天使
「おい、起きろ、雪子、桜子」
「う……朝なんて永遠に来ないのよ……だから私は永遠に眠っていいのよ」
「おにー様の声……会いたい、でも今はいいや」
坂上家の一室で静かに眠りこけている二人の少女たちを担ぎながら左霧は自らの根城へ帰宅した。一人は背中に、一人は前に。前にいる桜子など、コアラの赤ちゃんのように足と手で器用に左霧の体に張り付いていた。
二人は意地でも起きないつもりのようだ。最も魔術でねむらされているものを下手に起こすと脳に障害を与えるかもしれないので、軽く揺さぶる程度にしておいたのだが。
「ひ、左霧様! こ、この折には死んで、死んでお詫び申し上げます! さ、桜子様が、桜子様がぁ!」
「落ち着いてください華恋さん。左霧様、雪子さんがいなくなってしまいました。私の責任です。さあ、この台を蹴り上げてください。そうすれば私の首は縄に縛り上げられ」
「お前が落ち着け!」
ぎゃあぎゃあと帰宅するなり女どもの悲鳴が鳴り響いた。どうやら二人共錯乱状態のようだ。
己の守るべき対象が忽然と姿を消したのだ。驚きもするだろう。
「二人は無事だ。坂上に囚われていた。安心しろ」
「!? 左霧様……私が付いていながら申し訳ございません!」
「私も……護衛すら務まらないなど……申し訳ございません」
背中を丸める二人の姿を制した。
己が味わった屈辱を、彼女らにさせるわけにはいかない。
何よりも彼女たちは悪くはない。
甘かったのは自分。
安易だったのは自分の心。
遠ざけたからといって己の責任から逃れられはしないのだ。
だったらどうする。
こうするしかないだろう。
「皆殺し」
自然と口から漏れた言葉。
雪子が聞いたら何と言うだろうか。
また怒られるに決まっている。嫌われるに決まっている。
しかし、しかしだ。
この怒り、どこに晴らすべきか!!
「あやつは、雪子を桜子を人質にし、尚且霧島の領土を卑劣にも要求した。俺はその要求を飲んだ。飲むしかなかった」
瑠璃は、華恋は、その言葉を無言で聞いている。主の声が、かつてなく震え、その声が聞いたことのないほどに悲痛な感情を帯びていたからだ。
「聞こう! 我が忠実なる重臣たちよ! 坂上家の要求を、このまま飲むべきか? 俺はこのまま奴の言葉に従い、犬となり家畜となるべきなのだろうか?」
「左霧様、王たるもの一度した約束は守るべきだと、華恋は思います」
「我が主、僭越ながら私も同じ意見です。どんなに卑劣な方法であってもあなた様は屈してしまった……それは認めるべき失態です」
思いのほか、彼女たちは左霧に冷たかった。
当たり前だ。いつも言っていたではないか。
俺は神になると。闘神になると。
その為なら、どんなことでも、いかなる犠牲も厭わないと。
だが、現状はどうだ?
俺はただの甘ちゃんではないか。
大切な人を誰ひとり失いたくないというヒーローごっこをしているだけだ。
ヒーローはいつも全てを救い、全ての者から感謝される。
現実は違う。誰も正義の味方になど憧れない。己の欲望に忠実で、人からの賛美など二の次だ。分かっている、そんなことは。
それでも左霧は願ってしまう。みんなが幸福に生きられる道がきっとあるのだ。
完璧な悪党になることは、できない半端者。
覇道など、夢のまた夢ではないか……。
「「ですが」」
従者の二人は涙を流していた。気がつけば自分も泣いていた。涙など流したのはあの人が死んで以来だ。
悔しくても、人は泣くらしい。
「「主の屈辱、忘れませぬ! 坂上家、許すまじ!!」」
二人は泣きながら主の胸に飛び込んだ。ずっしりと重い二人の体を強く抱きしめて、左霧たちは誓い合った。強く、誓い合った。
いいだろう。認めてやる。俺は弱く、意志も脆弱で、悪党になど到底されない半端物だ。
だがそれはこの血の涙を流し終わるまでだ。それまでは一人の弱い男のままでいさせてくれ。
しかし。
しかしだ。
俺を泣かせてくれたこと。俺に床を舐めさせたこと。俺を犬呼ばわりしたこと。
雪子を犯すと明言したこと。桜子を慰み物にすると吐いたこと。
俺のプライドをズタズタに引き裂いたこと。
思い知らせてやる。坂上和也。
俺、霧島左霧は三時間後に、主君である坂上和也に反旗を翻す!
理由はこうだ。
「クソ野郎に従う義理はない! いくぞ! これは復讐である!」
「御意にございます。桜子様を脅した報い、受けてもらいましょう」
「全ては左霧様の御心のままに。ですが、一人の友達を脅したこと、絶対に許しません」
最強の魔術師とかつて闘神の使いだった者は互いに手を取り合って左霧の後ろについてくる。
やがて左霧を追い越してどこかに行ってしまったので慌てて左霧はその姿を追い、軍の編成や作戦などについて説明した。
どうやら、比較的冷静なのは自分だけらしい。
それでもいつ自分が我を失うかわかったものではない。
その時、誰が俺を救ってくれるのだろう。この、今にも暴れだしそうな殺戮衝動から。
いいさ、奴を葬れるならそれも悪くはない。
俺の大切な者を、二人も汚そうとしたのだ。
さぁ、戦争を始めよう。
俺とお前の楽しいパーティーだ。
観客は、そうだな。皇帝と愚かな帝国魔術師どもだ。
全ての力はこの手の中に。
我、悪鬼となり敵を討ち滅ぼさん。
アーハッハッハッハッハッハッハッハ……。
(雪子さん、雪子さん、私の声、聞こえますか?)
(だ、誰? 今何時だと思ってんのよ!?)
(いえ、思いっきりお昼なんですけど……)
得体もしれぬ何者かに突っ込まれた。半目で辺りを見渡すが、そこは真っ白な世界だ。
ああ、私はまだ夢の世界なんだ。そう確信するには十分な状況だった。
だって、目の前の人は私そっくりなんだもの。
『ドッペルゲンガー』
それを見たものは存在そのものを乗っ取られてしまうらしい。そんな逸話を思い出し、私は急に怖くなった。
怖くなってある人の名前を不意に呼んでしまった。
「左霧さん……」
ダメ。私はあの人を無視すると決めたのだ。
あんなにひどいことを言われて、あんなに冷たくされて……。
どうしてあの時かっこいいと思ったのか、今ではもう分かりません!
それに、あのテレビを見ながら耳をほじるの、本気でやめてほしい。ふぅとか飛ばすのには本気で引いた。
そんなことはどうでも良くなるくらい私は決定的な言葉を放たれてしまったのだ。
――――魔術師などやめてしまえ。
別に、あの人にいつも助けてもらおうなどと思ってはいない。私だって当主だ。自分の領土くらい自分で守る。民も、生徒も教師たちも。
だけど、帝国なんてデカイ話を切り出されたら、そりゃ驚くに決まっている。
総会に呼ばれるなんて知らなかった。魔術師になるということは、国から監視されるということ。私は正式に帝国魔術師となり、領土を認められ、そして地方の魔術師たちとようやく対等な立場になることができた。
それはつまりいつでも攻めてこられても文句は言えない。口には出していなかったが、総会のメンバーたちの中には明らかに殺気だっている者たちもいた。理由は雪ノ宮の領地が経済的な面で見ても比較的良好な土地だからだ。先代の、今は私の娘である雪江の手によって作られた地盤が彼らは欲しいのだ。
(残念ながら、私はあなたのそっくりさんではないの)
(嘘!? だって胸のサイズまでそっくりじゃない)
(いいえ、断じて違う。私の方が1ミリ大きいもの)
(そんなの誤差でしょ……)
私を見ている私は(ややこしい)自慢気に残念な胸を見せつけるように背筋を真っ直ぐに反らした。こう見てみると、本当に残念だと思う。霧音さんまではいないにしても、せめて瑠璃くらいには育ってほしいと切実に思う。この頃他の生徒たちも発育が良くて若干焦っているのだ。胸というのは女にとって威厳を見せるために必要なオプションなのだ。主に、私の主観なのだが。
(胸なんて今はどうでもいいのよ! それよりも大変なことになっているの!)
どうでもいい、と言いながらさりげなく自分の方が大きいと言ったくせに。ドアップで顔を近づけてきた私の姿を見て思わず声を出せなかった。
白い、真っ白な羽が、彼女にはついていたのだ! なんと神秘的な光景だろうか。私は生まれて初めて背中に羽を生やしたキチガイを見てしまった。最近流行りのコスプレというやつだろうか。必死に大変、などと訴えているが、その姿を見て完全に萎えてしまう。
(いい年して、そんな格好恥ずかしくないの?)
(て、天使の服装を馬鹿にしないで!!)
(はいはい、天使さんね。もう、私まで恥ずかしくなってくるわ)
まるで自分が変な格好をしているみたいだ。もちろんあんな格好など命を投げ捨ててもしたくはない。きわどい部分がギリギリ隠れている程度の薄着で何故かミニスカート、足は網タイツでセクシーさをわざと強調させるような……痴れ者である。
(人妻にこんな格好させるなんて、はぁ……これセクハラよね、訴えようかしら? あ、でも労働機関でどこなるのかしら? 戦女神様のところ? それとも癒女神様? まさか死神様なんてことはないわよね)
天使(仮)はしばらく上司の悪口を言いながら地団駄を踏んでいた。白い羽がバッサバッサと乱暴に上下して地面に落ちていく。拾って見てみるとそれは確かに柔らかくてすべすべしていて、とても作り物とは思えない出来だった。これを作成した人は相当な腕前かつかなりの暇人だったのだろう。
(あーはいはい、それ一枚百万円だからね~買える? 買えないわよね。なら回収しま~す)
本気なのか冗談なのか欲わからないジョークを口にした天使(仮)はまた何かブツブツと口にするとたちまち辺りの羽が彼女の下へと帰っていく。あっという間に全ての羽が回収されていくと天使は満足そうに翼を大きく広げた――――先程まで偽物だと思い込んでいた小さな翼がいきなり大きくなったのだ。それだけではなく、天使の神々しさ――――得体の知れぬ畏怖のような感覚がビリビリと雪子を刺激する。ふざけているとしか思えなかった彼女の姿がたちまち本物の天使のように見えてしまった。私は途端に声を出せなくなった。この一帯が彼女に支配されたかのように静寂をまとっている。
この一帯――――そもそもここはどこなのだろう。私は初めて自分のいる場所を確認することにした。太陽に照らされてとても暖かい。午後のまどろみを感じながらゆっくりと時間が過ぎていくような穏やかな気持ちになる。そこは屋敷だ。庭があり、私はその縁に腰をかけている。一人の男の子が女の子の隣に座りながら楽しげに喋っている。女の子は相槌を打ちながら時折男の子を愛おしげに撫でている。
女の子は白いワンピースを着ている。素足はスラッとして白く幼いながらにもどこか大人びた雰囲気を感じる。それは女の娘が落ち着いた物腰をしていることと、おそらく男の子よりも年上なのだと直感で感じたことだ。
私は知っている。その『女の子』を。その人はいつも冷たくて、傍若無人で、だけど時折ちょっとだけ優しくて…………本当は誰よりも傷つきやすい我侭な人。
(左霧さん……?)
(……違うわ。彼女は霧島右霧。彼の……夫のお姉さん)
(夫!? 何言って)
(初めまして、雪子さん。私は木花咲耶。霧島左霧の妻です。でも今はそれよりも大事な話があるの。彼がなぜ、帝国に反旗を翻しているのか、彼が一体何を成し遂げたいのか……それを知りたくはない?)
左霧さんの目的。私は何も言えずにいた。答えはイエスだ。左霧さんは何も話してなどくれない。自分の目的も、その胸に抱いている大きな闇も、私を見つめている時の痛々しい瞳のことも……。
でも、それよりも私は気になってしまった。左霧さんの妻と名乗った私そっくりの彼女のことが。あの人の、最愛の女性のことが。
ちくりと、そしてじくりと刺さった刺が私の胸をかき乱す。ダメだ。これはいけない感情だ。私は何を求めているのだろう。
天使は私を見て微笑んだ。その時、似ているのは見た目だけなのだと悟った。そんな可愛らしい笑みなんて私にはできない。左霧さんが好きになった笑顔……そう思っただけで私はまた胸の痛みを感じ、ギュッと体を抱きしめた。
(あらら……そーかそーかなるほどねぇ……あの人ったらまーたフェロモン振りまいてお騒がせしているのね……ほんと、しょーがないんだから)
クスリと手を口にあてながら可愛らしく微笑む彼女。何かを思い出す様に遠い目をしたかと思えば、その瞳は湿り気を帯びたようになる。
私の知らない左霧さんを彼女は知っている。それは絶対に入り込むことのできない彼と彼女の思い出。
私は、私はそれを手に入れたいと思っている。それは多分いけないことだ。
(雪子さん、私は彼を愛している。だけど、私はもう彼の傍にはいられない。悔しいけれど、私はもうあの人に会うことはできないの)
(どうして、ですか?)
(私が、死んでしまったから)
(でも、私の前にあなたはいる)
(それはね、あなたが特別だからよ。イヴ――――の寄り代であるあなたには特別な力があるの)
(イヴ? 確か、魔道書に書いてあった……楽園を崩壊させた罪と罰により彼女は地上へと降りていったっていう)
(至高の乙女。全ての民の母。そして――――魔術を生み出した最古の魔女。つまり最初の魔王……神でありながら、地上の民と共にこの世界を作り上げた恐るべき神の敵……こんなところかしら)
(なに、それ?)
それは違う。魔道書に書いてあったイヴという少女は、アダムという男と共に楽園の果実を食べた。魔術の始まりだ。人の力を超えた能力を手に入れた二人に神は罰を与えた。この楽園を去り、地上で暮らせと。その地上では神の加護はなく、様々な困難がお前たちを襲うだろう。それがお前たちへの試練だと。そこで子供を作り、地上を繁栄させることがお前たちへ与えた罰なのだと。
アダムとイヴは迷わなかった。二人は永遠に幸せに暮らした。神の加護を失ったとしても彼らには魔術という力があった。それは支配する力だ。彼らは人類の始祖にして地上の支配者なのだ。
アダムにはイヴが、イヴにはアダムが、常に寄り添うように傍にいるのである……。その絆は決して解かれることはない。全ての人の父、アダム。全ての人の母、イヴ。その絆とはつまり、魔術師だけではなく、その力を失った者たちであっても受け継がれていく血筋だ。それに一切の例外はない。人とは皆、彼らの加護に守られている。
『究極の魔術とは全ての人に宿るアダムとイヴの絆』
天使はつまらなそうに私の話を聞いていた。私はこの話が好きだ。アダムとイヴは幸せだと思う。愛し合って生まれた子供たちがまた愛し合い子を成す。その繰り返しにより彼らの生きた証は受け継がれていくのだ。
ロマンチックでなんて素敵な話だろう。
しかし、天使は次の瞬間私の幻想を叩き壊した。
(イヴはね、浮気したのよ。地上の男にね。ちなみに彼らが地上の始祖っていうのは嘘。イザナミノミコトとイザナギノミコトっていうのが始まりの人ね。あ、これ天使界では有名な話なの)
(聞きたくなかったわよそんな話……それで私がその浮気したイヴの寄り代ってどういうことよ?)
所詮は逸話だ。誰がなんと言おうが、私は魔道書の話を信じている。この天使とか言っている頭のおかしな女がなんと言おうが、イヴは素敵で、アダムは素敵。それでいいのだ。
いったい、この人は私の前に現れて何がしたいのだろうか。最近立て続けにおかしなことが起きて本当に頭が痛い。イヴ、魔導兵、王女、私の存在……わからないことだらけだ。
私は、私の存在すら知ることが出来ずにいる。それはなんて恐ろしいことだろう。今になって後悔が押し寄せてくる。知りたいとは思う。だけどわからないから考えない。それは逃げていることになるのだろうか。
それは違うと思う。だって現に今、私は彼女に問いかけている。イヴの寄り代って何ですかって。さぁ早く答えなさいよ。怖くなんてないわよ。握りしめた拳を震わせながら必死で天使を睨みつけた。
(あなたには、ううん、私たちには阿修羅を倒す力があるの)
(阿修羅? なに、それ?)
(あれ? 聞いたことないかな? 闘神、阿修羅。唯一地上から天界に降臨した神であり、殺戮と破壊を司る邪神。戦女神様なんか、目の敵にしてたわねぇ……)
(ふぅん、それで?)
(それで? じゃなくて、阿修羅は天界を騒がせたお尋ね者なの! だから極刑にされて魂を消滅させられた。だけど、その意志は延々と受け継がれているの。ある一族の者たちによってね)
(それって、まさか……)
私はあの恐ろしい姿を思い出した。体中に纏った闘気。あらゆる者たちを畏怖させる双眸。圧倒的な武力。快楽を映し出した邪悪な笑み。
闘神、阿修羅は左霧さんのことだ。
(霧島一族はね。イヴの過ちによって生まれた者の子孫なの。だから神様たちはアダムに気づかれないように呪いをかけた。女子しか生まれてこない呪い。霧島家は女系の一族であるのはそのせいなの)
(女系、ねぇ……それっておかしくない? 女だけで一族が続くわけないし、左霧さんは男でしょ?)
ありえない。話の道筋から何もかもがデタラメだ。イヴの過ちによって生まれた子孫を倒すのがイヴの寄り代である私の役目? それではまるで親子殺しではないか。百歩譲って私がイヴの寄り代だったとしよう。なぜ、寄り代が必要なる? イヴの子孫はこの世に溢れているではないか。どの人類も必ず元を正せば、全てイヴの子孫だ。阿修羅とかいう神は弱点だらけだ。可哀想なことに。
(阿修羅はね、神なの。いくらイヴの子孫だろうと、人の身で神に勝つことは不可能よ。だからね、私は妻になったの、彼の)
(何を、言って、な、なにが)
(私は、彼を倒すための力を生んだの。イヴと阿修羅の子供。それは神であり、イヴの子孫である唯一彼と対等に渡り合える子供)
(そんなことのために! あなたは!)
そうだとしたら、許せない。彼女は、つまり彼の思いを裏切ったのだ。そんなくだらない天界の事情のために、彼を。
(そんなわけない! 私は彼を愛しているわ! 愛してしまった! それが私の罪! イヴはね、どうしても阿修羅を愛してしまうようにできているの。それは遺伝子上の疾患? 定められた運命? ううん、違う。私は、私が彼を愛してしまった。それは覆すことのできない事実)
その表情は、恋する少女だ。そうか、彼女は今だに恋をしているのだ。だからこんなにも取り乱して、泣いているのだ。それはなんて素敵なことだろう。誰かのために涙を流すことができるなんて。左霧さんが好きなった理由がわかったような気がする。
そして、そんな彼女を見るたびに胸が痛む自分が大嫌い。私は最低だ。
(私は彼を倒すことなんてできない。いいえ、失敗したの。あの日、彼に会ったその日から、私の人生の歯車は狂っていった。だけど、幸せだった。好きな人と出会い、その子を産んで……)
左霧さんはずるい。こんなに素敵なお嫁さんがいることを今まで隠してたんだ。私はむかっ腹が立ってきて今すぐにあの人を蹴り倒したかった。これ以上にあなたは何を望んでいるの? これ以外にあなたは何が欲しいというのだろう。
(お願い、あの人を止めて。あの人は決して許されない願いを心に抱いているの)
(許されない、願い? 何? ハーレムでも築きたいとか?)
ふざけたように笑う私を、天使は黙って見つめていた。やってられない。真剣な話なんて聞く気分じゃない。今はアー!! と大声で叫んで消えてしまいたいんだ。
だってそうでしょう。え? わからないの? 私だって分からないわよ。どうしてこんなにイライラしているのかなんて。
一つだけわかるのは、さっきまで私はノロケ話を聞いていただけで、私は脳がとろけ落ちそうなほど彼女の話に感化されていた。
(違うわ。あの人は、ある人物を生き返らせようとしているの)
(い、きかえ、らせる? 確か、どんな魔術にも輪廻転生の輪から外すことは不可能だって)
人を殺すことはできても、生き返らせることは不可能。それはどんな世界だって共通のルールだ。だから無闇な殺生は法律で罰則を設けている。当然の理屈。
しかし、魔術師は法の罰則を受けない。人として区別されないからだ。帝国は魔術師を特別な存在と認定し、時には殺生もやむを得ないという暗黙のルールを作っている。
それが魔術師たちの暴走の引き金になっていることも知らずに。
(普通の人間なら、どんな神であっても不可能。だけど、彼女は特別、天界の魂循環システムに組み込まれないの。二度とこの世に生き返らせないためにね)
(そんなに、恐ろしい人なの? 左霧さんが生き返らせたいっていう人は?)
天使は即座に頷いた。その瞳は、やっぱり私そっくりで切実さが伝わってくる。そんな目で見つめられたら、私だって真剣にならざるを得ない。
(霧島右霧――――左霧の姉。阿修羅の片割れよ)
(片割れ? 阿修羅は左霧さんではないの?)
(神の体を一人の人間が器として機能するには不可がかかる。そのため、魔導兵という人形が必要不可欠)
(待って。魔導兵って精霊が人間の器に宿ることで成り立つのでしょう? 二人は、人間じゃないの!?)
(……詳しいことは言えないけど、精霊も人間も本質的には変わらないの。だから人間でも魔導兵の代用にはなる。今はこれで納得して)
納得などできない。だがそうするしかなかった。精霊と人間が、同じ存在? それはつまり、精霊と人間には共通点があるということ。言語を解すること、食事を摂ること……睡眠をとること。確かに様々な点で精霊と通ずるところはある。
そうであったとしても精霊は根本的に違う生命体だ。人間の活力を媒介にして彼らは魔術師に魔力を供給している。精霊の力が強ければ強いほど術者に強力な魔力が与えられ、それと同時に強い負荷がかかる。
人間には魔力を生成することができない。魔導兵はその精霊の持つ『魔高炉』をその精霊の命と引き換えに手に入れることによって成り立つ。
精霊は高等種族であり、人よりも高い力も持つ。恐れられ、崇められる。
魔導兵は、精霊を冒涜した禁忌の力なのだ。
(霧島右霧は、生まれたときから阿修羅の力と体を持っていた。だけど左霧は、力しかなかった。体は人間の男のまま。それではね、耐え切れないのよ)
(耐え切れない?)
(そう。彼の体は滅びたの。そして、生まれ変わった――――姉の体を寄り代に、姉の魂を生贄にすることによって)
(そんな、そんなことって……)
(左霧はね、ずっと、ずっと悔いているの。その日から今日まで。自分がどうして生きているのか、なぜ姉が死ななければならなかったのか。それが、彼を歪めてしまった)
人間と神の間に生まれた一族、霧島家。
彼らは阿修羅という神を生誕させるための器だ。
何百年か一度に阿修羅は必ず一族の娘の体内に宿る。
それは逃れることのない宿命。
その者は唯一男として生まれ、育ち、やがて天界へ災厄をもたらす。
しかし、霧島霧音は既に子を孕んでいた。
霧島右霧――――霧島家の長女。
彼女は阿修羅の力を有した左霧の力を体内で吸い取り、遂には自らを阿修羅の御神体に変えてしまった。
それに気がつかなかった霧島一族は、直ちに左霧を体内から取り上げ、殺そうとした。
霧島一族とて、好きで阿修羅を生むわけではない。災厄をもたらす存在であるならば、即座にその命を刈り取るに越したことはない。これは昔からのしきたりだった。こうやって霧島家は阿修羅の芽を刈り取ってきたのだ。
(でも、霧音様は育てたの。覚えのない命を。それが全ての始まりだった。阿修羅の神体はまた左霧の下へ戻ったの、だけど……)
(右霧は阿修羅の体だけでなく、その力も吸い上げてしまっていた……だから左霧さんは、お姉さんを生き返らせて、力を手に入れたいの?)
(ううん、違うと思う)
天使は無邪気に笑った。この話のどこにそんな要素があったのだろう。とても笑えるような話ではない。知れば知るほど、彼らの生き方は悲しすぎて、どうしようもないほど愚かではないか。
(左霧はね、会いたいだけだよ。お姉さんに。それでもって、謝りたいだけ)
(え? そのために、阿修羅になるの?)
(そう、多分それ以上には何も望んでいない。力も、欲も……純粋だから、あの人)
綺麗な涙だった。願うように手を組み、何に祈っているのだろう。左霧の傷を癒すことができずに死んでしまった咲耶。なぜか自分の下に現れ、様々な話をしてくれた。左霧のこと、自分こと……ほとんどノロケ話だったのが気にいらないが。
(私はね、彼が闘神になることはいいの。だけど左霧の願いは間違っていることを伝えて欲しい。そんなことをしてもお姉さんは喜ばないし、そんなことをしても意味がない……)
(そうね、どうであれ、人を生き返らせることなんて、いけないことよきっと)
(頼んだよ。もう一人の私。またいずれ、あなたが危機に陥った時に現れるでしょう。イヴの寄り代よ)
(できれば、もうノロケ話は聞きたくないわね)
ふわふわとした感覚が消えていくのがわかる。その瞬間、私は夢を見ていたのだと気がつく。恐ろしく現実味のある夢だ。そして今話した内容を夢で終わらせるわけにはいかない。
やることは一つ。
「左霧さんを、連れ戻す! そいでもって引っぱたく!」
「せ、雪子、大丈夫か? 死んだように眠っていたが」
セーレムの鼻息を振り払いながら、私は身支度を済ませる。まずはお風呂に入って、気合を入れる。服を着替え、指輪をはめる。ご飯を食べて活力を蓄える。
今は私が左霧さんの傍にいる。だから私があの人を支えなくてはならない。
「ほんと、あの人ってばこんないい女が傍にいるってのに! 何が不満なのよ!」
体が軽い。不思議なほど、私の体は息切れ一つせずに前へ進む。
目的はただ一つ、ただあの人に会いたい。