ラ・カンパネラ
文化祭当日。そして新見が常勤として学校に来る最後の日でもある。
美都たちは基本的に教室での出店番の時はもちろん、他のクラスへ回る際も程近い距離にいるようにと計画を立てた。とは言っても目の届く範囲内だ。四六時中引っ付いているわけではない。なぜなら──。
「────いる?」
「いるいる! すみませーんっ!」
他クラス及び下級生たちが7組の出店を覗きに来る。もちろん客としてではあるが目的は明確だった。
「わー。すごく人気ー」
接客疲れからか乾いた声で春香が呟く。これには美都も苦笑いを浮かべる他なかった。なぜなら客の大半の目当ては少年二人にあったからだ。
「客寄せパンダの効果発揮しすぎだろ」
「こらこら」
同じく裏方を受け持っている和真がその光景を見てぼやいた。言い得て妙だとは思うが一旦彼を嗜める。とは言え四季と水唯の効果は絶大だった。おかげでひっきりなしに客がやってくる。
第一中学の文化祭は生徒主体のもので、完全に内輪だけで行われる。保護者でさえ参加することは無い。生徒達の自主性を尊重し、それを互いに称え合う場としているのだ。
「そういやお前さ──」
「ほら、今度は美都にお客さんだよ」
おもむろに和真が喋り出すのとほぼ同時に春香が視線を誘導した。見れば廊下の窓から凛が様子を窺っている。だがその前に彼の話の続きを聞くのが先かと考え美都は顔を向ける。
「何かあった?」
「いや、別に今話すようなことじゃねぇわ。凛とこ行ってこい」
「? うん、わかった」
小首を傾げた後、美都は小走りで凛の元へ駆けていった。二人のやりとりを見ていた春香がおもむろに和真に問いかける。
「何か気になることでもあるの、お兄ちゃん」
揶揄するような言い方に和真は思わず顔を引きつらせる。無論本当の兄妹では無いことは誰もがわかっていることだが幼馴染みとしての関係性がそうさせるのだ。
「割といつでも気にしてんだよ俺は」
「あらぁ、意外と妹離れ出来てないのね」
凛と会話をしている美都の後ろ姿を見遣る。春香に言ったことは事実だ。それは恐らく彼女自身に関することで懸念点があるからだろう、と和真は己でも考えている。
先日、母親がぼやいていることが美都についてだった。我が母ながら他所の娘のことを気に掛けすぎでは無いか、と思う時もある。しかし実際それは、隣の家で暮らす美都の伯母の話も聞いているかららしい。それを小耳に挟んでしまった。否、よく考えれば母親が自分に聞こえるように言っていたのだと思う。何も言われていないのに動く自分もお節介だな、と感じるところだが。
「で、何が気になるの?」
「あー……」
こう言うくらいなので春香から見た美都に変化はないのだろう。それとも自分が考え過ぎなのだろうか。だが今はまだ口出しする段階ではない気もするのだ。
「まぁ近況報告をな、愛理に」
すると「なるほどねぇ」とニヤついた顔で返される。あながち間違ってはいない。そろそろ美都の様子を報告しろと訴求される時期だ。美都自身からも連絡は取っているだろうが客観的な意見が愛理には必要なのだ。彼女もまた美都の事情を知っている数少ない人間なので気に掛けている。
(……まだ大丈夫か)
些細な変化でも分かるのは幼馴染みだからだ。そもそも美都は隠すのが巧い。時に仇となる程に。それを懸念している。だが現状なら気にしすぎる程でもない。自分が口出しせずとも四季が何とかしているだろうと言う考えを、和真は己の中に落とし込んだ。
一方、廊下の窓から顔を出した友人の元へ走っていった美都も互いに周囲を窺うようにして話し合っていた。凛からは特に変わったことは無いと言う報告だ。
「抜けられそうなの?」
「わたしはいいんだけど……二人がねー」
言いながらチラリと教室内を見渡す。四季と水唯はそれぞれ下級生の相手をしている。だが彼らも息つく暇なく接客しているため休憩しても良い頃合いだ。そのきっかけが何かあれば良いのだがと考えていた際、黒板の上に設置されているスピーカーから校内放送が流れ始めた。
『──ただいまより中庭で吹奏楽部の有志によるパフォーマンスが行われます。皆様ぜひご覧ください』
へぇ、と感嘆としていると近くにいた生徒が嬉々として足を向け始める。そこには付加価値の理由があった。
「高階先生がエレクトーン弾くんだって!」
「えー! 行かなきゃじゃん!」
何とも有益な情報を小耳に挟んでしまい思わず気持ちが疼いてしまった。高階が弾くことはもちろんだがそれがエレクトーンなのは更に気になるところだ。聞きに行きたい、という欲が強くなる。
いち早く美都の表情を察知した凛から声が掛かった。
「聴きに行きたいんでしょう?」
「う、……うん。ちょっとだけ行ってきちゃダメかな?」
落ち着かない様子で四季たちの様子を見たところちょうど気づいてくれたようだった。案内していた生徒に断りを入れて彼がこちらに向かってくる。
「今ちょうど水唯が休憩入るところだから連れてけよ」
「四季は?」
「あと10分はかかるだろうな」
はぁ、と重い溜め息を吐きながら一段落終えた水唯を手招きする。何も伝えていないのに四季は意図をすぐ理解してくれたようだ。
「聞いたら戻ってくるから。そしたら──みんなで一緒に回ろ?」
「──ん」
何となく彼を置いていってしまうことが気がかりだった。とは言えまだ仕事が残っているため手が離せないと四季自身が判断したのだ。だから水唯を護衛につけてくれたのだろう。最後の返事は渋々といった風にも聞こえた。
そのまま7組の教室から離れ中庭を目指すと既に奏者の近くは人で溢れていた。何とか人垣の隙間より顔を覗かせる。するとちょうど高階の姿が目に入る位置だった。
「みなさーん! 文化祭楽しんでますかー!」
吹奏楽部の代表が楽器を持ったまま観客に口上を始める。見ていた生徒たちから歓声が届いた。
「ゲストはなんと! 音楽の高階先生です! 本日は特別にエレクトーンで参加して下さいます!」
高らかに響く声に期待の寄せられた拍手が沸き起こった。大仰な紹介に高階は恐縮気味に肩を竦めている。
続いて代表の生徒からこれから演奏される曲目の説明がなされた。さすがに文化祭だけあって巷で人気の曲を揃えているという印象の曲が多い。色々な曲が聴けるようで今から心が踊る。
「それではまずはメドレーでお聴きください! どうぞ!」
その合図で部員が楽器を構える。高階も普段とは違い立ちながら演奏するようだ。その姿がまた新鮮だった。
トランペットの音が空高く響く。心地の良い音だ。それを合図に演奏が始まった。
(! あれ──この曲……)
耳馴染みのある曲だったのですぐに目を見開く。
「なんだっけこの曲」
「あれじゃない? コマーシャルに使われてるやつ」
近くで会話している生徒たちの声が耳に入る。そうなのだ。この曲は確か『ラ・カンパネラ』だ。高階に弾いてもらったことがある。だが以前聞いている音よりも明るい印象を感じた。ピアノで聴くこの曲はもっと重く哀しいように聴こえていたので驚いたのだ。こんな演奏方法があるのかと。もしくは吹奏楽だからここまで変化させられるのかもしれない。
(すごい……!)
新しい解釈だ。クラシックはこんなアレンジも出来るのかと目から鱗だった。一気に高揚感が増す。そのまま軽快な曲が続いた。聴いている生徒たちも各々身体をリズムに乗せているように見えた。有名なポップスでは口ずさむ声も。正に周りはお祭り気分だった。
美都も音に合わせて手拍子をする。こんな楽しい気分いつ以来だろうと夢心地だった。普段気をつけなければならない脅威の存在を一時的に忘れられるくらいには。
(──あれ?)
ふと高階に目を遣る。彼も演奏を楽しんでいるのではないかと思ったからだ。だが美都はいち早く彼の異変に気が付いた。
(やっぱり……あんまり顔色が良くない気がする)
穏やかな表情をしてはいるが、陽の光に当たっていても高階の顔はいつもより白く見える。以前よく眠れていないと話していたがもしかしてそれが関係しているのだろうか。
心配だな、と考えていると周囲から一層歓声が聞こえた。どうやら一通り演奏が終わったようだ。すぐにアンコールを求める声が続いたが四季を残してきた手前これ以上は長居できない。そう考えると付いてきてくれた二人に声を掛け一旦教室に戻ることにした。
「すごかったわね」
「うん!」
嬉しそうな美都の表情を見逃さず、凛がすかさず所感を述べた。
演奏ももちろんだが曲の解釈も観客を沸かせる演出も素晴らしかった。そして何よりやはり始めに聞いた『ラ・カンパネラ』が一番心を躍らせた。
(あれもフランツ・リストの曲なんだなぁ)
初めて高階と曲について話をした時のことを思い出した。彼が弾いていた『愛の夢』に思わず反応してしまった際、先程の『ラ・カンパネラ』を教えてくれたのだ。全く違う曲調に驚いたものだ。あの時から早くも半年経ったのかと考えると感慨深い。高階が弾き始めた曲が『愛の夢』でなければ、ここまで彼と親交を深めることもなかっただろう。
今度直接高階に感想を伝えよう。それとやはり彼の具合も気になるところだ。
(心配だな……)
最近は文化祭準備が忙しくまともに会話出来ていなかった。次の授業の時にそれとなく訊ねてみようと考えた矢先、時報を知らせるチャイムが大仰に響き渡る。中庭で行われているアンコール曲に水を差すような情緒のない音だ。夢心地から一気に現実に戻されるような──。
「──……っ!」
まるでこのチャイムが合図だと言わんばかりに、瞬間背筋に悪寒が走る。宿り魔の気配だ。すぐに水唯と目を見合わせた。急に二人の雰囲気が変化した様を凛は敏感に察知したようで彼女自ら進言する。
「私は大丈夫だから行って! 春香の近くにいるようにするわ」
「わかった! 絶対誰かと一緒にいてね!」
凛から肯定の言葉を聞いた後、水唯と共に気配を辿るようにして駆け出した。恐らく四季も気付いているはずだ。間も無く休憩に入れる時間なのだとしたらキリの良いところで向かってくれるだろう。
文化祭を楽しむ生徒の喧騒を掻き分けながら現場へ駆ける。昨日の宣言通り、新見はやはり仕掛けてきた。それもまだ行事の最中に。気配がする方面へ進むにつれ徐々にすれ違う生徒が少なくなる。校舎や教室によっては使われていない箇所もあるせいだ。明らかに誘い込まれているのだと実感する。
「──美都」
「! どうしたの?」
走りながら水唯が険しい表情を見せる。
「君は──あまり前線に立たない方がいいかもしれない」
苦々しくそう呟く様を見て眉根を顰める。もちろん水唯の言うことは理解している。鍵の所有者だからだろう。新見の本当の目的が解らないにしろ、彼女は「美都」に興味を抱いている。退魔する際でも不用意に近づくのは危険だと水唯は昨日の出来事で判断したようだ。しかし、と息を切らせながら頭を巡らせる。
自分の武器は剣だ。戦う際どうしても接近戦になる。その上この状況で退魔出来るのは自分しかいない。水唯には退魔する術はないのだから。
(もしくは四季の到着を待つしか──……)
最近は滅多に彼と離れることがなかったため、自分が先にスポットへ到着するのも珍しいことなのだ。四季の加勢を待つことももちろん可能だがその間に危険がないとも言い切れない。判断が難しいところではある。
そう考えていると宿り魔の気配が濃くなり足を留めた。特定の科目でしか使われない教室。人気なく教室前の廊下は普段から仄暗い。荒れた呼吸を整えるために肩を上下させる。
「水唯、さっきの話──」
「待て」
美都の言葉を遮ると怪訝そうに水唯が該当の教室へ手を伸ばす。
「いつもの結界……?」
「いやこれは──逆だ」
結界の様子を見た水唯が瞬時に口にした判断に首を傾げる。逆、とはどういう意味なのだろうかと。
「内側からこの結界を壊さないと、君だけ入ることが出来ない仕様になっている」
「! なんで──⁉︎」
驚いて思ったままの言葉が溢れ出る。以前の結界との違い。それは自分をスポットへ侵入させないようにするため。そうなると考えられるのはどういうことか、と水唯に投げた疑問を己でも考える。だが混乱した頭では上手く考えが及ばなかった。
「ひとまず俺は先に入って結界を破る。君は四季を待ってくれ」
「でもそれじゃ水唯が危ないよ……!」
「俺は大丈夫だ。宿り魔は倒せなくても自分の身を守ることは出来る」
つい昨日あった出来事を慮っての進言だったが、水唯はあくまで問題無いと判断したようだ。美都が尚も心配そうに見つめていると思わず彼が苦笑いを浮かべる。
「すぐに四季が来るはずだから。それに俺はそんなに柔じゃ無い」
だから大丈夫だ、と重ねた。そうは言うものの不安なことには変わりなく美都は眉を下げる。しかし水唯の意思は強く、彼女を一度見遣った後スポットへ手を伸ばした。そして目を細めた後、そのまま一人進み入る。
水唯は眼前に広がる暗闇に目を眩ませた。視界を慣らすのは少し時間がかかる。反転された世界はそれだけで感覚がおかしくなりそうだ。しかしいち早く結界を解かなければ、と辺りを見渡す。
「……っ!」
その瞬間目に飛び込んできたものに、水唯は声を詰まらせた。結界を解くよりもまずはアレをどうにかするべきか、と。グッと喉を引き絞り対象へ向けて構えをとった。
一方彼の背中を見送った美都は為す術なくその場で立ち尽くす。
(水唯……大丈夫、だよね──?)
密かに思う部分がある。水唯は少し、自分が感覚と似通っていると。だから不安になるのだ。且つ彼は物静かだ。故に、己の感情を表に出すことが苦手なのではと考えてしまう。その部分を余さず汲み取って行かなければとは考えているのだが、如何せんまだ寄り添えていないような気がしてもどかしい。
だが今は彼の言葉を信じるしかない、と目を伏せているとパタパタと慌ただしく足音が響いてきた。
「! 美都!」
美都の姿を見つけると、別行動をしていた四季が一目散に駆けてきた。浅い呼吸を繰り返しスポットが張られている教室に顔を向ける。
「──いつもと逆なんだって。わたしだけが入れない結界が張ってあるって」
「お前だけ……? どういうことだ──?」
「わからない。ひとまず先に水唯が入って結界を内側から破ってくれてるんだけど……」
先程の美都の反応と同様、四季は怪訝そうに眉を顰めた。それもそのはずだ。彼女を標的とするならばスポット内へ誘導し隔離した方が邪魔も入りにくい。なのに何故こうも煩わしい手を使うのか。
「いや──逆、なのか」
「……?」
ポツリと呟いた彼の言葉に美都は首を傾げた。まるで説明したことを反復しただけのようにも聞こえたがどうやらそうでもないようなのだ。
「今まではお前がトリガーだったけど一人じゃスポットに入らないようにしてただろ。それに痺れを切らしたのかもしれない。一人で入らないなら、逆に一人残してしまえばいいって」
「そんな──!」
「憶測でしか無いけど可能性は捨てきれない。だとしたら俺もここで結界が破れるのを待つしかないな」
腕を組みながら四季が考察を述べた。彼の考えたことに驚いて声を発したものの、確かに的を射ているのだ。美都が一人になるタイミングを意図的に作り出そうとしているのだとすれば納得は出来る。自分では何も出来ないことが歯痒く感じ唇を噛み締めた。
それにしても、と先に入った水唯の動向を不思議に感じ教室の扉を見つめる。少し時間が掛かっている気がした。もしかして予期せぬ事態でも起きているのではと考えた瞬間、周りの空気が変わる。スポット内の結界が解かれたのだと察知し二人で顔を見合わせた。美都が手を伸ばすとスポットが張られた場所で波紋が広がる。先程とは違い今度は歓迎でもしているかのようだ。
「行けるか?」
「もちろん」
水唯のためにも一刻でも早く駆けつけたい気持ちが逸っていた。四季の問いかけに頷きそのまま同時にスポットへ切り込んだ。
反転世界に入った後、すぐに近くで水唯の気配を感じ取り目線を動かす。息を弾ませながら彼が攻撃を続けていた。無論相手は宿り魔だ。だがふと違和感があった。
(宿り魔の気配が──二つ……?)
慣れてきた目で辺りを確認する。水唯の目線の先に一体、そしてやはり感じた通りもう一体を目の端で捉えた。だから水唯は手こずっていたのだと納得しようとした時だった。
「……?」
水唯と交戦していない方の宿り魔の動向が気に掛かったのだ。その宿り魔が手にしているモノ──そしてその足元に。
──────あれは、何?
息を呑んで目を見張る。考えもしなかったことに声が詰まった。
宿り魔が手にしているのは紛れもなく光り輝く心のカケラで。そしてその足元にはグッタリと横たわった同級生の姿が目に飛び込んだ。その光景に身体が思わず硬直する。
なぜ、どうして今、また。鍵の所有者なら判明している。自分だ。なのにどうしてこんなことが起こるのか。
心臓が大きく鳴る。動揺で周りの音が耳に入って来ない。宿り魔を倒さなければいけないのに。身体が、上手く動かない。対象者を守ることが守護者の務めなのだ。それなのに──。
「っ……、──!」
視界が揺らぐ。既に四季が戦闘を始めている雰囲気だけは感じ取った。しかし自分は、この場から動けないでいる。
頭の中で考えることはずっと同じだ。なぜ今また対象者が必要なのか。なぜ関係のない人間を巻き込むのか。なぜ、宿り魔の対象が自分ではないのか。
美都は浅い呼吸のまま喉を引き絞る。この現状を上手く受け止めることが出来ずに。
「美都っ!」
不意に名前を呼ばれ、ようやく現実に意識が戻る。それは身の危険を知らせる呼び掛けだった。宿り魔の攻撃が自分に向かっていることに気がつけず反応が出遅れる。もう水唯の結界も間に合わない。衝撃を待つしかないと強く目を瞑り構えた際、俊敏な動きで四季に身体を覆われると庇うようにして押し倒される。
「っつ──!」
「四季!」
己の身体を張って美都を庇った四季は地面との摩擦と肩を掠めた宿り魔の攻撃に痛みの声を漏らす。しかし次の瞬間には手にしている銃を掲げ退魔の言を結んだ。
宿り魔の断末魔が仰々しくスポット内に響き渡る。すると四季はまたすぐに水唯と交戦している宿り魔の方へ体勢を立て直した。怪我した箇所の痛みを堪えるように、顔を歪ませながら。美都はその様子をただ呆然と見つめることしか出来なかった。
(あの子を……)
対象者を介抱しに行かなければいけない。そうわかってはいるのに、地面から身体が離れない。心のカケラを戻さなくては、と足に力は入れている。しかし身体と心が乖離しているのか、脳から送られる命令に反応出来ずにいた。
グッタリと倒れたままの対象者の側に落ちたままの心のカケラをただ目にしながら、美都は唇を噛み締める。
自分こそが、所有者であり守護者であるのに。何も出来なかった。対象者を守れず、救えず、あまつさえ四季にも怪我を負わせた。自分が不甲斐ないせいだ。疑いようもなくただ、自分のせいで。
「どうして──……?」
その現実が、美都に重くのしかかる。そう力無く呟いた言葉だけが、虚しく宙を彷徨った。
◇
「──ラ・カンパネラ。今日にとても相応しい曲ね」
新見は一人、カウンセリング室で中庭で行われていた催し物の曲を耳にしていた。
フランツ・リスト作曲、『ラ・カンパネラ』──リスト作曲として残る有名な曲だ。元々はニコロ・パガニーニの『ヴァイオリン協奏曲第2番』を編曲して書かれたものである。
「確かリストは、パガニーニのヴァイオリン演奏を聴いて『自分はピアノのパガニーニになる』って言ったそうじゃない」
あまりにもよく耳にする曲だったので自身でも調べたことがあるのだ。その話を知った時、リストはなんて純粋なんだろうと思った。それほどまでにパガニーニの演奏に魅了されたということだ。
パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ、と噂される程の腕前だったと言う。つまりリストはパガニーニという悪魔的存在に心酔したのだ。そして彼自身も「ピアノの魔術師」と言われている。
「面白いわよね」
繊細ながら情熱的な人間だったのだろう。そうでなければ、名も曲も後世には語り継がれない。パガニーニの魔を魅入り、自身も魔を操る。どちらも魔が関係しているのだ。実際リストの曲にはそういった面が見え隠れしている。
「”魔”とは人を迷わすもの。そして災いをもたらすもの」
この曲を初めて聴いた時、もの哀しさの中に力強さを感じた。短調に響く音色のせいもあったのかもしれない。その後曲名の意味を知り驚いたのだ。確かに冒頭は意味そのものを連想させる音かもしれない。しかしもっと明るいものでも良いのではないかと。文字通りリストというピアノの魔術師に惑わされたのだ。
「ラ・カンパネラ──イタリア語で”鐘”を意味する言葉よ」
それは果たして何を知らせる鐘の音か。もの哀しげに始まり、後半にいくにつれて盛り上がるその曲が示したものは。祝福、警告、時報、慰め、弔い、祈り。意味は様々あるだろうが全てに共通するものがある。
思わずフッと笑みが漏れた。遮光カーテンの隙間から覗く窓の外に、その少女の姿を見つけたから。
「あなたはその小さい身体でどんなワルツを踊るのかしら?」
既に彼女の行動は掌握している。だからこの先が楽しみなのだ。この曲はただの”合図”に過ぎない。これからまた始まるのだから。
「さぁ月代さん。鐘は鳴ったわ────カーニヴァルを始めましょう」
高らかに鳴り響く楽器の音、楽しそうな雰囲気、賑やかな声。その光の中にいる、闇の鍵を持つか弱き少女。
────世界はいつだって、光と闇に分けられているのだ。