新約聖書とコーランを読んで二大宗教批判
「新約聖書」と「コーラン」を読了した。読んでいて、どちらの書にもたいそう驚きを感じた。わたしがキリスト教およびイスラム教に対して、まちがった先入観をもっていたことを表わしていると思う。
「旧約聖書」は長ったらしいユダヤ民族の歴史書で、途中で読むのを断念してしまった。だが、概略はつかんでいると思う。
それで、まず、結論をいうと、
「キリスト教徒の語ることは新約聖書には書いてない。
キリスト教徒の語ることは『コーラン』に書いてある。」
ということである。
「新約聖書」に何が書いてあるかというと、イエスの伝記である四つの福音書と、聖霊の子と書いてあるはずのイエスがなぜか神の子として扱われるようになる様子を書いた歴史書である「使徒行伝」である。イエスは、自分のことを「ユダヤの王である」といい、その僭称の罪は死罪であるとしてユダヤ人に訴えられ、ローマの役人に死刑にされる。「使徒行伝」において、ペテロとパウロは、犯罪者であるイエスを神の子と信じる人を増やすために、民族の垣根を越えて布教する。犯罪者を他民族に神の子だと信じさせるのだから、ペテロとパウロはすごいものである。
わたしは、「新約聖書」の「使徒行伝」の反体制的なところを非常に高く評価し、体制を脱構築した歴史書だとして、神、イエス、聖霊への信仰はまったくないのに、かなり高く評価している。
だが、旧約聖書にも、新約聖書にも、神が全知全能で、神が天地の所有者で、神が万物の創造主であることはほとんど書いてない。書いてあった記憶がない。
で、「コーラン」には、神が全知全能で、神が天地の所有者で、神が万物の創造主であることは明確に書いてあり、くり返し、流麗な文章で賛美される。
はっきりいって、一神教の書物としては、まちがいなく、
キリスト教の「聖書」より、イスラム教の「コーラン」のが優れている。
だから、わたしは、キリスト教徒には、「コーラン」を読むことを勧めようと思うし、キリスト教徒と宗教の会話をするには、「コーラン」のことばを引用して語れば、さぞ、キリスト教徒に喜ばれると思っている。
で、「コーラン」を読めば明白だが、「コーラン」は「旧約聖書」の解説書のようなものである。
モーセと、その兄アロンと、ノアと、アブラハムのことがくり返し言及され、称えられる。
「コーラン」では、神はいかなる子ももうけなかったとされ、イエスは神の子であることを否定される。
さて、「聖書」と「コーラン」の内容の紹介が終わったら、二つの哲学的検証に移りたいと思うが、
ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、同じ神を信仰しているのは明白である。
ただ、この神、一神教の神というものは、普遍的前提を知っている存在だと考えられる。
わたしが、現代哲学を勉強したかぎりでは、人類はひとつの普遍的前提すら知ることができない。
つまり、神を知ることはできない。
カントの「純粋理性批判」において、神は、物自体より至高の存在だとされる。
そして、神は空間や時間より至高の存在であるか、という疑問がなげかけられる。
これに対して、「コーラン」において、
「ああ、主は万物をとりかこむお方であるのに。」
という記述があり、カントと同じように、神を物自体より至高の存在ととらえているのがわかる。
わたしがいいたいのは、現代哲学において、普遍的前提を知る神の想定など考えても無駄であり、
キリスト教も、イスラム教も、過去の遺物であり、過去の悪習である。
だから、新しい現代哲学を構築し、新宗教を開くべきである。
わたしは、日本神道の信者であり、八百万の神々を信仰しているし、
我が家は仏教の浄土真宗の檀家であり、葬式は浄土真宗で行っている。
仏教については、勉強している途中だが、
それらのわたしの信仰も、狂信であると認めます。
キリスト教を信じることも、イスラム教を信じることも狂信です。
世界中の人々が、過去の宗教からくる先入観から脱しておらず、
先進的な思想を構築する必要性を強く感じるのです。
わたしがこのブログの記事を公開することで、
イスラム原理主義者から命を狙われるかもしれないと思うと、非常に怖いのですが、
やはり、キリスト教は邪教ですと断言したニーチェのごとく、
わたしも真実に誠実に叫ばなければならない。
キリスト教も、イスラム教も、仏教も、まちがってます。
あと、どうしても気になる余談をしますが、
イエスはセム系のユダヤ人であります。
ヨーロッパ人にとって、イエスは白人でなければならないのです。
ヨーロッパ人はイエスを黄色人種だとは絶対に認めないでしょう。
だから、セム系のユダヤ人は白人ということになり、
セム系のアラブ人も白人だということになるのです。
世界人類が幸せでありますように。




