所有者である前に、鍵の守護者だもん! わたし一人でも戦える……!」
「……っんだよ、それ──!」
美都の反論に一瞬虚を突かれた四季だったが、彼女の言葉尻に思うところがあったようだ。更に表情を険しくし横にある壁を拳で強く叩く。ダンッという重い音に美都は一瞬肩を竦めたが、四季に向かう姿勢は変えなかった。
事の成り行きを静観していた水唯がさすがにまずいと思ったのか止めに入る。
「やめろ二人とも──……!」
「なら俺らは必要ないってことか⁉︎ 最近のお前の態度はそういうことかよ⁉︎」
水唯の制止を聞かず、畳み掛けるように四季が言葉を放つ。
先程の出来事で胸の中にある靄が何なのかはっきりとした。美都の態度だ。妙によそよそしく、いつも以上に平常心を装おうとしていたのだと感じ取った。まるで自分たちと距離を置きたがっているかのようで。
思い当たる節があったのか美都は一瞬目を見開いて身を屈めた。何か言いたげに口を開閉させた後、言葉を探すようにして視線を下に落とす。
「──四季には……わかんないよ……!」
美都は手のひらを強く握りしめ俯いた。顔を歪ませて喉の奥から声を絞り出す。
その返答が更に四季を苛立たせた。まるで自分には話したくないという意思表示のようだと。
「……っわかるかよ! 言われなきゃ……わかんねぇだろ!」
責め立てるように四季が美都に食いつく。突き放されたように感じてしまった。それが腑に落ちなかったのだ。不意に強い言葉が口から出る。
見かねた水唯が無理やり二人の間に割って入った。
「もうやめろ! 四季、いい加減にしろ……!」
「──……っ!」
水唯が美都に背を向け、庇うような形で四季と向きあった。二回目の制御はさすがに効いたのか、四季が一瞬声を詰まらせる。
居た堪れなくなったのか、直後美都が俯きながら二人の横を小走りで駆け抜けた。
「──どこ行く気だ!」
素早く反応した四季は、振り向きながら美都に詰問する。その声で美都は足を留めたが、背にしている少年らに身体の向きは変えなかった。
「っ……ひとりにさせて」
模索して、なんとか言葉を捻り出したようだ。
美都の向かう先には玄関しかないことを察知し、四季は短絡的に感じた彼女の行動にまた声を荒げる。
「今の話聞いてなかったのかよ!」
「遠くへは行かないよ! ──目の前の公園に、いるから……っ」
すぐさま美都が反論する。投げられた言葉の真意を理解しているからこその、彼女なりの最大の譲歩だ。そしてそのまま振り返ることなく、パタパタと玄関を飛び出した。
更に四季が噛みつこうとしたところ、彼の背後に位置していた水唯から肩と腕を強く引かれ留められる。制止させられたことに反発しようと軽く振り向いたところ、水唯が首を横に振った。その冷静な表情を見てグッと喉を引き絞る。
美都が走り去るのを見送ったあと、一拍置いて水唯が四季を窘めた。
「言い過ぎだ」
「……っあいつが何も言わないからだろ」
対峙していた者の姿が見えなくなったからなのか、はたまた話す相手が水唯に代わったからなのか、四季も少しずつ血の気が引いてきたようだ。
「お前の気持ちもわからなくはないが、やり方が違うだろう」
「……だけど!」
「今一番辛いのは彼女だぞ。それをお前まで追い込んでどうする」
「──……っ」
水唯に咎められて、先程の自分が感情のまま口に出したことを省みた。思い切り叩いた拳が今になってじんじんと痛み始める。痛みにさえ責められているようだ。美都の表情が脳裏に焼き付いている。苦しそうに、悔しそうに顔を歪ませていた。彼女があれ程感情を露わにするのは珍しい。それ程彼女にとっても譲れない事象だったのだと思い知る。
短絡的なのは自分だと。もう少し冷静になって寄り添えたらよかったのか、と過ぎたことを少しだけ悔やんだ。だが納得出来ない事も確かだ。今はこの想いに折り合いをつけることが難しい。
その様子を見ていた水唯は軽く溜息をつき踵を返す。
「お前も、少し頭を冷やせ。彼女は俺が見てるから」
「──……ごめん」
四季の謝罪を聞いて今度は呆れたように息を吐いた。
「その言葉は俺じゃなくて、美都に言うべきだろ」
そう言うと水唯はそのまま玄関へ向かい美都の後を追って家を後にした。
◇
一連の出来事の後家を飛び出した美都は、宣言通りマンションの目の前にある公園にいた。
「…………」
ブランコに座り俯きながら、先程の出来事を思い返す。
脳裏に思い出される単語も、会話も、そのすべてに苦い顔をするほかなかった。
ああするしかなかったのか、それともちゃんと話すべきだったのか。しばらく自問自答を繰り返していた。
ふと無意識に口が動いた。その唇からたどたどしく旋律が刻まれ始める。旋律というよりも呟きに近い。
その曲は昔から何か考えることがあると不意に口ずさんでいるものであった。曲名も、歌っている人も知らない。それでも物心ついたときから自然とその歌が体に沁み込んでいた。
呟きは途切れ途切れになる。その間もずっと先程のことが頭から離れない。ひたすらに自省の時間だった。
「──美都?」
不意に名をなぞられハッと顔を上げる。ここにいることが意外な人物だったことに驚き美都も彼の名前を呼び返した。
「和真……!」
「何やってんだ、こんなところで」
声の人物は幼馴染みの和真であった。今日も学校で顔を合わせている。美都が驚いたのには理由があった。
「和真こそどうしてここに? 通り道じゃないでしょ?」
「秀多んち行ってたんだよ。で、帰ろうとしたらお前っぽいのが見えたから」
「そっか……」
何事もなく話しかけてきた和真に、少しだけ罪悪感のようなものを覚え顔を背けた。実のところここ最近は彼ともまともに会話をしていない。特に和真は鋭いので気付かれないようにしていたのだ。それに甘えてばかりもいられない、と俄かに自立心のようなものを感じていた。だがそんなこと彼には無意味だったようだ。
「何かあったんだろ?」
「──……なんで?」
まるで何かがあった前提で話し始める和真に、一旦間をおいて訊き返す。
彼はそのまま美都の横で揺られていたもう一つのブランコに腰を下ろした。
「だってお前、なんか悩んだり考えたりするとだいたいブランコにいるじゃん」
「! ……やだな、幼馴染みって」
図星をつかれて、美都は軽く息を吐いた。やはり彼は鋭い。もちろん幼馴染みだからというのもあるのだろうが、それを差し置いても良く見ているなと感心する。
すると続けざまに和真が発した言葉に更に眉を顰めることとなった。
「そう言うなって。なんだ、とうとう四季とケンカでもしたのか?」
「……そんなに、わかりやすい?」
「うわー当たりかよ」
また芯を捕えられて思わずしかめっ面になる。当の本人は半ば憶測で口にしたものが当たってしまい何とも渋い顔を浮かべていた。
「でも珍しいじゃん。ってか初めてなんじゃねぇ? お前が誰かとガチのケンカなんて」
「……うん。ケンカ、っていうか意見の食い違いっていうか……」
「ふーん」
美都はまた俯きがちになり、その顔に影を落とした。先程のことを思い返しては苦しくなる。胸の内で己を責めた。自業自得だと。
ブランコの鎖を強く握りしめ呟く。
「──……『守りたいもの』と『守らなきゃいけないもの』。なにが大切か……わからなくなってきちゃった」
苦しそうに笑みを浮かべた。考えても考えても正解にたどり着かない。こんな中途半端な自分にも呆れてしまう。
美都のその横顔を見て、和真も先程より真剣な面持ちで口を挟んだ。
「……よくわかんねーけど、その両方を守るんじゃだめなのか?」
「わたしも出来るならそうしたい。ううん、本当はそうしなきゃいけない。でも……」
その後に続くはずの言葉を噤んだ。口にしてしまったら自分の弱さを認めてしまうことになりそうで。
代わりの表現を探し、何とか文章を繋げようと美都は顔を顰めた。
「──『守るもの』の代価は、最小限でいいと思うから」
様々な考えが頭の中を駆け巡る。それは所有者でありながら守護者としての使命を持つ、美都の想いだった。
和真は難しそうな顔で頭を掻くと浅く息を吐いて彼女に応じる。
「話の筋は全然見えねーけど、……なんとなくお前が深刻な問題を抱えてんのはわかった」
美都は一瞬ハッとする。こんなこと彼に話すべきではなかったのに、とすぐさまフォローの言葉を添えた。
「あっごめん。独り言だと思ってくれていいから」
「今更かよ。……お前さ、”あの事”四季たちに話さないのか?」
「──!」
和真が口にした『あの事』という抽象的な単語に美都は瞬時に反応する。それは幼馴染みの彼だから知っている限られた共通の認識だ。その提案を咀嚼して反芻してみたがやはり答えとしては。
「……言えないよ。凛にも話してないのに。それに──」
首を横に振りながら、その話の要因となることを目の奥に浮かべた。
「これ以上、余計な負担を増やしたくない」
ただでさえ今、守ってもらっている立場なのだ。その現状でさえ良しとはしていない。それなのに更に甘えることは出来ない。したくない。そう考えた。
それは美都の強い想いだった。
「知ってるのと知らないのとじゃ、全然違うんじゃねぇ?」
「そうかもしれないけど……結局は私自身の問題だから。知ったところで気を遣わせるだけだもん」
「……そうか」
和真はただ第三者の立場で説得してくれているのかもしれない。それでもこれは自身の問題だ。彼の提案に悉く否を出してしまうのは忍びないが、どう考えても今は肯定に転じることはない。
彼は彼で美都の気持ちを汲んだようだ。事情を知っている分だけ理解も早いのだろう。しかしまだ難しい顔を覗かせている。
「頑固なところは変わんねーな、昔から」
「そう、かな……?」
意固地さに呆れて溜め息をつく和真に、美都は不本意そうに返事をする。自分を頑固だと評する人間は少ない。あまり耳馴染みの無い単語に思わず口籠もった。
「そうだろ。……ったく、ちょっと待ってろ」
改めて肯定すると和真はブランコから腰を上げ、おもむろに公園の入り口付近へと歩いていった。ガコンという音を遠くで聞いた後、彼が片手に缶を持って戻ってくる。
「ほらよ」
「え? あっ! ──冷たっ……!」
和真は声をかけながら持っていた缶を美都に投げるように渡す。なんとかそれをキャッチしたものの、季節を無視するような缶の冷たさに美都は驚いて声をあげた。
「しょうがねーだろ、冷たいのしかなかったんだから」
「……! ココア……」
「お前は昔っから考え込む性格だからな。とりあえずそれ飲んで頭リセットしろよ」
そう言うと今度は美都の正面となるように、ブランコを囲う鉄製のパイプに腰かけた。
和真なりの気遣いらしい。幼馴染みだけあって好みをよく把握している。
可笑しな話だ。渡された缶は物理的にはとても冷えている。それでもそこに温もりがあるように感じた。美都は手にしたココアを見つめながらふっと息を吐いた。
「……うん。ありがと、和真。ちょっと楽になった」
「おう。じゃ、帰るかな」
彼がゆっくりと立ち上がるのを見て、美都も座っていたブランコから腰を浮かせる。歩き出そうとした瞬間、和真が思い出したように言葉を放った。
「あー。そういやおふくろが心配してたぜ」
「多加江さんが?」
「もうな、『美都ちゃん元気かしら〜』ってここ毎日な。俺に聞こえるようにわざわざな? お前しばらく帰ってねーだろ」
呆れと疲れと諦めが混じり合ったような感情と表情で和真が渋い顔を浮かべる。
美都の脳裏には今話題に出た彼の母親である多加江、そして何となく円佳の姿が思い出された。多加江と円佳は所謂幼馴染みで、その関係で和真と美都も必然的に近しい場所にいたのだ。中原家が男兄弟ということもあり、多加江も美都のことを娘のように接してくれた。
無論、会いたくないわけではない。むしろその逆だ。しかし現状を鑑みるとそう簡単に行動に移すことは出来ない。迷惑を掛けるのは当然だとして何よりも。
「だって今帰ったら、……絶対甘えちゃうもん」
「お前なあ」
更に呆れたように溜め息をついた。そして不意に美都に近づき、右手の指で輪を作るとそのまま額に向かって弾いた。
「いっ……!」
威力的には弱かったものの予期せぬデコピンを食らった美都は、思わず額をおさえ目を瞬かせた。
「頑固なのもほどほどにしとけよ。でないと愛理にチクるぞ」
「ご、ごめんなさい……」
不意に飛び出した愛理の名前に肩を竦める。愛理には弱い。幼い頃から姉妹のように面倒を見てくれたせいか同い年でありながら然も姉のように感じているからかもしれない。特にこの間一時海外から帰ってきたとき、四季とのことで迷惑をかけたばかりだ。それが拗れたと聞いたら海外から飛んで帰ってくるだろう。
「まあ、いろいろ理由があんだろ。落ち着いてからでいいんじゃね」
「……うん。ありがとう」
あまり深く理由を聞かずに察してくれる和真の想いが胸に沁みた。
それから他愛無い話をして公園の出入り口まで歩き、それぞれの帰路へ着く。というよりも彼は律儀にもマンションの下まで送ってくれた。もちろん公園からすぐだったので距離的には大したことは無いのだが。
和真の後ろ姿を見送りながら「幼い頃は同じ方向に帰っていたのにな」と不意に過ぎた日々を懐かしむ。
ここ半年で環境が目まぐるしく変わった。そして今も常に変化している。
(ありがとう……)
以前もう一人の幼馴染みに「変わりたくない」と叫んだことがあった。
変わっていくことが怖くて拒絶した。あの時だって結局のところ変わったのは自分が動いたからじゃない。ただ周囲の状況が変化しただけだ。
人も物も世界も、変わらないものなんてないのかもしれない。ようはその変化に上手く順応出来るかどうかなのだ。きっとこれからも恐らく。
「──……」
和真にもらったココアの缶をギュッと握り締める。
迷い、不安、苦悩。ずっと駆け巡っていて潰れそうだ。そういった折に触れた、不器用な優しさ。
もう戻る事の無いあの頃が、少しだけ愛おしく感じた。