069 「モーツァルトの旋律」
あなたは。
そのとき、恐怖を感じるべきであったのかもしれない。
けれど、あなたの中にはそのような感情はなかった。
というよりも、あなたはそれどころでは、なかったということね。
あなたは、頭の中で懸命にプログラムを組み上げようとしていた。
自分の手や足を、どのように動かし、ラインハルトに対するべきか。
そのプログラムを、グールドが演奏するモーツァルトの調べにのせて、組み立ててゆく。
まあ、ナチスの殺し屋に、ただのおんなの子が立ち向かおうとするのだから、普通に考えれば無謀きわまりないのだけれど。
あなたには、そんなこと関係無かった。
だって。
あなたは、生きるという全ての局面が、途方もなく無謀な企てに感じられていたのだから。
相手がナチスの殺し屋であっても、通りすがりの小学生であっても。
同じ程度の困難さを、感じたでしょう。
ラインハルトは、無造作といってもいい調子で歩み寄る。
獲物を前にした肉食獣の、笑みを浮かべて。
彼は、懸命にプログラムを組み立てるあなたを見て、怯えて立ち竦んでいるのだとしか、思わない。
そして、彼の思った通りの行動を、あなたはとる。
その場の地面に、手をつく。
ついた手の中には、あなたがいつもポケットにれている、スマートフォンの予備バッテリーが握りこまれている。
そして、あなたはなんとか言葉を口にした。
「ユルシテ、コロサナイデ」
ラインハルトはそんなあなたの真っ正面に立つと、満足げな笑みを浮かべたまま腰から剣を抜いた。
あなたの頭の中に、モーツァルトの旋律が響き渡る。