【迷走】
「僕を――引き取る話が、出てるって……」
やはり、と納得する声と、まさか、と疑う声が彬文の中でせめぎ合っていた。
嫌な予感こそしていたものの、自分が再婚する為に実の息子を弟夫婦の元へやってしまおう、なんて話は聞いたこともなかったから、ある筈ないと単純に考えていた己が愚かだったのか。
何でも操生に云わせると、この話は一ヶ月も前に決まっていたらしい。
「鈍くさいな、今の今まで知らなかったなんて。ま、彬文らしいっちゃらしいけど」
「冗談じゃないよ、僕の都合はどうなるんだ」
どうせなら兄弟一緒の方が気兼ねもないだろうし――と、叔父夫婦から持ち出してきたという。
若くして彬文の父親となった兄の再婚を、こういった形で祝福するつもりなのだろう。
しかし、ないがしろにされた彬文が黙って頷けるわけがない。
自分に何の了解もなく話を進めた叔父夫婦に苛立ち、おくびにも出さなかった父親に苛立ち、当の本人を差し置いて状況を掴んでいた操生に、八つ当たりだと知りつつ苛立った。
「大体、僕がこの家に住むってことは、学校だって転校しなけりゃならない。いきなりそんなこと言われたって困るのは分かりきってるのに……」
それも確かに理由の一つではある。それだけが問題でもないけれど。
むしろ本心は別のところにあった―気付いていながら、彬文は目を塞いでいた。
「構わないだろ、まだ二年なんだから。幸い学力はこっちの学校も同じ程度だし、困ることなんて何もないと思うけど」
「だから、そういう問題じゃないだろう」
操生の答えは簡潔だった。
「そういう問題さ」
「……どうしてこのままじゃいけない。どうして、今までと同じじゃ駄目なんだろう」
今更、操生を兄と思えというのか。
それなら何故、初めから教えておいてくれなかった。
――母の死後、ことに自分を可愛がってくれた祖母が他界し、失ったという実感すら湧かぬまま、半ば呆然と葬列を見送ったあの日の帰りがけ。
突然自分の実の兄なのだと、叔父から伝えられた。
衝撃を受けたのは事実だった。
けれどそれから三年もの間、彬文を逢沢家から遠のかせていたのは、そのことではなかった。
あの時……戸惑いよりも、なお強く脳裏に灼きついた、自分に向けられていた操生の眼差し。
憎まれていたのではないか―そう錯覚してしまう程の、強い光を孕んだ烈しい双鉾。
目にしたのは、ほんの一刹那。
それでも己が再会を避けるには、充分すぎる理由だった。
いっそ訊ねてみようかとも思う。相手の真情も掴めないままに、会話を続けるのは無理がある。
が、喉元まで出かかっている筈のそれは、彬文の意志に反して上ってこようとしない。
結局彬文は、目を伏せ俯くことしかできなかった。
風が二人の間を通り抜けてゆく。
退屈そうに足を揺らしていた操生は、やがてやれやれと言いたげに肩を竦めた。
「嫌だね、まったく我が侭で」
「……我が侭なんて」
「だってそうだろ。煮え切らないったらありゃしない」
彼はわざとらしく溜め息をつきつつ、とんでもないことを口にする。
これだから子供は――と、腹の立つような言葉を付け加えるのも忘れずに。
「伯父さんの遣り口が気に入らないなら、さっさと家出でも何でもすればいいじゃないか」
「簡単に云うなよ」
「難しいことでもない」
普段自分の繰り言など、柳に風と受け流すか、半畳を入れるか、のどちらかしかしない相手が、その時だけは、何故かひどく真摯な顔つきを向けた。
「知らない世界に出るのが怖いって。そう云って逃げてられるうちは華さ」
辛辣な口調が耳に痛い。
――逃げて、いるのだろうか。
変わりたくないと望むのは、そんなにいけないことなのだろうか。
自分の台詞に揺り動かされる彬文を、眇めた目で見遣ると、操生は極彩色の花々で埋もれた庭へと視線を移し、ぽつりと云った。
「親だって、そういつまでも子供を守っちゃくれない。例え何とかしてやりたくっても、どうにもし難いことだってこの世には沢山あるんだから」
「だから僕に、父さんの事情に付き合えっていうの。どうにもし難いから」
頬を膨らませる彬文に、かけられた言葉は素っ気ないものだった。
「そうは云ってないだろ。嫌なら自分で何とかすればいいのに、って云ってるだけさ」
「……同じことじゃないか。僕一人じゃ高校の学費すらままならない」
それは欺瞞だ。本当は彬文だって、操生の云うこともちゃんと分かっていた。
庇護を受けている以上、多少の不満は仕方のないことで、それが嫌なら自立するしかない。
どちらも嫌だというのは、虫が良すぎる。
「臆病風に吹かれて、ちっとも自分で動こうとしないんじゃ、何の解決にもならないんだぜ。人とぶつかることが怖くて、口に出せば変わるかも知れないのに、それすら避けてるんだろう」
図星を指され、彬文は赤面した。
確かに云ってみたところで変わらない――そう決めつけて、逃げてしまっていた。
その実、頭ごなしに否定されるのが怖かったのだ……。
「そんなのは只の横着者だよ」
ほんの一つの差でしかないのに、操生に比べて自分の幼さときたらどうだろう。
こうも的確に痛いところをつかれては、認めるより他にない。
相手の背に向かって、彬文は悔し紛れに居直った。
「――どうせ操生と違って怖いものだらけだよ、僕は」
揶揄われることを計算に入れて放った台詞を、意外にも操生は否定した。
それも、今しがた彬文に威勢よく啖呵をきっていた彼とは、打って変わった表情で。
「僕にだって、怖いものくらいある」
操生に怖いもの、なんて……彬文には到底信じがたい台詞だった。
予想していたのは「よく分かってるじゃないか」と自分の言葉を鼻で笑う彼の姿だったのに。
呆気に取られて、彬文は従兄をまじまじと凝視した。
そんな彬文からふいと顔を背け、操生は何も云わず庭へと出ていった。
操生の姿が消えた縁側から吹き込んできた風が、見送る彬文の前髪をふわりと撫でていった。
――どうしてこの時、彼に声をかけようとしなかったのか。
この先、操生の心中を推し量れなかったことを、彬文は長いこと後悔することになる。
*******
昨晩の夕食時、操生の姿はそこになかった。
彼の姿がないことに対して、誰も何も云わなかった。
多分一人で夏祭りへ出かけてしまったのだろう。そう思う反面、彬文は何故か縁側で別れた時の、相手の態度が妙に気になって仕方がなく、結局ろくに食事もとらず部屋へと引き上げてしまった。
一晩経った次の日。
やはり、朝食の席に操生の姿は見えない。
こんなにも長いこと臍を曲げられるような言葉を自分は云っただろうか――思い当たる節はなかった。
機嫌をとるような真似は御免だと思いつつ、胸中に拭い去れない何かが残る。
食後、彬文はまっすぐに操生の部屋へと向かった。
せめて出てこない理由を聞きたい――しかし彬文の思いとは裏腹に、平生開け放たれている操生の部屋は、今朝に限ってぴったりと襖が閉められており、声をかけても応答がない。
諦めて奥の間に戻り、つくねんと庭を眺めていると、縁側に面した廊下から久江が現れた。
「昨日は、お祭りに行かなかったのね」
彬文が聞いているかどうかも構わず、久江は一方的に話し出す。
取って付けたような、どこか不自然な叔母の様子に、彬文は内心で首を傾げた。
「珍しいこともあるものね、と思っていたのよ。以前なら率先して出かけていたじゃない。やっぱり大きくなると落ち着いてくるのかしらね。あの子はちっとも変わらないんだけど……それとも、もしかして昨日のこと、操生が伝え忘れていたのかしら。忘れっぽい子だから」
花切り鋏を手にした久江はやたらと饒舌だったが、彬文を意識しているにしては気もそぞろであった。
心配事でもあるかのように。
床の間に生けた花を替えながら、
「僕が誘うからって云うから任せたのに、仕様のない子。今だって用事を頼もうとしたら、肝心の用件もろくに聞かずに、飛び出してったきりの鉄砲玉なんだから……」
彬文は軽く目を見開いた。
では操生は部屋にはいなかったのか。
道理で、何度呼んでも応答がなかった筈だ――いないのなら、あるわけがない。
自分の行動を省みて、彬文は含み笑いを漏らした。
「ちゃんと来ましたよ。僕が一緒に行かなかっただけで」
「そうだったの」
心なしか、ほっとしたような表情を久江は見せた。
同じ顔をどこかで見た―強い既視感に突き動かされて、彬文は記憶を探り。
そして思い至る。
そうだ。昨晩、自分が居間から早々に引き上げようと、席を立ったあの時だ。
……何かがおかしい。どこかが違っている。
祖母の仏前で手を合わせた折に感じた微妙な違い……それは、物の配置などの所為ではなく、もっと抽象的なもの――例えば屋敷内に漂う空気といった――の所為かも知れなかった。
ただ単に三年ぶりだから、といったことではなく。
深く考えると、奇妙な点は幾つも出てくる。
時折のぞく叔母の浮かない表情、以前より寡黙に感じられる祖父や叔父、そして昨日の操生の台詞。
はたして本当に自分のことが原因なのか。それとも……。
いくら気にしていても仕方のないことだ。
意を決して、彬文は口を開いた。
「僕がこの家に引き取られる、って話は本当なんですか」
途端、久江がはじかれるように振り向いた。
振り返ったその顔には表情がない。
「それ、操生が云ったの」
「他にこんなこと僕に云う奴はいないよ。それより本当のことなの、教えてくれたっていいでしょう」
詰め寄る彬文に、久江はようやく視線を合わせた。
「あの子が何のつもりで吹き込んだのかは分からないけどね、それは嘘よ」
嘘をついている目ではない。
そう思う。
けれど嘘を口をしない代わりに、もっと重大な何かを自分から隠そうとしているようにも見える。
本当に操生の出任せなのだとしたら、彼は何故あんなことを云ったのだろう。
「……本当に」
「こんなこと嘘云ってどうなるの」
久江は笑ったが、その笑みはどこかぎこちないものだった。
「――そうですよね」
合わせて笑いながら、彬文は自分の中でいわれのない不安が膨らんでゆくのを、抑えることが出来なかった。
しばらくぶりにも程が過ぎる更新となりました(汗)