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016 「グールドのモーツァルト」

あれは、ずっと昔。

まだほんの子供のころの出来事。

わたしたちが、小学校に入ってまもないころ。

あなたは、金魚が死んでしまったと泣いていた。

自分が餌をやりわすれていたせいだと。

わたしたちのお母さんは、泣き止まぬあなたをつれペットショップへ行きもう一度金魚を買った。

あなたは、さっそく金魚に餌をやる。

たくさん、たくさん。

見兼ねたお母さんが、注意する。

「どうしてそんなに餌をやるの。食べ切れないほど餌をあたえても水が汚れるだけで金魚を弱らせてしまう」

あなたは、覚えたばかりの筆談で答える。あなたは小さなホワイトボードにこう書いた。

『やり忘れてたぶんの餌もあげるの。そうしたら、死んでしまった子たちも生き返って食べてくれる』

お母さんもわたしも、あなたに死んだ金魚が生き返らないことを理解させることはできなかった。

でも。

どんなに餌を与えても死んだ金魚は、生き返らない。

そして。

どんなに愛したとしても、失われた至福のときが蘇ることはない。

過剰な愛は、多すぎる餌が水を汚すように事態を悪化させるだけだ。

わたしはあなたを愛している。


でも、その愛はきっと過剰なもの。


だからあなたを、苦しめてしまっている。

汚れた水が金魚を弱らせるように。

あなたは、わたしの幽霊を探しにいくことにした。

もし。

わたしがあなたを過剰に愛したりしなかったら、こんなことにはならなっかただろう。


あなたは外にでる。

ざわめく音が、あなたに襲い掛かった。

あなたは雑踏の音が苦手だ。黄昏どき。家路をいそぐひとびと。様々な音が街にあふれる。

足音、車の音、遮断機の警報、風の音、子供達の喚声。

あなたにはそれが無数の言葉のむれとなる。

たとえば、車が通り過ぎる音。

それは、「大波がきます、ご注意ください」と語りかける。

ほかにも、いろんな言葉が聞こえた。


「つぎは、おれの番だ」

「お静かに、お静かに」

「神様さま、ありがとう」

「ポテトサラダ」

「こんにちは、さようなら」


あなたはイアホーンを携帯電話に接続する。音楽プレーヤーを起動した。

あなたは、学校の先生に相談したことがある。

音があなたを苦しめること。

たとえ耳栓をしても、小さな囁きが聞こえてくることを話した。

まだ若い女の教師は、こうアドバイスする。

「携帯音楽プレーヤーを使って、音楽を聴いてはどうかしら」

いい考えだとあなたは思った。

でも、どんな音楽がいいか見当もつかない。あなたは、先生にたずねてみる。

「そうね。軽快で綺麗なピアノ曲なんてどう? モーツァルトなんていいと思うわ」


なるほど、とあなたは思う。

あなたは、あなたのお母さんにも聴いてみる。

「ピアノ曲が聴きたいの? そうね。わたしは、グレン・グールドの演奏がすきだわ。緻密で正確、でも流れるように軽快でときにアクロバティックなの」


あなたはCD屋にいってみる。

モーツァルトのCDは一枚だけしかなかった。グールドが演奏しているものだ。あなたは躊躇わずにそれを買う。

かくしてあなたは、グールドのモーツァルトを聞くようになった。毎日、毎日。

もちろんあなたは、グールドがモーツァルトについて存在そのものを消し去りたいと言っていたことや、モーツァルトは長生きしすぎたと言ったことなんて知りはしない。

そして、そのCDのトルコ行進曲がでたらめなテンポで弾かれていることも知らないし判っていなかった。


でもあなたは、グールドのモーツァルトが気に入ってる。

それは、緻密で軽快に動く機械のような音楽だと思う。

その音楽は、あなたをマシニックなシステムへと変えてくれる。

あなたはようやく歩きはじめた。


学校へ向かって。


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