冷たい微笑
「10年間……一度も……?」
たった今美都から語られた内容を復唱することしか出来なかった。瞬時に脳の処理が追いつかなかったのだ。
感情が壊れているとは一体どういうことなのかと考えている最中、彼女の口から放たれた言葉。
「わたしはね……泣けないの。もう──涙が出てこないの」
言いながら掴まれていた四季の手首に手を乗せ、優しくその手を解いた。彼との間に距離が出来る。呆然と立ち尽くしたまま四季は内容を反芻しているようだ。
「小さい頃のわたしにとって”良い子”でいるっていうのは、泣かないことだったんだ。無意識にずっとそれを守ってた。そうしたら泣けなくなっちゃった」
眉を下げて口角を上げる。ずっとそうしてきたから慣れた動作だった。無論初めて聞かされた三人は動揺して口籠もっている。
「もちろんね、哀しいっていう想いはあるんだよ。でもね──もう結びつかないの。どこかで感情の回路が切れちゃったんだろうね」
これまでにたくさんの”哀しい”場面に立ち会ってきた。それでも同様だ。自分の瞳は潤むことはない。ずっと乾いたままだ。まるで血が通っていない冷たい人間のように。
きっとこれからも戻ることはないのだろう。泣き方など知らない。忘れる、という程覚えていない。涙を流すという行為が自分にとっては不要なものだったと捉えるしかないのだ。
「10年、って言ったけど遡れば多分もっと前からなんだと思う。少なくとも10年かな。もう──あんまり覚えてないや」
目を細めてあの日より前の出来事を思い浮かべる。だが今自分が発した通りだ。それが真実だった。
美都から初めて聞かされた、彼女自身が抱えている過去の痛み。三者とも彼女へ掛ける言葉が何も出てこなかった。何も言えないのだ。何か言ったところでそれはただの気休めになってしまうから。だから誰もが口を押さえている。
10年の間、一度も涙を流していない。それは一番感情が表に出やすい児童期に、内側に抱えた痛みを解放することなく過ごしたということだ。泣くことは感情解放の一つでもある。それを彼女自身が赦さなかった。10年間一度も、彼女は己を赦していないのだ。
そんなことが有り得るなんて、と水唯は口の中で呟く。小学生から中学生に於いての多感な時期に、自分は感情が壊れていると悟ったのかと。苦しみや悲しみを泣くことで昇華してこなかったということだ。
「……──!」
水唯は思わず声を詰まらせる。あの時──敵として対峙した後の美都とのやり取りを思い出して。みっともなく声を上げて泣いたこと。彼女の事情など知ることもなく。己の醜態に今さらながら恥ずかしくなった。
誰もが声を出すことが出来ず、刻々と沈黙のまま時間だけが過ぎる。美都は気付かれないように深く長く息を吐いた。やはりこうなるか、と。
この事実を隠していた訳ではない。ただ知ってしまったら今後あらゆる場面で彼らは自分に気を遣うことになるだろうと。解っていたから今まで言わなかった。和真と愛理にさえ、話すのを躊躇ったのだ。ただ彼らは先に自分の家庭事情を知っていた。だから打ち明けられたという思いもある。だが今回は全く別だ。
人の出自や半生を全く知らない人間が、他人の領域に足を踏み入れるということはどういうことになるか。身を以て感じることとなった。
「……大丈夫だよ」
美都がポツリと呟く。諦めにも似た声色で、いつものように笑みを溢しながら。
「わたしは何も望んでない。何も──求めてないから」
言葉も、想いも。だからこれ以上関わらないで。このまま、ただ知ってしまったことだけを胸に留めて引き退って欲しい。同情も憐れみもいらない。自分は可哀想な子などではないのだから。
目の前でニコリと微笑む少女を見て、四季は喉を詰まらせる。彼女の紫紺の瞳に、何も映っていないように感じたからだ。それは、すぐ前にいる自分の姿さえも。完全に他者を拒絶しているのだ。
どうして、どうして。助けを呼ばない。手を伸ばさないのか。彼女の半生を考えれば尤もかもしれない。それでも今は、手の届く距離に自分がいるはずなのに。それなのになぜ。また「大丈夫」と言うのか。昨日自分が見た彼女が遠く感じる。まるで別人だ。
「……これで終わり。大丈夫だよ、明日からはちゃんと元通りになるから」
呆気に取られていたところ、続け様に美都の言葉が耳に届いた。彼女からの終了の合図。
「お茶の準備出来てるから。好きなときに飲んでね」
いつの間にか調理スペースに茶器の用意がされていた。綺麗に並んだティーカップがトレーの上に乗っている。だがそれを持とうとはせず、空の手のまま彼女は足を動かした。四季と目線を合わせることなくその横を通り過ぎる。
美都が横切った瞬間、四季はハッとして彼女の残像を追うため振り返った。何か言わなくては、と喉を引き絞る。
「──そんなのダメだ……!」
突然静寂の中響いた低音に、美都はふと足を留める。
「…………何がダメ?」
首を傾けて四季の方へ向ける。ただ、そういう動作はしたものの目線は交わっていない。
「独りになろうとするな──そんな哀しい顔で……っ、……笑うなよ」
気休めにしかならない気はしていた。それでもそのまま美都の姿を見過ごすことは出来なかった。先程からの彼女の表情が瞳に焼き付いている。何物も期待していない空虚な眼差しが。だから咄嗟にその言葉が出た。
「無理だよ」
即座に否定の返しが入る。その茶色の髪を揺らしながら今度は四季を見つめた。
「笑うことしかしてこなかったんだもん」
「……っ!」
眉を下げながら、そう言って美都が笑みを浮かべる。どこか苦しそうな表情に胸が詰まった。
苦しみや哀しみを昇華する方法は、笑うことしか知らない。逆に笑えなくなったらそれこそ自分ではなくなる気がして怖いのだ。”笑っている美都”こそがアイデンティティとも言える。
「良いの。これがわたしだから。みんなこのわたしを望んでるはずだよ。……ねぇ──」
周囲の人間もこれが”美都らしさ”だと感じているはずだ。いつでも笑顔を絶やさず、空気を壊さない。だからみんな自分を受け入れてくれる。初対面でも長い付き合いでも距離感は必ず保ってきた。決して自分の領域に踏み込ませないように。だから自分がどんな人間か知らない。知るはずがない。例え幼い頃から日々を共にしてきた友人であっても。
「そうでしょ──凛?」
いつもより俄に硬い声で、美都がその名を口にする。同時に鋭い眼差しが凛に向けられた。
「っ……! わ、私は──!」
不意に名指しされた凛は口をまごつかせる。喉の奥がすっかり乾いているようで声を上手く発することが出来ず上ずって聞こえた。その様子に美都は薄ら笑みを浮かべる。
「これが、あなたがずっと知りたかったことだよ。満足出来た?」
冷たい音が静寂に響く。柔らかい笑みを浮かべる少女から相反して淡々とした声が聞こえた。その突き詰めるような問いに、名指しされた凛はもちろん一同息を呑み込んだ。これが本当に彼女なのか、と。加えてまるで他人行儀な二人称に凛は目を見張っていた。
「わたしはね、凛が泣いてる時ずっと羨ましく思ってた。惜しみなく感情を出せる様が羨ましくて……苦しかった」
逸らした目線を床に置き、また抑揚のない口調で美都が話を続ける。凛は美都の言葉を耳に流しながらびくりと肩を竦ませた。胸元に置いている手は小刻みに震えている。
「それは──わたしには絶対に分かり得ない感情だから」
空虚な心の穴を埋めるように、美都は片手を自身の胸に当てる。今しがた彼女が説明したことに繋げるように。感情が壊れていると、泣くことが出来ないと言った美都には理解し得ないことだった。
美都は目を細めて手を下ろす。視界の端に三人の姿を捉えるようにしてまた口を開いた。
「それでもね、凛。──わたしは嬉しかったよ。あなたが泣いてくれるおかげでわたしは”わたしらしく”いられた」
「……っ!」
束の間与えられた赦しだった。だがそれは誰もが皮肉だと分かる。泣いている者を慰める行為。それは時に自尊心を確立するための手段にもなる。美都の場合は、凛を側に置くことで対比させるように己を形成していたのだろう。それは四季も初期の頃から気になっていた。なぜ真逆の彼女らがこうして成立しているのか。単に凛からの情が多いと考えていたのだが、今の美都の話を聞いて納得する。そして同時に戦慄した。
「ね、わかった? わたしは”みんなが望むわたし”を作るために凛の側にいたんだよ」
ニコリと小首を傾げる美都の姿を、直視することが出来ない。いつもの彼女からは到底想像がつかない残酷なことを、紛れもない彼女自身が述べている。否、”いつもの彼女”というのが抑の間違いなのかもしれない。美都の言う通りであればそれは、彼女自身が作り上げた”彼女らしさ”なのだ。だから何も言うことが出来ない。この時点で何が真実なのか、それぞれが混乱しているのだから。
「……だから、もうおしまい。親友ごっこは今日で終わりにしよう」
先程発した終了の合図とは意味が違う。今日まで繋いできた関係性を終わらせようと美都が言う。これで再構築しようと言うのならばまだ良いのかもしれない。だが美都からはそんな言葉は続かなかった。
「友だちであることに変わりはないよ。明日からも普通に話すし、あなたが望むわたしでいる。でも──今までみたいに一緒にいることは出来ない」
冷たく吐き出された内容に、それぞれがまるで鈍器で頭を殴られたような感覚に陥った。
特に真っ向からその言葉を放たれた凛は、ただただ息をすることも忘れその場に立ち尽くす。
「……っ、どう……して……?」
震える声でようやっと疑問符を絞り出す。それが今の彼女の精一杯だった。これまでずっと共に過ごしてきた少女からの、突然の別離の宣言を受け止め切れるわけがなかった。
「──説明が足りなかった? じゃあ追加で理由を話そうか」
そう言うと目を胸元に置き、ネックレスとして下げている指輪に服の上から触れる。
「わたしは守護者で鍵を守らなきゃいけない。何よりもまず、鍵を所有しているわたし自身を守らなきゃいけないの」
美都は鍵の守護者でありながら、自身が《闇の鍵》を宿す所有者だ。彼女自身がそれについて苦しんでいたことを水唯だけは知っていた。一昨日の夜、この場所で会話したのだから。
「でももしこの間みたいに凛が捕まったら? その見返りに鍵を要求されるかもしれない。この間はたまたま運が良かっただけだもの」
あくまで仮定の話ではある。しかし彼女が示唆することは可能性として十分にあり得ることだ。それは少年らも考えたことがあった。
「凛は二人みたいに自分を守る術がないでしょう? わたしはどうしても鍵を優先せざるを得ない。だからあなたを守ってあげられない。わたしは鍵の所有者として──今はリスクを減らすことを考えなきゃいけないの」
側で聞いていた少年らが声を詰まらせる。突如引き合いに出されたこともそうだが、今回の事件の引き金ともなった美都自身の”鍵の所有者としての自覚”をこの場で明示されたからだ。まさかここで使ってくるなんて、と四季は蒼ざめる。
「だからね、そんな時にあなたの存在は──足手まといになるの」
「──っ! もういい、もうやめろ……!」
堪えきれなくなった四季が思わず止めに入る。美都がこれまでずっと共に過ごしてきた仲の良い友人を詰る姿を見ることに限界を感じたのだ。
すると視界の端から飛んできた声に応じるように、美都は瞳だけ彼の足元に向ける。
「どうして? だって四季が言っていた所有者の自覚ってこういうことだと思うけど」
「っ……!」
冷たく鋭い言葉で、反論の余地を与えない。これが本当に美都なのかと疑いたくなる程に。
確かに所有者としての自覚を持って欲しいとは伝えた。そうしなければいつまた彼女の身が脅かされるか知れなかったからだ。現にそうして事は起きている。確かに今美都が一人の友人に突きつけているのは紛れもなく彼女自身が考えた”所有者としての自覚”の主張だ。だが決して彼女たちの間柄を壊そうとしたからではない。こうして二人を引き離す理由にするために伝えた訳ではないのだ。
凛は終始無言のまま、出そうになる嗚咽を必死に飲み込もうとしているのか口元を手で覆っている。
だが水唯だけは、あの夜話していた内容から認識のずれがあると瞬時に考えていたた。あの時美都は、『自分は守ってもらえるような人間ではない』と卑下していた。確かに今日聞いた彼女の過去を聞けばその自己肯定感にも頷ける。水唯が今の彼女の話に違和感を感じたのは突然自分達が引き合いに出されたことだった。
(……なんだ──?)
必死であの時会話した内容を思い起こす。美都には確かに気持ちの矛盾が生じていた。それは周囲を巻き込みたくないという彼女の優しさが引き起こした感情だった。周囲、というのはあくまで美都以外の他人のことを指す。だが今彼女は引き合いに出すことでその中に四季と水唯を含めなかった。
(今のは夕月に対してだけ用いられた──……?)
なぜ、と深く考えずとも答えは明白だった。他でもない凛だからだ。
水唯がハッとして美都を見遣る。するとその視線に気付いたのか彼女は眉を下げ笑みを溢した。
「美都、君は──……!」
「これで本当に終わり。これ以上説明もいらないでしょ? 長く立ちっぱなしにさせちゃってごめんね」
水唯の言葉を瞬時に遮り、強制的に話を纏める方向に入った。これ以上問答は受け付けないという彼女なりの圧力だ。水唯も思わず怯んでしまい、言葉を飲み込む。だがここで終わりにしてはいけない事は、誰よりも彼が良く理解していた。美都の考えを把握した以上このまま引き下がってはダメだと解っている。だが今のこの状況からどう踏み込めば良いのか困惑していた。
(君は……本当にこれでいいのか──っ⁉︎)
その言葉は声にはならなかった。ギリッと奥歯を噛み締め手を握り締める。水唯の中にも迷いがあったのだ。
美都の気持ちも汲んでやりたい。しかしこのやり方が適切だとはどうしても考えられない。今この場で彼女の行動を嗜めたとしても、恐らく巧妙に丸め込むだろう。先程四季に対して行ったように。それに、と今度は己の胸に鈍い痛みが降りてきた。
自分は美都にとって、何者でもない。他二人と違って自分は明らかな第三者だ。だから彼女はここに置いたのかも知れない。何者でもない自分が口を出したところで、事態は変わりようがないのだ。つまりはこの二人の出方に委ねられている。
(っ……頼む──!)
この二人のどちらかが美都を止めることが出来なければ、後味の悪い想いを抱えたまま今後過ごすことになる。否、四季に対しては後日説明がされるかも知れない。それでも今この場でなければ事態は拗れるだけだ。
水唯の意に反して、凛と四季はその場に立ち尽くしたままだ。もはや彼女の瞳を直視することさえ出来なかった。
その雰囲気を察したのか美都は小さく息を吐いて留めていた足を動かした。向かうのは無論彼女の自室だ。
ダメだ、無理矢理にでも止めなければ。水唯はハッとして我を取り戻す。そして思わず四季を見た。同じく彼も美都の動向には気づいたようで彼女の後ろ姿を目で追っていた。しかし躊躇いが表情に出ている。四季自身も、止めなければと考えながらもこれ以上どこに理由を付けて彼女を引き留める材料にすれば良いか混乱していた。だが、と意を決して踏み出そうとする。手を離してはいけないと決めたのだから。そして同時にこの場を見かねた水唯が、四季をけしかけるため動こうとした。
「──……!」
その瞬間の出来事だ。視界の端で、その金色の髪が揺れ動くのを捉える。
それは、それまでずっと黙していた凛がようやく自らの意思で起こした初めての行動だった。




