不安を抱えたままで
下校時刻になった途端、二人は飛び出すように帰路についた。凛は委員会の仕事があり遅れてくるとのことで、久々に帰りは四季と水唯だけだった。
道中ほとんど会話らしい会話をしていない。互いに何かを考えていたのだろう。美都がいないだけでこんなにも静かなのかと思った程だ。
あの後も意識を戻さなかった美都を、羽鳥が家まで送ってくれたと聞いた。
午後の授業は、美都のことが気がかりで内容が身に入らなかったのは言うまでもない。ずっと頭の中を占領していたのは彼女のことだ。
『……美都の家は家庭環境が複雑なの』
『15歳の少女が背負うには重すぎるものを、この子は抱えているわ』
美都はこれまでそんな素振りを見せたことがない。否、見せないようにしていたのかもしれない。恐らくはその事実を知る者もほとんどいないのだろう。
彼女は笑顔を作ることで、自分の領域に踏み入る事をいなしてきたのだ。しきりに記憶を覗かれることを拒絶していた姿が思い出される。知られたくないことなのか、思い出したくないことなのか。彼女が何かを抱えている事は明白だった。だがそれをこれまで表に出さなかったということは、美都の中でそれ程口に出したくない理由があるのだと察することが出来る。
唯一、美都の記憶を垣間見た新見から自分たちにできる事は話を聞いて受け止めてやることだと告げられた。
あの姿を見て、踏み込むことに躊躇いがないわけではない。それでも新見は『彼女の話を聞け』と示唆したのだ。彼女から語られることが真実だと。あえて新見が語らなかったのは美都への配慮もあるのだろう。
今この時までずっと頭の中を巡っている。新見が言っていた『生きる事を望むのか』という言葉が。
考えている間にあっという間に家に到着した。
エレベータを下りて駆け足気味に自宅へ向かう。四季が鍵を開けて鉄の重たい扉を引くと中から足音がした。
「おかえりなさい」
出迎えてくれたのは弥生だった。今まで美都の看病をしてくれていたのだろう。
同じ家で暮らしながら彼女の変化に気付けなかったことに、四季は不甲斐なさを感じた。
「弥生さん……ただいま戻りました」
少しだけバツが悪く、俯き加減で弥生に応じる。彼女自身もいつもより覇気がなさそうに肩を竦めた。二人が靴を脱いだのを確認するとリビングへ踵を返す。
「2時間前くらいに一度目を覚ましたわ。今はまた眠ってる。薬が効いてるみたい。……日頃の疲れが出ちゃったのかしらね。熱もまだ下がり切ってないの」
「そうですか……」
美都の具合を聞きながら廊下を歩くと、リビングでは那茅が机に向かって何か描いている最中だった。
「ごめんね。那茅をひとりにするわけにいかなくて。リビングにいさせてもらったわ」
自分の子どもの世話をしながら、美都のことも看病してくれていたのだ。感謝こそすれ咎めることなどない。四季は首を横に振ると「ありがとうございます」と口にした。
「そろそろまた起きると思うわ。そうしたら何か食べさせて、薬を飲ませてあげてね」
そう言うとダイニングテーブルに既に用意してあった薬を指差した。櫻家の常備薬を持ってきてくれたのだろう。市販薬の中でも効力が高い薬が並んでいた。
四季が頷いたのを確認すると弥生は振り返って娘の名を呼ぶ。空返事の後、何か区切りがついたのか那茅がくるりと体勢を変え四季のもとへ走ってきた。
「しきくん」
いつもより表情の硬い那茅が気になり、彼女の目線の高さに合わせる。
すると幼子はおずおずとまごつきながら声を発した。
「みとちゃん、げんきないの。みとちゃんがげんきないと、なちもおかあさんもげんきなくなっちゃう……」
「……そうだな」
言葉通り肩を落とす幼子をあやすように、四季が那茅の頭に手を乗せ優しく撫でる。少しだけ目線の高い四季を見つめると那茅は不安そうに彼に訊いた。
「ねぇしきくん。みとちゃん、どこにもいかないよね?」
その言葉に思わず息を呑んだ。
自分は何も知らない。美都が考えていることを何も。彼女はどこかに行こうとしているのだろうか。
那茅の混じり気のない感情から、そのように解釈が出来てしまう。側で聞いていた水唯もグッと唾を飲み込み目を伏せた。
四季が何も言えずに硬直していると弥生が那茅の名を呼ぶ。それに呼応するように今度は母親のもとへと駆けていった。
「那茅はちょっと勘違いしてるの。混乱させてごめんね」
「いえ……」
足に抱きついた那茅の頭を撫でながら、弥生が恐縮して言う。その言葉に四季は立ちあがりながら首を横に振った。
那茅が不安に思う程のことがあったのだろうか。普段は無邪気な那茅でさえも、陰鬱とした雰囲気に呑まれてしまっている。美都の存在はこれほどまで周りに影響をもたらすのか。那茅の言うように、弥生もどことなく元気がないように思えるのは恐らく気のせいではない。
娘をあやしながら弥生が伏し目がちに口を開いた。
「落ち着いたら、私も四季くんたちに話したいことがあるの。もしかしたら美都ちゃんが話すかもしれないけど……」
「……何か、あったんですか?」
改まってそう言う弥生の顔は晴れやかなものではない。
只事ではない雰囲気に四季が恐縮気味に訊ねると、彼女は困ったように眉を下げて笑みを作った。
「……そうね。ちょっと……いろいろ美都ちゃんと話をしたの」
明らかに弥生の顔が強張ったように感じた。言葉の途中で彼女は不意に視線を落とす。美都との話し合いの中で、何かしら物事が動いたことを示唆するように。
普段の弥生とは違う、彼女自身もどこか戸惑いのある様子だ。
どう声をかけようか決めあぐねていたところ、弥生はすぐに顔を上げて気丈に続けた。
「私は大丈夫よ。美都ちゃんのほうが混乱してるはずだから。身体も心も……いま一番苦しんでるのはあの子よ」
尚も足元の那茅に手を触れたまま、弥生はポツリとそう言い目を伏せた。美都と話したことを反芻しているようにも感じる。
弥生の話に、四季も水唯も更に視線を落とし口を噤んだ。
空間にしばし静寂が訪れる。すると那茅が顔を上げ、不安そうに母親を見つめた。それに応じるように弥生はふっと笑みを作り頭を撫でる。あの時に別れた彼女の面影を実の娘に重ねるように。あの頃とは違う立場の自分が出来ることは何なのか考えながら。
「私が言うことじゃないかもしれないけど」
そう前置きをして、弥生は再び四季たちの方を向いた。
「──何があっても、美都ちゃんの手を離さないであげてね。あの子は今とても不安定なところにいるわ。あなたたちが……繋ぎとめてあげて」
どこか懇願するように、弥生は少年らに向かって想いを説いた。
同じような内容を羽鳥に言われていた。”大切だと思うのなら、何があっても手を離さないように”と。
四季と水唯は小さく返事をした。
羽鳥もそして弥生も、美都の状況を知っているのだろう。恐らくは美都が考えていることも理解している。その上で自分たちに言うのだ。それは美都が抱えているものに関わってくるのだろう。大人たちが口を噤むほどの、彼女のこれまでに。
二人の声を聞くと弥生は那茅に「戻りましょうか」と目配せした。
幼子は頷いた後、母親の足元から離れリビングテーブルに戻る。出しっぱなしにしていた用具を片づけ脇に抱えると、その小さな手に画用紙を握りしめて近くの水唯の元へ向かった。
「これ、みとちゃんに」
水唯を見上げながら手に持っていた画用紙を差し出した。
那茅の手に握りしめられている画用紙にはクレヨンで彩られた絵に『はやくげんきになってね』とメッセージが描かれている。
水唯は那茅の手からそれを受け取ると慣れない所作で彼女の目線まで屈んだ。
「渡しておくよ」
ぎこちないながらも笑顔を見せる水唯に、那茅は安心したように頷いた。そのやりとりを見ながら弥生は側に佇んでいる四季に声をかける。
「何かあったらいつでも呼んで。明日もお休みするでしょうし、二人が学校に行っている間はまたこっちにいさせてもらうわね」
「はい。ありがとうございます」
四季が会釈をすると、那茅が弥生の元へと駆けてきた。
那茅の背中に手をかけ玄関へと促す。母娘は残っている二人に「それじゃあ」と言ってリビングを後にした。
努めて明るく振る舞ってはいたが、明らかに普段とは弥生の様子が違った。それは美都と交わした会話によるものなのだろう。それでも明日も変わらず看病に来てくれるというのだから、美都との間に確執があったわけではないようだ。
四季は深く息を吐いた。
「……行かないのか?」
背後からする水唯の声に振り返る。装飾語はないが、彼が示唆していることは解った。
水唯から視線を逸らし、一拍考えた後四季はゆっくり口を開いた。
「何か胃に入れやすいものを作って持っていく。先に行ってくれ」
「……わかった」
返答に特に言及することなく、水唯はただ了承の相槌を打って部屋へ向かって歩いた。その姿を見送ると、四季はひとりになったリビングで口内でひとりごちる。
本当は一刻でも早く、美都と話がしたい。
昨日の今日だ。この場所で言い合って以来、彼女と会話をしていない。たった一日のことなのに、その一日がとても久しく永く感じる。
あの時もっと自分が感情的にならなければ、こんなことにならなかったのではないだろうか。後悔しても今更遅いとは解っているが、冷静になれなかった自分にほとほと嫌気がさす。
最近の美都が、どこかよそよそしい感じが気に入らなかった。彼女の考えていることが解らず、子どもの様にその態度に噛みついてしまった。
何か悩んでいるなら相談して欲しかっただなんて傲慢だ。それこそ自分から声をかけるべきだったのに。例え彼女がそこでいつものように返したとしても、そのまま追及すれば事態はここまで悪化しなかったはずだ。
後から後から後悔が波のように押し寄せる。
大切だからこそ、怖い。美都の考えが解らないから。いつ、自分の元からいなくなってしまうのではと。
心のカケラを奪われて、まるで人形のように微動だにしなかった美都の姿が脳裏に焼き付いている。
あれが結果だ。守れなかったものの。自分の弱さの。
自分の感情が空回りしている。彼女を失いたくないと思う程、不安な気持ちが大きくなる。
「──……っ」
奥歯を噛みしめ、顔を歪ませた。
自分の不甲斐なさに辟易とする。それでも今は目の前のことからやるしかない。美都の話を聞く。怖がっていては何も解決しないのだ。
四季は思いきり頭を振ると鉛のように重くなった足をようやく動かした。
◇
水唯は自分の部屋へ鞄だけ置くと制服のまま美都の部屋へ向かった。
ノックをしようかと迷ったが寝ていたら起こしてしまうかもしれないと思い、ゆっくりと扉を開ける。部屋の照明は弥生が配慮したのか暗めに設定されており、眠るには眩しすぎない灯りだった。
そっと扉を閉め、足音を立てないように美都の方へ近寄る。手にしていた那茅に託された絵をひとまず彼女の勉強机に置いた。
完全な照明ではないが、学校にいた時よりも幾分か顔色は良い。呼吸も安定しているようだった。
水唯はその姿に少しだけ安心したように息を漏らした。そうは言っても熱のせいでいつもよりも顔は赤らみ苦しそうに見える。額には熱冷まし用の冷却シートが貼られていた。前髪をかき分けて、冷却シートの上から自分の手を重ねる。
(まだ……熱はだいぶあるのか)
無理もない。学校で測ったときは38度近かったと聞いている。
この状態のまま戦うほうが無茶な話だった。だいぶ己の身体を酷使したに違いない。
せめて早く熱だけでも下がってくれれば、と少しだけ自分の手に彼女の熱を移動させる。すると直後、美都が小さく呻いた。
咄嗟に手を離したが既に遅く、少女は瞼を震わせるとゆっくりと目を開いた。
「……っ、水唯……?」
「すまない、起こしたか?」
光が眩しかったのか、美都は薄眼で目に入った情報をポツリと呟く。
熱を下げる為とはいえ、結果的に彼女を起こしてしまったことに対して水唯は恐縮して肩を竦めた。
すると美都は頭を枕に乗せたまま顔の向きを水唯の方へ向けた。
「ううん。おかえり、水唯」
「──ただいま」
彼の謝罪を否定すると、いつものように柔らかい声でその名を呼んだ。しかし寝起きだからなのか覇気はない。
水唯は美都の声に応答すると、そのまま弥生が使っていたであろうベッドの傍にある椅子に腰かける。
思いがけず声が聞けて更に安堵の息を漏らした。ちゃんと、意識が戻っていることに。顔を見に来たは言いものの彼女に何を話せば良いのか決めあぐねていたところ、美都が自分を横目で見て呟いた。
「手……気持ち良いね、冷たくて」
まだ熱を帯びた表情のまま、水唯に微笑みかける。
いつもの、彼女だ。
水唯は面食らいながらもその呟きに答えるよう同じように笑みを返した。
「俺には、水の加護があるから」
「……そっか」
名は体を表すとは良く言ったものだ。自分に関しては恐らく逆だとも思うが。水に関する力を持っていると彼女には伝えてある。だから驚くことも無くただ納得したのだろう。
水唯はそのまま目を伏せる。いつも通りとはいえ、まだ熱は高い。話すなら手短にした方が良さそうだと考えて。肩を竦めたまま声のトーンを落とした。
「……ごめん。新見のこと、ちゃんと話せばよかった」
こうして謝るのも今更だ。起こってしまったことを変えることは出来ない。それでも新見の目的を察していながら、きちんと伝えなかった自分に非がある。余計な情報はただ惑わす材料だと判断した自分が間違っていたのだ。
美都は目を細めると枕の上で首を小さく横に振った。
「水唯のせいじゃないよ。知っていてもあの時はどうすることも出来なかった。それに……わたしも、もっと警戒すべきだったのに……」
新見の方が何枚も上手だった。例え昨夜水唯に新見の目的を聞いていたとしても、あのように拘束されてしまえば抗うことは不可能だ。
その前に何とかするべきだったとは解っている。それでも。
「どうすれば、正解だったんだろう……」
水唯から目線を逸らし、天井を仰ぎながら美都はポツリと呟いた。
今日のことは本当に不運な偶然が重なった出来事だ。しかし結果的に守り切ることが出来なかった。新見の勤務の日ではないからと油断していた面も大いにある。
春香を守るための選択をした。あれは間違っていないはずだ。あの時、新見の言葉に惑わされずカウンセリング室に向かわなければよかったのか。それとも教室に入る手前で拒否していれば。
選ばなかった選択肢ばかりが頭の中で巡る。誰も傷つかない方法があったのではないかと考えてしまうのだ。どうしても情けなさで顔が歪む。
無言で俯く水唯へ再び視線を戻すと、彼の頬にかすり傷が出来ていたのが見えた。思わず布団から手を出し、彼の頬に触れようと手を伸ばす。
その仕種に気付き、水唯は顔をあげた。
「痛かったよね。……ごめんね」
あの時に出来た傷だということはすぐに解った。良く見ると手にも絆創膏が貼られている。虚ろな意識の端で水唯たちが戦っている声が聞こえていた。
頬に触れる前に、美都は力無く腕を布団に下ろした。
すると水唯は一連の彼女の想いを受けて一心に首を横に振る。
「大丈夫だ。俺も四季もそんなに柔じゃない」
君の苦しみに比べれば。
後に続く言葉を飲み込み、心配させないよう笑顔を作る。
そんな水唯を見て、美都は再び目を逸らすと一度深呼吸をした。そして出した方の手で布団を握りしめ身体を起こすため力を入れる。介助しようと立ち上がった水唯より先に自力で上半身を起こしベッドに添わせた。
「起き上がって大丈夫なのか?」
「うん。ずっと寝たままでも、ね」
まだ少し荒い呼吸を整えながら、水唯に首を傾ける。不安そうに美都の事を眺めながら、彼は再び椅子に腰かけた。
どうやら力は戻ったらしい。今感じるのは恐らく風邪による倦怠感だろう。
美都が上半身を起こしたのには理由があった。水唯と同じ目線で話たかったからだ。
「──新見先生の目的は、わたしの力と記憶って言ってた。ねぇ水唯、力ってなんなの?」
少女からの問いに水唯は一瞬視線を落とす。だがその質問が来ることが解っていたかのように、彼は一息ついて説明を始めた。
「……生きるための力。体力、知力、精神力……あるいは潜在能力もそうだろう。それらをまとめて生命力と呼ぶ」
「生命力……?」
「そうだ。君のそれは、人並み外れている。鍵の影響もあるのかもしれないがそれにしてもだ」
水唯から告げられたことに声を詰まらせた。
そう言えば新見も同じようなことを言っていた気がする。人並み外れた力。しかもそれは日に日に増していると。
新見はその力を更に引き上げるために宿り魔を遣わせていた。
「自覚は……ないか」
彼の言葉の途中で首を横に振った。
自分の生命力が強いだなんて感じたことが無い。否、むしろ信じられない。
戸惑いを隠しきれない表情の美都を見ながら水唯は続ける。
「力が強いことで日常生活に支障を来たすことはない。だが、強すぎる力は常人でない証となってしまう」
「……普通の人じゃない、か。それももう今更だね」
水唯から目を逸らすと、美都は自虐的に苦笑する。
普通の人間と違うことは守護者になったときからそうだった。更に、鍵の所有者と判明してからはその考えが顕著になった。
だがその差が自分を苦しめる要因となっている。なぜなら、それまで自分は他の子と何ら変わらない「普通の人間」だったからだ。殊、自分に関しての評価はそうでしかなかった。特技も才能もないごく普通の中学生だったのだから。
「わたしの力……は、具体的にわかるものなの?」
先程の自分の説明が失言だったかと困惑していた水唯は、その質問を美都から訊ねられると一拍置いて口を開いた。
「可視化するのは難しいが、数値でなら比較は出来る。普通の人が1だとすると、弥生さんみたいに鍵に関わってきた人間は2~3、俺や四季は4~5。君の場合は、俺たちの倍以上……10を平気で振り切る」
その説明を受け、美都は再び眉間にしわを寄せ口を閉ざした。新見が言っていたことを思い出しながら頭の中を整理する。
自分の力は鍵の所有者だと判明してからその強さが顕著になったのだと指摘していた。守護者のときが四季たちと同じくらいだとしたら、所有者だと判明したことによって倍に跳ね上がったということになる。
では、単に所有者としての力がプラスされたのかと言えば彼女の話し方からしてそうでもないように思えた。抑々所有者には守るための力は無い。だとしたら、今まで自分の内側にあった力が『所有者』だと判明したことによりトリガーとなり、覚醒したのではないか。
そう考えていくとまた新たな疑問が生じる。『自分の内側にあった力』だ。
「なんでわたしにそんな力が──……」
美都がポツリと呟いた。
もちろん自覚したことはない。だが特殊な人間が見れば目に見えて判るのだろう。
だからこそ狙われた。その力の使い道は定かではないが、明らかに善くはないことだ。
思考に耽っていると水唯が先程の呟きを拾うように付け加えた。
「新見はその強すぎる力の原因が君の過去にあるんじゃないかと結びつけていた。だからあんな手を使ったんだ」
話し始めた際に一瞬だけ水唯に視線を向けるが、ある単語をきっかけに美都はすぐにまた目を逸らした。
また『過去』だ。その単語を耳にして目を細める。
美都は深く息を吐くと伸ばしていた足を身体の方に引き寄せた。布団の上から膝を抱えると膝頭に額を乗せ、苦笑いを浮かべる。
「わたしの過去なんて見ても、分かるわけないのに……」
力に関しては自分でも分からないことだ。まして他人が分かるわけがない。
美都の表情を見て、水唯は徐に押し黙った。彼は恐らく訊く事を我慢してくれているのだろう。
自分の中で、思い出したくないことや忘れたままでいたかったことがあった。だからあれほど執拗なまでに拒否をした。
その姿を目の当たりにして、気にならないわけがない。それなのに先程から自分のことを配慮して訊かないでくれているのは彼の優しさだ。水唯の優しさがありがたくもあり、申し訳なくもある。特に彼には甘えてばかりだ。頼りすぎている節があると自覚している。
「……ごめんね、水唯。せっかく水唯が忠告してくれてたのに……結局巻き込んじゃった」
顔を上げて水唯に向き直る。すると彼はバツが悪そうに眉を下げ、首を横に振った。
「いや、新見を止められなかった俺の責任でもある」
「水唯が自分を責めることないよ。わたしがもっと、ちゃんとしてれば……」
否定する彼を宥め、堂々巡りなやり取りが始まろうとした際。自分の考えを口にした瞬間脳裏に新見の言葉が過った。
自分が意識を失う前、彼女は何か言っていなかったか。混濁する意識の中、自分の耳元で囁いていた言葉の破片を思い出す。『記憶』と『鍵』について──。
力との起因はわからなくとも、美都にも一つだけ気になることがあった。
あの黒髪の女性。あれは恐らく自分の記憶ではない。
弥生のように忘れていた記憶ならまだしも、あの黒髪の女性に関しては思い当たる節がないのだ。
新見は曲がりなりにもカウンセラーだ。もしかしたらあの女性が何者か判ったのだろうか。
「──新見先生は、何か言ってた?」
半ば無意識に疑問を口にする。
自身の記憶に関しても気がかりだった。彼女だけが知り得た情報を、果たして彼らには伝えたのか。
すると水唯は小さく首を振った。
「……彼女からの伝言だ。体調が戻って来る気があるならまた自分の元へ来い、と。自分が知り得る情報を教える。そう言っていた」
「──……そっか」
「判断は君に任せる」
そう言えばそんなことを言っていた気がする。水唯から経由された情報でようやく概要を思い出した。
しかし水唯から自分のことについて何も出なかったということは、新見は多くを話さなかったようだ。
正直新見の元へ再び赴くのは気が引ける。だが知りたい情報があるのも事実だ。その葛藤が自分の中で落とし込み出来れば、というところか。
「美都……大丈夫か?」
よほど難しい顔をしていたのだろうか。水唯が心配そうな顔で、自分に問いかけてきた。恐らくは体調面も気遣ってくれているのだろう。
「うん。水唯こそ大丈夫だった? 新見先生と……、その……」
新見は水唯にとってかつての同胞だ。それに結界術の師とも聞いている。歯切れが悪くなったのは、彼が新見のことを下の名前で呼んでいたからだ。以前はそれなりに近しい所にいたのではないのだろうか。それが敵対するまでになってしまった。その事に対して水唯は心を痛めていないだろうかと心配なのだ。
すると水唯はその質問に面食らったように驚き、困ったように少し苦い笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。俺のことは気にしなくていい。元々彼女とは意見の相違があったから」
「そう、なんだ……」
「あぁ。彼女も難しい人だから。あまり気にしすぎてもしょうがない」
水唯にも何か思うところがあるのだろう。彼もまた考えるよう一つ息を吐くと、心配させないよう笑顔を見せた。
気を遣わせてしまっているようで忍びないが、こうして水唯と話しをしていると安心する。そう思うのは、自分でもこの後のことに緊張しているからだろう。
どんな顔をして会えばいいのか。何を話せば良いのか。途端に落ち着かなくなってきた。
昨日の今日だ。あれだけ啖呵を切っておきながら自身のことを守れなかった。
自分でも不甲斐ないと感じるのに、彼は一体どういう想いでいるのだろう。
(……いやだな)
美都は思わず屈めたままの膝頭の上に顔を近づけ、口を両手で覆った。
逢いたいのに、逢いたくない。こんな気持ちになるのは初めてだ。たぶんそれはまだ自分の中で気持ちが整理しきれていないからだ。
眠る前に考えていたこと。
彼の事が大切だ。だからこれ以上自分に関わって欲しくない。関わらせてはいけない。
それなのに、彼の声が聞きたいと思ってしまう。
(我儘だ、わたし)
傷つけたくない。離れなきゃいけない。だから傍にいてはいけない。
決めたはずの気持ちが揺らいでしまうのは、夢で聞いた声のせいもあるだろう。『それが、君の幸せ?』と問いかける謎の声。
その答えをずっと探している。
「……四季のことか?」
無言のまま美都を見つめていた水唯が不意に声をかけた。
その透明感のある響きにハッとして彼に向き直る。
「……うん。四季はまだ怒ってるのかな、って」
自業自得なのは重々承知だ。だから四季が怒っていても当然だと弁えている。気まずさが抜けないのは、膠着状態のままこんなことが起こってしまったからだろう。
だから逢いたいのに逢うのが怖いと思うのかもしれない。現にこの場に四季がいないのも気がかりだ。
少し不安げな表情を見せると水唯はそれを否定するように優しく言った。
「怒っていない。むしろ逆だ」
「逆?」
「考えすぎて大人しくなってる。あいつは君のことになるとすぐ感情的になるからちょうどいいんじゃないか?」
その淡々とした口調に目を瞬かせた。
更に冷静に四季の性格を分析する水唯が少し可笑しくて、自然と口元が綻ぶ。
「水唯って、なんだかんだ四季に厳しいよね」
思わずクスクスと笑い声が出てしまった。
美都の言葉に今度は彼の方が虚を衝かれたようで、目線を逸らし片手を顎に当て言い淀む。
「厳しい……か? まあ一番年上なんだししっかりしてくれとは思ってる」
バツが悪そうに言い訳をする水唯がさらに可笑しく見えて笑いを堪えるように口元を押さえた。良い関係性が築けている証拠だ。
感情が先に出る四季と物事を冷静に分析できる水唯。相対する性格がちょうど良いのかもしれない。
四季のおかげか水唯もこの家に来てから口数が増えたように感じる。互いに信頼できる間柄になっているようだ。だからこその評価なのだろう。
水唯がこの家に来てくれてよかった。無論現状一番被害を被っているのは彼だということは承知しているが、そのおかげで儘なっていると言っても良い。
美都は笑いを収めると一つ息を吐いた。
久々に自然に笑えた気がする。そのことに自分で少し安堵した。
水唯もいつものように柔らかく微笑む。
「君の笑顔が見られてよかった。そうだ、あとこれ」
そう言うと何か思い出したようにおもむろに立ち上がり、机に上に置いてあった画用紙を美都に手渡した。
「あの子から。だいぶ心配してた」
「! なっちゃん……」
そこには幼い字で自分を労わる言葉が描いてあった。
那茅にまで心配をかけてしまっていたのか。不意に眠る前に彼女と交わした約束を思い出す。絵と文字から伝わる温かい気持ちに胸が詰まる想いだった。
「──ありがとう、水唯」
体勢を整えて改めて礼を伝えた。
まだ互いに話したいことがあったのだが水唯はいち早く次客の気配に気付いたらしい。
水唯の動作から目を離さない美都に「何かあったら呼んでくれ」と言って肩を竦めると扉に手をかけた。
開けた扉の先にいた人物に、美都に聞こえない程度のトーンで声をかける。
その雰囲気で誰かはわかった。だから心音が一つ大きく跳ね、身体が強張る。
水唯に肩を叩かれると彼と入れ替わるように入室してきた四季の顔を、美都はただ無言で見つめた。




