CASE.Ø サトリの子 (後編)
月神 シャードはサトリの子だ。
先祖代々続く〈サトリ憑き〉の子だ。
けれども何故か、幼い頃から彼の眼に映るのはいつも見たくもない他人の"負の感情"ばかりだった。
新学期の朝。
シャードが大きな欠伸をしながら階段を降りると、台所から甘い玉子焼きと味噌汁のいい匂いが鼻腔をくすぐった。
「あぁおはよう、シャード。
シャツのボタンがズレているよ」
『ん、おはよ……』
リビングで今朝の朝刊を読みながらお茶を飲んでいるのは父である"イクス"だ。
黒いスーツに身を包み、背中辺りまで長く伸ばした艶やかな黒髪を下で束ねた髪型。シャードが持つ緑色の眼は父親譲りだった。
父・イクスも、パッと見ただけなら少し風変わりな髪型のサラリーマンだろう。けれども、彼はこれでもれっきとした《月神神社》の神主なのだ。
「あら?今朝は随分と早いのね、シャード……おはよう」
ひょっこりと、台所から顔を覗かせたのは母の"百合音"。
こちらも腰まで伸ばした綺麗な黒髪を下ろし、ハーフアップで軽くまとめており、青色の瞳には幾つになってもキラキラと輝きがあるようだった。
父も母も同い年だが、母の方が幾分か若々しく見えるのは何故かと以前何の気なしに口にしたことがあったけれど、「恋する乙女はいつだって綺麗なのよ」と今年で38歳とは思えない惚気を聞かされて終わった。
『あぁ、うん……今日はちょっと用があってさ』
「そうなの?
……はい、朝ご飯出来てるわよ。食べるでしょう?」
その言葉に頷き、テーブルに視線を映して、ふと違和感を感じた。いつもなら隣にあるはずのもう一人分の朝食が、ない。
その席は、シャードより4つ下の妹のものだった。
『……あれ、そういやライトは?』
きょろきょろと軽く辺りを見渡してみたが、姿はない。毎朝、兄と妹二人で朝食をとるのが日課だというのに、彼女はまだ起きてきていないのだろうか……などと考えたのは束の間のことだった。
父と母が、一瞬だけ互いの顔を見合わせた。
『…………父さん、母さん?』
シャードが声を掛けると、二人はそれはもう分かりやすい程にギクリと肩を揺らした。
そのままギギギ……とまるで錆びたロボットのようなぎこちない動きでシャードから視線を逸らす。
『……二人とも、ライトは?』
「え?あぁ、うーん……ど、どうだろう?どこにいるんだろうね?気にしてなかったなぁ……ねぇ、母さん?」
「え、えぇ……ええと、そうね、父さん。あまり気にしてなかったわね?」
────絶対に嘘だろ。
彼はその瞬間に理解した。父と母は、自分にとって都合の悪い事実を隠していると。
シャードの可愛い、それこそ幼少の頃から目に入れても痛くないという程に溺愛してきた我が愛しの妹について、父と母は何かを隠していると。
「ら、ライトだって今日から中学2年生なんだし、そこまで気にかける必要も無いんじゃないかな?」
「え、えぇそうだわ。いつまでも"お兄ちゃんと一緒に学校に行く〜!"なぁんていかない年頃なんだもの。だから、シャードよりひと足早く家を出たって別に不思議はな──」
「か、母さん!!」
「…………あら?」
イクスが慌てて百合音の言葉を遮ったが、既に遅かった。さすがにしくじったと思ったのか、百合音も笑顔を引き攣らせて冷や汗をかき始める。
『……ほぉ〜?』
シャードは笑っていた。
いや、口元は笑っていたが、その目元は笑っていなかった。主に座られず、どこか寂しそうにも見えるその席を、静かに見つめる息子の様子に夫婦は冷や汗をかく。
「し、シャード……」
『悪い、二人とも。
────······俺、用事出来たから朝飯いらねぇわ』
にっこり、と。
張り付いたような笑みを浮かべながらそう言った彼の言葉に、イクスと百合音はこくこくと頷く。
そうと決まれば、と速やかに階段を上がって自分の部屋へと戻ると、シャードは制服の上着を羽織りカバンを引っ提げ玄関へと向かう。
そこまでの時間、ざっと10秒という、とても人間業とは思えぬスピード。何が彼をそこまで駆り立てるのかといえば、それは先程の《空っぽの座席の主》によるもので……
『んじゃ、行ってきますッ!!』
「「い、いってらっしゃ〜い……」」
ははは……と苦笑いを浮かべながら、半ば玄関を飛び出した息子を見送り、夫婦は再び顔を見合わせる。
と、今度は同時に深く深く溜息をついた。
「……あの子の"アレ"は、もうどうにもならないのかなぁ、百合音?」
「そうねぇ……まだまだしばらくかかるんじゃないかしら……困ったわねぇ、イクス?」
「一体、誰に似たんだか……」
そんな風にボヤきながら、誰もいなくなった玄関の方向を見つめ、イクスは「先か思いやられるね」とすっかりぬるくなってしまった茶の入った湯呑みに口をつけた。
「前方、後方……共に異常なし。
電柱の後ろも、よその家の塀の裏も、庭の草陰も、犬小屋の中もマンホールの下も、全部全部異常なし!」
閑静な住宅街で、キョロキョロと大げさな動きで周囲を確認する少女の様子を、周りの人間は訝しげな目で見つめていた。
少し癖のある濡羽色の短い髪に、深い青色の瞳。ワンピース風の制服のスカートから覗く眩い素足、同世代と比べて少しだけ大人びた顔付き。最近の学生読者モデルとも引けを取らない清純派の美少女といった風貌だった。
よほど慌てて家を出てきたのだろうか、開きっぱなしのカバンから筆箱が飛び出そうになるが、ギリギリのところでそれは免れる。けれども彼女はそんなことにすら気づかぬ様子で、周囲に異常がないことを確認すると、通学路のど真ん中で「よしッ!」と声を上げすこぶる嬉しそうにガッツポーズをした。
「ふ、ふふふ……ついに、ついにやったわ……!我ながら完璧ね、"月神 ライト"……ふふ、ふっふふふふ……」
顔に似つかわしくない不気味な笑い声を上げながら、少女……月神 ライトは、本日の登校が念願であった至って平和的な、安穏としたものになると確信したのだった。
幼少の頃から特殊な家庭に生まれ育った彼女は、穏やかで優しい両親と、少々病的なまでに妹思いな兄に大切に大切にされてきた。
そんな彼女も今日から中学2年生になり、遅かれ早かれ誰にも平等に訪れる思春期というものは、両親にではなく皮肉にも"目に入れても痛くない"ほどに自分を可愛がっていた〈兄〉に対して顕著に現れた。
そのひとつが、現在進行中の隠密行動である。
……まぁ、こうして兄から半ば逃げ隠れるようにして登校しているのは、ただの思春期的な反抗心という理由だけではないのだけれども。
「あ、どうしよう……もう先に着いちゃってるかな?早く行かないと、あの人が……」
不意にはっと気がついたようにそう呟くと、足早にその場をあとにして〈待ち合わせ場所〉へと向かう。
こんな風に兄から隠れるようにして家を出たのも、全てはこの待ち合わせのためだった。
はやる気持ちを抑えようとして、その実その高揚感に身を委ねながら軽い足取りで曲がり角を曲がり────···
「うわッ!?」
「きゃっ……!?」
バサバサと勢いよく何かが落ちていく音がした。
曲がり角から人が来ていることに気づけなかったライトは、ぶつかったその拍子に開いたカバンの中身をぶちまけてしまったのだ。
相手の(少し、急いでいる様子の)サラリーマン風の男性は、すぐさま「大丈夫ですか!?」と彼女を気遣う。
「すみませんッ!あっ、だ、大丈夫です」
ライトもようやく自分のカバンが開いていたことに気がついたようで、慌てて散らばった教科書やノートを拾い集める。
「手伝いますよ」
男性は苦笑いしながらそう言ってしゃがみ込むと、共にカバンの中身を拾い始める。
「あ、ありがとうございます……!」
その親切に内心申し訳なく思いつつ、ライトはそう礼を言って笑顔で受け取ろうと手を差し出した
────······その時だった。
《ああ、クソ……急がなきゃバスが行っちまうよ!》
ふと、目の前の男性が苛立たしげにそう大きな溜息をつく声が頭に響いて、ライトははたと動きを止める。
教科書が受け取られないことに不思議に思った男性が困惑した顔でライトを見つめた。
「どうかしましたか?」
「……あ、い、いえ、」
なんでもないです、と小さく掠れた声で返してぎこちない手付きで男性から教科書を受け取る。
「…………あ、あの、もう大丈夫です。急いでいらっしゃいます、よね?あとは自分でできますから」
「そうかい?」
ライトのその言葉を待っていたかのように、男性の表情がぱっと明るくなる。が、すぐさま気まずげな咳払いをしたあと、取り繕ったような気遣いの笑みを浮かべて「ぶつかっちゃってごめんね」と一言付け加える。
「いえ……こちらこそすみません」
慌てて走り去っていく男性の後ろ姿を見つめながら、ライトは"ふぅ……"と憂鬱そうに息をついて、再び散らばった教科書を眺める。
「……ちょっと浮かれすぎちゃったかな」
「何がだ?」
ぽつりと漏らした独り言に、返事をする者がいた。
「えっ」
「……教科書、落としたのか」
慌てて声のする方へと視線を向ければ、そこにはライトと同じ学校の制服を着た少年が彼女を見下ろしていた。
少し寝癖のついた、首元までの長さの金髪を紺色のヘアバンドでまとめているその少年は、そう言うや否やライトの隣にしゃがみ込んで落ちていた筆箱を拾う。
「り、里麻くん……」
「ん、ほら」
「……ありがとう」
"りお"、と呼ばれた少年は、ライトが筆箱を受け取ったのを見ると満足げに頷く。そのまま次々に散らばったノートやら参考書やらを拾い集めていくのを、ライトは少しだけ呆然と見つめていたあとにハッと我に返った。
「ご、ごめんね里麻くん!もしかして待ってた?」
「いや……いま来た」
「そうなんだ。……拾うの、手伝ってくれてありがとう」
少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、ライトは胸に広がる幸福感のままに笑みをこぼす。
「急いできたのか」
「うん、ちょっとだけ……
でも、そのせいでヘマしちゃった、ダメね私ったら」
照れ隠しするようにそう笑って、拾ったものをカバンに仕舞い直す。
色々と予想外のことが起きたが、何はともあれ目的だった待ち合わせは上手くいった。
残るは、目標の"平和的かつ安穏とした登校"を実現させるだけ。そのためにも。
「うん、これでよしっと。
……じ、じゃあ学校に行きましょ、早く行かないと……」
「? 早く行かないと、何かあるのか」
「ううん、何かあるって言うか……ほら、里麻くんも朝練でしょう?」
「朝練には問題ない。それより、あまり焦るとアンタがまた転ぶだろ」
「ええと、それは、そうなんだけど……」
煮え切らない返事ばかりのライトに首を傾げ、里麻は不思議そうな顔で彼女を見つめる。
「どうした」
「……ううん、なんていうかね、その、タイムリミットが迫ってる気がして……朝練じゃなくてね?えっと、私個人に対してのタイムリミットがっていうか」
「????」
しどろもどろといった様子で視線をさ迷わせ始めたライトに、里麻はさらに謎を深めるばかり。
しかし先に痺れを切らしたのは何故かライトの方で、彼女は「とにかく!」と声を上げると勢いに任せて里麻の手を掴む。
「時間が無いの!早く行かないと、あの人が……」
『あの人が、なんだってライト?』
「追いついてきちゃうから!…………って、え?」
背後から聞こえてきた声にライトはぞわりと鳥肌を立てる。
「……え、え?な、なんで、ここに」
恐る恐る、後ろを振り返る。
そこにいたのは、ライトのよく知る……いや、できることならそこにいるのは自分の見知らぬ人物であって欲しかったが、悲しいかなその希望は打ち砕かれる。
そこにいたのは、誰よりも見知った自分の兄である"月神 シャード"、その人だった。
「に、兄さん……どうして……朝ご飯は?いつもなら学校の用意をしている頃じゃ……」
『ふっふっふ……兄さんを見くびっちゃダメだよライト。ライトの為なら朝ご飯抜きだってへっちゃらだし、光の速さで学校の支度だって済ませちゃうぞ!』
「具体的に言うなら10秒ほどで」、とにこやかに付け加えて、シャードはライトの肩を掴む。
『いやぁ、びっくりしたなぁ……朝ご飯の時間にライトがいないんだもん。
兄さん思わず父さんと母さんに食い気味に質問しちゃって……一緒に学校行きたかったのに、兄さんに何も言わずに先に行っちゃうんだもんなぁ……兄さん寂しい』
うんうんと頷きながらそう語る兄に対して、ライトは死んだ魚の目でどこか他人事のように眺める……いや、本当に、他人事だったら良かったのに。
『分かるよライト、今日から中学2年生だもんな……もう"兄さんと一緒に学校に行きたい!"な〜んて自分から素直に言えないよな……
でも大丈夫!兄さんちゃんと分かってるから!!クラスメイトにからかわれたりしたらオレがすぐに飛んでいって────···』
留まることを知らない兄の勘違いトークが、不意にぴたりと止まった。
動きを止めたシャードの視線の先には、話についていけずにぼんやりとしている里麻の姿が。
「……あ、話終わったか?」
『…………星川 里麻……』
「今日も元気だな、ライトの兄さん」
「え?えぇ、まぁ……うん、元気だけは、ね……」
『なに俺の許可なくライトと口聞いてんだ、この脳筋ヤロー』
ゆらり、とシャードの背後で黒々とした怒気が揺らめいた。
月神 シャードはこの目の前にいる金髪天然脳筋野郎が嫌いだ。
具体的な部分を言うと自分の可愛いライトに近づいたり自分の可愛いライトに話しかけたり自分の可愛いライトと同じ空間にいたり自分の可愛いライトを唆していたりする所などなどあげてもあげてもキリがないくらいに。
「…………のう、きん……?ってなんだ、ライト」
「……えぇと……」
あと、あえて上げるとするならば頭が少し弱いところ。
『そうか、そういう事だな?お前がライトをまーーーーた唆しやがったんだな……?ライトは俺と一緒に学校に行くはずだったのに朝から姿が見えなかったのはお前と学校に行こうとしたから……そういう事だな?』
「いつも思ってたんだが、そそ……なんとかってどういう意味なんだ?」
「そそのかす、ね。
兄さん!いつも言ってるけど里麻くんは別に何も……」
『"里麻くん"ッッ!?!?!?』
ライトが慌てて誤解を解こうと口を開けば、すぐさまシャードのヒステリックな声が上がる。
『なんだその親しげな呼び方!?なん、ナンデ!?
ついこの間まで"星川先輩"だったのにッッ!!』
「対等な関係になる時に、先輩ってのはいらねぇだろ」
『対等な関係!!!!』
そんな単語が聞こえた瞬間にシャードは頭を抱えた。
ちなみに今いる場所は完全に公道のど真ん中であり、周りにはライト達以外の登校中の生徒や通行人がおり、こんな騒ぎを起こしている彼らが注目の的になるのは必然的だった。
『言っておくけどなぁッ!!ライトとテメーがつ、付き合ってるなんて認めてねぇからな!?』
「……? なんでだ?」
『はぁあぁあッ!?喧嘩売ってんのかテメーよし買ってやるいいから表出ろ!!!!』
「ここはもう外だぞ」
頭上にはてなマークを浮かばせている里麻の腕を、完全にブチ切れたシャードが勢いよく掴んで引きずっていこうとした時だ。
それまで口を挟むだけだったライトが、静かに手に持っていたカバンを両手で持ち直す。
「兄さん」
『いいか、大体お前みたいな脳筋野郎が俺の可愛いライトと対等になろうなんて考えがそもそも』
「兄さん!」
『ライト、どうかした?』
物凄い剣幕だったシャードの表情が、次の瞬間にこやかなものへと変わった。ライトに向けられているその顔はいかにも〈優しい兄〉のものであり、先程までの口の悪さなど嘘のようだ。
しかしライトは静かにカバンを握りしめると、すぅ…っと視線を冷たくする。こちらも、先程まで里麻へと向けられていた恋する乙女な彼女からは想像もつかないほどで、その口調もどことなく冷ややかになる。
「手を離して」
『え?』
「いいからその手を離して」
『えっ、あ、はい』
そんな様子を察してか、聞く耳持たずだったシャードが里麻を掴んでいた手をパッと素直に離したがすでに遅かった。
ライトはにっこりと天使のような(彼女の内心を知らなければ、だが)笑顔を浮かべると、両手で握っていたカバンを勢いよく振り上げる。
「もう……
────いい加減にしてよこのドシスコン馬鹿兄がァアァッ!!!!」
バシーン!という鈍く重たい一撃とともに、シャードの断末魔が周囲に響き渡った。
『うぅ……酷い、酷いよライト……』
「まぁ、そう気を落とすなって!いつもの事だろ?」
『いつもじゃない!!いつものライトは沢山の参考書が詰め込まれたカバンなんかで俺を打ったりしねぇ!』
握り拳でそう語るシャードの隣で、彼のクラスメイトである如月が呆れた様子でため息をつく。
「いやぁ……朝からそんなことされたら、オレがライトちゃんでも流石に殴るわ」
『は?お前がライトとかねぇよ、口を慎め』
「おう、今日も元気に拗らせてんな!」
笑顔を引き攣らせるクラスメイトに何のことやらと首を傾げつつ、シャードは未だに里麻のことを引きずっている様子だ。
結局、ライトは怒ったまま里麻を連れて先に行ってしまった。
『はぁ……なんでなんだライト……小さい頃からお前を理解してるのは、兄さんだけなのに……』
「発言が痛い……」
────ふとシャードの視界の端に、黒いモヤがかったものが映る。
それが、隣にいる如月から発せられていることにはすぐさま気がついた。
どんよりと如月の背に張り付くようなそのモヤが、《こいつ面倒くさい》と雄弁に語っているような気がして、シャードは眉を顰める。
『くそ〜……お前、いま《こいつめんどくせぇな》って思っただろ!』
「あ、バレた?」
『バレた?じゃねーよ!ったく……"見え見え"なんだよ、お前の態度はさぁ』
如月から出ている黒いモヤが見えるのは、いまこの場にいるシャードだけだ。
幼い頃、気がつくと見えるようになっていたその黒いモヤは、先祖代々シャードの家系が引き継いできた〈サトリの能力〉のひとつだった。
他人から発せられる"負の感情"が、その目に写って視える能力。
そうは言っても、シャード自身、他の感情……喜んだり楽しんだり、といったものをその目で視たことは生まれてこの方一度もなかった。
今だって通り過ぎていく人達からも、ちらほらと黒いモヤが滲み出して見えている。
ある者は新しい生活に抱く不安だろう、
ある者は誰かに対するイライラだろう、
ある者は何かに向けた憂鬱感だろう。
そう言ったものが、シャードには黒いモヤとして、彼の意思に関係なく目に映って見えるのだ。
「そう言えばさ、今日って入学式じゃん?
可愛い子来るかな〜新1年生!いい加減、ウチの部にも美人のマネージャーがひとりやふたり……」
今日はいつもより視える数が多い気がする……新学期だからだろうか?
「大人しい子がいいなぁ、ライトちゃんみたいな……」
『殺すぞ』
「冗談だよ……って、おい?お前どこ見てんの?」
幼い頃に父が言っていた、「見たくないのなら見なくてもいい」。
そんな風に言われても、未だシャードには、この見ているだけで心の底に澱んだ何かが沈殿していくようなモノを見なくて済む方法を、まだ知らない。
「おーい?シャードさん?」
『…………』
「あ、ライトちゃん」
『あ"ッ!?』
グルンと首を勢いよく回したせいで危うく筋を痛めそうになる。
「お前なんなの?音声センサーか何かでライトちゃんの名前に反応してんの?」
『? ライトは?』
「いねぇよ!……ったく、ぼーっとしやがって……そんなことしてると人にぶつかっちまうぞ!!」
やれやれと言った様子で如月がシャードの背中をバシン!と叩く。『痛てぇ』と抗議すれば「目覚めたか?」と気持ちのいい笑顔で返された、許すまじ。
彼らのそんな一見穏やかに見える登校風景にイレギュラーな存在が入り込んできたのは、学校へと続く一本の坂道での事だった。
登校の最大難所とも言うべきその坂は、この町の中で1番の急斜面になっていて、運動部員からは心臓破りの坂だとかなんとか呼ばれている。
この坂のせいで学校の自転車置き場は坂下に設置されており、自転車通学の如月はここで相棒とおさらばだ。
「おうおう、今年もこの坂の餌食になる新入生が増えるんだな!」
『そうだな』
新学期だからなのか、今日から高校で最高学年になる高揚感からなのか、いつもよりも少しテンションの高い如月を適当に受け流しながら、シャードは道なりに植えられている見事な桜並木をぼんやりと眺めていた。
いまだ、植物から黒いモヤを見たことはない。
父曰く、見られないということでは無いらしい。動物や人間に比べて、感情がとても見えにくいと言うだけで、大きな括りでは植物もまた生き物なのだ。
けれども、シャードは見えなくていいと思っている。
この期に及んで、この鮮やかな桜からも黒いモヤが見えてしまったらと思うだけでゾッとする。
「そういえば、シャードのクラスはどこに……」
『…………如月?』
突然、隣を歩いていた如月がピタリと歩みを止めた。
不思議に思ってシャードもまた歩みを止めると、如月がどこか訝しげに……険しい顔をして坂の上を見つめていることに気がつく。
「……なんだあれ」
『あれって?』
「坂の上から来るの……」
そう言った彼の指さす方向へと、視線を移す。
見えたのは、坂の上から自転車で勢いよく下ってくる"何か"で。
「びぃやあぁあぁあぁッ!?!?
ごめんなさぁあいどいてどいてどいてぇぇぇえええ」
────そしてその"何か"は、一直線にシャード達の方へと向かってきていた。
『!?!?!!』
「や、やべぇ!あいつこっちに来るぞ!!」
「いやーーッ!むりむり止まってぇええええッ!!」
タイヤが勢いよく回る音、慌てて左右へと避ける通行人の悲鳴とどよめき。それから、少女の叫び声。
というか、アレはいけない。めちゃくちゃ危ないだろう、誰だこんな坂を自転車で下ろうとしている馬鹿は。
そんな言葉を投げかける余裕もなく、少女はすぐ目前まで迫っていた。
如月は慌てて道路の端へと避けたが、シャードは動かない。
「お、おいシャード……!」
否、動けなかった。
後ろは危険を察知した通行人が避けているせいで誰もいない、つまり彼女をどうにかできるのは自分だけだとシャードは気づいてしまった。
女子生徒の背中からは、黒いモヤが……"恐怖"が滲み出ていた。
『(だからって何が出来る?
あんな勢いよく自転車でなんか突っ込まれたら、骨折れるよな?だったら避けるべきか?いや、でもそうしたらあの女子生徒は……)』
「ぶ、ぶつかる……!」
月神 シャードは、根っからのいい人というわけでも底辺の悪人という訳でもない。
けれども、勢いに飲まれやすい天性のお人好しだった。
「ひっ……!?」
少女が短い悲鳴をあげた瞬間に、轢かれる、と思って目を瞑った。
けれども、シャードに向かって突っ込んできたのは、自転車でも何でもなく。
「あ、」
一瞬、世界の全てがスローモーションのように流れた。
自転車はシャードにぶつかる少し手前で、運悪く転がっていた小石を踏んだ。
坂下を勢いよく下りながらもブレーキを踏み続けていた自転車は、その拍子にガシャンと音を立てて前のめりに倒れ込む。
「わぁッ!?」
『……あ?』
気がついた時には、少女の顔が目前まで迫っていた。
『い"ッッッてぇええええ!!!!』
「わーーーーッ!!ごめんなさいごめんなさい!!」
ゴッ!なんて効果音を、人生の中で聞いたのはこれが初めてかもしれない。
とてつもなく鈍い音を立てて頭を衝突させてきた女子生徒の声はなぜかケロリとしていた、なんて石頭だ。
目の前にチカチカ星が散らばるのを感じながら、シャードはうっすらと目を開ける。
「だ、大丈夫ですか!?大丈夫じゃないですよね!?
わぁわぁ!どうしよう……か、香織ちゃあん!」
「こっっの馬鹿ッ!!なにやってんのよ入学式早々に!」
「だ、だってぇ〜……坂を見たら、シャーッと下りたくならない?なるよね?」
「だからってわざわざ自転車で下る馬鹿がいるかッ!!」
額を抑えて座り込む女子生徒の元に、同じ制服の別の少女が駆け寄ってくる。シャードにぶつかってきた女子生徒は額を赤くして入るが、無事のようだ。
前髪を真ん中で左右に分け、ポニーテールを揺らしている。燃えるような赤毛、なんて言葉の表現があるが、まさにぴったりだ。なんだかとんでもなくお転婆な発言がちらほら聞こえてくるが、明るい髪色に性格もわざわざ合わせているのか?
なんて事を眩む視界で考えていると、一部始終を見ていた如月が慌ててシャードに駆け寄った。
「お、おいシャード、大丈夫か!?無茶すんなぁ」
『大丈夫じゃねぇ……あぁ、くそ、ライトが来てくれなきゃ死んじまうかも』
「よし、全然大丈夫そうだな!」
うんうんと頷く友人を恨めしく睨んでいると、赤毛の少女が友人に支えられて立ち上がるところだった。
「あ、あの、本当にすみません!私がちゃんと止めてたらこんなことには……ほら、あんたも謝る!!」
「ほ、本当にすみませんでした……」
シャードが如月と軽口を叩いている間にこってりと絞られたらしい赤毛の少女は、若干涙を浮かべながらシャードに謝罪する。
奇跡的にどちらにも大した怪我はなかったようだし、無事だったならそれが何よりだ。何よりだけれども……
そんな一言で片付けられるほど、シャードは簡単な男ではなかった。
『お前馬鹿か?こんな坂を自転車で下ったらブレーキが効かなくなることくらい分かるだろ普通、違うか?』
「は、はい……返す言葉もありません……」
『今回は頭ぶつけるだけで済んだかもしれねぇけどなぁ、ちょっと間違えたら大惨事だぞ、分かってるか?』
「おっしゃる通りで……」
『しかもあんた女の子だろッ!一生もんの傷でも出来たら取り返しがつかねぇんだからな!気をつけろ!!』
「は、はい……って、へ?」
ぽかんと口を開けてこちらを見る赤毛の少女を無視して、シャードは若干苛立たしげに落としたカバンを拾い上げると、如月に向かって『行こうぜ』と声をかける。
「お、おう……ってか頭平気なのか?すげー音してたけど?」
『血ぃ出てないし平気だろ……多分』
「なんで赤くなるだけで済んでるんだろ……」
不思議そうに首を傾げる如月に『知るか』と一言切り捨て、シャードはさっさと学校に続く坂を登る。
その後ろ姿を、赤毛のポニーテールを揺らした少女がしばらくの間ぼんやりと眺めていたのだった。