夢の世界
今日は終業式。高校三年生にとって、高校生生活最後の夏休みが訪れた。彼女もその高校三年生の一人。
終業式は午前中に終わり、日はまだ高く、しかし、教室内は凄然と静まり返っている。
いつもの下校時間ならば、沈み行く夕日を見ながら帰るが、今日は天頂に高く上った太陽に照らされながら帰ることになる。
今日この日は、眩しさに眼を細めながら、生徒たちは賑やかに帰って行く。
「恵美、待って恵美」
と、下駄箱から出たばかりの少女に、声をかける人物。
声をかけられた少女、恵美は声の主を、校舎を出たすぐ傍で待つ。
「恵美、あんた夏休み中海外に居るのよね?だから、ちょっと早いけど誕生パーティー開かない?主役が居ないんじゃ面白くないわ」
そう言って、恵美の肩に手を置き、教室から走ってきたのだろう、肩を上下させながら言ったのは、小学生以来の親友
「沙羅・・・うん、良いよ。出発は明後日だし。準備は大体終わったから。どうせ泊まるつもりなんでしょ?明日のお昼くらいまで、一緒に騒ぎましょ」
ニッコリと嬉しそうに微笑んで、恵美は答えた。
「決まり!お菓子持って行こうっと」
こちらもウキウキと楽しんでいる。
二人並んで、お菓子の内容を指折り数える。
「ケーキはモチ要るでしょ。ポテチにポッキーにジュースも要るし・・・あーん、コンビニで目に付くもの端から買っちゃおう」
そんな沙羅に対して恵美は
「お菓子だけじゃおなかすくよ。おにぎりとかサンドイッチも買おう」
などと楽しげな会話が聞こえてくる。
そんな二人の背後から、一人の男子生徒が声をかけた。
「恵美、夏休み中に誕生日プレゼント渡せそうにないから、今日お前ん家行っても良いか?」
楽しげな女二人の会話に、割り入って申し訳ないと、罰の悪そうな顔で、男子生徒は後ろから歩いてくる。
「・・・柳。ごめんなさい今日は・・・」
恵美が柳に否の言葉を告げようとした時、今度は沙羅が割り入った。
「恵美、私は後日で良いよ。彼氏さんと一緒に居な。ただし、埋め合わせ料は高いよ」
沙羅は、意地悪にそう言って、ウインク一つを挨拶代わりに足早に帰って行った。
「悪い、先に約束していたんだな」
柳はこれ以上無いほど、申し訳なさそうな顔をして謝った。
「うん、夏休みのど真ん中が私の誕生日だからって、気を利かせてくれたの」
そう恵美が言うと、ますます罰の悪そうな顔に柳はなるので、恵美はあわてて付け足した。
「あ、でも大丈夫。良いのよ、柳。そんなに気にしないで。沙羅も良いって言ってくれたし。沙羅の好きそうなお土産でも買って、埋め合わせしてもらうわ」
ニッコリと微笑み柳を励ました。
「帰ろう」
ニコニコと微笑みながら、柳を促した。怒る事も無く、ただ嬉しそうに。
「・・・ああ」
そんな恵美を見ていた柳も、何だが嬉しい気持ちにさせられた。
帰り道は普段と変わらない。ただ、部活をしている柳と、していない恵美で、帰る時間が違うだけ。
久しぶりに二人で帰る道のりは、夏休み中に何をするかで、盛り上がった。そんな楽しい時間は瞬く間に過ぎ、二人の自宅が見えてきた。
「すぐに行くから待っていてくれ」
そう言われて、恵美は自宅で待っていた。
柳の家は、恵美の家から二件挟んだ隣。家庭の事情ゆえ、柳も恵美も、今現在一人暮らしの状態だ。
柳と別れてかれこれ三十分。柳の言う誕生日プレゼントを、ワクワクしながら待っていたが、柳はなかなか訪れてこない。
待ちくたびれた恵美が、ベッドでウトウトしていると、家のチャイムが鳴らされた。
「遅い」
恵美は短く柳に文句を言った。
柳は走って来たのか、肩を大きく上下させていた。
「悪い」
柳も短く非を詫びる。その手には、袋に入った何か物を持っていた。
恵美は、柳を自室に招きいれた。
「ジュースで良い?」
テレビの前に落ち着いた柳を見て、恵美は尋ねた。
「・・・出来ればグレープジュース」
遠慮がちに、柳がそう答え、恵美は笑いながら、部屋を後にした。
恵美が、自室にジュースと少しのお菓子をを携えて戻った時、柳はテレビのプラグに、ゲーム機のコードを差し込んでいた。
「柳・・・ジュース持って来たよ」
恵美が部屋に入ったのさえ気付かず、黙々と作業を続けていた。
「有り難う、後で貰うよ」
何をそんなに手間取るのか解らないが、恵美が腰を据えてから、かれこれ十分は経った。一人でつまらなさそうに、ジュースやお菓子をを口に運んでいた恵美に、柳はやっと顔を向けた。
「やっと出来た、悪い準備に手間取った。付けるのも大変だけど、外すのも大変。これ外してて遅くなったんだ、って言い訳だね。でもまぁ原因の一つ」
そう言って、柳はジュースを一気に飲み干した。
「・・・これ何?」
恵美はゲームのことには疎く、目の前にあるゲーム機を、不思議なモノでも見るかのような目で見ている。
「今人気の、ドリームワールド。プレイヤーの精神体を、ゲームの中に送り込むんだ。ソフトをセットすれば、その中の主人公になれたり、登場人物になれたり。いろいろ出来る。夢のような世界だね」
ニコニコと得意げに、柳は説明をした。もっとこのゲーム機についての説明をしたいところだが、恵美には、馬の耳に念仏?暖簾に腕押し?・・・ヌカに釘。
「・・・ああ、だからドリームワールド?面白そう」
そう言うか否や、恵美はゲーム機を指先で突付き始めた。どんな形にしろ、恵美がゲームに興味を持った証拠だ。
「やってみる?」
柳は嬉しそうに、ケースに入ったソフトと、コントローラーを恵美に差し出した。
「・・・良いの?」
恐る恐るとその二つを受け取り、心配そうに聞いた。
「その為に、持って来たんだから」
と言うと、柳はゲーム機の電源を入れ、あとはソフトを入れるだけ、の状態まで準備を進めた。
恵美は恐る恐る、題名も何も無いただ真っ白のソフトをセットし、コントローラーを握り締めた。柳に指示されるまま、ニューゲームを選択、スタートボタンを選択した瞬間、恵美の身体が大きく傾ぎ、その場に倒れこんだ。
「入ったか・・・悪いな恵美、約束なんだ。俺もすぐに行くから」
柳はそう意味ありげに零すと、恵美の手からコントローラーを離した。精神体、唯一の出入り口である接点を、恵美は失った。そっと恵美の体を抱き起こすと、近くにあるベッドへと横たえた。
それから柳は、すべての作業を逆に繰り返し、自宅へと帰って行った。少しの間携帯を弄っていたかと思うと、ゲーム機をもう自室でセットしなおし、コントローラーを自ら握った。
一方恵美は、着地に失敗したのか、尻餅を着いて痛そうにしていた。
「痛い。何?ここ・・・ここがゲームの世界?にしては・・・何もない」
そう、ここは恵美が言うとおり、何もない真っ白な世界だった。しかも、恵美はこの時点で始めて、重大なことを思い出した。
「私・・・出る方法教わってなかった・・・どうやって出るんだろ。最後までしなきゃ出られないのかな?・・・な、何かあるよね、何にもないって事・・・無いよね・・・歩こうか」
恵美は不安になりながらも、希望を忘れない。震える足を、一歩一歩確実に前に出し、ユックリと歩き始めた。
しかし、行けども、行けども、何かに辿り着くという事は無く、前後・左右・天地、飽きるほどの白が続いている。
ここまで全面が、白一色となると、立っているのか、横になっているのか、解らなくなる。浮いた感覚にさえさせられる。
「柳ぃ」
寂しさと、疲れから恵美はその場に座り込んでしまった。
零れ落ちる涙を、そのまま放っておき、ついには横になって、恵美はユックリと目を閉じた。睡魔に襲われ、遠のく意識の中、かすかに聞こえる音を感じ取った。
重い瞼を懸命に開き、辺りを見回すも、何も無いことを思い知らされる。恵美はそのままユックリと、睡魔に身を委ねた。
どれくらい眠ったか、重たい意識の中、水の滴る音が響いた。目を開き、辺りを見回す。
だが何もない。
しかし、音は次第にハッキリと聞こえ始めた。
「水の・・・音?」
重い身体を持ち上げ、耳を済ませた。微かに聞こえるその音は、確かに水の音をしていた。
その音に励まされるように、恵美はその音の聞こえる方へと、確かな足取りで歩いて行く。そこにあったそれは、宙から滴り落ちる、寂しげな滝。今にも消え入りそうな、その小さな滝に、手を差し伸べ水を受け取る。
「・・・冷たい」
寂しげな微笑をもらした恵美の瞳にも、一筋の水が・・・。水というごく有り触れた存在が、寂しさに満ちた恵美の心を、潤した。
その手に受けた水を一口、口にし嚥下した。その水は、今までに飲んだ事の無いような、言葉では表現しにくい味を含んでいた。
「・・・美味しい」
その言葉を搾り出すのに、暫らくの時間を要した。
しかし、次の瞬間、水は跡形もなく消え去ってしまった。下に溜まっていた水溜りさえも、無くなっている。
また、この世界に一人にされた。そんな寂しい気持ちに、させられた。
それでも何故か、恵美の心は温かかった。希望に満ちていた。
目を閉じると、また聞こえて来そうな気さえした。そう思うと、不安になどならなかった。ユックリと目を閉じ、耳を済ませる。
また聞こえてくる。
別の方向から、微かに。その音を頼りに、真っ直ぐ歩く。次第にその音は、ハッキリと聞こえ始めた。
しかし、その音は水の音ではなかった。何かの鳴き声のような、何かの擦れる音のような。今にも消え入りそうな・・・
ふと、目を開くと、蒼い点のようなものが目に入った。随分と距離の開いた先に。
この白一色の世界に、初めて違う色、違うものを目にした。嬉しい気持ち反面、不思議な気持ちがあった。恵美はその蒼い点に、ユックリと近づいて行く。
次の瞬間、蒼い点は消えてしまった。恵美は、蒼い点のあった場所に走りよった。
しかし、点は跡形もなく消え、恵美に焦燥感を与えるだけだった。
矢張り幻だったのかと、自分が見せた幻だったのかと・・・大きく肩を落とし、その場に蹲ってしまった。
そんな時、恵美の意思とは裏腹に、
「ああ、やっと来てくれた。待っていましたよ」
すぐ近くからそんな声が聞こえてきた。ビクッと肩を大きく跳ね上げ、辺りを見回した。
だが、周りには誰も居ない。何もない。
「ここですよ」
優しげな口調が、恵美の耳元から聞こえる。聞こえるほうへと首を捻り、目を落とした。 見えたのは、恵美の肩の上に、乗っているモノ。
「へ・・・ヘビ!」
恵美の肩に乗る、その蒼い蛇に驚き、その蛇を払いのけた。
「驚かせてしまいましたね。申し訳ない」
蛇はそう言うと、地面に落ちる前に、器用に浮き上がった。
「勝手に自己紹介させてもらいますね。私は蒼龍。名前はナギ」
ニコニコと微笑むナギ。
そんなナギに、恵美は指を刺し、口をパクパクさせていた。
「・・・・・・ヘ、ヘビは、喋ったりしないわ」
やっとの思いで搾り出した言葉は、これだけだった。
優しげに微笑むナギは、少しずつだが恵美との距離を縮めようと近づく。しかし、恵美はそのヘビと距離を置こうと少しずつ後退する。
「僕はヘビではありません。龍です。だから話すことも、飛ぶことも出来ます・・・逃げないでください、貴方と話がしたいのです」
自分の存在を訂正し、恵美に優しく語りかける。それでも、恵美は後退を止めない。
怖がる恵美を見て、ナギは前進を止めた。それを見て恵美は、三歩で後退を止めた。
距離は優に三メートル。
「僕は、この白い世界から出る術を、知っています」
ナギは突然、真剣な面持ちになり、核心を突いた。
恵美は勿論、その言葉に興味を惹かれない訳が無かった。恵美の顔色の変化を悟り、ナギは続ける。
「この白の世界から出るのは、僕一人では出来ません。あなた一人でも出来ません。一組でなければならないからです。協力して・・・貰えませんか?」
微笑みながら、しかし、恵美を伺いながらナギは聞いた。
突然現れた、得体の知れない蛇・・・改め、龍。しかし今は、何でも良い、この気が狂いそうにまで真っ白な世界から、少しでも早く出たかった。
それに・・・
「・・・協力してもらうのは・・・私のほうだわ。・・・うん、一緒にこの白い世界から出ましょう」
これまでとは、打って変わっての恵美の笑顔。とても嬉しそうに、楽しそうに笑っている。
「この先に、ゲートがあるんです。そこまで行く事になりますが・・・歩けますか?」
恵美の、疲れ切った身体を心配しつつ聞いた。
「大丈夫よ。まだまだ歩けるわ!・・・そう言えば、私の自己紹介まだだったわね。私は恵美。長男が生まれた後、子供に恵まれなかった両親が、子供生まれる前に名前だけ決めてたらしいんだ。で、生まれた私が恵美・・・・・・生まれてきたのが男の子だったらどうなっていたんだろうね?」
嬉しそうに、自分の出生話をする恵美。
「ご両親のこと・・・お好きなんですね」
歩く恵美の傍を、浮遊しながらナギが聞く。恵美は不思議そうに、どうして?と聞かんばかりの顔をしていた。
「とても嬉しそうに話してます。ご自分の名前、お好きなんでしょう?その名前を付けてくれたご両親も、お好きなのでは?」
恵美は少し考え、こう答えた。
「小さい頃、父さん死んじゃったんだ。女手一つで、子供二人育てるのは難しいからって、兄さんは養子に行ったし。母さんは私育てるのに大変だからって、家に帰ること滅多になかった。イタリアにおじいちゃんとおばあちゃんが居るけど、家では一人で居ることが多かった、寂しかった。それでも家に居たのは、父さんの思い出が沢山あるからかな。・・・そのうち母さんも働き詰めで、過労で倒れたまま死んじゃった・・・でも何でかな、嫌いになんてなれない。生んでくれて有り難う、育ててくれて有り難う。そう思っちゃう・・・初対面の人に、こんな事話すの可笑しいね。でも変、ナギって懐かしい感じがする」
恥ずかしげに笑う恵美に、ただただナギはニコニコと微笑んでいた。
「でもね、私、父さんは生きてるって信じてる。だって母さんいつも写真に向かって、話しかけてた。『いつか帰ってくるあなたのために、部屋はいつも綺麗にしてる。早く帰ってきてね』って。母さんの顔、なんでかな、輝いていた」
そう話す恵美の顔も、どこか輝いている。
二人連れ添って、どのくらい歩いたのだろうか。随分と、長い距離を歩いた気がする。測るものが周りにないので、全く見当が付かない。
「ああ、見えてきました」
ナギが途端にそう言った。ナギの視線の先に、恵美も視線を合わせると、少し距離を置いたそこには、薄く光るものがあった。
「ゲートです」
近づくにつれて、それが円形のものだというのに気付く。大きな円の中に、小さな円が四つ。それぞれ色が違い、四色、規則正しく、上下左右に並んである。
「上の黒が玄武で北、右の蒼が蒼龍で東、下の朱が朱雀で南、左の白が白虎で西を意味します。中国で四神と呼ばれています」
スラスラと、このゲートの色が示す意味を説明していく。東の蒼龍は僕ですね。と付け加えた。
「どうしますか?このゲートが、どこに繋がっていて、どこに出るのか解りませんので、落胆するかもしれませんが」
いつもの笑顔とは違い、そのナギの眼は、真実を語っていた。
「どこに出るか解らない?・・・この世界から出られるんじゃないの?」
恵美は、畏怖し怯む。二・三歩後ずさり、ゲートから離れた。
「ええ、この白い世界から出ることが出来ます・・・・・・止めますか?」
真剣なナギの顔、勇気付けるかのような、心強い眼。
恵美は、ゲートに眼を移し、睨みつけた。挑むように、ゲートに近づき、ナギを見た。
「行きますか?」
その問いかけに、恵美は一つ頷いた。恐れるものは無い、今は一人ではないのだから。そんな思いが、恵美を前へと押しやる。
ナギは、恵美の肩に乗り、恵美が一歩踏み出すのを出すのを待った。ユックリと確かめるように、前へと足を踏み出す。右足が円の縁を踏み、両足が円の中に入る。
瞬間、眩しい光が恵美を包み、一瞬にして恵美を別の世界へと招いた。
恵美が目を開いた先には、青一色に埋められた世界。まるで海の中に居るような錯覚に落ちる。
「また、見事に青一色」
口を開いたのはナギ。だが、ナギの姿が見当たらない。ナギの蒼い身体と、この青い世界が同化しているのだ。
「・・・ナギ、どこ?」
見えない、声の主の姿を探す恵美。ナギはその身体を、恵美の右腕に巻きつけた。
「ここに居ますよ。恵美」
不安になっている恵美の心情を察してか、いつもと変わらぬ口調で、恵美に答える。
恵美の掌に尻尾を押し付け、恵美を安心させる。恵美はその尻尾を握り締めた。互いの存在を確かめるように。
「ナギ・・・これから、どこへ向かったら良いの?」
恵美は、心を落ち着かせ、ナギに尋ねた。
ナギはその頭を、恵美の肩に乗せ、静かに答えた。
「このまま、真っ直ぐ」
恵美はこの言葉に一つ頷くと、ユックリと歩を進めた。青い世界、海のような、空のような。寒いわけでもないのに、身震いさせられる。
一歩、二歩。どれだけ進んだだろうか。
右腕の感触に慣れ、その存在すら定かで無くなる。何度も、その尻尾を握りなおす。その度に、一人でないことを思い出す。
そんな行動を、何度か続けた時、不意に身体が宙に浮いた。
「きゃあ」
突然足元をすくわれ、天地・前後・左右の感覚がまったく無くなる。
恵美は、顔に当たる風で気付く。浮いている訳ではない、落ちていると言う事に。
この時点で、ナギも気が付いた。浮き上がるにしてはスピードが速すぎる、と言う事に。
「恵美っ!」
ナギは、自分の飛ぶことの出来る能力で、恵美を上へと引っ張るが、なにぶん体躯が違いすぎる。
落ちていくスピードが、幾分か遅くなるに過ぎなかった。
「・・・!」
プールに飛び込んだかのような音が、耳を通り過ぎた。次いで、水中を通る気泡の音が聞こえる。
水に落ちた事を悟ると、恵美は呼吸を止めた。予期していなかった水に、長持ちする息は無い。
(・・・慌てなくて良い、私は泳げる。落ち着いて、浮力に任せて。浮き上がる先に必ず水面がある)
落ち行くスピードのまま、水に飛び込んだため、随分と潜って行く。だが恵美は焦らず、自分の身体が、一瞬でも浮力に触れるのを待った。
(駄目、もう限界。これ以上は浮力が働くまでなんて、待ってられない)
そう思った瞬間、恵美の目の前を、一つの気泡が通り過ぎた。気泡、そう、それは水中ではこれより軽い物質はない。これの行く先に・・・水面がある。
そう悟った恵美は、水を蹴り、気泡を追い抜いた。次から次へと、自分が連れてきたであろう気泡を追い抜き、ついに気泡が無くなった。
「ぷはっ」
水面に、やっとの思いで辿り着いた恵美は、肩で大きく呼吸をした。
「大丈夫ですか?恵美」
頭上から聞こえたのは、ナギの声だった。物凄く心配をしている声だ。
顔が見れない事に、何故か残念だなと、思ってしまう恵美の心があった。
「ナギ・・・うん、大丈夫。ナギは?」
自分の腕に巻き付いたままだったなら、ナギもあの水実落ちたはずだ。だが・・・
「それが・・・僕は何故か水面で弾かれてしまって・・・何らかの力が、加わっているのだと思います。何度も水に入ろうと、試みたのですが、僕にはまるで氷のようで・・・すみません、恵美を助けにすら行けなかった」
ナギは、自分で自分を責めた、不甲斐無いと、責めた。
「ナギ・・・・・・そんなに自分を責めないで。大丈夫よ、ほら私何も無かったし」
そんなナギを痛々しげに感じ、恵美は何事も無かったと振舞った。
「何かあってからでは遅いんです!何らかの力が働いていたから、何か起こるのは解っていた。なのに、甘く見ていた!自分の力を驕っていたんです」
ナギが、声を荒げてそう叫んだ。恵美はビックリして、ナギが居るであろう方向を見つめる。
「貴方に何かあったら、僕は・・・・・・」
掠れる声で、ナギがそう呟く。恵美はそんなナギの声に耐え切れず、顔を逸らした。
「!・・・あれ、何?」
顔を逸らした視線の先に、洞窟のような穴があった。水の中、まだ底にも行き当たらない、水面との狭間。青一色で染め上げられたこの世界で、唯一違う色・・・黒。
「洞窟・・・でしょうか」
恵美の視線の先に在るモノを、目視し、そう答えた。
「ねぇナギ。私ね、あそこが物凄く怪しいと思うんだけど。何かあったり、居たり・・・する?」
ナギは、その洞窟を見つめ、辺りを見回した。恵美には、その行動は見えないが、何かを考えているのは、伝わった。
「可能性としては、大いに有り得ますね。この世界で、何らかの力が働いているのは、ここだけのようですから」
ナギはそういうと、視線を洞窟へと戻した。
「私、覗いてくる」
恵美は、真剣な眼差しで洞窟を見つめて言った。そして、ナギの答えを待たずに、水面下に潜って行った。
「恵美!」
ナギはその両腕を懸命に伸ばし、恵美を掴もうとした。だが手は届かず、水に触れる。その勢いのまま、ナギにとっての氷に顔面から衝突することを覚悟したナギ。
しかし水は、ナギを拒むことは無く、受け入れた。あれ程までに、ナギの進入を拒んでいた水が、突然ナギを受け入れた。
ナギにとって、敵同然だったこの水は、受け入れられたと同時に味方となった。今のナギは、水を得た魚。先に潜って行った恵美に追いつくなど、ナギにとっては造作もない。
恵美に追いつき、その手をやっと恵美の肩にかけることが出来た。
突然、何者かに肩を掴まれた恵美は驚き、後ろを振り返ったが、そこにあったのは、見慣れたナギの笑顔。
ほっと安堵したが、何故ナギがここに居るのだろうかと、水面が氷みたいだと、入れないと言っていたのに。不思議そうな顔つきで居る恵美に、ナギはいつもの笑顔と口調で、
「口を開けてください」
そう言った。
恵美は疑うことなく、口を開けた。ナギが、その五本指に持っていた物を、恵美の開けられた口に入れた、その瞬間、恵美の口の中で沢山の気泡が生まれた。
その気泡は留まる事を知らない。
「安心してください、それは僕の鱗です。呼吸が出来ますよ。これで一時間ほど、水中に要られます。恵美も話せますよ」
そう言いながら、ナギは恵美の手を引いて洞窟へと向かって行く。
「ナギ・・・貴方、水に入れたの?どうやって?」
一番初めに、疑問に浮かんだ事をナギに聞いた。
「僕にも解りません。貴方を止めようと手を伸ばしたら、すんなりと、入ることが出来ました」
ナギも不思議そうに答えた。
「貴方の顔が見えるのは何故?」
ナギと同色のこの世界で、ナギの顔を判別するのは困難なはず。なのに、何故か水中ではナギの顔が見えた。
「僕は一応、水を司る蒼龍ですからね。水が僕と同色になるのを、遠慮しているのではないでしょうか」
と、おどけて言った。確かにそんな感じがする。ナギの周りの水が、色褪せて見える。
「着きましたよ」
ナギの控えめな声が聞こえた。見ると、目の前に洞窟の入り口がある。
・・・だが、
「・・・・・・洞窟には、見えないわね」
先ほどまで、洞窟の入り口として間違い無かった黒いものが、近づいてみると姿を変えた。直径十五cm程の黒い円。
「これ・・・何?」
恵美は不思議そうに、それを見て、手を伸ばした。触れると、凹凸があることに気付く。
「誰だ?俺の眠りを邪魔するのは」
突然声が響いてきた。男の声、ナギよりもっと低い。
「誰?どこに居るの?」
恵美は辺りを見回しながら、謙虚に尋ねた。
「お前達の目の前に居る。名は玄武」
視線を、目の前の黒い円に戻した。円はごそごそと動き、頭と尻尾を出した。
「玄武。水を司り、亀の甲羅に蛇の身体を持つ、四神の一神」
ナギが恵美に説明する。
それを待っていたかのように、玄武は、その影のようだった身体に、実体感を増す。
「その通りだ。良く知っているな・・・俺の仲間、四神の一神、蒼龍か・・・出口へ案内しよう」
玄武はその身体を水中に漂わせると、水面へと浮いて行った。恵美とナギは何も言わず、玄武について行く。
水面へ到着すると、玄武は壁の一角に行き、横につたい始めた。
すると、壁の一箇所を尻尾で叩き始めた。
五度、叩いただろうか。諦めたかのように、うな垂れ
「蒼龍、そこの女を連れてきてくれ。俺では無理だ」
と言った。
ナギは言われるがまま、恵美の手を引いて玄武のもとへと行った。恵美は不機嫌に、玄武を見ている。
「女、ここの石を押してくれ」
玄武が、尻尾で指し示す。青い色をしているので、他と区別が付けにくいが、周りにうっすらと、黒い線のようなものがある。そこに何かあるのは、間違いなかった。
だが恵美は、玄武に言われた石を、押す気配が無かった。それ以前に、腕を伸ばすことすら無かった。
「・・・恵美?」
訝しげに恵美の顔を覗き込み、その不機嫌な顔を見て、ナギが声をかける。
「そうよ、私は恵美よ。で、彼はナギ。女でも、蒼龍でもないわ。個人としての名前がちゃんとあるの」
と不機嫌な声と顔で、玄武に詰め寄った。
「・・・悪かった。恵美と、ナギだな。俺は、シケ」
自分の非を詫び、シケは改めて恵美に石を押すよう頼んだ。
石は、さほど力を入れずに押すことが出来た。押された石は、奥へと吸い込まれるかのように、進んでいく。
しばらくすると、石のある奥のほうから、音が聞こえ始めた。音は次第に大きくなり、水面を揺らし始める。
「な・何?」
訳がわからず、辺りを見回す恵美とナギ。シケは動じず、壁を見つめている。
壁は下から順に、奥へ奥へと窪んで行き、最終的に、地上へと繋がる階段が出来た。
「・・・凄い」
恵美は言葉を失い、ナギのこの言葉に、ただ頷くしか出来なかった。
「これで地上まで行ける。登り切ればゲートまで一直線だ」
階段の最終地点を見上げ、シケはそう言った。
水面から一段目の階段に登り、二段目によじ登る。三段、四段と登りにくそうに、次から次へと。
恵美は、ナギを腕に巻きつけ、階段を登り始め、何も言わず手を伸ばし、シケの身体を持ち上げる。
シケを肩に乗せると、そのまま階段を登っていく。青で染められたこの世界。解りにくい筈の階段が、シケのおかげか、影が出来、登り易くなった。
階段を登り終わり、平らな地上に落ち着いた。
「このまま、まっすぐ。遠目にだがゲートが見えるはずだ。あれを目指せ」
シケは首を持ち上げ、先を指し示した。
確かに、遠くに何か見える。今の位置からでは、足跡程度の大きさにしか見えない。
恵美はそれを目指して、歩き始めた。
どれほど歩いただろうか。どんなに歩いても、一向にゲートはその確かな姿を見せない。
途中恵美は、一度休憩を取ることになった。
「疲れた」
恵美がそう漏らし、その場に座り込む。滴る汗を拭い、目指す先を確認した。
大して大きさの変わらないゲートに、うな垂れ、寝転んだ。
「精神体と言っても、疲れますよ。白い世界から、休み無しで歩き通しでしたし」
恵美の少し後ろを浮遊していたナギが、駆け寄り恵美の枕元に降り立った。
「一度休むか。先は長い、時間もある。焦る必要は無いだろう」
少し先を浮遊するシケが、後ろを振り返り、戻って来て、恵美の足元に降り立ち、休憩する。
静かな時が流れる。子供の声も、車の音も、鳥の鳴き声さえも聞こえない。
静かで、寂しい空間。
だが、時にはこんな静かな空間も、落ち着けて良いのかもしれない。そんなことを思いながら、恵美は上半身を起こし、辺りを見回す。
目も、頭もおかしくなってしまいそうな程、青一色の寒々しい世界。
恵美は、後ろを振り返り、前に向き直り、ナギとシケが居る事を確認する。
(大丈夫、今私は一人でない。)
自然とその顔に、笑みが零れる。
「行こうか」
立ち上がり、背中とお尻を叩き、そう言った。
ナギとシケは、歩き始めた恵美の両端を浮遊し、三人でゲートを目指す。
休憩してからの速度は、目まぐるしい物だった。あんなに遠く感じていた、ゲートまでの距離が、あっという間だった。
「白の世界にあったゲートと同じね」
恵美がゲートを見てそう言う。
「そうですね。しかし一箇所、東に位置する蒼が・・・金?」
ナギが、白の世界にあったゲートとの違いに気付く。
「金と言うより、黄色じゃない?」
恵美が、その色を見て、そう言った。
「・・・黄色」
ナギとシケが、異口同音にそう漏らす。
「何か気になることでもあるの?」
そんな二人を振り返り、恵美が訪ねる。
「いや、何でも無い。行こう、次の世界へ」
心配することは無い。と恵美に頭を振り、そう促した。不思議そうにシケを見たが、恵美は促された言葉に頷いた。
ナギは恵美の右腕にまきつき、シケは左肩に乗る。それを確認した恵美は、一歩また一歩とゲートに近寄る。
ゲート内に、身体が入りきった瞬間、三人は強力な引力を身体に感じた。
次の瞬間、恵美は盛大に尻餅をついていた。
「いったーい」
本当に痛かったのだろう。涙目でそう声を上げた。
「ここは一体・・・」
言葉を失ったのはシケだ。その言葉に促されるように、ナギと恵美は辺りを見回した。
その風景を見て、三人とも唖然とした。ゲートを中心に、縦一直線を境として、左が黒、右が朱。
左の黒の世界には、朱雀が飛来し、右の朱の世界には、白虎が駆けている。
三人は朱雀と白虎のその姿に見とれて、その場を動けなかった。
すると、朱雀が一鳴きして、境まで飛んでいった。白虎はその声に気付き、境まで駆ける。境で何かを話しているようだった。
二匹は同時に、ゲートを、こちらを振り向いた。そう思った瞬間、白虎と朱雀は、一瞬にして恵美、ナギ、シケの元へとやって来た。
「四神の蒼龍と玄武ですね。そして貴方はそのパートナー。貴方方を待っていました」
言ったのは朱雀だ。近づいて初めて思ったが、とても小さい。鶏くらいだろうか。
先ほどまで飛んでいた、大きな鳥とは思えない。
「僕達について来て。ゲートまで案内するよ」
どこか、少年っぽさの残った口調で話すのは、白虎。彼もまた、先ほどまでの大きな虎とは思えない。猫くらいの大きさだろう。
呆気に取られている三人を尻目に、白虎と朱雀は、境界線を境に仲良く並んで、進み始めた。
「ま、待って」
ハッと気付き、声をかけたのは恵美だ。二人のもとに走り寄り、ニッコリと微笑んだ。
ナギとシケも、恵美に習い、進み始める。
「私は恵美。彼が蒼龍のナギで、彼が玄武のシケ。貴方達は?」
恵美は、歩きながら自己紹介と、二人を紹介し、朱雀と視線を合わせ、訪ねた。
「私は朱雀のセキ。こっちは白虎のハク。よろしく」
セキは優しげにそう言うと、握手のつもりか、恵美の髪の毛を嘴で軽く引っ張った。
白虎は恵美の右斜め前で、宙返りをして見せた。
「よろしく」
恵美は、その二人の行動につられて微笑み、そう言った。
セキとハクに案内され、どれだけ歩いただろか。二人増えたため、雰囲気は一気に賑やかになった。道中、退屈することも、疲れを知ることも無かった。
「見えてきました。ゲートです」
セキがそう言い、視線をゲートへと投げかけた。残りの視線が、ゲートへと集まる。
次は何が待っているのだろうか、気持ちが早まる。
恵美はいつの間にか、このゲームを楽しんでいた。いや、正確にはこれが、ゲームであることすら忘れていた。
たどり着いたゲートは、青の世界と比べ、また一箇所色が変わっていた。北に位置する黒が、黄色に変化している。
「また、変わっていますね」
言ったのは、ナギだ。それに、シケが頷き
「ああ、一体どんな意味があるのだろうか」
二人して唸って考える。
そこに
「次の世界へ行けば解るんじゃない?」
何気なしに言ったハクの言葉に二人は振り返る。
「そうだな。ここにゲートがあるって事は、間違いなく、次の世界に繋がっているって事だ」
シケがそう言うと、ナギが頷き、セキが同意した。
四神の視線が恵美に注がれる。
「行きましょう。ここで待っていたって、何も始まらないわ」
その言葉を待っていましたと、言わんばかりに、四神は力強く頷く。
ナギは左腕に巻きつき、セキは左肩に乗り、ハクは右肩に、シケは器用に首と尻尾を右腕に巻きつけている。
恵美はユックリと足を踏み出し、ゲートの中に入った。するとゲートの周りに、透明なガラスのような物が現れた。
ゲートの上に張られたガラスが、浮上し始め上へと登って行く。まるで、エレベーターのように。
足元のゲートが遠ざかり、次第に小さくなって行く。
暫らくの間登っていたゲートが、不意にピタリと止まった。
それから動く様子も無く、恵美は足を一歩踏み出したが、そのつま先が周りにあるガラスに当たる。
一瞬、この中から出るのに、何かボタンを押さなければならないのかと思ったが、周りにあったガラスは次第に低くなって行く。
透明だと思っていたガラスには、色が付いていた。左が赤、右が黒。先ほどの景色と同じ色だったため、透明だと錯覚したのだ。
ガラスが低くなるにつれ、見えてくる世界。その世界に、恵美は唖然とさせられた。
目の前に広がるのは・・・
「戻って、来ちゃった?白い世界に?」
まるで出口の無い迷路。
この世界に入った瞬間、恵美の気力が失せた。その場にへたり込み、うつむき動こうとしない。
「・・・恵美」
一旦、恵美の左腕から離れたナギは、恵美の足元に降り立ち、心配そうに恵美の顔を見上げる。
シケもハクも恵美の足元で、恵美を見上げている。
ただ一人、セキは恵美の頭上で浮遊し、辺りを見回していた。
「恵美さん、そう落胆しないで下さい。まだ希望はあります」
そう言う通りセキの声は、希望に満ちていた。恵美がその声に反応し、セキを見上げた。その顔はまだ、悲しみで満ちている。
「あれを見てください」
そう言い、セキは嘴で先を示した。示された先を、恵美と残りの四神が見る。
そこにはゲートがあった。ほんの数メートル先に。
そのゲートは、離れたこの場所からでも、違いが容易に解った。
恵美は力なく立ち上がり、ゲートに歩み寄る。ゲートの一歩手前に座り込み、その違いを見つめる。
大きな円の中に在る、小さな円四つ。
そのゲートは、四つの小さな円、それぞれの色が、一色に統一されていた。
本来、青・白・朱・黒だったのが、これは、黄・黄・黄・黄。
黄、一色。
「恵美・・・どうします?」
心配そうに、恵美の顔色を伺いながら、ナギが聞く。
「これも一応ゲートだが?」
ぶっきらぼうに言うが、シケも恵美を心配している。
「変化を求めてみますか?」
落ち着いた口調で訊ねるのは、セキだ。彼も、恵美を心配して聞いている。
「僕、黄色好き。恵美は?」
無邪気に聞くハク。恵美の笑顔を求めて、自らも無邪気に微笑む。
「みんな・・・・・・有り難う」
静かに微笑み、そう言った。目を瞑り、心を落ち着ける。深呼吸を一度して、目を開く。
見えるのは、白い世界と、黄に統一された、ゲート一つ。
恵美はユックリと立ち上がり、四神の四つの顔を見回した。その顔には、勇気、誇り、希望、信頼が秘められている。
恵美はゲートに向き直り、
「行こうか」
と言った。その顔に、悲しみはもう無い。
四神はその声に、力強く頷いた。
ナギは右腕、シケは左肩、ハクは右肩、セキは頭、それぞれに陣取った。
恵美は臆すること無く、ゲートに踏み入った。今度は、光に包まれることも、引力に引っ張られることも、浮くことも無かった。
ゲートの縁から、白い世界が黄色に染められて行く。
足元のゲートも、縁から中心に向け、黄色に染められ、ゲートの痕跡すら残っていない。
「これは・・・黄色の世界?」
恵美が周りを見渡し、変化に驚き、感激した。劇的な変化に、驚きを隠せない。
ナギも辺りを見回す。
「黄色は・・・」
シケが、誇りに満ちた顔で、呟く。
「四神を束ねる」
シケの言葉に続くように、ハクが言った。
「唯一神、黄龍」
恭しくその名を口にするのは、セキ。四神みなが、この黄色に歓喜している。
そして四神は、恵美から十数メートルほど離れた場所に残された、白の円を中心に集まった。
恵美は、四神の居るところへ、駆け寄ろうとしたが、白い円から出る、目を開けていられないほどの強い光に、それを阻まれた。光は一瞬にして、辺りを埋め尽くした。
声が聞こえる、四人の声が。
「やっとこのときが来た」
「長い間待っていた瞬間」
「やっと再会する」
「悲しまないで」
シケ・セキ・ナギ・ハクの順だ。恵美には何のことか見当も付かない。
やっと、光が収まり、辺りが黄色一色に戻った。眩しさに俯いていた恵美は、顔と視線をユックリと白い円に戻した。
そこに居たのは、蒼いナギでも、黒いシケでも、朱いセキでも、白いハクでも無かった。
白地に、黄色い龍の絵を施された浴衣を着た、一人の男性。
不思議と懐かしい感じがする。
(誰?・・・知っている?私・・・この人、知っている?)
そんな思いをめぐらせ、恵美は彼をじっと見詰めている。
「恵美」
彼は、優しい声と優しい笑顔で、懐かしげに、恵美の名を呼んだ。
(誰?誰なの・・・?)
恵美は、自分の中にある記憶を呼び起こす、誰なのだろうか、どこかで見たことがある。
そんな記憶の中にある人物を、必死で探す。
居間と、自分の寝室に飾られた写真立てが、ふと脳裏をよぎった。胸が高鳴る、身体が振るえる。そんな、そんなはずは無い。
でも、まさか・・・
「おとう・・・さん?」
震える唇で、懸命にその名を呼んだ。
男性は、笑顔をますます深め、一つ頷いた。
「そんなはず無いわ、だって父さんは四十歳を超えているはずよ。貴方はどう見ても二十代前半、あり得ない」
目の前に居る男性を、父親と認めようとしない。当然だ、十五年前に死んだと聞かされた父親が、今ここにこうして生きている。
しかも十歳以上若い姿でここに居る。そんな男性を、父親と認めろと言うほうがおかしい。
「・・・若くても良いんだよ、恵美。今、ここに居る彼は、精神体なんだから・・・彼の肉体は・・・・・・今は永い眠りについている」
聞きなれた声が聞こえて来た。
声は男性の左側、恵美から見ると右側のほうから聞こえる。声の聞こえるほうに目をやると、いつの間に現れたのか、蒼い円柱が・・・、それが少しずつ下がって行く。
中から現れたのは、一人の青年。
「・・・柳?」
一体全体、何がどうなっているのか。恵美には、何が何やら、さっぱりと解らない。
「恵美これは嘘じゃない。信じてくれ・・・親父は成長したお前が見たくて、こんな方法を取ったんだ」
柳より低めの声が、別の方向から聞こえてきた。男性の後ろ、恵美と男性の延長線。
柳から男性の後ろに目をやると、こちらもいつの間に現れたのか、黒い円柱がある。
そこから現れた男性は、恵美の寝室に飾られてある写真立ての父親にそっくりだ。
「彼はお前の父親だ。さらに付け加えるなら、彼は俺の父親でもある・・・俺は武、お前の兄だ」
そう、真剣な声と眼差しで、黒い円柱から出てきた男性が言う。
年頃は二十代後半。
それでも信じられない恵美に、これでもかと、証人が出て来る。
「彼は、貴方が十歳になるまで、生きていられないと言われていました。彼は家族に、自分の死という悲しみより、生という希望を与えることを選んだのです・・・私は朱里、武の仕事仲間です」
今度は近くから声がした。開くのは、朱の円柱。男性と恵美の間。
二十台半ばの男性。
「そのためには、闘病生活が必要になる。そうすれば、死という悲しみより、生という希望が生まれる。彼はそれを望んだ・・・僕は博。朱里の弟」
今度は男性の右側から、恵美から見れば左側から声が聞こえる。白い円柱が、降りていく。
二十代前半の男性。
一度に沢山のことを言われても、何を信じて何を疑うのか。恵美は混乱している。解らない、何が正しくて何が間違いなのか。
頭を抱える恵美に、
「恵美のお父さん、特徴がなかった?誰にも真似できないような、お父さんだけの特徴が」
柳が優しく、そう問いかける。
「背中の左上に痣が・・・まるで龍のような・・・でも・・・精神体なんでしょ?真似なんて誰にでも出来るわ」
母の口癖だった。背中の龍が綺麗だったと。
毎日のように、その龍を収めた写真を見ながら、呟いていた。
「彼個人の特徴は、彼にしか表現できませんよ」
そう言ったのは、朱里と名乗った男性だ。
朱里がそう言うと、父親を名乗った男性は、恵美に背中を見せ、浴衣をはだけた。そこにあったのは、母が毎日のように見ていた写真と、まったく同じ、痣。
恵美はそれを見て、フラリと男性の側に歩み寄る。それに連れて、眼には見えない黄色い円も移動する。
そっと、その背中に触れ、一筋、二筋の涙を流す。
「とう・・・さん。父さん。本当に?でも、どうして・・・?私が小さい時、亡くなったって聞かされてきた。確かに母さんが亡くなるまでは、父さんはどこかで生きているって希望はあったけど・・・それももう五年も前のこと・・・でもこれは・・・」
決定的だった、この痣は。たとえどんなに良く見て真似ていても、本人以上に精密にコピーすることは出来ない。
彼は間違い無く、自分の父親。だがしかし、何故?・・・
そう何故生きているのか。生きているのが、悪い訳では無い。
ただ、ナギ達の話でも、死期は十五年も前のはず。不思議に思っている恵美の心情を察してか、父親はゆっくりを話し始めた。
「恵美。父さんは二十九歳の時、余命二年だと聞かされた。せめてお前の結婚式までは、いや成人式まで・・・もっと短くても良い。せめてお前が小学校に入るまでは・・・たとえどんな形でも、生きて居たいと、そう思った。思ったが、父さんの病気を治す術は、無かった。手術も薬も・・・病原が解らないんだ。打つ手は、無かった。そんな時、『夢の中で悪者をやっつけた』という、子供の何気ない一言で思いついた。自分の夢を、実現することが出来ないだろうかと。睡眠中に起こるレム睡眠、これが脳に夢を見せている。その脳波を読み取って、映像化出来ないか?自分の意志で動くことは出来ないか?そう考えていた。何か方法は無いか?何か・・・色々考えて、このゲームに行き着いた。原理なんてどうでも良かった。この世界に居れば、いつかお前に会えると信じていたから。父さんが出来るだけ長く生きるには、病気と共に眠るしかなかった。成功するかどうかは、解らなかったが、賭けるしか無くてね。当時中学生だった武にゲームのことを話したら」
と、ここで父親は言葉を切り、息子の武を見た。
武は父の後を継いで、
「面白そうだと思った。自分の夢をゲームにして、自分の意思で操作できる。夢なんてたいていは、見るだけ、だからな。問題は誰が作るかだ」
武は朱里を見て、朱里と交代した。
「当時、ゲーム会社の社長だった僕の父に、武と小父さんが、相談を持って来たんだ。夢を自分の意思で操作できるゲームは出来ないだろうかと。父は一旦無理だと断った。だけど、病体に鞭打って、毎日うちの会社にやってくる小父さんに、根負けしたんだ。やってみようという事になった。子供の発想も取り入れてみよう、ということで、僕と武もチームに加わった。だが、あれでも無い、これでも無いと、作っていくものは全てが失敗。五号機まで来て、誰もが諦めかけた、そんな時・・・」
朱里はそこまで言うと、言葉を切り、自分の弟である博を見た。
「ドリームフィールドは、僕が作ったんだ。七歳の時だったね。実は僕・・・IQ百五十三なんだ。とは言っても、能力が発揮されるのはゲームに関してだけ・・・兄さん達が作っているゲームを、自分なりに作ってみたんだ。父さんに頼んで、僕の一号機をマウスで実験させてもらった。入り口は一つ、出口を沢山。出口付近に餌を撒いてね、二週間待ったよ。でも待った甲斐があった、マウスは成功した。だから次はお座敷犬にしてみたんだ。眠っている犬に、散歩に行くよと、呼びかけた。そうしたら犬は見事、玄関に扮した出口にたどり着いた。これはもう成功だろうと、誰もが喜んだ・・・」
博は楽しそうに、それで居て興奮して、恵美に熱演する。
それを受け継いだのは、武だ。
「そう、誰もが喜んだ。だが、一つ問題があった。誰が試すかだ。最終的には、人で実験をしなくてはならない。未知なものだ、誰もが恐れた・・・そこに」
一旦言葉を切り、武は自分の父に目を向けた。
「多少怖かったが、まあ何とかなるだろうと思い、私が試したんだ。案の定実験は成功した。」
嬉しそうに話す自分の父を、恵美は静かに見ていた。だが父親は、
「ただ問題が一つ・・・脳波を調べるときみたいに、頭に沢山器具を付けなくてはならなかった。これが難点でね。」
と、申し訳なさそうに、博を見て言った。言われた博は
「一号機を小父さんが試してくれた時に思ったんだ。一号機を持ち運ぶことは難しい。恵美さんにここへ来てもらっても、なんて理由を言って一号機の沢山あるケーブルを頭につけてもらう?」
どこか悲しそうに、そういう博。しかし、恵美をしっかりと見つめ、にやりと笑うと、
「だから、改良したよ。大幅にね。それが今回、君が使った三号機。二号機でも良かったんだけど、より手軽にって事で三号機にした。どういう原理かと言うと・・・・・・口じゃ巧く説明できないや」
博は、頭を掻いて説明を終えた。
「私は、博君が作った一号機が完成したのと同時に体を冷凍保存してもい、ドリームフィールド完成した後、父さんをこの世界に入れてもらった。現実世界の私は冬眠している。そんなことが出来る時代になったんだな。私は十五年間、この世界でお前を待った。十五年と言っても、そんなに長く感じなかった。ここは私の夢の世界、いくらでも好きに出来たから」
ここで言葉を切り、悲しそうに、懐かしそうに・・・愛しそうに、恵美を見つめる。
「父さん」
恵美はその視線に答えるかのように、父を呼ぶ。
父親は、ユックリと腕を伸ばし、恵美の頬にソッと触れる。
「もう、思い残すことは無い」
嬉しそうに満足顔で、そう言うと、キラキラと光に包まれていく。
「父さん?」
父親は、光に包まれているのではなく、サラサラと砂時計の砂が落ちていくかのように、その姿が足元から不確かになっていく。
「父さん!」
父親の元に駆け寄ろうと、足を踏み出した恵美。しかし、なぜかその行動とは裏腹に、父親の姿は遠ざかって行く。父の居る白い円と、自分の居る、眼には見えない黄色い円が急速に離れていくのだ。
実際には、黄色い円が白い円から離れている。黄色い円は、恵美を急速で後ろに運ぶ。ある程度距離を置いて、黄色い円は、ピタリと止まった。
その拍子に、恵美は尻餅を着く。痛むお尻を擦る事すら忘れて、父親の居た白い円へと、駆け寄る。
今度は、黄色い円は邪魔をすることは無かった。
(父さん、父さん)
サラサラと消えていく父親を目に、恵美は無心で駆け寄る。
涙で、次第に前が見えなくなる。それもお構いなしに走る。
(だめだよ。まだ沢山話したい事がある。怨み辛みだって沢山・・・八つ当たりさせてよ、父さん)
もう少しで手が届く、というところで、恵美は盛大に転んでしまった。
その隙を突くかのように、足元から消えていった父親が、顔だけを残し、やさしく微笑み・・・すべて消えていった。
「父さん!」
前のめりにこけた姿のまま、その様子を顔だけを上げて見ていた恵美は、絶望の淵に立たされた。
「父さん、父さん」
力なく、フラリと立ち上がった恵美は、それでも父親の居た、白い円まで歩み寄る。ほんの十歩も無かった。
それを見守るかのように、四神であった兄らが、
「後四歩」
「三歩」
「二歩」
「一歩」
と、恵美が白い円に近付くにつれ、カウンドダウンを始めた。
そして、とうとう、恵美が白い円に入ると、
「入った!」
四人が声を揃えて叫んだ。
その瞬間、恵美は強く、何かに引っ張られる感覚を覚えた。
「きゃあーーーー」
予期せぬ衝動に叫び、その瞬間ハッと目を覚ます。
見慣れぬ天井を目にしながら、寝そべったまま恵美は肩で大きく息をする。
(ここはどこ?私は今まで・・・?)
「恵美」
自らの思考をフル回転させ、何が起こっていたのかを整理しようとしていると、横から弱々しく自分を呼ぶ声が聞こえた。
頭だけを、声の聞こえたほうに向けると、そこには、同じようにベッドに寝そべる男が居た。その男を見つめながら、恵美はユックリと体を起こす。
やせ細ったその顔には、見覚えがあった。そうだ、つい先刻まで見ていた自分の父親の顔・・・
だが、若々しく、活き活きとしていた顔では無く、まるで枯れ枝のようにやせこけた顔が其処にある。
「お・・・とう・・・さん?」
それでも、半信半疑に尋ねると、男は寝そべったまま、優しくそして儚く、微笑む。
その体にはたくさんの管が・・・・・・
「恵美、おいで」
と優しげに、恵美を招く。恵美は、震える体で、ベットから降り、ゆっくりと歩み寄る。
「すまんな、恵美。つらい思いをさせる」
父親は優しく恵美の手に触れる。その手も、まるで枯れ枝のようにやせ細り、幾本もの管が刺さり、痛々しい。
それを見ても、恵美は気丈に首を横に振る。
「驚いただろう?突然何事かと・・・すまないな、この機を逃すと他は無かったから」
弱々しく、それでもハッキリと語る父に、何の事を言っているのか、理解できず首をかしげる。
そこに、控えめにノックする音が響いた。ここで始めて、部屋の中を見た恵美は気付く。沢山の機器、忙しく行き交う白衣の人々、病院の治療室より物々しい病室。
静かに開けられた引き戸の向こうには、知らない顔が二つ、見知った顔が四つあった。
「貴女のお父さんの病気は、お父さんを冬眠状態にしても、眠らなかった。進行を遅らせることは出来ても、止めることが出来なかったのです」
入ってきた六人のうち、知らない顔の一人がそう語った。
白衣を着て、聴診器を持っていたことから、医者だと、恵美は推測した。
「お父さんが眠っていても、病気は確実に進行してく。このままではあと半年も無い。そう宣告されて、我々は急いだ」
知らない顔の残りの一人が言う。
朱里と、博に似ていることから、彼らの父親かと想像する。
「それで急遽、実行に移すことにした。本来なら、お父さんの病状が少しでも改善したらと思っていたけど・・・間に合わないからと、そうせざるを得なかった」
残念そうに柳が言う。
その顔には、恵美の父に対する悲しみと、恵美に対する罪悪感。
「恵美・・・」
背後から父親が話しかける。ハッと振り返り、父の元へと駆け寄る恵美。差し出された父の手を、優しくその手で包み込む。
「綺麗になったな。若い頃の母さんそっくりだ」
嬉しそうにそう言うと、一筋の涙が父の頬を伝う。
「武や、柳君達を責めないでやってくれ。全ては父さんが頼んだこと。父さんが仕組んだこと・・・」
そう言うと、父親は恵美の後ろに居る、四人を見た。
いや・・・正確には柳を。
「娘を、恵美を頼む」
フッと笑い、恵美に視線を戻す。
「・・・幸せにな」
切なさそうにそう言うと、天井に視線を移し、静かに目を瞑った。
次の瞬間、どこからとも無く、ピーと言う機械音が響いてきた。少なからず、何かの音や、声が聞こえていた室内は、一瞬にして静かになった。
後ろからすすり泣く声、医師の『ご臨終です』の冷静な言葉が、恵美の耳に入ってくる。恵美は、包んだままの父のその手を、力強く握り締め、自分の額に押し付けた。
溢れる涙は、誰にも止められない・・・
二日後、恵美の父親の葬儀が、人知れず行われた。
十五年前、遺体無しの父親の葬儀をしてから、八年後、母親が他界し、夫の入っていないお墓に、妻が入れられた。
やっと、母の横に父を、妻の横に夫を眠らせることが出来ると、恵美は悲しい反面、嬉しかった。
今この葬儀に来ているのは、恵美、武、柳、朱里、博、朱里と博の父、あの場に居た医者、計七人。墓で手を合わせ、一人、また一人と去って行く。残ったのは恵美と柳の二人。
恵美の、どうして父さんと素直に合わせてもらえなかったの?の疑問を受け、武は自分が説明するよりは、と柳に任せて去って行った。
「ドリームフィールド。特に今回のソフト、『無題』は、お父さんの意思を強く受けるように作られていた。実際、俺たち四人も、あんな形で二人が再会するとは思っても居なかった。確かにお父さんは『恵美のいろんな顔を見てみたい』とは言っていたが、あんな無茶をするとは・・・」
落胆する柳の手を、恵みは優しくとった。ハッと恵美の顔を見る柳に対し、恵美はずっと前を見ている。
「有り難う」
呟くように恵美はそう言った。
「え?」
柳は聞き返した、何に対しての有り難うなのか?怒られても、恨まれても仕方がないと思っていたのに。しかし恵美は、ユックリと柳のほうへ顔をむけ、柳の眼を見た。
「ずっと、私のそばに居てくれた。私を心配してくれた。励まして、勇気付けてくれた・・・ナギが・・・柳でよかった」
そう語ると、恵美はまた前を向いた。
「私、今まで学校に居ても、柳と一緒に居ても、なぜか心は独りだった。とても寂しかった。でも、今回のことで一つ解った事がある。『私は独りじゃないんだ』って。強くそう感じた。彼氏の柳、お兄さんの武。それに見ず知らずの朱里と博・・・お父さんのために走り回ってくれた、私のために一生懸命になってくれた。それが本当に嬉しかった」
本当に嬉しそうに、楽しそうにそう話す恵美。柳は、思わずその顔に見とれてしまった。
だから、突然振り向いた恵美に、ドキリとする。
「帰ろっか」
と、嬉しそうに笑いながら言う恵美に、柳はドギマギと頷く。
二人そろって、武たちが帰って行った道を歩く。その先に、二台の車が。
夏だといっても、夕暮れが近く、風が強い所為か外に出ていれば肌寒い。
それにもかかわらず、武も朱里も博も車にも乗らず、ましてや先に家路に着くこともなく、車の外で待っていた。
驚きの色を隠せない恵美を、柳は連れて行く。三人の仲間が待つところへ。
「どうして?」
こんな寒い日に、わざわざ待っていなくてもと、車は二台あるのだから、先に帰っても良かったのではと、疑問に思う恵美に
「理由なんて無いよ」
と四人は、声を合わせそう言った。
「恵美、うちへ帰ろう」
そう言って手を伸ばしたのは柳、優しく微笑みながら恵美を待つ。
「うん」
つられて微笑みながら、恵美はその手をとった。家路に着いた恵美の心は、とても温かかった。
其れからと言うもの、恵美は時間があれば四人とどこかへ遊びに行っていた。
時間が無くて会えなくても、ほんの数分、時間を作り、あの世界で会っていた。
父の作ったドリームフィールド。『無題』という名のソフト。
そのソフトの中に、父が残した沢山の思い出とともに。
この『無題』のソフトは、この世に五枚しか存在しない。同時に、『無題』を読み取れる、博が作ったゲーム機も五台しかない。彼ら五人だけが共有するもの。
今回の騒動後、数日間は、原作を博が、残りのコピーを恵美、柳、武、朱里が持っていた。
今、原作は恵美が持っている。父が永遠の眠りに着く前、長い間にわたって作り上げた『夢』が、その原作に沢山詰まっているから。誰にも邪魔できない、恵美と父の十五年間の空白を埋めるかのように。