CASE.1 こっくりさん (1)
きっとこれは夢なのだ、と思った。
否、《夢であってほしい》と願ったのだ。
桜が散り始める頃、目の前で力なく倒れ伏した親友を目の前に、"大空 真白"は呆然とするしかなかった。一体全体、何が起きたというのだろう?
「……やだな、香織ちゃん……そういうドッキリはちょっと、私でもどうかと思うよ……」
震える手で恐る恐る親友の身体に触れると、驚くほど冷たかった。この季節は夜でも少しずつ暖かくなってきているのに、彼女の身体だけは真冬の寒空にあるかのような冷たさだった。
微かに身体を上下させているのが見えて、辛うじて呼吸をしていることは分かる。気絶しているだけなのだと分かっても、香織の手を握りしめる力を緩めることが出来ない。
……先程からずっと、背後から何かの視線を感じていた。
「こっちを向け」と言いたげな、強く、冷たく、恐ろしい視線だった。振り返ってはいけないと、真白も頭では理解していた。けれども、何故だか抗えぬ何かにその視線を吸い寄せられるように、ゆっくりと、振り返る。
──────そこには一枚の紙切れと、10円玉だけがぽつりと存在しているだけだ。
「……ごめ……ごめんなさい、ごめんね、香織ちゃん……」
それを目にした真白は、途端にボロボロと大粒の涙を零し始める。
その顔は真っ青で、身体は小刻みに震えている。たったいま、目の前で起こった出来事を身体が、頭が理解していくのと同時に、《夢であってほしい》と強く願った。
「わた、私が……あんなことを聞いたから……香織ちゃん……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」
許しを乞うかのように、真白は気を失った親友の身体に縋り付く。
……けれども、彼女からの許しの言葉が返ってくることはなかった。
空は晴天。
本日最後の授業を終え、シャードは帰り支度をしていた。
ついこの間まで満開だった桜も、もうすっかり散ってしまっている。
教室から見える葉桜を眺めながら、ぼんやりと物思いに耽る。今日の夕飯はなんだろう、ライトは今日も一緒に帰ってはくれないのだろうか?
「なぁ、シャード。今日このあとヒマ?
俺ら今日部活ないからさ、ゲーセンでも行かねぇ?」
如月が他数人のクラスメイトを引き連れてシャードに声を掛けた。
『ん〜、ヒマ……っていうか』
友人からの誘いにシャードは煮え切らない返事をする。
『まぁ予定はねぇんだけど……やることがないわけじゃねぇし』
「なんだそれ」
『境内の掃除、手伝わなきゃダメでさ』
そう返すと、如月は「あー」と声を上げて残念そうに肩を落とす。
「そっか、お前ん家って神社なんだもんな」
「なになに、どういうこと?月神の家って神社なの?」
傍にいた一人が興味本位に声を上げると、他のクラスメイトがすぐに口を挟む。
「あれ、そういえばお前は隣町住みだから知らねぇんだっけ?」
「うん、まぁ」
「こいつの家ってさ、ここら辺じゃあ有名な神社で……小さい頃に、ばあちゃんとか教師から昔話とか聞かされるんだぜ?
〈あの神社の神様は人の心を読む妖怪だ〉とか〈人喰いの神様だ〉とか色々言われてて」
『ただ古いだけの神社だろ、あんなの』
シャードが話を遮るかのように強めの口調でそう言い放つと、盛り上がり始めていたクラスメイト達が一瞬の間シン…と静まった。
全員が固唾を飲んで話の中心人物であった少年を見つめる……が、俯いているせいで、沈黙するその表情は見えずに────
『────この間なんか、物置の屋根が雨漏りしててさぁ!
修理してもらったんだけど、どこもかしこも古いからすぐに今度は別の所が壊れるんだぜ、掃除も大変だし、直しても直しても追いつかねぇんだコレが』
次の瞬間、パッと顔を上げたシャードの顔はすこぶるにこやかなものだった。
もしかして怒らせてしまったかも、と一瞬不安を覚えたクラスメイト達も、彼の見せた笑顔にホッと胸を撫で下ろす。
「な……なんだ、そんなに古いのか?」
『おう、もうオンボロもオンボロだよ。まぁこんなこと言ったら父さんに叱られるけどさぁ』
「マジで?今度見に行ってもいい?」
『いいぞ、でも本当になんにも面白いところないからな?……あ、でもお賽銭は太っ腹によろしく!ご利益あるぜ、多分』
「神主の息子がそれ言うとありがたみねぇわ!!」
わははは、と明るい笑い声が放課後の教室を彩る。
そんな中、次第にクラスメイト達の背から消えていく《不安》の黒い影を見つめながら、シャードは自分の胸が微かに淀んでいくのを感じた。
「っていうか、シャードの家ってどの辺?
話には聞いてるけど、ちゃんと行ったことねぇかも」
『あ〜、そう言われるとちょっと分かりにくいところにあるかもなぁ』
一人の生徒の話にシャードがウンウンと頷くと、また別の生徒が思いついた様に声を上げる。
「そうだよ、なんなら今からシャードん家に案内してもらえばいいんじゃね?」
「あ、それいいかも。ゲーセン中止で」
『えぇ、今からか?本気で言ってんの?』
「なんだよ〜さっきまで来いって言ってたじゃんか」
『いや、まぁ、来るのはいいんだけどさぁ』
先程とは打って変わって煮え切らない態度をとるシャードに、一同は首を傾げる。
────······家に友達を連れていこうものなら、父さんも母さんも毎回張り切ってもてなそうとするんだよなぁ。
頭を過ぎる両親の人の良い笑顔に、シャードもまた苦笑いを浮かべる。小さい頃から、あの人たちはいっつもそうだ。
「君たち、うちのシャードと仲良くしてくれてるんだって?ちょっと変わり者だけどいい子だろう?ぜひ今後ともよろしく頼むよ」と張り切って挨拶するものだから、過去に招待した友人達からは「お前ん家の親ってお前のこと大好きだよな」とからかわれる。
親の愛情を無下に突っぱねられるほど思春期を拗らせてもいないが、素直に『そうだろう』と胸を張れるほど開き直れない。
そうなると、1番は親が買い物なり用事なりで家にいない時間帯に案内するのがいいのだけれども……
どうやって言い訳しようかと、シャードが頭を悩ませている時だった。
────突然、ピシャン!と教室の扉が勢いよく開かれる音がしてその場にいた全員が振り返った。
扉の先で、赤毛のポニーテールがふわりと揺れる。
「「『…………』」」
息を切らせ肩を上下させたその少女は、何かを探すように教室内を見渡したあと……自分に集中している視線に気づき、途端に気まずげな顔をして
「……えぇ、っと
────······た、たのも〜う?」
そう言うと、にへらと力なく愛想笑いをした。
「あれなんて道場破り?」
『……知らね』
再びざわめきを取り戻した教室で、如月がそう呟くとシャードは興味なさげに窓の外に視線を戻した。
人を探しているのだろう、扉に現れた少女は近くにいた女子生徒に声を掛けているらしい。
その光景を見ていた如月が、途端に何かを思い出したように「あ、」と声を上げる。
「ってかさ、シャード……あの子ってあれじゃん」
『あれって?』
「覚えてないか?ほら、入学式の……」
入学式?
比較的最近の出来事に、シャードの記憶が蘇る。
入学式といえば、最近ライトと一緒に登校できなくなったきっかけがあった日である。
天然脳筋間抜け野郎にライトを連れていかれたあと(少々の記憶の改ざんは通常運転だ)、途中で合流した如月と一緒に学校へ向かっていて……
話し掛けられていた女子生徒が、少女の探していた人物に心当たりがあったようで、にこやかにその人物の方向に指をさす。
その指先は、真っ直ぐにシャードの方へと向いていた。
『あ、』
「……あぁッ!?」
そうだ、思い出した。
見覚えのある赤毛の、うなじ辺りまでのポニーテールを揺らし、少女は驚きに目を見開きながらヅカヅカとこちらへ向かってくる。
そのままシャードの目の前に少女が立ち塞がった瞬間、二人は同時に声を上げていた。
『自転車で坂下ってたあの阿呆ポニ子ッ!!』
「あの時の奇跡の石頭先輩じゃないですかッ!?」
「お前ら、お互いのあだ名の付け方酷くね?」
互いを指さし叫ぶ二人を、如月が苦笑いを浮かべて見つめる。その後ろで、会話についていけない他のクラスメイト達は呆然とその光景を眺めている。
「えっ、貴方が月神先輩……ですか?」
赤毛のポニーテールは何故かそんなことを言って困惑の表情でシャードをジロジロと観察し始めたので、思わず眉間に皺が寄る。
『そうだけど……なんか用か?』
「……なんか思ってたのと違う……」
『あぁ?』
何やらブツブツと独り言まで言い始めるのが聞こえて、尚更意味が分からない。
なんだ、思ってたのと違うって。
少し間が空き、シャードからの訝しげな視線に気づいたのか少女は「あ、すみません」と慌てて姿勢を正した。
「えぇと、大事なお話が……あって。
人前じゃあ、ちょっと言えない話……なんですけど」
真っ直ぐにシャードの目を見てそう切り出した彼女の台詞に、周囲が一瞬ざわめいた。
「人前で言えないことだって……」
「大事な話だって……!」
特に、教室の端で様子を見守っていた無関係の女子生徒が小さく黄色い声を上げる。如月に至っては、何かを察した表情で「あ〜そういう感じ?」と声を上げた。
常日頃から妹を追いかけ回す事しか興味のない友人にもついに春が来るのか、そうか。
自分たちは今、そんな青春の一ページを見せられているんだな?などとしみじみ頷く。
友人が感慨に耽る一方で、話しかけられているのシャード本人の様子はというと、
『えっなにそれ怖……』
あんまり聞きたくないんですけど……と口元に手を当てて若干逃げ腰であった。
「えぇ……?なん、なんで?どうしたシャード……女の子からのお呼び出しだぞ……?」
『絶対にろくな話じゃない……』
「やめ……やめろこの馬鹿!失礼だろッ!!」
不安げな様子で首を横に振り続けるシャードに、如月が掴み掛かる。一世一代の告白をしようとしている(かもしれない)相手に、この態度は頂けない。
そうは言われても、シャードにしてみればそんな事言われても困るのだ。
周囲が何を想像しているのか、推し量れないほど鈍くはないつもりだ。けれども、もしこれが自分への告白なのだとしたら、告白する相手の顔も知らなかった……などというおかしな話はないだろう。
それに……
────······目の前の赤毛の少女から、何種類かの感情の"モヤ"が滲み出しているのが見える。
まず目に止まったのは、不安と緊張の感情……これはきっと、これから大切な話をすると言っていたからそのせいなのだろう。それは特段不思議なことではない。
彼が気になったのは……彼女から自分に対する〈疑い〉の感情が向かってきている事だった。
『(何かを疑ってるか、不思議に思ってる?
……俺が月神シャードだって事にか?そう言えば、"思ってたのと違う"とか言ってたよな……何の話だ……?)』
そういうわけだから、シャードには目の前のポニーテールがそんな甘ったるい理由で自分の元へ来たようには見えなかった。というか、理由が分からないから何をされるのか想像出来なくて若干怖い。
けれども、このことを説明しようにも、少女の背から自分へと伸びる黒い影をどのように説明するべきなのか、シャードには全く分からなかった。
『(……まぁいいか。
これを説明するの面倒くさいし、それに──···)』
────どうせ、言ったところで理解してもらえないんだし。
黙り込むシャードの様子から自分が怪しまれていると思ったのか、ポニーテールはハッとした顔で慌てて口を開く。
「い、いやだなぁ!私、怪しい者とかじゃないですから!!何も怖くないですよッ」
『不審者が自分から〈私、怪しい者です〉って自己紹介するわけねぇだろ』
「そ、それはそうなんですけど〜……困ったなぁ」
はわわ、と口元に手を添えて狼狽える姿が一層怪しい。
しかし、眉を顰めるシャードとは反対に、周囲のクラスメイトは何らかの空気を察したのだろう。
「俺ら、おじゃま虫なんじゃね?」みたいな視線を互いに送りあったかと思うと、ニヤニヤと笑みを浮かべる。
その中で、一番最初に声を上げたのは如月だった。
「じゃ、俺ら先に帰ってるから!ちゃんと話聞いてやれよ、月神せ〜んぱいッ!」
そう言ってシャードの肩をポンッ、と叩くと、他のクラスメイト達を引き連れて教室から出て行こうとする。
『お、おい如月!?待てって、これ絶対にそういうのじゃな』
「まぁまぁ照れんなって、俺らだって茶化すほど無粋じゃねぇよ……友達だろ?」
『話を聞けよッ!!!!』
バン!と勢いよく机に手を叩きつけ大声を上げるが、そんな抗議も虚しく、クラスメイト及び野次馬だった女子生徒たちもそそくさと教室から一人残らず立ち去ってしまった。
「……え、え〜っと…………なんかごめんなさい」
誰もいなくなった教室で、赤毛の少女が恐る恐る口を開く。
「なんだか……変な空気になってました?」
『……アイツらが勝手に勘違いしただけだろ……』
はぁ、と大きく溜息をついた。
自分のようなおかしな眼を持っていなくとも、少し冷静に考えれば分かるだろ……とは今更どうにもならない。
『……あー。それで、話って?』
こうなったら、さっさと話を聞いてさっさと帰ろう。
面倒な話じゃなかったらいいけど、と渋々腹を括ると、ポニーテールが突然シャードの手をがしりと掴んだ。
「あのッッ!!今から話すこと、絶対に笑わないで聞いてくれるって約束してくれますか!?」
『は?』
「約束してくれますか!?」
そうどこか必死の表情で問うものだから、その理由も尋ねることが出来ずに、シャードは狼狽えながらも何度も頷く。
『わ……わかったわかった、笑わねぇから!』
「約束ですよ?」
ダメ押しに再び頷けば、少女はようやく安心したのか掴んでいた手を離した。
『ったく、なんなんだよいきなり……』
握られていた手を擦りながらシャードがぼやくと、少女は心許ない様子で空いた手をうろつかせた後、自分の胸に置いた。
……その顔がどこか不安げに見えたものだから、思わず不満を零していた口が止まってしまった。
「……月神先輩が、神社の息子さんだって噂を聞いたんですが、本当ですか?」
『はぁ?』
ようやく本題に入ったかと思えば、そんな事を聞く。
なんなんだ、家が神社の息子がそんなに珍しいのか?
……いやまぁ、珍しいだろうな。
正しくは自宅は境内にあると言うだけで、別に本当に神社に住んでいるわけではな……いや、そんな屁理屈はどうでもいいのか。
また面白おかしく色々聞かれるんだろうかと内心ぐったりしながら、シャードは『まぁ、』と後ろ頭をかく。
『でも神社って言っても、古いだけで特にすげー神様が祀られてるとかじゃないぞ?縁結びとか恋愛運とか、そういう神様でも何でもな』
「!! 本当なんですねッ!?」
『……お、おう』
食い気味に返されて思わずタジタジな相手などお構い無しに、少女は特徴的な赤毛のポニーテールを揺らすと再びシャードにずずいと詰め寄り
「お願いがあるんです!」
と、随分と大きな声で言った。
『…………お願い?』
────まずい、これはなんだか嫌な予感がするぞ。
詰め寄られながら、シャードは頭のどこかでそんな事を考える。
別に、少女の背から何らかの悪意が視える訳では無い。
というかむしろ、先程の〈疑心〉の感情が視えたあとから、彼女からこちらへ向けられる負の感情は一切と言っていいほど見当たらないのだ。
けれども、だからこそ、嫌な予感がする。
なんだか、厄介な出来事に巻き込まれそうな……そんな予感が。
「どうか、お願いします。
────······私の友達を、助けてください」
そう言って深々と頭を下げた彼女を見て、『あぁやっぱりか』と崩れ落ちそうになった。
カチリと時計の針が進む音が、静かな教室の中でやけに耳に届いた。