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まん丸お月様

 学生が午前放下だとしても、教師はもちろん常勤だ。きっちりかっちり午後五時まで仕事をしたあと、自分の授業の準備、資料探しなどをすれば、大体六時過ぎくらいにはなる。

 なんにしても、明日から本格的な仕事が始まるわけで、その為、準備万端で事にあたりたい左霧なのであった。

 

「霧島先生、そろそろ終わりにしたらどう?」


チラホラと帰宅していく先生たちを横目に、砂上が左霧の肩を叩いた。手には高そうなバックを掲げている。どうやら砂上もひと段落着いたらしい。

左霧は腕時計を見て驚いた。時間に気がつかず作業に没頭していたため、時間感覚が麻痺していたのだ。


「そうですね……ちょっと不安ですが、ここまでにしておきます」


「授業なんてのはね。慣れよ、慣れ。嫌でも上手くなっていくから安心なさい。――ただ、それまでは生徒の質問責めに立ち往生するかもしれないけど」


「……頑張ります」


 口ではそう言ったが、何やら自分が情けない姿で生徒に笑われている場を想像して落ち込んでしまう。だが、何よりもそれで困るのは生徒たちなのだ。早く一人前になって、一つのクラスを任せられるようになりたい。――その前に臨時教師から昇格したいなと、とにかく欲望の尽きない左霧である。


「そ、それで、霧島先生。今日、よかったら、飲みに行きませんか? 一人だと色々大変じゃないですか? 今日くらい、パーっと」


「すいません先生! 家で華恋と桜子が待っているので! 失礼します」


 砂上の誘いをスパッと断り、さっさと教室を出て行った左霧。後は残業している先生方がチラホラといるだけ。上げた右手をゆっくりと下げ、固まった笑顔のまま立ち尽くす砂上。


「おー砂上、今日パーっといくか! パーっと!」


「いえ、結構です。さっさと帰ってください教頭先生」


 ドスの利いた声に、先程まで密かに笑っていた先生方は息を飲み、静かに、静かに自らの作業へと戻っていくのだった。

 この教務室には、鬼がいる――――そんな噂があるのも暗黙の了解だった。


「た、ただいまー! 桜子は無事に帰ったかい?」


「お帰りなさいませ、左霧様。桜子様は帰宅しておりますよ。左霧様があんまり遅いので私たちは捨てられたのではないかと思い、悲しみに浸っておりましたところで」


「……うん、嘘だよね?」


「はい、上司に早速怒鳴られて泣きながら残業をしている哀れな姿に涙していました」


「違うよ! 明日の準備をしていて遅くなったの!」


 どうやら左霧の帰りが遅いことに文句が言いたいらしい華恋。だが、左霧とて、仕事で仕方なく遅くなってしまったのであって決して帰りたくなかったわけではない。なので、自分が謝るのはいささか間違っているのではないかとちょっと困った目で華恋を見つめることしかしない。


「……何だか、帰りが遅い旦那を咎めている奥さんに見えませんか? 可愛くありませんか?」


「ひょっとして、それがやりたかっただけ?」


「さぁ夕飯はとっくに出来ております。どうぞ中へ」


 何事もなく左霧のカバンを持ち、さっさと中へ入っていった華恋。なぜ自分の家に帰ったのに疲れる思いをしなければならないのか、左霧は疑問に思うのだったが、華恋は気まぐれなのであまり気にしないことにした。


「桜子、初めての学校はどうだった?」


 夕飯を食べながら、今日一番聞きたかったことを言葉にした左霧。桜子は待ってましたとばかりに爛々とした目で詳細を告げる。

「おにいさま! 私ね! 三人も友達が出来たの! 一人はみっちゃんで二人目はさっちゃん! 三人目はともちゃん!」


「よかったじゃないか桜子! やっぱり僕の妹だなぁ」


「いえ、それはあまり関係ありません、と華恋は思います」


「あっはっはっは……僕もそう思う」


 女中の鋭いツッコミに耐えられず肩を落とした左霧。その肩を優しく叩く華恋は、どこかうっとりした表情だった。この女中、かなりSの気があることを否めない。


「明日ね、図工の時間に一緒にお絵かきするの! 楽しみ!」


 ちゃぶ台をガチャンガチャンと揺らし、お茶碗をグワングワンとかき混ぜながら口にはいっぱいの米粒をつけながら左霧に向けてその米粒ごと伝えた。声が大きいだけあって大きく口を開けているので、凄まじいほど米粒が飛ぶ、飛行する。


「そっかぁ、よかったねぇ……」


「よかったね、ではありません。桜子様、お行儀が悪うございます。左霧様もちゃんと注意してください」


「う~ん……よかったねぇ」


「……ダメだこの男」


 吐きつけるように毒舌をかました華恋は、桜子の口元の米を一粒ずつ綺麗に取った。当然左霧には布巾を投げてさっさと拭けと促すだけである。


「桜子様、華恋は悲しいです。私の料理は美味しくないですか? これでも安月給の左霧様の為に美味しく栄養バランスのいい献立を考えているのですが……」


「ううん、美味しいよ華恋! ごめーんね!」


「ああ! 可愛さ余って憎さ一〇〇倍でございます!」


「……どういうこと?」


 言いながら、華恋は桜子の頬を抱き寄せて、頬ずりをしていた。傍から見れば、仲の良い姉妹のようで、微笑ましい。躾だのなんだの言っているが、結局桜子に一番甘いのは華恋なのである。この家では桜子に躾を教えてくれる人がいない、ということが左霧の心配の種だった。本人は断固拒否していることが、一番の原因だが。


                 ※


 左霧は風呂上がりに居間で一息ついていた。庭の戸を開け放ってみたが、少し肌寒い。だが、見上げた夜空に満月が浮かび上がっているのを見て、思わず立ち止まる。

 空気が澄み渡っているのか、とても綺麗な満月だった。


「満月……」


 左霧は、少し昔のことを思い出した。今、こうして自分が働きながら生計を立てていること。家族がいること……何もかもが夢のようだった。月を見ていると、どちらが幻かわからなくなる時がある。夢か現か……それを確かめる声もまた、


「左霧様? こんなところにいたのですか? 風邪を引いてしまわれますよ?」


「おにいさま? あ! お月様! おにいさまはお月様を見ていたのね!」

 

「うん、とっても綺麗だよ。桜子おいで?」


 桜子をそのまま抱きかかえ、一緒に月を眺める。華恋と共にお風呂に入っているのか、石鹸とシャンプーの匂いが左霧の鼻腔をくすぐった。

 華恋も乾かないしっとりとした髪をなびかせながら、二人の隣へと、遠慮がちに寄り添った。


「おにいさま、月にはうさぎさんがいるんですよ? お餅をペッタンペッタンついているのです! 美味しそう……」


「桜子ったら、さっきご飯を食べたばかりだよ? 僕はカニさんがいるって聞いたことがあるなぁ」

「私はライオンがいると聞いたことがあります」


「えー! ウサギ! 絶対ウサギだよ!」


「カニかもよ?」


「ライオンです」


 そうすると桜子は頬をいっぱいに膨らましてたちまち不機嫌そうになる。バタバタと暴れて自分の主張を譲らない。やはりちょっとワガママに育ってしまったなと、左霧は苦笑した。


「ウサギさん! 絶対にウサギさんです!」


「どうしてそう思うの?」


「だってそっちのほうが可愛いです!」


 どうやら桜子の基準はそこにあるらしい。カワイイは正義。カワイイは最強。


「ですが、ライオンも飼い慣らせばきっと可愛い……」


「うー! ウサギだもん! 華恋嫌い!」


「左霧様、今までお世話になりました」


「待って! 庭の木で首を吊ろうとしないで! っていうかいつの間に縄持ってきたの?」


 自分の意見を言おうとしただけなのに、即座に否定され、挙句自らの敬愛する主人に嫌われてしまった華恋は、迷惑なことに庭の木で首を括ろうとしていた。それほど、彼女にとってショッキングな出来事だったのだ。


「桜子、そういうこと言っちゃダメでしょ? 華恋に謝りなさい」


「だって……」


「だってじゃないでしょ? 僕たちはいつも華恋にお世話になっているじゃないか。桜子は、簡単に人を嫌いなる子なのかい?」


 珍しく兄に注意されて、少し涙目になった桜子。だが、兄の気持ちが通じたのか、兄の体を降りて、華恋の服に縋りつきながら、


「華恋、ゴメンなさい」


 と呟いた。根が純粋なので、言われたことはすんなり受け止める。もちろん華恋も半分冗談だったので、桜子の髪を優しく撫で、少女の無垢なる罪を許した。


「さぁ、桜子様。外はまだ寒うございます。中で暖まりましょう?」


「うん……!」


 華恋の手を繋ぎながら笑顔で頷く桜子。その変わりように苦笑しそうになる左霧だったが、月の光で照らされた二人が、どこか神秘的で思わず笑うのをやめた。その姿が、とても美しいと思ったから。


「おにいさま?」


「え……?」


「何をしているのですか左霧様、早くしないと月九が始まってしまいます!」


 二人に呼びかけられ、ボーッとしていた自分にようやく気がつく。気を抜くとすぐ呆けっとしてしまうのは彼の悪い癖だった。だが、それも平和の賜物であると自分では思っているので案外図太い性格なのかもしれない。


「今行くよ」


「早くしてくださいませ! 私っ昼ドラと月九を見なければ、眠れないたちなのです!」


「暇そうだね……華恋」


「……言わないでください」


 女中はどうやら日中暇らしい。何か彼女にも趣味の一つや二つ、あればいいと思うのだが。ドラマだけが生きがいのような言い方では、近所のおばあちゃんたちみたいで少し可愛そうである。


「私は、明日の絵の具道具の忘れ物がないか確かめてきます!」


「あはは……桜子ったら、さっき点検したばかりじゃないか」


 明日が楽しみで仕方がない桜子は、興奮気味に家の中に入っていった。

 とても賑やかに霧島家の夜は過ぎていく。月はまるで祝福するかのように彼らを照らしていた、というのはいささか言い過ぎかもしれない。しかし左霧は、願わくは、この平凡な毎日が一生続けばいい、そう願ってやまないのである。少なくとも桜子が成長するその日までは、と願ってやまないのである。

 否、そうすると、自らの心に誓うのであった。


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