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暮れなずむ空



「残酷な子ね」

二人の足音が離れたのを確認したところで、新見がそう呟いた。

「あの子、あなたに気があることを知ってるんでしょう?」

そう言われて水唯は思わず苦笑いを浮かべた。彼女が指すのは当然美都のことだ。

「悪気はありませんから」

「だからこそよ。無自覚の方が時に厄介だわ」

新見はやれやれと肩を落として目を細める。彼女の言わんとしていることも理解出来た。だがその事に関しては既に決着している。とは言え指摘通り、美都への想いを完全に断ち切った訳ではないので少なからずとも心が揺れ動くのは確かだ。さすがの眼光の鋭さだと感心せざるを得ない。

「それで──俺だけ残した理由は何です?」

窓から差し込む日が段々と薄くなってきた。間も無く下校を知らせるチャイムが鳴るので長話は出来ないと判断し早々に先程の話を切り上げる。

すると新見は水唯を一瞥した後、腕を組みながら視線を窓の外へ移動させた。

「────弟くんに会ったわよ」

「!」

「会ったと言うか、出会い頭に攻撃されたんだけど」

続けて彼女が言うことに、水唯は短く反応し顔を歪ませた。無論該当の人物の名称が出たこともそうだが、何よりその人物が彼女に対して行った行為に対してのものだ。

「あなたと違って血気盛んね。その様子だと彼に何も言ってないんでしょう?」

「……はい。すみません」

目線を逸らしつつ、新見に身内が働いた無礼を詫びる。よもや彼がそんな行動に出るとは思ってもみなかった。

「連絡は取れるんじゃないの?」

すぐさま飛んでくる疑問に更に眉根を顰める。取れないわけでは無い。だがここで迷うのは己がした決断に関してだ。それが恐らく今回の彼の行動に起因するのだろう。何の報告もなく勝手に離反したことを。

「今更──俺があいつに言えることは何も無いですから」

「それは罪悪感から?」

「…………いえ」

少し考えたため否定の言葉に間が開いた。これは罪悪感ではない。抑も罪悪感ならば美都に己の正体を隠していた時の方が強かった。ならばこれは何という感情なのかと己に問い質す。

「わかりません。でも俺とあいつの見ているものが違う限り相容れることはない。それだけははっきりしてます」

道は違えた。主の側仕えとして動いている彼と、美都のことを守りたいと言う気持ちを優先した自分の道が交わることは現状では有り得無い。主人の思惑が変わらない限りは絶対に等しいだろう。

「それにあいつは──恐らくあの方の側を離れられないでしょう。父がそう仕向けているはずです」

或いは父がそうしなくとも、彼は主人の側仕えの責務を果たそうとするはずだ。それが役割だと、幼い頃から刷り込まれているのだから。

するとその答えを聞き、新見が納得した様に息を漏らす。

「あの子はあなたより視野が狭いものね。あそこ以外の場所を知らないなら離れられないのも当然だわ。でも──」

考察を述べた後、逆説の接続詞を用いた。そして横に泳がせていた瞳を水唯の方へ向ける。

「血を分けた弟なんでしょう? あなたはそれでいいの?」

再び投げかけられる問いに、一旦口を噤む。それで良いのかと問われればもちろん答えは否だ。だが現状、自分が何を言っても彼は受け入れはしないだろう。恐らくは説得にも応じない。彼が望んでいることは何となく理解出来る。誰よりも近くで共に過ごしてきたのだ。だからこそこちらも引き下がることは出来ない。

「……どのみち今は距離を置くしかありません。あいつは俺を赦せないでしょうから」

「今は、……ね。そうのんびり考えている時間はないと思うけれど?」

鋭い指摘に思わず顔を歪ませる。具体的に説明されずとも新見が示唆している内容は読み取れる。

主人が長らく探していた《闇の鍵》が見つかり、且つその所有者である美都の奇異な力についても秤が振れた。今までは調査期間のため多少の猶予があったが今後はそうはいかなくなる。力まで狙われるのだとしたら、美都自身に危険が及ぶはずだ。その機会を窺ってくるだろう。確かに悠長に構えている時間はない。

「────香織さん」

師でもある彼女の名を呼びながら視線を交わす。

今回の一件でまざまざと感じた。水を使役する力と結界術。以前は宿り魔の力の補助があった。だがそれがなくなった今、当たり前ではあるがマイナスなのだ。の方の元で動いていた時よりも圧倒的に弱くなっている。宿り魔の力はそれ程強いものだったのだと感じざるを得ない。

だとしたらどうすれば良いのか。考えずとも明白だった。

「今一度、俺に指導をしてください」

「……親兄弟と対立する道を選ぶのね」

「それは違います」

すぐ様彼女が述べた考察を否定する。この問いは以前美都からも受けたことがあるからだ。

「この先に待っているのが世界の崩壊なのだとしたら──それを切り離す策を考えなければいけない。今それが出来るのは──自由に動けるのは俺だけなんです」

彼の言い分を聞いた新見が浅く息を吐く。

「それでも、以前はそれを解った上で従っていたんでしょう? 今更だと思わない?」

「思いません」

「なぜ?」

疑問は次々と繰り出される。そこはかとなく棘がある様にも聞こえるその言い方に水唯は怯むことなく答えていった。

「────彼女を守りたいと思うからです」

ただ真っ直ぐに、声が届く。金色の瞳が揺れる。その様に新見は一瞬目を見張った。

同胞として彼に指南していた頃は、まるで無感情、無表情で何を考えているかさえ理解出来なかった。ただ己の後継として簡単な術を教え込んだまでだ。常に俯きがちで瞳には陰が落ちている。何も期待していないような目をしていた。こちらとしてもその方が良かった。下手に懐かれても面倒だったからだ。

だからこそ今目の前にしている少年が本当に同一人物かと疑いたくなる。あの頃の暗い面影さえ無い。どこかに希望を見出した様な強い瞳で捉えてくる。

「……あの時言ったでしょう。守ることはそんなに甘いものじゃないって。想いだけで守れたら苦労しないわ」

「はい。だから力が必要なんです」

言いながら少年が頭を垂れる。彼は解っているのだ。想いだけではダメだと。力がなければ満足に戦えないことが。だからこその行動だ。

たったの数ヶ月で人間はここまで変わるものかと正直驚いている。以前はまともに会話すら出来なかった己が弟子が、見違える程に人間味が増した。理由は無論あの少女の存在だろう。

「そこまでしてあの子に入れ込む理由は何?」

当初から不思議だった。どういった経緯で彼らが懇意になったのかは知らない。ただ元々は敵対する立場の人間だ。普通であれば相容れない。それにあの少女は守護者や所有者の立場が無ければ至って普通の少女だ。確かに他人に言い難い過去を背負ってはいるが、彼はそれを知る前から気にかけていた。何がそこまで少年を捉えたのか単純に”興味”があった。

水唯は問いかけに目を細める。これまでのことを瞼の裏に思い返しているかのように。そして一度ゆっくり瞼を閉じるとフッと柔らかく口元を上げた。

「──言い尽くせません。ただ俺にとっては家族と同等に大切な子です」

その穏やかな表情に新見は再び目を見張る。以前であれば決してあり得ないことだ。彼が誰かを思ってこんな顔を見せるなど。

しかし冷静に考えれば納得もいく。まだ15歳という年端も行かぬ子どもなのだ。思春期から青年期と呼ばれるこの時期に、こうしてようやく感情が表れるようになってきたのは幸いだと言って良い。あのままあの人物の元で暗躍を続けていれば元より得られなかった感情だ。学校という集団行動が基調となり、そしてそこに自分を一心に気にかけてくれる存在がいた。それがあの少女だった。敵とは知らず、対象者とは知らず。巡り合わせとは不思議なものだ。

「本当に……あなたは月代さんに頭を上げられないわね。ちゃんと感謝すべきよ」

「……えぇ。本当にそう思います」

新見は降参とばかりに息を吐くと、今度は美都を賞賛する。

「まぁ、あなただけでも解ってるなら良かったわ。今のままでは太刀打ち出来ないってことを。問題はあの子の方ね」

先程まで同じ空間にいた少年の残像を追うかの様に、目線を窓の外へ動かした。守護者としての責務を抱えている少年。少女を守るために不可欠な存在だ。

「あいつも──何も考えていないわけじゃないと思います」

「じゃなきゃ困るわ。どちらにせよあのままじゃ成り立たないわよ」

今回の件で、実力差を十分に見せつけられた。一度強力な結界が張られて仕舞えば砕く術が現状無い。それは単に守護者の力量不足と言える。これが美都ならば彼女の力を駆使して打ち破ることが出来るのかもしれないが四季はその力を持ち合わせていない。今回のようなことがまた起こったとしても二の轍を踏むことになるのだ。

「月代さんの覚悟は十分に解ったけど、”あの人”の方が余程躊躇いがないはずよ。鍵を手にすることに関してはね。私が協力しないとしても今後一層厳しくなるでしょう」

「……理解してます。何より全ての情報が出揃ってしまった。香織さんの言うように猶予はないはずです」

「そうね。これはただのゲームじゃない。今回みたいに負けてもやり直せるわけじゃないということを肝に銘じなさい」

新見の指摘通りだ。正論に言葉も出ない。今回はただ運が良かった。新見の目的が鍵ではなく美都自身だったからだ。これがもし、彼からの命令が鍵の奪取だったとしたら今こんな風に会話は成り立っていない。

「……唯一の教え子としてあなたの願いを聞いてあげるわ。ただし残りの私の任期までよ」

そう言うと水唯がまるで寝耳に水とでも言わんばかりに驚いた表情を見せた。

「当たり前でしょう? 元々私はこの為に派遣された様なものだもの。任期なんて短いに決まってるわ」

「その後はどうするんですか……?」

何度目かの質問に辟易とする。実は保健教諭の内山からは延長して欲しいと懇願されているのだ。しかし目的が果たされたことによって己がこの学校にいるメリットを感じられない。その為丁重に断った際に彼と全く同じ質問をされたのだ。

「さぁ。子どもの相手も疲れたし当分スクールカウンセラーはまっぴらね。ただ、そうね……」

今少年に話したことは本心だ。思春期の子どもの相手は疲れる。人となりに興味や関心でも無ければ生徒からの相談など大して変わらないのだ。クラスや部活動の人間関係、勉強疲れ、家庭内不和。あの少女以上に興味を惹かれるものはなかった。だからこそ気になる。彼女の今後が。己の過去と向き合って尚、進んでいこうとする姿勢を見せた。泣けない少女の、感情の揺らぎの行方が。

「──今回以上に面白い事象が起きたらまた考えるわ。それは月代さんをはじめあなたたち次第、ということにしておこうかしら」

「……世界が崩壊するとしても?」

「無論。それはあの子に言った通り。守りきれなければそこまでよ」

恐らくは暗に助力を乞うている少年の出方をピシャリと鎮める。先刻の話と重複する内容を何度もすることは面倒なのだ。

現状では彼女らの分が悪いことは百も承知だ。しかしだからと言って己が加勢することはない。メリットがない。自分は関係ない。部外者だ。その立ち位置を崩したくない。

だからこの先は高みの見物だ。果たしてどちらに天秤が傾くか。か弱い少女がどのように立ち向かうか。お転婆な姫を騎士たちは守りきれるのか。

眉間にシワを寄せたまま無言で立ち尽くしている少年を一瞥する。

「せいぜい足掻きなさい。守りたいもののために」

その為に全てのものを投げ捨てたのなら。不恰好だとしてもなりふり構わずにただ懸命に。





廊下の窓から見える空がだんだんと紫色を帯びはじめた。黄昏時が近い。

(薄明、とも言うんだっけ)

以前衣奈に教えてもらった。黄昏時には様々な言い方があるのだと羽鳥の授業でも習ったものだ。逢魔が時、黄昏、宵の口、そして薄明。日本語とは面白いなと感じる。

「だんだん日暮れが早くなってきたな」

隣を歩く四季がこちらの目線に気付いたように徐に呟いた。

「そうだね。まだ早くなるのかなぁ」

「冬至まではな。ひと月くらいあるし」

「そっか。冬至っていつなんだっけ?」

「クリスマスのちょっと前くらいじゃないか?」

クリスマス、と言う単語を耳にしてもうそんな時期なのかと目を瞬かせる。ここ数週間の出来事に追われすぎていたせいで、間も無く期末考査があることも半ば頭から抜け落ちていた。

「クリスマス、かぁ」

思わずポツリと呟く。特に思い入れがあるわけではないがやはり年間行事の一つとして楽しみではある。だがそれよりもクリスマスが終わればすぐに年末、そして年が明ければいよいよ中学最後の期だ。そしてあっという間に受験が迫ってくる。

「……やだなぁ」

「え」

「え?」

ふと素っ頓狂な声がしたので四季に視線を向けると、本当に驚いたような顔をして目を見開いている。その表情に美都は首を傾げた。

「……クリスマスに嫌な思い出でもあるのか?」

「え? ないけど……なんで?」

「いや、だって今そう言っただろ」

質問が交互に繰り出される様は噛み合わなさを物語っているようだ。互いに眉間にシワを寄せ、一つずつ齟齬を解消していく。美都は四季に言われたことを瞬時に頭で結びつけた。

「あ、違うの! クリスマスじゃなくてその後の話のこと!」

「また頭ん中で色々考えてたな」

完全に思考パターンを理解されている。四季の的確な指摘にぐうの音も出ない。自覚している癖ではあるので治さなければと思っているのだがそう簡単にはいかないものだ。今回も連想ゲームのように頭の中で次々に事項を思い浮かべて進めてしまった。そのため呟いた単語を繋ぎ合わせた結果、齟齬が生じたようだ。

「だって……クリスマスが終わったらなんかすぐに慌ただしくなっちゃいそうだなって思って」

「冬休みは短いし、年明けたら直に卒業だもんな」

「卒業……うん、そうだね」

先程頭の中で考えていなかった単語が飛び出し、不意に復唱する。そうだ、卒業するのだ。義務教育の終わり、中学生というカテゴリーから出ていかなければならない。

「ちゃんと高校生になれるかな……」

期末考査のように、忘れていた問題がまた浮上し思わず口から溢れ出る。志望校を決めなればならないのだ。隣にいる四季からも視線を感じる。合わせると言った手前、彼もまだ明確にはしていないのだろう。待たせてしまって申し訳ないという気持ちが押し寄せる。ひとまずそのことを謝ろうとした瞬間、背後から名前を呼ばれた。

「月代!」

「! 羽鳥先生!」

軽い駆け足で羽鳥がこちらに向かってくる。教室へ入る手前の足を留め、その場で彼女を待った。

「良かった。あんたの様子気になってたんだけど今日に限ってバタバタしちゃって全然話せなかったからさ。もう具合は平気?」

羽鳥の言うように彼女は今朝から忙しなく動いており、帰りのHRもほとんど行わず解散となったのだ。病み上がりで今日からようやく授業に復帰し、彼女にも改めて礼を言わなければと考えていたところだった。

「はい、ありがとうございます。色々ご迷惑おかけしました」

「全然迷惑なんてかけられてないよ。担任として当たり前のことをしただけ」

言いながら羽鳥が美都の頭を撫でる。女性の所作にしては大振りにも思えるがこの手の厚みがまた彼女らしく安心するのだ。

「向陽もありがとね。連絡網になってくれて」

「いえ。こちらこそご相談に乗っていただきありがとうございました」

「それこそ何もしてないよ。で、ちゃんと話は聞けたの? って言うのも野暮か。この状態なら安心して良さそうだね」

羽鳥は隣に佇む四季とを交互に見ながら、恐らくは一日中ずっと気にしていた疑問を口に出す。しかしすぐに自身で解答を導き出し納得したように息を吐いた。

対して一瞬何の話かと美都は首を傾げる。何故なら彼女とは最近ほとんど話をしていなかったからだ。加えて彼女との最後の会話といえば、己の体調不良で授業を中断してしまったことだった。思い出すと居た堪れなさが増すが、今は己よりも羽鳥の疑問の意味を知るのが先かと横目で四季を見遣った。

「話って、えっと……」

「あんた自身のことだよ。家庭環境とか生い立ちとかさ。私も先日ようやく円佳に聞いたんだけどね」

「まどか……って、円佳さんのことですか⁉︎」

聞き馴染みのある名前が担任の口から出たことに驚いて目を見開いた。

「って向陽から何も聞いてないの?」

「詳細は話してないですね。でも名前は出しましたよ」

「名前出したくらいじゃ月代は気づかんでしょうに」

置いてけぼりのまま話を繋げる二人を、今度は美都がどう言うことかと交互に見た。半ば遠回しに鈍感だと言われている気がしなくもないが、確かに昨日四季との会話で羽鳥の名が出てきたことを思い出す。そして同時に円佳の名も。

「えーっと……先生と円佳さんは知り合い……?」

「同級生。ついでに言えば、今あんたたちがやってることも知ってるよ。円佳がそうだったからね」

「え……? ──あっ!」

羽鳥の言葉をきっかけにだんだんと会話の内容をくっきり思い出してきた。円佳が守護者だったと言う話だ。確かにそこで羽鳥の名前が出てきていた。

「先生もその……関係者、だったんですか?」

「直接的じゃないよ。立場的には夕月と同じかな。所謂いわゆる第三者ってやつ」

様々な衝撃が一気に来たせいで開いた口が塞がらない。混乱した頭で必死に状況を整理していく。一つずつ口にして組み立てていかなければ何が正解かも分からない。そう考え、咄嗟に纏めた内容を呟き始めた。

「えっと……円佳さんが守護者だった時に先生が友だちだから近くにいて──?」

「そ。あんたと話してる時、急に目の色変えて走ってったことあったろ? あの時にもしかしたらあんたもそうなのかなって思ったのよ。円佳もそうだったし」

「いつわたしが守護者だって確信したんですか……?」

「なんだ。それも言ってなかったの」

立て続けの質問を一つずつ丁寧に答えながら、羽鳥は驚いたように目を瞬かせた後四季に視線を送った。そのやり取りで何となしに彼が理解していることだけは把握する。

「あんたが倒れた時にね、この子らと話したの。まさかあんたが()()()()だとは思わなかったけど」

苦笑いを浮かべて話す羽鳥の雰囲気から、所有者についてどういう認識があるのかも概ね理解出来た。恐らくは円佳の時に経験したのだろう。言わないだけで彼女も相当危険な目に遭っているはずだ。そう考えていると、羽鳥が徐に言葉を続けた。

「私はさ──正直鍵のことは詳しく無い。だからこの件に関してはただ傍観するしかなかったんだ。一昨日のことがあるまで円佳からも何も言われてなかったし。でもね──」

丁寧に言葉を組み立てていく様はこちらの気遣いだろう。口調からも羽鳥の優しさが滲み出ている。彼女自身のこれまでの説明がされ、逆説の接続詞が用いられる。一旦乾いた口を濡らすように唇を閉じた後、強い瞳がこちらに向けられた。

「月代は、私の大切な生徒だ。例え鍵のことが無くても、円佳と知り合いじゃ無くてもね。その大切な生徒が大変な目に遭ってるっていうのに、見過ごすことは出来ないだろ?」

”鍵”という数奇な存在。それに関わることがどういうことか、彼女は知っているのだ。所有者でも守護者でもなく、ただ第三者として出来ることは少ない。むしろ本来ならばその存在を知らずとも良い立場なのだ。知らないふりも出来ただろう。それなのに自分とこうして向き合ってくれる。その想いが嬉しくもあり、だが同時に不安だった。何故ならば鍵に関わるということはこの事態に巻き込むということだからだ。それを伝えるために喉を引き絞った。

「でも先生……わたしは──」

「あんたの言いたいことは何となく分かるよ。でも私も関わってきたものとして、妙な因果を感じてさ。今年あんたの担任になったのも必然なような気がするんだ」

心情を察知するかのように、羽鳥が途中で言葉を遮った。これ以上巻き込まないように、と伝えようとしていたのに思わず咄嗟に彼女の言葉に同意してしまいそうだった。

「とは言え──」

「わっ!」

再び不意に彼女の大きな手で頭を撫でられる。先ほどよりも些か強く。その強さに驚いて声が出た。

「私が出来ることなんて今まで通りあんたの相談に乗ることくらいなんだよ。それでちょっとでも気休めになるのならいつでもおいで」

「羽鳥先生……」

まただ。昨日まで、執拗に他人と距離を取ろうとしていたせいだろうか。巻き込まないように、傷付けないように。そうするために一定の距離が必要だった。だがそれこそ自分本位だったのだと気付かされる。他人からの想いを蔑ろにする行為だと。

向けられる想いに胸が温かくなる。「他人からの愛情を感じるべきだ」という愛理の言葉が今にして沁みてくるようだった。

「──……ありがとう、ございます」

その優しさが、ただ嬉しかった。こんな自分を見ていてくれることが。やはりすぐには、「良い子でいなければ」という感覚は抜けない。むしろ忘れることなど出来ない。だがそれを抜きにしても、”己のことを大切にする”ことは難しいと感じる。鍵の所有者でなくとも、自分に対する倫理観はそう簡単に変えられるものでは無いのだ。

しかし、少しずつ。こうやって少しずつ自分の中に落とし込むことが大切なのだと思い始めた。自分にとっては大きな一歩だ。

美都の表情を確認すると羽鳥も安心したように息を吐いた。

「さてと、月代明日ちょっと時間取れる? 進路のことでちょっと話しておきたいことがあってさ」

「はい。わたしもまた相談させてもらいたかったのでありがたいです」

「まぁ円佳との関係性もバレちゃったし、これでようやく三者面談出来るね」

「う……は、はい……」

今までは家庭の事情を盾に三者面談を回避していたが、三者の関係が明るみになった以上もはやそうも出来ない。はぁ、と肩を落としたところ思うことがありはたと目を瞬かせた。

「──ということは今までも先生と円佳さんでやり取りしてたってことですか⁉︎」

「そうだよ。都度ちゃんと『保護者の人と話しといたよ』って報告したでしょ?」

「それはそう、ですけど……」

完全に寝耳に水だ。自分がつまらない意地を張っていたのも円佳には筒抜けだったということか。そう考えると自分の子どもらしさが恥ずかしく思えてくる。

その流れで羽鳥と明日の進路相談の約束時間を取り付けると、間も無く鳴るであろう下校時刻を知らせるチャイムを前に「気を付けて帰りなよ」と言い残し羽鳥は去って行った。彼女を見送った後踵を返し、程近かった教室に戻る。教室に人気は無く静かな空気が漂っていた。それぞれの鞄がある自席へと向かっている途中で、冷えで鼻の奥が刺激され小さくクシャミが出た。それを聞き逃すことの無かった四季が徐に足を留める。

「寒い?」

「ちょっと冷えてきたかも。もうそろそろコート出さなきゃかな」

数日前はまだ冬服で過ごしていた。しかし今日は病み上がりな上に気温も下がるという予報だったため慌ててカーディガンを引っ張り出してきたところだったのだ。せっかくならカーディガンを活用しようと手を袖に半分引っ込めようとしたとき、不意に横から四季の手が覆い被さった。

「!」

「冷たいな。もしかしてまだ本調子じゃない?」

「ううん、もうすっかり元気だよ。あんまり気にしたこと無いけど冷え症なのかなぁ。四季は温かいね」

彼のひと回り大きな手から、しっかりと熱を感じる。その熱を分けようとしてくれているのか、彼がそのまま手を滑らせていく。包み込むようにしたり、時折強く握ったり。まるで手遊びでもするかのようで面白かったので彼の動きに応じていると、指が絡んだ時点でピタリと止まった。

「……教室じゃなかったら抱きしめてる」

「なんか前にも似たようなこと聞いた気がする」

苦笑しながらその際の出来事を思い出す。文化祭の前日のことだったな、と期間的にはそんなに経っていないはずなのに懐かしさを感じるところだ。

指の間からも温もりを感じる。少しでもそれを感じたくて思わず絡ませている指を握りしめた。すると不意に四季が半歩近付く。

「結構我慢した──けど、やっぱ無理」

言いながらもう一方の手で顔を持ち上げられる。そして次の瞬間には唇が重なった。教室には誰も居ない。揶揄する人間などいないはずなのにやはり学舎というだけで妙な背徳感を覚える。

柔らかな感覚が離れ、触れ合う瞬間に閉じた瞼をゆっくり持ち上げる。まだ程近くにある彼の鼈甲のような瞳が自分を捉えて離さない。頬に当てられている指が唇の際を掠めた。

「も……もうだめ。そろそろ水唯が──」

「まだ足音しないだろ」

そう言って続け様に熱が落とされる。もう何度も、何度も感じているのにいつでも心臓は煩いくらいに鳴る。どうにかなってしまいそうな程に。

「……、っ……」

絡めたままの手の神経がピクリと動いた。なんとなく恥ずかしくなり解こうとしたが、それを許さないとでも言うかのように四季の手が追ってくる。その強さにまた指が反応する。思わずギュッと目を瞑ってしまった。

そして無音の中、時計の針が動く音だけが聞こえわずか数秒後その下に設置してあるスピーカーから下校を促すチャイムが鳴り響く。

それを合図に再び唇が離れる。彼の温もりと唐突に耳を刺したチャイムに、心音はいつもよりも早くなっていた。ようやく人一人分が空いた距離で四季がハァと長めの息を吐いた。

「……足りないな」

口元に触れながら名残惜しそうにポツリと呟く声が聞こえる。こちらとしては教室というだけで心臓に悪い上に既に一杯一杯だ。四季から目線を逸らし赤くなっているであろう頬を冷ますように空いたままだった方の手を当てた。やはり人がいなくとも風紀的に学校では慎むべきだなと感じる。そう言った意味をこめて四季とは逆に溜め息を吐いた。

「ほら、帰る支度しよ? 水唯の鞄も持ってかなきゃ」

「ん。俺が持つ」

下校を知らせるチャイムも鳴った。これ以上教室に長居は出来ないと判断し、鞄を持って昇降口へ向かう。二度手間にならないようにと水唯の鞄を持って行こうと口に出したところ、すかさず四季が役を買って出てくれた。水唯の話も気になるが、わざわざ彼だけ残したということは元同胞でしか話せない内容なのだろう。心配のしすぎも良くないと自分に言い聞かせる。それにまた束の間かもしれない日常が戻って来るのだ。その間だけでも学生の本分に従事したい。円佳に関しても、知らぬところでやはり迷惑をかけていたのだな、と思うとまたちゃんと礼を伝えなければという気になった。加えて昨日追及されたメールの件も。

(……そういう、人)

思い出しながらチラリと隣を歩く四季を見る。何をどうやって円佳に伝えれば良いのか。今までに一度でも彼女とそういった話をしたことがない。そもそもその対象となる人物がいなかったので当たり前ではあるが。改めて認識する。彼と、紛れもなく想いが通じているのだと。奇跡にさえ近いこの状況をどう円佳に説明すれば良いのか。

暮れなずむ空を背にしながら、また一人考えを巡らせ始めた。





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