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誤報:仏教書にカント哲学と同じことをいってる箇所がある

仏教書を読んでいたのですが、そこにカント哲学と同じことをいっているらしき箇所を発見したので書いておきます。





読んだ仏教書は空海「秘密曼荼羅十住心論」ちくま学芸文庫です。漢文で空海が書いたものを書き下し文にして書いてある本です。





カント哲学の「物自体は認識できない」と同じことをいっていると思った箇所は以下になります。





問題の箇所は、下巻66ページから67ページにかけてです。


引用します。


「成唯識論」にいう、(中略)

暖などの四つの段階は四尋思と四如実智とによって前と後の位によって立てる。

四尋思とは名称と、ことばと、もの自体の本性と、ものの差別とは、

仮の存在で実際には無であるとする。あるがままにあるこの四つは意識を離れており、

まだ有るのではないと知ることを、あるがままにある智(如実智)と名づく。


「秘密曼荼羅十住心論」下巻67ページ。

「厚厳経」にいう。「菩薩は瞑想の位において、心に映ずる影はただ心そのものであると観じて、

対象の想はすでに滅して、ただ明らかに自分の識だけのすがたであると観ずる。

このような内面の意識に住して、(意識の)対象は有るのではないと知る。

そしてはたらきもまた無いと知り、後には認識されるものも離れているのである」と。


空海に「物自体」って単語出てきた。

次の箇所で空海が「物自体は認識できない」と同じことをいってる。

カント哲学の根幹「物自体は認識できない」は正確にはヒュームが独創したものですが、それと同じ内容を仏典に見つけてしまいました。どうしたらいいでしょうか。




探せば見つかるものですね。空海の仏典から見抜く眼力が優れていたというのもあるのでしょうね。




ドイツ大陸哲学は、一大思想体系となっていますが、それと同じ発想を遥か昔の仏教の中に見出すことができたのは収穫でした。





追記。




反論もされてます。空海は認識の対象に本質がないとしており、物自体は想定していないのではないかと指摘されました。そんな気もするし、そんなことはない気もします。


多くの人に検証してもらいたいです。




追追記。




やはり、話合った結果、空海は「物自体の本性は仮の存在で実際は無である」といってるわけで、これはカント哲学とは異なる思想だということになりました。


ぼくは現代哲学の最高峰は、カント=フッサールの系譜だと思ってますが、それには日本の思想では当たらないことになりそうです。日本の仏僧は、簡単に仏教はカントやヘーゲルに先んじていたといって仏教を賛美しますが、ちょっと問題のある態度だと思います。それで、もう少し、日本の仏教がドイツ大陸哲学に先んじていたのではないかという看板を掲げようかと思いましたが、日本の仏僧に反省してもらうためにも、空海は最先端西洋哲学にはまったく到達していなかったことをはっきりさせておこうと思います。


これは誤報でした。


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