街角で消える
ミンミンと蝉が鳴く。窓の向こうは陽炎というのか蜃気楼というのか、少しぼやけて見える。今回もまたこの季節がやってきた。この時期のために、私は一体どれだけの時間を費やしてきたのだろう。
何度同じ後悔を味わえば気が済む。いつも口から出そうになる言葉を、そのまま言ってしまえば良いのに、寸でのところで止めてしまう。いつまで経っても治らない私の癖だ。どうにかしたいのは山々だったのだが、いかんせん変わるきっかけが無かった。けれどこの間、ついにその無限ループを終わらせる希望が見えてきた。今回こそは必ずやってみせる。
七月十八日木曜日のところにバツ印を打ち、カレンダーを壁から外す。荷造りもほとんど終わった。あとは直前まで使うものを仕舞えば完璧だ。
必死に努力をして合格を勝ち取ったにもかかわらず、親の仕事の都合でこんなにもあっさりと転校するなんて、なんだか虚しい。一年とちょっとの間だけお世話になったあの場所も、明日の終業式をもって永遠におさらばだ。
ベッドに寝転がって、空っぽになった部屋を見渡した。何だか、自分の心の中を見ているような気分だ。それなりに友達も出来たし、勉強も部活も人並みにやってきたはずだ。なのに何でこんなに、がらんとしているんだ。
――プルルル。
急に電話の音が鳴って、ちょっと驚いた。何にもない部屋にはよく反響する。俺はズボンのポケットの中にある携帯を取り出した。
「はい、もしもし」
少し無愛想な声になった。
『あ、俺だけどさ、今ヒマ?』
「俺って誰だよ」
『はぁ? 安井だよ、分かってるくせに。てかどっか行かね?』
彼の能天気さは九割が鬱陶しいが、ごく稀に素晴らしい効力を発揮することがある。たとえば今みたいな、考え込んでしまうことがあったとしても、安井がいれば途端にどうでもいいことに変わってしまう。不思議な奴だ。
「外暑いし嫌だ」
『じゃあお前ん家でマンガ読もうぜ』
こんな面倒臭い奴でも一応は親友であって、だから彼には誰よりも早くに転校のことを知らせたはずなのだが。
「マンガは全部段ボールの中だ」
『何で?』
「何でって明日にはもう引っ越すからだよ、馬鹿」
離れるのが寂しいと思っていたのは俺だけだったのか。所詮安井にとって俺は、ただのマンガ貸し屋だったのか。そう思うと視界がぼやけてきた。
『そうか、お前もう、明日で最後か』
不貞腐れてやろうかと思っていると、安井が意外にも落ち込んだ声を聞かせた。
『もうお前にドラゴンボール借りたり、ワンピース借りたりできねえのか』
「お前、本当に俺のことマンガ貸してくれる奴くらいにしか思ってないんだな」
『あはは。それもあったけど、いやそうじゃなくてさ』
横向きに寝ているせいで、右肩がじとじとと汗ばんできた。クーラーの電源を入れようか迷ったが、リモコンを取るのと窓を閉めるのが面倒くさくて止めた。右肩から放熱するように、ごろんと仰向けになる。
『二年連続で同じクラスになって家も近くて、俺、明日にはお前がいなくなるって実感がまだ無いんだ。信じられないって言うか、多分、本当にお前がいなくなったらすぐ慣れるんだ ろうけど』
安井は一瞬息を止めて、言った。
『慣れるのが怖いよ』
教室に着くと、すでにクラスメイトたちがわいわいと騒いでいた。どうやら夏休みは海や祭りに行くんだそうだ。俺だって高校二年の夏くらい友達とはしゃぎたかったが、見知らぬ土地でいきなり羽目を外すことなどできまい。今年の夏は大人しく家で過ごそう。
「おはよう」
めずらしく俺よりも早く席に着いていた安井に話しかける。
「はよ。昨日は悪かったな」
「別に全然」
昨日の電話のあと、結局安井と俺は遊びに出掛けなかった。いつもふざけている奴が真面目な話をすると、ちょっとぎこちない雰囲気になってしまう。決して気まずいわけではなかったが、いや、少し気まずかったのだろうか。
「今日は早く帰るのか?」
「まぁ、普通に」
変に意識してしまっては余計に接しづらくなるだけだ。明日からのことはなるべく考えないようにして、いつも通りの会話をした。
「みんなも聞いているとは思うが、今学期で寺本が転校することになった。寺本、何か一言あるか」
ホームルームでこんな風に教卓の前に立ったのは初めてだ。みんなが俺を見ている。その視線から逃げるようにきょろきょろと目線を迷わせ、しばらくしてから教室の廊下側の一番後ろの、ぽつんと空いていた席に落ち着かせた。あれは、誰の席だったか。
静かになった教室で、すっと息を吸う。
「えっと、親の仕事の都合で新潟に引っ越すことになりました。みんなと過ごしたのは四ヶ月くらいで短かったけど、すごく楽しかったです。……ありがとうございました」
ぱちぱちと拍手が起こる。クラスの中では目立つような人間ではなかったが、引っ越しを報告したときにはみんな寂しそうにしてくれた。去年も良かったけど、このクラスももっと仲良くなれそうなのにな。
「寺本くん、新潟に行っても元気でね」
「またメールするよ」
「時間出来たら遊びに来いよ」
自分の席に戻ると、周りが声を掛けてくれた。引っ越しなんかしたくないな。ここに居たい。なんで両親に話されたときに引っ越すなんて嫌だって、ここに残るって言わなかったんだ。ああもう、時間が戻ればいいのに。
陽が少し傾いただけの通学路を二人で歩く。
俺のお別れ会と称して、クラスメイトたちがお菓子を持ち寄り、今までずっと教室で騒いでいたのだ。部活があるとか塾だとかで一人、また一人と先に抜けていって、最終的に残ったのは主役である俺と、廊下側一番後ろに座っている篠山さんだ。彼女とはたまに喋ったりする程度で、そんなに仲良くなかった。けれど最後に彼女だけが残ったのも何かの縁だと、一緒に帰ることを提案したのだった。
「篠山さんって家こっちの方なんだ」
「うん」
彼女の少し茶を帯びたセミロングの髪が風になびく。どちらかといえばクラスでも控え目な彼女だから、今日のお別れ会だってある程度いればすぐに帰ると思っていたのだが。
「……部活入ってないの?」
「うん」
「そっか」
「……」
失礼だけど、こんなに弾まない会話は久しぶりだ。前にしたのはいつだったっけ。そういえば丁度これくらいの夏の日のことで、相手も篠山さんみたいな大人しい女の子だったような気がする。二人で放課後の帰り道を歩いていて、そうそう、俺は明日からこの街にいないんだ。
あれ、それって、今じゃないか。
また沈黙だ。今回こそ一生懸命喋ろうって決めたのに。毎回と同じように寺本くんのお別れ会に最後まで残って、一緒に帰ろうって言ってもらって、それなのにどうしていつもいつも喋ることが出来ないんだろう。私の弱虫、臆病者、ヘタレ。
「篠山さん」
どちらとも口を開かない状態が続いていたので、急に名前を呼ばれてびっくりした。肩をびくつかせたのを、彼が気付いていませんように。
「なに?」
「違うんだったらいいんだけど、なんか前にも、こんなことなかったっけ」
そう私に尋ねながらも、前を見つめる彼の瞳はもう気付いているようだった。これが最後だと決めておいて良かった。何の決心もないまま気付かれたら、もう私は一生後悔し続けたままだったから。
「寺本くんは、パラレルワールドって信じる?」
急な質問に彼は驚いたようだったけど、少し考えてから答えてくれた。
「……まぁ、無いとは言い切れないんじゃないかな」
それはつまり、存在は否定しないということなのだろうか。私だって最初は信じていなかったのだから、その反応は当たり前だ。それよりも否定しないでいてくれたことが嬉しい。今なら言える気がする。
「何度世界を巡っても、私は寺本くんと出会うの。あんな後悔するくらいなら、っていつも思うんだけど、やっぱり私は寺本くんのことを好きになるみたい」
予想を遥か斜め上を通り過ぎて、壮大な話に頭がついていけなかった。つまり彼女は、俺に気持ちを伝えるためだけに何度もこの日を繰り返しているらしい。
「正確には繰り返すっていうか、過去の一点で分岐した、酷似した世界のこの日だけど」
「なんか、難しくてよく分かんねえ」
「うん。すぐに信じてもらえるなんて思ってないけど、でも寺本くんなら、否定はしないだろうなと思って、打ち明けてみました」
へへっと照れたように笑う彼女の顔が夕日に照らされる。この表情は初めて見た。
「私、ずっとやり直したいって思ってた、願ってたの。そうしたら本当に出来た。だから寺本くんも本気でやり直したいと思うなら、きっと世界は変わるよ」
立ち止まってしまった俺の、三歩先で立ち止まる彼女が振り返る。
「私はもう叶えたから、今度は寺本くんの番だね」
そうして彼女はふっと笑ったかと思えば、一瞬の内に揺らいで消えてしまった。
七月十八日木曜日のところには丸印を打ってある。明日は終業式で、高校生になって二回目の夏休みがやってくる。
――プルルル、と電話が鳴る。きっと相手は安井だろう。
「はい、もしもし」
マンガは綺麗に本棚に並べてある。
『あ、俺だけどさ、今ヒマ?』
「俺って誰だよ」
『はぁ? 安井だよ、分かってるくせに。てかどっか行かね?』
彼の能天気さは九割が鬱陶しいが、ごく稀に素晴らしい効力を発揮することがある。たとえば今みたいに、いつも通りの今日を過ごせることにわくわくしているときとか。
「外暑いし嫌だ」
『じゃあお前ん家でマンガ読もうぜ』
こんな面倒臭い奴でも一応は親友であって、だから彼には誰よりも早く、俺のこの高揚感を共有して欲しい。
「おう、ドラゴンボールでもワンピースでも全巻揃ってるよ」
『……いや、今日はナルトの気分だな』
終業式も一学期最後のホームルームもいつも通り終わり、陽が少し傾いただけの通学路を二人で歩く。
今回は一学期お疲れさま会と称して、各自お菓子を持ち寄り今までずっと教室で騒いでいたのだ。部活があるとか塾だとかで一人、また一人と先に抜けていって、最終的に残ったのは俺と篠山さんだった。
「篠山さん」
どちらとも口を開かない状態が続いていたので、急に名前を呼ばれてびっくりしたのだろうか。彼女は小さく肩をびくつかせた。
「なに?」
「篠山さんの言った通りだった。強く願えば、変わるもんだね」
「え、なにが?」
篠山さんはあのとき願いを叶えたから、この世界では何も知らないのだろうか。それなら、それでもいい。まだ彼女は後悔をしていないということだから。
「篠山さん、俺に言いたいことない?」
「……例えば?」
君は何度もここで挫けて後悔したんだろうと言ってやりたい。ここで彼女に後悔させるわけにはいかないんだ。彼女のためにも、自分のためにも。
「例えば、俺のことが好き、とか」